A Wish to Grab Happiness

Lesson 26: He Knows They Don't Know

「アン。貴様もついてくるのか?」

新調した小手の感覚を確かめるように握りしめて、カリアが言う。

城壁の内と外を分ける門前。未だ閉じた門の前で、ラルグド・アンはまさかとでも言うように肩を竦めた。

「私に戦闘能力はありませんし、それにあくまで私は案内人。それ以上の事はしませんよ。今日は空いた時間を使って、他の取引相手様の所にいこうかと」

大樽を抱えたラルグド・アンの小さな指先が、城壁の外を意味するように指し示される。

城壁の外。今は早朝ゆえに門が閉まっており確認できないが、そこにはもう一つの街、否、住処というべきか、何にしろそういうものが存在する。

城壁の中に住めるのはあくまで市民権を得た市民。もしくは許可を受けた商人や冒険者のみ。それ以外の人間は、壁を一歩超えることすら許されない。しかし職も技能も無い人間は、ガルーアマリアの景気の良さだけを聞きつけ、一縷の望みをかけて職を探しに足を運ぶ。

その結果が、城壁回りの貧民窟というわけだ。困窮の底の底。ガルーアマリアを治める大総督も、市民もその存在を決して認めないあぶれ者達。その日暮らしをただ続ける者達。その生活を想像すると、かつての自分が思い出されて瞳が細まる。

しかし貧民窟に取引相手がいるというのは、ラルグド・アンもどうやら安穏とした人間ではなさそうだ。ナインズさんの紹介、という点で察するべきであるのかも知れないが。

カリアはさして貧民窟に興味はないのだろう。ラルグド・アンの言葉に軽く頷くと、なるほど使い物にはなりそうだ、などと言いながら小手の使い勝手を見極めている。言っておくがお前の買い物が一番高かった。文句は一つも言わないで欲しい。

「何をいう。庶民が贅沢を嫌うのは理解できるが、必要なものに金を使わぬのはもはや節制の美徳ではなく、吝嗇の悪徳というものだ。ルーギス、貴様こそ、買ったものはなんの役に立つのか分からんものばかり」

「言葉を返すぜカリア、何を言う。武器、特にナイフの新調は重要だ。噛み煙草だって、嗜好品に収まらない利便性がある。後はそうだな、粘着液なんかも、野営をする時には使えるんだぜ」

まるで誇るように購入物を見せつけて応える俺に、カリアは仕方ない奴だとでも言うように、わざとらしく肩を竦めた。

何だろうな、凄く、納得がいかない。何故こいつは、さも自分が常識人であるように振る舞えるのだろうか。

――ゴォォオン……ゴォン……ゴォゥウウ

そんな問答をしている内、朝を告げる鐘が、周囲に響く。同時、衛兵が仕掛けを動かして大門を開き始めた。

わっ、と大勢の人間が都市の内外を行きかう中、よく通る声が、耳朶を打つ。

「――お待たせ、ってほどでもないわね。二つ目の鐘はまだ鳴ってないもの」

そう言い、赤黒いコートに身を包んだ女性が手をあげる。フィアラート・ラ・ボルゴグラード、魔術師殿その人だ。コートの柄が、彼女の黒い髪の毛や瞳と対比してよく映える。やや重装備な格好は、まさしく旅支度とでもいいたげだ。

そして、その隣には、金髪を揺らし、ゆっくりと後ろからついてくる。ヘルト・スタンレーの姿もあった。彼の姿も、旅路に出る者のそれ。動くのに邪魔にならない程度の装備と、腰には剣を拵えている。

「準備は万端です。足手まといにはならないと誓いましょう」

ゴォン……ゴォオオン……。そんな鐘の音を聞きながら、四つの首が、門前に集った。

「――待ってください。ボクは依頼の常識は知りませんが、誓いの詞が条件に入るというのは、幾らなんでも重すぎるんじゃないですか。つり合いが取れていない」

ヘルト・スタンレーの言葉に、場が一瞬冷や水を被ったように、沈黙する。

ああ、知っていた。知っていたとも。お前がこういう話に噛みついてくる人間だということは。知りすぎるほどに知っていた。

誓いの詞。魔術師が上位存在や、世界の理、それに類するものと重要な契約を結ぶとき使われる詞。それは紛れもなく誓いであり、魔術師を縛り付ける鎖であり、時に生き様すらも変質させてしまう劇薬である。

ゆえに先ほどの言は間違ってはいない。むしろ依頼一つするのに、魔術師が誓いの詞を交わすなんてのは聞いたことがない。だが、契約において前例などというのはさして重要でない。まして、彼は俺の交渉相手でもなんでもない。どれほどつり合いの取れない取引でも、交渉相手がうんと頷けばそれは正当な取引となる。

そうだとも。この世には一かけらのパンを条件に尊厳を売り渡す者も、小銭の為に身体を売る者もいる。つり合いの取れる取引などというものが、むしろ珍しいと言えるのかもしれない。

「ヘルト・スタンレー。俺はあんたと取引してるんじゃあないですから。横から嘴を突き入れるような事はどうか謹んで欲しいね。大体、こっちだって危険は負ってるんですぜ?」

その鋭い顔つきを指さしながら、目を細めて言葉に応じる。

魔術師の護衛などというのは、本来誰だってやりたがらない。彼らは何時だってまやかしを好み、人道を外れ、魔と取引する存在だ。少なくとも、冒険者には広くそう思われている。

だから、そんな者の依頼など多少金を積まれても、うんと頷くやつは此処にいない。それに頷く変わり者や専任者は、魔術師ギルドにいるものだ。

そう、魔術師が依頼を出すとなれば、単なる商工ギルドなんかではなく、専用のギルドに赴くのが最も面倒がない方法。幾ら依頼の出し方を知らぬといっても、それくらいのことは知っているだろう。だというのに、 フィアラート・ラ・ボルゴグラードはその手段を取っていない。

「あんたらも訳ありなんでしょう。何せこの街には魔術師御用達のギルドだってそう少なくない数がある。だっていうのに、此処にいる時点でもう胡散臭いったらありゃしない」

それは紛れもない相手の弱みだ。その足元を浚う交渉であれば、例えつり合いがとれていなくても乗ってくる。乗ってこざるを得ない。彼女はきっとそれを承知で此処にいるのだから。

ヘルト・スタンレーの頬が一瞬、歪む。まだ食いつきが足りないのか。その心根はやはり大したものだ。ああ、だが、もう遅いようだぞ、救世主殿。

「――貴方は黙ってて、スタンレー。彼の言う通り、互いに危険を背負った依頼よ。私だって背負わないと、天秤は等しくならない」

フィアラートの、決めた事はねじ曲がらぬという意志を、痛感させる芯の籠った言葉。その言葉には、ヘルト・スタンレーとて従わざるを得ない。この取引において主は彼女、彼は従。

そして彼の性格を鑑みれば、次に出てくる言葉はよくよく分かっている。忌々しい事に。反吐がでそうになるほどに。

「なら――それならば、ボクに同行の許可をください。ただ嘴を突っ込んでおいて、後は知らない振り、なんてのはボクには出来ない。少なくとも、尊厳を持つ紳士の振る舞いではないでしょう」

思わず言葉が、唇から零れ出そうだった。理解していたさ、こういう条件をつければ、お前は同行を申し出るだろう。それが良きにしろ、悪きにしろ。それでこそ、ヘルト・スタンレー。それでこそ、救世者。

ああ、何とも――忌々しい事、この上ない。

岬までの道のりは馬車で一日はかかる。当然そんな場所へは向かう者は少なく、乗り合い馬車もあるわけがない。故に貸し馬車を一台かりての、大掛かりな旅路となる。馬車にはあまり良い記憶がないが、無賃で乗れるなら悪くないだろう。

四人で乗った馬車は窮屈というほどではないが、各々顔を見合わせる程度の距離にはなる。言葉賑やかという風でもなく、ただ蹄と車輪の音を聞きながらの旅路となった。

それは一見のどかで良いものかも知れない。諍いもなく、自然の音に身を委ねる旅路。

――だが俺からすればそれは胃の奥、胃だけとは言わず肺も、それこそ臓腑全ての奥底から灼熱の業火が噴き上げる思いだった。

そうだ。全てが揃っているわけではない。だが、此処にいる面子を見てみるがいいさ。カリア・バードニック。 フィアラート・ラ・ボルゴグラード。ヘルト・スタンレー。そして、俺。

ああ、ああ。否が応でも思い出される。あの旅を、苦痛と恥辱に塗れた旅路を。尊厳を足の底で踏みにじられ、全身を針の庭に投げ落とされる苦しみを。

唾が、まともに飲み込めそうにない。油断をすれば腹の底から感情と共に嗚咽が這いずりあがってくる。顎を指で擦りながら奥歯をぐぅ、っと強く噛みしめた。

覚えているぞ。貴様らは知らないだろう。だが、俺は、覚えているぞ。

蹄が地面を打ち付ける音、車輪が軽快に回る音が、周囲に響き続けていた。