A Wish to Grab Happiness

Episode 308: Great Storms and Warcraft Groups

ヴァレリィ=ブライトネス。番人。嵐の代弁者。生まれる時代を間違えたもの。

彼女に与えられたそんな仰々しい異名も、今ばかりは何処かに消え失せている。彼女の胸中はただ一つの紙切れに縫い留められていた。

一纏めにした髪の毛を軽く揺らしながら、ヴァレリィは王都より届けられた報告書に吐息を当てる。そうして暫くしてから、それを指先で丸め込んだ。

その表情にこそ大きな動きはなかったが、珍しく思案らしきものを見せてから、ヴァレリィは言う。

「ドーレ。この報告書、信憑性はどの程度ある? 出所は何処だ」

その声は疑ってかかっているというより、どうせなら嘘だと言って欲しいと、そう祈っているような声だった。

だが直接報告書を持ち合わせた情報官、ドーレは主に対して肩を大きく浮かせて応える。

「冗談。情報なんて自分で見て、確認するまで全部嘘みたいなもんだよマスター。どれが真実でどれが疑わしいのか、というのなら、どれも真実だしどれも疑わしいものさ」

ドーレの振る舞いや口調はとても主に対するものとは思われなかったが、ヴァレリィは彼女を咎めるという事はしなかった。恐らくは普段から彼女らはそういった関係なのだろう。

ドーレはでも、と言葉を続けながら唇を開く。

「でも、自分は噂話みたいなものをマスターの耳に入れるほど不器用でもない。ちゃんと、フォモール閥の網にかかった情報しか報告書には書いてないよ」

当然だろう、とばかりにドーレはその胸を張る。少女らしい外見とは裏腹に、その胸中にははちきれんばかりの自信と自尊が溢れているらしい。それも虚栄心に後押しされたようなものではない、確かなものが。

ヴァレリィは、その事をよく知っていたしドーレの事を信頼もしていた。だから、それ以上何かを問いかける事はしなかった。

そう、と小さく頷きながらヴァレリィは薄く表情を固める。再び報告書に記された情報を、眼に映した。幾つかの情報が散見しているが、その中でもヴァレリィの心を引き留めたのは一つの事実。

——サーニオ会戦における老将軍リチャード=パーミリスの敗着。それは紛れもない真実だとするもの。結果、リチャードは重傷を負い撤退。旧教徒は自治都市フィロスをもその腹の中に収めた。

ヴァレリィの手中で報告書が歪み、更に形を変える。その鋭利とも言える造形美を持つ顔が、より切れ味を増したように見えた。

当然、サーニオ平野にて大聖教軍が後退をした事はヴァレリィの耳にも入っている。しかしそんなもの、どうせまたあの悪辣が敵を手玉に取って転がしただけだろうと、そうヴァレリィは判断していた。

リチャード=パーミリス。彼はヴァレリィと同じくガーライスト王国高位貴族ロイメッツ=フォモールに仕える同士であり、そうしてヴァレリィが心を許す数少ない人間だ。

老齢でありながらなお意志は砕けず、雷光と尊ばれたその在り方は敬意すら覚える。衰えたとはいえ、旧教徒如きに遅れを取るはずがない。

それが、ヴァレリィの偽らざる本音。そうあるべきだと、思っていた。

それがどういうわけか届けられた報告書では、リチャードの後退は敵を惑わす虚偽などではなく、正しく撤退に追い込まれた結果だという。

ヴァレリィは胸中に冷たい空気を飲み込むように呼吸をした。ガーライスト北西部の風は王都よりも随分と冷たい。白い吐息が雲のように段を成しながら、宙へと昇って行った。

「……どうするマスター。何なら自分が王都まで馬を駆けさせようか? 紛れもない情報をこの目と耳で集めてこよう」

主の胸中を察したのだろう。ドーレはやや気遣いすら含めた声で言う。

自らの主は明確な強者であるが、それゆえに強固すぎる意地を持つ部分もある事をドーレは知っている。その納得につきあうのも、従者の役目だろうと彼女は思った。

しかし、ドーレの言葉の裏を汲み取りながらも、ヴァレリィは首を横に振った。そうして、言う。

「構わない、ドーレ。貴殿がいなくなると私も困る。私は戦働きしか出来ぬ女だからな」

まるで冗談でも言うような言葉選びだったが、その言葉の中には並び立つものがないほどの緊迫が混ぜ込まれていることを、ドーレは理解していた。

言葉の節々には高貴とも言える雰囲気を感じるにも関わらず、込められる意味は余りに強い。

やはり、相当に鬱憤が溜まっているようだ。ドーレは僅かに主人から目を逸らしながら、胸を固くした。

ヴァレリィ=ブライトネスという人間は、本来最北端の砦などで番をさせられる人間ではない。地位と勲章を与えられ、より大規模な軍を統括していてもおかしくない人間。もっと言えば王都の最も華やかなサロンで、教養を深めるだけの人生を送っていてもおかしくないだけの身分を持つ人間だ。

その人間が、自らの意志もあるとは言えこんな場に押し込められているというのは、やはり鬱憤をため込むものだろう。

それに加えて、遠く離れた戦地では旧教徒が凶刃を振るっているというのだからヴァレリィの胸中は計り知れたものではない。ドーレは窓越しに死雪の振り込む光景を見つめているヴァレリィに視線をやりながら、思った。

王都、そうして此処、ガーライスト王国最北端に位置するスズィフ砦内においても、ヴァレリィの旧教徒嫌いは有名なものだった。

彼女は決して旧教徒の事を認めようとはしないし、融和など考えたことがないに違いないだろう。だからこそ、今のような生き方を選んでいるといっても過言はない。

そういった私情を日々の業務に含ませるような愚かさを彼女は持ち合わせていないが、それでも時折旧教徒の話題となるとどこか剣呑な雰囲気を零す様を何度かドーレは見たことがあった。

過去、幾度かドーレはその旧教徒嫌いの裏を取ってみようかと、そう思ったことがある。情報の操作と収集を何よりも得意とするドーレにとってみれば、それはきっと簡単な事だろう。

案外くだらない理由かもしれない。深刻な訳があるのかもしれない。僅かな好奇心は、確かにドーレの中にあった。

だが、結論から言えばドーレは未だその情報を探ってはいない。理由は単純なもので、ドーレ自身何処かこの不愛想な主を好ましく思ってしまったからだ。

だからこそ、その過去だの思想の背景を自分勝手に探るなどというのは、何処か彼女に対する背信のように思われて、ドーレはとうとうそれに触れることはなかった。

案外、聞けばあっさりと話してくれるかもしれないが。ドーレが、ふと言葉を告げようとした瞬間だった。ヴァレリィが口を開いて、言う。

「——ドーレ。伝令官を呼んでくれ。今すぐに」

いつも通りの、何処か冷徹とすら思える声。その言葉に反応し、ドーレは声を張り上げた。ヴァレリィが何を意図しているのか、すでにその時点で察しがついていたから。

何せ、ヴァレリィが伝令官を呼ぶ時は、一つしかない。戦場が近い時だけだ。

「珍しいな。魔獣どもが群れではなく集団で練り歩くというのは」

ヴァレリィは独り言ともとれる程度の大きさで、言う。視界の先、窓から見える白色の地平には黒い点のようなものが幾つも積み重なっていた。

それは、紛れもない魔獣の影。しかも何時もであれば群れ単位で迫りくるものを、今日は随分と大規模な集団だ。まるで人間の軍のよう。

遠見からも、そろそろ伝達が来る頃だろう。それも大慌てで早馬を駆けさせているはずだ。久しくなかった魔獣の進撃となれば、顔は蒼白にしているに違いない。

ヴァレリィが魔術鎧にその身を包む様子を見て、ドーレは何も言わなかった。大丈夫ですか、ご無事で、などという言葉が彼女には必要のない事をよく理解しているからだ。

きっと、何時もの通り魔獣は数刻もしない内に全て死に絶える事だろう。魔獣どもを押しとどめ、殲滅すること。それが此の砦の役目であるし、ヴァレリィがなすべき仕事でもあった。

魔術鎧に腕を通しながら、思い出したように、しかし酷く冷徹な声でヴァレリィは言った。

「ドーレ。一つ頼みたい。旧教徒共——この報告書にあった、ルーギスとかいう悪徒について、調べておいてくれ」

リチャードに疵を付けたのはこいつらしい。ヴァレリィは静かに、そう言った。