A Wish to Grab Happiness

Episode 81: Blood Flowing Through This Body

「姫様は、本当に来られるのでしょうな」

低い声が、暗闇の中を溶けていく。蝋燭の与える僅かな光が室内を揺蕩う。

その声が周囲に伝播すると、小さなひそひそとした声が、暗闇の至る所から湧いて出だした。テーブルを囲んだ彼らの胸中は、卓上に置かれた小さな蝋燭の火よりも弱弱しい。

この場自体が、砂上にあるようなもの。誰もかれもが、未だ懐疑を瞳に浮かべ、暗闇の中喉を震わせる。

その心は未だ揺れ動き、決心というにはほど遠い。神経質に瞼は幾度も瞬きを繰り返す。ふとした感情の乱れで、前に出かけた脚はすぐさま後ろに戻ってしまうことだろう。

彼らには、切っ掛けが必要だった。もはや胸をナイフで掻き切り、全てを決断してしまう切っ掛けが。例え先の見えぬ時代にあろうと、その先へと足を進める為の切っ掛けが。

「しぃ……静かに」

不意に、よく通る声がそう告げた。誰の声かは、分からない。

先ほどから暗闇の中から這い出していた幾つもの声が、そぉっと静まっていく。それは何も、その言葉に先導されたからではない。

目の前に、光を見ていたから。蝋燭のような光ではない。その場に湧きたつような、淡い輝き。

精霊術。その中でも、特に高位のそれ。自らの姿を全く別の場所に投影し、さも遠きにいるように振る舞う、精霊に愛されし者のみが赦される、その秘儀。奇跡の一端とも呼ばれるその光景。

ああ、これを振るえるのは、このような奇跡を行えるのは、ガザリアにおいて、いいやこの世において、彼女の他にはいない。

誰もが唾を飲み込むことすらやめ、一切の音を立てようとしない。瞳を見開き、耳を立て、その場に起こった奇跡の全てを身体に刻み込もうとしているかのようだった。

暗闇の中搔き集められたかのように光の粒が集積し、形をなしていく。

そうして出来上がった、淡い輝きの結晶はまるで人形とも思えるような造形。紛れもない、エルフの形を、成していた。

「――こんな影からの声で失敬。声は聞こえるかな」

暗闇の中、灯りに照らされながら見えたその笑みは、きっと月明かりよりも美しい。そう、誰もに思わせる。

彼らの多数の心は、此処で大きな流れに飲み込まれた。胸の奥で高鳴る決意をしたのだ。

麗しきエルフの姫君に付き従い、老エルフ、悪徳のフィン、ラーギアスに支配されたガザリアを、再び元の良き時代へと揺り戻すのだと。それが、紛れもない正しき事なのだと、心に誓って。

「――有難う。我がエルディスの名と身に流れる高貴なる血に誓い、君たちに幸福を」

肩が、痺れそうになる。軽く吐息を漏らして肩を捩り、態勢を直して、ようやく落ち着いた。

肩と手を傷つけたばかりだというのに、再び痛めるようなことになっては、間抜けが過ぎる。流石の俺もそんな事は御免だ。

力の抜けた人体、いやエルフの身体だから、なんと呼ぶのだろう。何にしろ、エルディスの体重の全てを抱きかかえるのは、今の俺には骨が折れる。

意識を全て喪失する代わり、自らの幻影を遠隔地に作り出す。これが、エルディスの授かった英知、精霊術の一端であるらしい。俺達が最初に見た彼女も、ただの幻影にすぎなかったというわけだ。

魔術では、自らと離れた場所に像を作り出すことなど不可能に近いと聞いた覚えがある。

それを、此の塔どころか、ガザリアから遠く離れた森の中に幻影を作り出したのだから、それはもはや神業に等しいのだろう。なるほど、精霊の愛し子と、そう呼ばれるわけだ。

しかし、此れは流石になんとかならないのか。

エルディスの身体を背中から抱える態勢に、思わず目を細める。彼女曰く、幻影を扱う時は全くの無防備となるわけで、誰かに守られるか、抱えられている状況が必要であるらしい。別にベッドにでも横になれば良いのではないかと思うが、それでは上手くいかないのだそうだ。

よく見ていると、エルディスの瞳がうっすらと細まり、ぼそりぼそりと、唇が揺れる。幻影を扱っているのは、間違いないらしい。

今エルディスは、指定されたエルフの集会所へと赴いてるはずだ。このガザリアにおいて、貴重な後援者。エルディスの腕となり足ともなる材料。彼らの協力なしには、此の塔から脱出することもままなるまい。

ゆえに、今夜の事は必ず、成功させてもらう必要がある。その為に幾つかエルディスに言い含めもした。

だがそれでも、未だ不安がこの胸を燻ぶらせている。何せ、かつての時代では彼らは行動を起こさなかったエルフ達だ。フィン・ラーギアスの統治を、そのままに受け入れていた彼ら。

であれば、幾らエルディスという切っ掛けがあったからといって、誰も彼もが手を伸ばすわけではないだろう。それに、エルフという種族はその寿命ゆえの性質か、随分と気が長いことが多い。彼らの少し後というのは、十年二十年後というのはよくある事だ。

それゆえに、生き急ぎ勝ちの人間とは上手く交流が図れないというのもあるのだが。

しかし、どちらにしろあっさりと話が纏まるものでもないだろう。

となると、エルフの姫君を抱きかかえたまま、数十分、下手をすれば時間単位で待機していなければならないわけだ。

ふと、脳裏が一瞬揺れる。眼を、瞬かせた。

今まで、彼女、エルディスの顔をこれほどの間近でじぃと見つめたことなど、一度もなかった。遠目とは言えないまでも、はっきりと見る機会は以前にはそうなかっただろう。

何せ、恐ろしいうえに、目に毒だった。その彫刻と見まごうほどの顔の作りは、本来俺であればお目にかかる事も出来ない美の結晶だ。ただでさえ作りが良いというのに、王族だ。保護され、温室の中で暖められてきた、紛れもない姫君。

思わず、ため息が出る。身体が触れ合っているというのに、胸中に浮かぶのは劣情より、心を掻きむしる劣等感。

ずっと、感じていたことだ。かつての旅の頃から、今の今まで。

こいつは、エルディスは生まれた時からの王族だ。周囲から崇められ、例え牢獄にぶち込まれても、尊ばれることを義務付けられている。

その立場ゆえの、重さがあるだろう。立場ゆえに、胸を痛めることがあるだろう。

だが、それがどうしたというのだ。それが、何だというのだ。良いではないか。生まれたその日から、誇れるものが身体の中を走っているのであれば。

近頃、胸を迸る不安が、静かな、ただ待つしかないこの場で噴出しそうになっていた。塔の中は、風の鳴る音すら響こうとしない。

カリアの手を取り、フィアラートを引き込んで、今手のひらにエルフの姫君まで乗せようとしている。ああ、全くかつての俺から見れば大したものだ。大した、悪党ぶりだとも。

あの英雄、ヘルト・スタンレー相手にすら、一矢を報いた。幾らこの時代に遡ったとはいえ、俺にしては上出来にすぎる。

そう、俺にしては、だ。

思わず歯で、唇を噛みしめる。

どこまで足掻こうと、どこまで我武者羅に手を伸ばそうと、決して拭いきれぬものが、胸に黒い染みとなって残っていた。

それは、どのようにしても覆せぬもの。生が与えられた時から決定づけられているもの。つまり、生まれながらにしての身分。どのような血が、この身を流れているのか。ただその一点。

この身が、貧民街から血を分かたれ、ドブの汚れを乳母として育ったドブネズミだということは、例え何処まで遡ろうと変えようがない。

俺は、何処まで行こうと、羨望する彼らと同じ地平に立てることはない。それは、才能の差であり、その身に流れる血液の差であり、生まれの差だ。

生まれ、この身に流れる血液。なんとも、覆しがたい差よ。

だから、思ってしまう。俺がどれ程上手くやろうと。俺がどれほどの幸運を掴みとろうと。最後には、彼ら、彼女らに、全て上を行かれるのではないか、と。

泥のように粘りを得た情動が、臓腑の奥に何時までも張り付いている。

下らない。そんな下らない想いが、カリアを、フィアラートを、心の底から仲間と呼ぶことを戸惑わせている。

理解していた。カリアと、フィアラート、彼女らが少なくとも悪くないであろう感情を、この非才の身に抱いてくれていることを。かつての頃から思えば、考えられないほどの心地だ。それは、一つの歓喜であり、苦痛でもある。

どうして受け止められる。何を根拠に、受け止めろというのだ。分かっている。俺はいずれ失望される。いずれ、その底を見破られ突き落とされるのだ。

今の俺は、ペテン師に過ぎない。先取りした智識で、先手を打ち続けているだけ。ただそれだけの凡人に過ぎない。彼女らに好意を向けられる根拠など、何もないのだ。

それでも、ただ、足掻くしかない。その先に、何があるか知れずとも。諦めることだけは、それだけは嫌だった。心の奥底では、何処かに非才の限界を覚えながらも。

強くかみしめ過ぎた唇から、血が、零れていた。赤い、とても赤い血が。