A Wish to Grab Happiness

Lesson 245: The One Who Grabs the Ankle

妾腹の王女。

かつての頃、そう呼ばれた彼女はガーライスト王国が主、アメライツ=ガーライストの私生児であった。出自は庶民の使用人に産ませた子だという話もあれば、恋に落ちた下流貴族との間の子だという話もあり、その明確な所はどうにも判別しない。

何せ事実を知っているものは国王を含めたごくわずかな者たちであるし、その者達は王女が世界という大海に身を現したころには姿を消していた。

それに加えて、彼女には多くの悪評が付きまといすぎたというのも、真実が明確にならない要因の一つだろう。

妾腹の王女。かつてのガーライスト王都ではその呼び名を筆頭に、次から次へと彼女を貶めるための風評が周囲から沸き上がり、結果として最後には何が真実で、何が嘘なのか、それすら分からなくなってしまった。

本来であれば、王族という存在には悪評などつくはずもない。王家という血筋に守護され、国家という大剣を欲しいままにする王の血筋を、悪く言える人間などそういるものではない。

では、どうして王女には溢れ出るほどの悪評が付きまとったのか。それは実に、簡単な話。何とも、人間的な馬鹿々々しい話だ。

彼女が周囲から求められていたものは、脚本通りに語り踊る名女優。しかし実際に彼女が演じたのは、脚本を破り捨てて演劇を台無しにする悪女だったという、ただそれだけの理由。

詰まる所、大災害後の混迷期、私生児とは言えアメライツ王の血を引く王女を使いガーライスト王国の実権へと食い込もうとした、実に貴族らしい貴族がいた。それは当初こそ彼らの脚本通りに進んでいたのだが。

最後の最後。貴族たちは、所詮小娘と侮っていた女に、手首をねじ切られる事になる。一度は手に収めたはずの実権全てを、彼女は奪い取っていった。

その心情は察するに余りある。貴族らの胸に湧き出る悔恨、憎悪、憤怒はもはや筆舌に尽くしがたいことだろう。

国家という、一つの世界を傾ける権能がすぐそこにあったというのに、それがするりと、手から滑り落ちたその感覚。そんなものを感じるくらいであれば、もはや狂ってしまった方がよほど楽だったかもしれない。

そんな、王権を手にするまでの歪な経緯と、私生児という立場から、彼女は酷く貴族連中から忌み嫌われることになった。

何せ、貴族という連中は身体の中に高貴な血が流れているか否か、などという事を病的に気にする連中だ。きっと、彼らの血には金貨でもまじっているのだろう。

ゆえにこそ、庶民の血が混じっているやもしれぬ女が権力を持つことなど、耐えられぬのだと、彼らは叫んだ。その結果、ありとあらゆる悪評が王女に付きまとったという、ただそれだけの話。

毒婦、蛇、女の皮を被った魔性。それが、かつての頃――そうして今ではフィロス=トレイトとそう名乗る彼女が、背中にへばりつかせていた悪名だった。

だがしかし、彼女が誰かの敵であったのは、何もかつての頃ばかりでは、ない。

◇◆◇◆

「此の同盟で暫くの間は、フィロスも食い繋げるでしょうな。上手く寒冷期を越せると良いのですが」

自治都市フィロスの姿がその視界に収まるころになって、ようやく一息をついたとでもいうように、事務官の一人がそう声をもらした。声につられる様に、周囲を歩く護衛の兵達もの雰囲気も少し和らげたようだった。

統治者フィロス=トレイトは事務官の言葉に小さく頷き、自らも唇を緩める。胸の間辺りで凝り固まっていた石が、ようやく重みを失ったかのようだった。

自治都市フィロス、いや正確には統治者フィロス=トレイト個人と、紋章教は同盟を結んだ。協力関係を構築し、互いに剣を振り合わすようなことはないと誓ったのだ。

勿論、そんな同盟吹けば飛ぶようなものであることは間違いない。紋章教には大聖教の倫理観や理屈は通じないであろうし、ふとした日に彼らに周囲を取り囲まれ、槍を突き付けられていても何らおかしなことはないのだ。

だが、少なくとも時間は、稼げる。今、時間というものはまさしく金に値する。此の同盟が生み出した時でもって都市の安定化を図り、少なくとも市民達の生活を安堵させねばならない。何せ、もう寒冷の時はすぐそこまで迫っているのだ。

本格的な冷風が、ひゅぅ、とフィロス=トレイトの頬を打つ。歯が思わず内頬を噛んだ。寒さというやつが、鋭さを伴って身体を突き刺していく。

今度の寒冷期は、どの程度続くのか。フィロス=トレイトは眼を細め、すっかり陽光を弱らせた太陽を見つめた。

もう少しもすれば、絹糸の如き白雪が大地を覆う。何もかもが白に食いつくされてしまえば、そこはもはや人がまともに歩ける地帯ではなくなってしまう。

――詰まり、今では大人しく身を森の中や大地の中に埋めさせている魔獣共が、大地を闊歩し始める節となる。

明確な理由は分からない。けれども、寒風吹きすさび妖精もが身を土中に埋める時期になると、奴ら、人の敵は今まで以上にその行動を活発化し始めるのだ。例外と言えるのは、神が守護する大聖堂や神殿周辺くらいのものだろう。

雪の中闊歩する魔獣を見て、奴らというものはそういう性質なのだという学者もいれば、雪が魔力を運ぶのだという賢者もいる。誰もかれも、結局の所何が本当なのかは分かってはいない。ただ幾つかの説があるだけだ。

ゆえに明らかであるのは、寒冷期が来てしまえば流通という奴が著しく滞るということだけ。

一つ商隊を出すにしても、傭兵や冒険者を一定数雇わねば、ただ狼の中に肉切れを投げ込むことになってしまう。となれば、商人もそう頻繁に街から街へと行きかうことはできなくなってしまうわけだ。

そういう意味で言えば、傭兵、冒険者の類にとっては、寒冷期は歓迎すべきものなのだろう。それだけで、次から次へと仕事が舞い降りてくるのだから。

そんな事情から、ただの寒冷期でさえ、ため息を漏らしたくなるのは間違いがない。それに加えて、此処の所未だ温暖であるにも関わらず、魔獣の活動が散見されると聞いている。ならば、全てが雪に覆い尽くされてしまえば、どうなるのか。フィロス=トレイトは頭の中に浮かび上がる暗澹とした想像に、知らず瞼を数度瞬かせた

今回の寒冷期は、どれほど続くのだろうか。数か月で終わってくれればこれ以上のことはないが、過去には幾年も続いた事すらあるという。そんな事になれば、都市フィロスも今の蓄えだけでは口の中を潤すことすら出来なくなってしまうことだろう。

人の世界から、魔の世界へと。

節の移り変わりとは、詰まる所それなのだと、誰かが言っていた。白い雪はその証。そうか、だからこそ、己の白い眼も忌み嫌われるのかもしれない。白い肌というやつは好まれるというのに、全く不公平なことだ。

ああ、しかし。なるほど己の眼が雪と同質のもの、つまり魔を引き寄せるものであるならば、確かにそれはその通りかもしれない。

つい先ほど、あの大魔もこの眼を良い目だとか、そんな下らないことを言っていたなと、フィロス=トレイトは都市門のすぐ傍で一瞬眼をつむり、胸の裡で呟いた。

護衛の一人が合図を送ると、ゆっくりと、重い音を立てて都市門がその口を開け始めた。

さて、と自らの唇を引き締め、フィロス=トレイトは眼を細める。行わねばならぬこと、片付けねばならぬ案件がきっと執務室には山積みになっているはずだ。

寒冷期に備えての都市施設の修繕、食料の買い足し、燃料の補給などは当然として、周辺村落の視察にも足を伸ばさねばならぬことだろう。今回の戦役で被害を受けた村落や市民に対しては、相応の補填が必要だ。都市庫をけば、何とか間に合うだろうか。

フィロス=トレイトは、時に憎まれ役でありながらも、それでも彼女なりに市民達を愛していた。しかし、だからといって市民の要求を全て聞き入れるのが、愛情の示し方であると彼女は思わない。

正しき道を照らし、それへと民を導く。其れこそが正しき統治者の在り方であり愛情の示し方であろうと、フィロス=トレイトはそう信じている。

例えその為に悪評が己の足首を掴んだからといって、何だというのだ。正しくある者は、何時だって誰よりも強い風雨を受けるもの。そんな事で怯んで等いられない。

ゆえに、例え市民から正面をきって罵倒をされたとて、フィロス=トレイトは眉一つあげは、しないだろう。

それは、この時も同じだった――突き付けられたものは、言葉などではなく、銀の穂先であったのだが。

「――何のつもりかしら。此れは」

都市門に入った、途端。大勢の市民により、自らと護衛の者らに突き付けられた槍を見ても、統治者は一切の竦みを見せない。まるでこんな事、想像の内だとでもいうように。白い眼を大きく見開き、周囲を睥睨する。

自らが愛し、自らが守るべき存在である市民が、自らに向かって槍を向けている。そんな、異常とも言うべき状況をフィロス=トレイトはただ、己の眼で見つめ続けていた。

市民は、どれほど集まっているのだろう。咄嗟には数え切れぬが恐らく百や、二百ではすむまい。それに、門前で堂々とこのような狼藉が行われているということは、此処に集まった者ら以上に、彼らを支援するものがいると、いうこと。

そんな風に思考を頭蓋の中で回した頃合いに、人の海が、割れる。まるで一つの道を作り出さんというようだった。一人の人間が悠々と、その道を歩いて、来る

「簡単なことです。背徳者フィロス=トレイト。貴方の身柄を民会の権限の下、拘束する」

市民の代弁者、民会の長と、そう呼ばれた男。口元に生えそろった髭を揺らしながら、ロゾーは煌々とした目つきでフィロス=トレイトを睨み付けた。