Maou Gakuin No Futekigousha

Prologue-Mother Spirit

二千年前――

大精霊の森アハルトヘルン。

「みんな、聞いて」

女性が声を発すると、木々が震え、言葉を森中に伝えていく。

彼女の背には結晶のような六枚の羽。その髪は清んだ湖のように美しく、その瞳は琥珀に見紛うばかりに輝いている。

森の中にあって、土埃一つつかない翡翠色のドレスを身に纏ったその女性は、かの有名な大精霊。すべての精霊の母、レノであった。

精霊というのは、噂や伝承から生じる。

人間とは違い、母胎から産み落とされるわけではないが、この世に生まれた、ありとあらゆる精霊は彼女を母とする。

大精霊レノは、そういう噂と伝承から生じた精霊なのだ。

「デルゾゲードへ行くことに決めたよ。暴虐の魔王の言うことが本当かはまだわからないけど、信じてみる価値はあると思う。もしかしたら、それでこの争いが本当に終わるのかもしれない」

ざわつくように木々が揺れる。

彼女の周囲に、羽を生やした小人のような少女たちが現れる。

妖精ティティと呼ばれる、悪戯好きな精霊だ。

「大丈夫?」

「行っちゃうの?」

「レノは行っちゃうの?」

「帰ってくる? こない?」

妖精たちは口々に言う。

「大丈夫、ちゃんと帰ってくるよ。暴虐の魔王には私を殺す機会がいくらでもあった。でも、殺さなかった。少なくとも、そのつもりはないってことだと思う」

地面すれすれを浮遊しながら、レノは森を移動している。

「私がいない間、迷い込んだ人にあんまり悪戯しないようにね」

くすくす、と妖精たちは笑う。

「どうかな?」

「それはどうかな?」

「悪戯する? しない?」

「するー」

無邪気な笑みを見せる妖精を、レノはじとっと睨む。

「ティティ、怒るよ」

すると、妖精たちはぴっと姿勢を正し、口元を両手で押さえた。

「じゃ、約束ね」

レノがそう口にするも、ティティたちは硬直した様子で、びくびくと体を震わせている。

「そんな脅えたフリをしてもだめなんだから」

厳しい言葉に、ティティたちは首をふるふると振った。

「違う……」

「違う、レノ」

「きた」

「きたよ……」

レノは不思議そうに訊き返した。

「なにが来たの?」

ティティたちは逃げ惑う素振りを見せながら、口々に言う。

「恐いの……」

「恐いのがきた……」

「神さま」

「恐い神さま……」

「くるっ」

「くるよっ!」

ティティたちが一斉に散っていった。

やがて森の茂みから、人影が姿を現す。

背が高く、一見して優男に見える。

しかし、彼から発せられる魔力は明らかに常軌を逸していた。

「やあ、捜したよ、母なる大精霊レノ」

レノは身構え、険しい視線を彼に向けた。

「あなたは誰?」

「私は天父神(てんぷしん)ノウスガリア。神々の父である。今日は君に良い話しを持ってきてね」

レノが警戒するような表情を見せるも、ノウスガリアは続けて言った。

「新たな神の子を作ろうと思う。その器を産むのに君が選ばれたんだ。おめでとう、レノ。君の子供なら、きっと優れた神になるよ」

「いきなり現れて、なにを言ってるの?」

「んん?」

ノウスガリアは不思議そうに小首をかしげる。

「どうしたのかな? もっと喜ぶといい。神の子の器を作れるんだよ。この地上に、君が、一つの秩序を産み落とすんだ」

「残念だけど、断るよ。私は大精霊レノ。子供なら間に合ってるんだから」

「はは」

ノウスガリアは乾いた笑いをこぼす。

「そんな選択肢はこの世界に存在しない。これは神の決定だ」

ゆっくりとノウスガリアが歩いてくる。

レノは目の前に手をかざす。すると森中からノウスガリアに向かって、魔法陣が描かれた。

「アハルトヘルンは精霊の住処。いくら神族だからって、この領域で思い通りにはさせないわよ」

「逆らうな。神の決定は絶対だ」

ノウスガリアが一歩を刻む。

その瞬間、森の木々が意志を持ったかのように動き、その枝を彼に伸ばした。

先端を鋭い針と化し、無数の枝が全方位からノウスガリアを串刺しにする。

「帰りなさい、礼儀を知らない神族さん。そうじゃないと、あなたの魔力、根こそぎ吸い取るわよ」

「神を傷つけるとは、素晴らしい力だ、レノ。君は器を産む母胎に相応しい」

ノウスガリアが指を鳴らす。

「従え、秩序よ。神の命令は絶対だ」

その言葉で、木々の枝はノウスガリアから抜かれ、術者であるはずのレノを襲う。

「……なにっ……?」

木々の枝に巻きつかれ、彼女はその四肢を拘束された。

「いかなる魔法も私の味方だ。さあ、喜ぶがいい、レノ」

ノウスガリアはじっとレノを見つめ、厳かに言葉を発した。

「君に神の子を授ける」

そのとき、上空から漆黒の太陽、<獄炎殲滅砲(ジオ・グレイズ)>が落下し、彼を焼く。

「鎮まれ、禍々しき炎よ」

ノウスガリアが魔法に命令する。

だが、<獄炎殲滅砲(ジオ・グレイズ)>は消えなかった。

「なに……?」

「ふむ。残念だったな。俺の魔法は命令が嫌いだ」

上空から落ちてきたのは、暴虐の魔王、アノス・ヴォルディゴードである。

「神の命令は絶対だ。鎮まれ、禍々しき炎よ」

ノウスガリアは更に強く言葉に魔力を込めた。

瞬間、<獄炎殲滅砲(ジオ・グレイズ)>は消滅する。

「馬鹿め」

その隙をつき、着地した魔王アノスは、漆黒の指先で神の心臓を貫いていた。

「残念だけど、神は殺せない。これは秩序だよ」

「神が秩序を大事にしたいのは知っているがな。貴様らは現実が見えておらぬ」

アノスはノウスガリアの体内に魔法陣を描く。

「自らの魔力で滅びるがいい」

<魔呪壊死滅(デグズゼグド)>。

相手の魔力をその場で暴走させ、死に至らしめる呪い。

ノウスガリアの体にどす黒い蛇の痣が浮かんだ。

それが彼を食らおうと、激しく暴れ始めた。

神の持つ膨大な魔力が、神である自らを滅ぼしそうとしているのだ。

ぼとり、とノウスガリアの右腕が落ち、そこから徐々に呪いが蝕むように、朽ち果てていく。

「ふうん」

ノウスガリアは後退した。

アノスの目の前には<魔呪壊死滅(デグズゼグド)>の魔法陣が残されている。

「わかったよ。君が暴虐の魔王か。ちょうどいい」

「ほう。なんの話だ?」

ニヤリ、とノウスガリアは笑う。

「神は暴虐の魔王の消滅を決定した。君を殺す秩序が、神の子が、もうまもなく誕生する。それは逃れられない、世界が定めた理だよ」

「なるほど。だがな、ノウスガリア。その前にお前は死ぬぞ」

その言葉を、ノウスガリアが嘲笑う。

「鎮まれ、禍々しき呪いよ。神の言葉は――」

閃光が走った。

喉をぱっくりと斬り裂かれたそいつは、ぱくぱくと口を開くばかりで声を出せない。

キン、と魔剣を鞘にしまう音が響く。

ノウスガリアを斬り裂いたのは、鎧を纏った白髪の男。魔族最強の剣士、シン・レグリアである。

「いかに神の言葉と言えど、喋れなくては役に立つまい」

「…………っ……!」

ぱくぱくとノウスガリアが口を動かす。

シンが手にしているのは彼の千剣が一つ、略奪剣ギリオノジェス。

喉を斬り裂けば声を、目を斬り裂けば視力を、心臓を斬り裂けば命を奪う呪いの魔剣だ。たとえ、喉の傷が癒えようと、略奪剣に奪われた声は戻らない。

「自らが理だという事実に、慢心するのがお前たち神の悪い癖だ。そろそろ、その秩序に記しておけ。俺の前では、神の定めた秩序も滅ぶとな」

アノスは虚空に浮かんだ魔法陣をつかみ、それをぐしゃりと握り潰す。

「…………っ…………」

ノウスガリアの体があっという間に朽ち果て、風化して消えた。

レノはそれを呆然と眺めていた。

「さて、母なる大精霊よ。答えを聞きにきた。心は決まったか?」

アノスが言う。

一拍遅れて、レノが応えた。

「……あなたを、信じてみることにしたよ……」

「ふむ。それは重畳だ」

「すぐに行く準備をしてたんだけど」

「あいにくと最後の一人がまだだ。それまではここで待つといい」

「……わかった」

「護衛を一人つけよう。デルゾゲードまでの道は物騒な上、<転移(ガトム)>が使えぬよう反魔法がかかっている」

アノスは踵を返し、その場に跪くシンに言った。

「手筈通り、レノがアハルトヘルンに帰るまでの護衛を任せる。客人だ。できる限り、言うことを聞いてやれ」

「御意」

「え、ちょっと、そんなのいらないよっ」

レノが慌てたように手を振った。

「お前は神に狙われている。次が来るかもしれぬし、今の奴が蘇るかもしれぬ」

「そうかもしれないけど、大体、その人恐そうだよ? 私はそういう堅苦しい人、嫌いなの」

アノスはシンを見た。

「だそうだ。笑ってやれ、シン」

「御意」

シンは笑顔を作る。

だが、まるで表情に変化がなかった。

「これでどうだ?」

「どうだって、全然笑っているように見えないよ」

「それでも大精霊か。よく魔眼(め)を凝らすのだな。口角が0.05ミリあがっている」

「…………」

そんな微妙な違いわからない、とレノの顔に書いてあった。

「理解したようだな。では、仲良くするがいい」

「え、ちょっと待っ――」

レノがそう声をかけた頃には、アノスの姿はもうどこにもなかった。

「…………」

「…………」

気まずい沈黙が、アハルトヘルンに漂う。

悪戯好きのティティたちが、木陰から細い目で覗いていた。

「あの……」

「はい」

「……これから、どうするの?」

「仰せのままに。あなたに従うよう命を受けております」

レノは困ったような表情を浮かべた。

「……じゃ、護衛は本当にいらないから……帰って魔王にそう伝えてくれる?」

「かしこまりました」

シンは鞘ごと剣をレノに差し出した。

「えと……なに?」

「私が不要だと言うのなら、この首を差し上げます。我が君の命を全うできずに、生き恥を曝すことはできかねます」

げんなりしたように、レノは手を頭に当てた。

「……無茶言わないで。殺せないよ」

「かしこまりました」

シンは剣を抜き放ち、そしてその刃を自らの首に当てる。

「なっ、なにしてるのっ!?」

「自害します」

「え? なに言ってるの? そんな脅しなんかじゃ……」

レノがそう口にするも、シンの目には一点の曇りもなく、覚悟が滲んでいた。

「わ、わかったっ、もう、わかったよ!」

「わかったというと?」

「だから、帰れなんて言わないから、その剣をしまってっ!」

「思慮深き言葉に、感謝します」

レノは困ったような表情を浮かべる。

厄介な護衛をつけられたといった心境だろう。

「わかったけど、大人しくしててね。この森は好きに使っていいから」

「承知しました」

「とりあえず、一回だけ案内してあげる。ついてきて」

様子を見に出てきたティティたちが、道を空けるように飛び去った。

レノの後ろを、シンは剣呑な眼差しで歩いていくのだった。