日もそろそろ深く入り、夕方の涼しい風が吹く頃。

奴隷たちは黙々と設営作業に入る。

力仕事のできる奴隷は、屋台を商人ギルドから借りてきてこのスラム街に組み立てる作業に従事させている。場所としてはオアシス街とスラム街の境目ぎりぎりを狙って設営している。

それ以外の奴隷たちは、精肉屋から肉を運んでくる作業、オアシス街から水を汲んでくる作業、パンを購入する作業、お酒を購入する作業、などのお使いを頼んでいる。

そう、今からこのスラム街の人々を狙って肉炒めを五〇食ほど売り出し、どれぐらい売れ行きが出来るかを調べる予定なのだ。

「ルッツ、あくまで練習だからな」

「……はい」

屋台のそばまでたれを運びながら、俺はルッツに言い聞かせる。もはや処刑に臨む死刑囚のような面持ちの彼は、顔を蒼白にしており呼吸も落ち着いてない。

「さあ、屋台の設営が終わったらしいし、鉄板を暖めるぞ」

「は、はい……」

俺は油を引きながら、内心の笑みが止まらぬことを自覚した。絶対に上手くいく、理由なく自分に確信している。

(金貨一枚半。もし失敗したとしても、これは奴隷たちのちょっと豪華な晩ご飯になるだけだ。しかし成功した暁には……)

成功すれば、きっと奴隷一体分の稼ぎぐらい出すことも可能。具体的にはルッツ一人分。

「さあルッツ、肉を炒めるぞ」

「は、はい」

ついに肉を鉄板の上に載せ、焼き始める。

ばちばちと肉の焼けるあの匂いと、肉汁と油が出てきて鉄板の上で跳ねるあの音が広がった。

スラム街の浮浪者たちが何事かと振り返ったのはそんなタイミングであった。

「ミーナ」

「……はい」

泣き笑いのようなかなり暗い表情をしたミーナだったが、その場で立ち上がると営業スマイルを完璧に作り上げた。

「皆さーん! 肉料理はいかがですかー!? 一日の疲れも吹き飛ぶ、美味しい肉料理! お一つなんと、銅貨五〇枚!」

その姿は、さっきまで落ち込んでいた気配すら見せない見事なものであった。

(ていうか何で落ち込んでいたんだ? いや理由はともかく後でアフターケアしないとまずいな)

そんなことを考えつつ、手元で肉を炒め、ついにたれと絡めて焼き始める。

醤油を焼くときのあの香ばしい匂いに、豊満なにんにくとごま油の香りが合わさって、とてもストレートに食欲を刺激する匂いが出来上がっている。

それが肉の匂いと合いまって、思わず作業をしている俺が食べたくなるほどであった。

(ああ、鑑定スキルは本当に最高だ)

この焼き肉のたれを構築できたのも、鑑定スキルのなせる技である。

詳細検索の機能から、【調味料】を詳細検索し、一覧に現れた調味料に焼き肉のたれがあったのだ。これを実現するには醤油と味噌が必要であったのがネックだったが、まさか見つかるとは、本当に僥倖であった。

(そうさ、この焼き肉のたれが肉と合わないはずがないものな)

現代科学の結晶、とは言い過ぎかもしれないが、この焼き肉のたれは間違いなくこの『fantasy tale』の世界の調味料の何よりも旨いはずだ。

何せ全てが完璧なのだ。

醤油。これをレモンと酢と混ぜてポン酢にし、にんにくと一緒に焼いた肉の上に大根おろしを載せて、ポン酢を上からどばっとかける。

それだけでもう、肉料理は完成している。

それを更に、ポン酢ではなくもう少しまったり濃厚なたれに仕上げるために、にんにくを多めに混ぜ、味噌を仕込み、醤油味を甘辛くするため醤油とみりんで混ぜ合わせて鍋で暖める。

生まれる味は、濃厚でありながら調和している。アクセントにごま油の香味とりんごのさっぱりした後味が、この焼き肉のたれをしつこくしすぎないように整えてくれる。

(分かるか、このストレートに体にくる匂いが。肉を塩胡椒とかでごまかしながら食べていたお前たちが今まで味わったことのない、にんにくとごま油と焼き醤油からくる三つの重厚な香ばしさが)

俺は肉を焼くその手を一旦止めて、前をみた。

一人だけ、ふらりとおびき寄せられるかのようにやってくる浮浪者がいた。

金を持っているのか、と一瞬だけ思ったが、ミーナの応対をみる限り金はしっかり持っているようだ。

とうとう一人が陥落した。一人目が来たとなると、これはもう二人目三人目が来るのも時間の問題だ。

「はいこちらが肉とパンになってます! 鉄皿の肉汁をパンで拭いてからこちらにお返し下さいね」

「……」

浮浪者はふと、ルッツに気が付いたようだ。そして小声で「ああ、だから銅貨五〇枚なのか」と意味深な言葉を残した。

ルッツの手が一瞬止まったのはまさにそのタイミングだった。

「ルッツ、働け。手を止めると余計なことを考えるぞ」

「は、はい……」

言葉の上では頑張ろうとしているルッツだったが、さっきの一言がどうにも心に来たようだ。

かちかちと鉄のトングを鉄板にぶつける回数が増えた気がする。

(……やはり、浮浪者ですら魔族の料理に偏見があるか)

これは案外根の深い問題なのか、と俺は気を新たにしたが、そのタイミングで大声があがってびっくりしてしまった。

「旨い!」

ふと、俺はルッツの方をみた。

ルッツは、またもや手が止まっていた。呆然としたまま、ずっと客の方を見て固まっていた。

「何だこれは! 旨いぞ!」

立ったまま忙しなく食べる浮浪者に、ルッツは釘付けになっていた。

「おい、まだ一食だぞ」

「……」

「手を休めるな」

「……」

ルッツの反応はそぞろであった。ただ、明らかに一人目の客の動向ばかりを気にしているようで、ついには彼が食べ終わって、パンで鉄皿を拭き取って食べるまでを見届けていた。

「……」

「ほら、ルッツ、今からきっと忙しくなるぞ」

気が付けば。

先ほどの浮浪者が「旨い!」と叫んでいたのを見ていた者が二人、こちらの店をじっと観察していた。

やがて匂いにつられてか、こちらの店の前に並ぶのは時間の問題だった。

「ほらな、こうやって人は来るんだよ、ルッツ」

「……」

先ほどからルッツは喋らなかった。

ただ、気が付いたように黙々と鉄板の上で手を動かしているだけだった。

(まあ、いいか。きっとルッツにとっては衝撃だっただろうし)

そんなルッツの状態を見て俺は、横から微笑んだ。

(信じられない)

ルッツはしばらく鉄板の上で肉を炒めながら、自問自答し続けた。

(今のは何だったんだ)

今、ルッツが焼いた肉を旨いと言ったのではないか。

少なくともルッツにはそう見えた。

気が付けば店には人集りが出来ていて、十人ぐらいが露店に集まっている。

「……大丈夫なのかこれ」

「はい、手をきれいに殺菌して、肉もきちんと加熱処理しておりますので!」

訝しい視線を投げかけられ。

やっぱりそうか、と冷える頭の中。

「……確かに旨い」

そして旨い、と賛辞していく人々。

中には「もう一回頼む!」と頼み込む者まで現れる。

(何だ、これは)

魔族が肉を焼いている。

それを訝しんで厳しい言葉を投げる人々。

なのに、口にすれば「旨い」と賛辞を並べる。

(逃げ出したい、けど作りたい)

相反する思いがルッツの中に生まれた。

魔族である自分がこの鉄板の前で料理を作ってはいけなかったのだ、やはり迷惑をかけてしまっている、という情けなさと、「旨い」と口にする人達をみて、もっと料理を作っていたいと思ってしまう卑しさである。

「もっと手を動かせ、ルッツ。お前の客だ」

お前の客だ。

その言葉をことさら強調する主人トシキに、ルッツはなおのこと、頭が真っ白になっていくのだ。

(これは、料理か)

ルッツはそのまま手を機械のように動かした。

(料理って、こんなに辛いのか……?)

今のルッツは、完全に心が機能していない。ただ落ち着かない気持ちで、ひどく覚めているような、夢見心地のような、めまいを感じているかのような非現実感に苛まれている。

ルッツが魔族であることを汚らわしく思う視線。魔族が料理をするという珍妙なことに対する好奇の視線。魔族が人の口に入るものに触っているという生理的嫌悪の視線。

並ぶ人々。旨そうに食べる人々。旨いと喜ぶ言葉。

ようやく自分の手で作られる料理。自分には作ることなど無理だと諦めていた料理。自分が考えたわけではない他人の料理。

喜びなのか、苦しみなのか、いずれともつかない感情の混乱の中、ルッツはただただ見せ付けられていた。

足の竦むような、思わず逃げ出したくなるような、そんな大きなものに直面しているような気がして、ルッツは、現実感を感じぬまま、ただひたすら、作りたいのか作りたくないのかも分からぬ料理を、縋るように作るのだった。

(……諦めようか)

ぼうっとする気持ちで、諦めようかだなんて言葉が脳裏をよぎった。

(……諦められるのか?)

自分の目が、旨そうに食べている客に釘付けになっているのを、ルッツはこの上なく自覚していた。

(……『諦められるなら夢じゃない』。諦められるなら、夢じゃない……か)

差し迫られるような二択を前に、ルッツは怯えるように小さくなり、手を動かすしかない。

そんなタイミングで、ある一人の客が吠えた。

「はっ! 魔物が作った肉なんか食えるか!」