A Wish to Grab Happiness

Lesson 33: It's Pure Good Will

地下神殿通路。未だ僅かな光が揺れるだけの場所。ただそこには、息を飲むような空気だけが存在していた。

「私は正しい事は己で決める。私を此処に導いたのは奴。そしてその手を取ると決めたのは私だ。であれば、もはや選択は決まっている――私と奴は、仲間なのだからな」

薄暗く、燭台の仄かな灯りだけが二人を照らす。

銀の長剣を引き抜き、瞳に同色の煌きを宿すカリア。そして彼女の行動に、動揺を露わにしながらも、その足幅を開き、臨戦ともいえる態勢を体躯に取らせたヘルト・スタンレー。

カリア同様に引き抜いたその両刃の剣は、装飾は控えめに、だが暗闇の中でもその白い輝きを失っていない。

狭い通路の中、剣を引き抜き合ったまま一瞬の対峙。両者は一足一刀の間合いにありながら、未だ動きはない。静寂が、薄暗闇の中を支配していた。

ゆらゆらと、燭台の中の火が揺れ動き、淡い光が煌く。

互いに、僅かに読み切れずにいた。相手が、理解しきっているのか、否か。この現状を、今二人が置かれている場を、読み切っているのか否か。もし否であるならば、死は免れない。

二人の心境表すような重いため息が、両者の肺を這い出ようとし、何度も押しとどめられている。

カリアの睫毛が瞬き、ヘルトの小手が傾く。

――ザァン

一瞬の、刃物が空を撫でる音。その音が合図だった。

半身になって長剣を伸ばした構えから、カリアは踏み込み銀の閃光を宙に描く。正面から見れば惚れぼれするような直線の動き。

剣の先に震えはなく、手足の連動に時間差も存在しない。その一撃こそはまさしく、天賦の才と、その才に濁りを混ぜさせぬ、日々の鍛錬の賜物であろう。

それに相対するように、ヘルトの白が煌く。右足を半歩引き、切っ先を右斜め後ろ、下方に向けるようにした構え。その見開かれた瞳にはもはや迷いも困惑も存在しない。

銀の閃きとほぼ同時。白の一線が空中を裂く。流麗とも言える軌道を描き、相手の脇下を抉る為、その膂力と剣の重さを存分に活かし豪速が振るわれる。その軌道は即ち最短であり、無駄の一切を排除したような鋭さ。

接触は同時であった。血液は人間という袋から脱出し、その身を自由に空に揺蕩わせ、肉はまるで最初からそうであったかのように抉れ、華を咲かせ、開いていく。

銀の閃光は首を掻き切り、白の煌きは脇下から肉を抉る。

どさりと、二つの肉が、ほぼ同時に崩れ落ちる音がした。

「――最期、私を見ていなかったな。そんな事では寝首を掻かれても知らんぞ」

何処か白々しい声を出しながら、カリアはヘルトの背後より迫っていた、得体の知れぬ者から銀の長剣を引き抜いた。首は果てなく血液を吐き出し、持ち主の絶命を知らせている。

「同じ台詞を返しましょう、カリアさん。貴女こそ、ボクの軌道は見えない位置でしょう。何時からお気づきで?」

カリアは、さぁな、と肩を竦めて応えた。

ヘルトはカリアの背後、其の影から這い出たような黒装束の左腕を刈り取り、そのままにその人物を召し取っていた。顔に巻いた黒い布地の為にその表情までは伺えないが、瞳は動揺と、焦燥を、そして最後に疑問を露わにしている。

何故、と。

我々は、仲間割れをした侵入者を始末する、そのすんでの所であったではないか、と。唐突に変貌した状況に思考は追いつかず、ひたすらに困惑と恐慌の感情が彼の脳内を揺らしている。

その様子を見て、カリアが、おお、と感嘆の声をあげた。

「上手いな。生かしていたか、私はつい突き殺してしまった。話を聞きたかった所だ」

「よもや口を割らせると? 彼が、フィアラートやルーギスさん、二人に関係しているとは決まっていませんよ」

そう言い、ヘルトは黒装束の男、その切り落とされた左腕の口を、布で縛り上げる。血がとまり、初めて激痛が男に走った。

今までその余りにも強烈な激痛ゆえに麻痺し、失われていたはずの感覚が、とたんに生気を取り戻して脳に告げる。危険だと。血を止めろ、傷口を塞げと、叫びをあげる。男が、思わず呻いた。

「無論。決まってはいないが、間違ってはいないさ。矛盾しているようだが、面倒事が転がっているということは、ルーギスが何処かで絡まっていると、私はそう踏んでいる。それに騎士団でも、必要とあらば拷問も適切な方法の内」

銀の髪先を揺らしながら、小さな灯りにあおられて見える彼女は、酷く恐ろし気で、妙な威圧感を備えていた。それはやると。言葉にしようがしまいが、間違いなく行うのだと、その断言を態度に表していた。

男の臓腑が、鷲掴まれたように縮こまる。眼前には死よりも恐ろしい苦痛が待ち構えている。だが、何も口に出すまいと、目つきを強める。刺客とはそういうものだ。全ては覚悟の内。こうなれば、肉体という衣が痛めつけられ、中身の精神が脆弱さを露呈する前に、自ら死を選ぶのが信仰に生きる道であろう。

奥歯に仕込まれた毒薬を噛み切ろうと、男が僅かに唇を開く。後は一瞬で、かみ砕くだけ。この歯を降ろすだけ。であるのに、だというのに。どうしたことか、歯が下がらない。異物が、口の中にねじ込まれている。無理矢理、口内に押し入ってきた何かが、全てを察していたように毒薬を噛ませようとしない。

「死なないでください。ボクは貴方の死を望んではいない。生きてくれることを望んですらいます」

素早く差し込まれたヘルトの親指と人差し指が、男の口の中を開かせるように固定した。そしてそのまま、二つの指で毒薬が入った小袋を歯から取り外してしまう。

流石に男の顔が、青ざめた。楽に死ぬ方法を取り上げられたからではない。これより、明らかな拷問が始まるからでもない。

ヘルトと、そう呼ばれる者の行動が、紛れもなく善意で行われているものなのだと、理解してしまったから。拷問を行い、目的の事を聞き出す為に生かしたのではない。この身体を切り刻む為に生かしたのでもない。

紛れもなく、善意の行動で生かそうとしたのだと、そう気づいたから。

恐ろしい。精神を幾千もの棘で締め付けられるような感覚。震えあがりそうなほどの怖気が、男の背筋を舐めた。

「カリアさん。聞き出す役目は、ボクが手をあげましょう」

「意外だな。貴様はそういう事はやらん人間だと思っていたが」

あくまでも穏やかな笑みを浮かべて、ヘルトは頷く。

「ええ、勿論。ですが、ボクがやらなければ貴女が行う。それを分かっていながら拒むというのは、卑怯の誹りを免れない。ボクは間違っても、卑怯者と後ろ指をさされる人間になりたくはないのです」

そう、唇を動かし、胸の前に手をあてて、男にこう告げた。

「貴方の為の、最良を尽くしましょう。貴方が死なぬよう、貴方の精神が壊れぬよう、最善を」

それは、どれほど懇願しても決して殺してもくれぬし、幾ら神に願おうと、狂乱もさせてくれぬという事。そう、全ては善意から。

眩暈が走る。鳴りやまぬ動悸と同時、覚悟していたはずの心が容易く崩れ落ちていくのを、男は感じた。悪意に対する気構えは、幾らでも出来ていた。悪意に晒されるのは幼少から慣れている。しかし、しかしだ。最期に出会うのが、その悪意を軽く上回る善意だというのでは、あんまりではないか、神よ。

余りある怖気と嗚咽が入り混じったその祈りが、人知れず、暗闇に消えていった。