A Wish to Grab Happiness

Episode 331: The Killing Intent of Mercy

砂漠の産み主。理性持つ魔獣。南方魔眼。

それらの呼び名は全て数百年も昔とある魔獣に付けられた二つ名。其れこそ南方砂漠地域の大半が、未だ深緑に染まっていた頃の事。ただただ人々に畏れられ、敬われ、頭を垂れさがらせた者が名乗った呼称。

今、ドーハスーラはそんなかつての二つ名を脱ぎ捨てて、ただ一つの魔獣として敵と対面していた。

敵は背信者オウフルの眷属、ルーギス。その凶眼も、得体の知れぬ命知らずさも、彼はオウフルとよく似ていた。その上、彼もまた大聖教において背信者とそう呼ばれているのだから笑えない。

オウフルが彼を己の手元に引き込んだのはその似通った性質故か。それとも全く関係のない何かを期待しての事か。そこまで思い立ってから、ドーハスーラは眦の端を歪めて考えるのを止めた。

どうせ、己にはオウフルの頭蓋の裡を読み取る事は出来はしない。何せかつてオウフルが人間であり、共にあった時ですら分からなかったのだ。遠く離れた今、欠片たりとも理解できるはずがない。

けれどその思惑の終局にあるものは、必ずアルティウスの手を捻じ伏せる為のものだろう。彼女の四肢を縛り上げるもののはずだ。

ならば思う所はあれど、此のルーギスと名乗る敵を己は噛み砕かねばならない。アルティウスが今どう思っているかは知らないが、それでも己は未だ彼女の味方であるつもりだ。

魔眼は大きく緑色の極光を唸らせ、視界の全てを睥睨する。そうして眼前の敵を凝視した。敵は白剣を傾けながら、一歩前へと出た。その唇が笑う様に歪んでいる。

「さぁて、来るかい。それとも、行こうか」

あれほどの大怪我をしておいて、よくもまぁ笑えたものだ。ルーギスなる者は臆病さを持ちながらも、それでも人間にあるべき躊躇する心が欠けている。留まる心、本能的にすべきではないと直感する精神が。

恐らくそういった部分においては彼よりも、己の方が人間的な感覚を持ち得ているのではないかとドーハスーラはそう思った。 

けれどそういった危うさが、彼の剣筋を支えているのも確かだ。己の首筋に傷をつけたのはただの偶然ではあるまい。あれはもはや凡たる者ではない。前に進むべき強者だ。

だが、それでも己は敗けはしない。

この程度の強者であれば、己はかつて幾度もめぐり逢い、そうして勝利してきた。今更容易く敗北を喫するほどに己は零落れていないとドーハスーラは自負している。

少なくとも、かつての頃己の頭を地に伏せさせ、そうして従わせたのはただ一人だけだ。

「俺、似たような口上を昔聞きましたよ――まぁ、もうその人は死にましたが」

敵の狙いは透けている。というより一つしかない。魔術を使えず、奇跡も用いれない者は愚直に剣を振るうしかない。

そうして剣を振るって敵に勝つには、敵より早く動くか、敵の一撃を凌ぎ切れるほどに強くあるしかないのだ。

敵が狙っているのは、十中八九前者だろう。奴には己の骨牙を堰き止める手立てがない、そうしてその吐き出した血潮を見れば、十分に動き回れる時間もそうないはずだ。

ならば話は簡単だ。その為の道筋を作ってやって、出口で首を断てば良い。案外そういったものにこそ彼のような人間は脚を踏み入れる。

全く面倒な事ではあるが、オウフルの思惑を引きずり下ろす為にも、今代の主が為にも成さねばならないのだろう。

そのまま暫く、互いに言葉が消える。

それから数度、ドーハスーラとルーギスの呼吸が合わさった。互いに精神の間断を付け狙い、そうして機会の訪れを待つように吐息を漏らす。

驚くほどに静かな時があった。次第に両者の呼吸は失われ、周囲を流れる自然が音を支配していく。張り詰められた緊張だけが、彼らがこの場にいることを証明していた。

何時しか心臓の音すらも鳴りやんでしまうのではないかと思われた、一瞬。遠くで、何かを叩きつける様な鈍い音がした。

――同時、白色が魔の極光へと弾け飛んだ。

互いに、其れが合図だと了解していたわけではない。けれど何方が出遅れるという事もなく互いに膨張し続ける敵意を食い合わせていた。

骨牙は魔性の血を媒介に、渡り廊下の壁床からその身を這い出させ、敵を噛み潰さんと唸りをあげる。一つ一つが人間の腕一本はありそうかというほどに巨大なそれらは、紛れもない殺意の塊に他ならない。

湧き出る骨牙の群れは、僅かな乱れもなくただ一斉にルーギスを目がけ身を走らせる。

ルーギスは骨牙に目元を歪ませながらも、自らの身体が食い破れらる間際にそれらの隙間を縫ってドーハスーラとの間合いを詰めた。それでも尚、傷口からは血が零れ出ていく。それはいわば、殺意の網を掻い潜るような真似だった。

やはり、真面ではない。ドーハスーラは静かに胸中で呟きながら、ルーギスの様子に瞠目した。

通常人間は、己の強い死を感じれば脚が竦む。精神は動揺し、その手先は平時の精密さなど忘れ去る。例え死地に慣れ切った人間でも、其れは当然の事だ。

ゆえにこそ、人は可能な限り死から遠ざかろうとするもの。危険な選択は選ぶべきではないし、傭兵だってより死に辛い戦役に選んで参加するものだ。

けれど彼は、血を吐き出しながら易々と脅威のすぐ傍まで近寄ってくる。まるで死んでも良いとでも考えているか、それとも己は死なぬと信じているのか。

確かに勇壮ではあるが、だが。

――やはり、此処で殺してやろう。

それは、二度目の呟き。しかし先ほどのものとは違い、敵意に塗れただけのものではない。

ドーハスーラは、ルーギスという人間に対して強い敵意を抱いてはいた。それは彼が、憎悪すべきオウフルの眷属であるからだ。

だが同時に、憐みを感じてもいる。何故ただの人間である彼が、アルティウスとオウフルの思惑に付き合わされねばならないのか。

それは彼が背負うべき因果ではないだろう。

思うのだ。もしこのまま彼が生き残り突き進んでしまえば、いずれ彼は人で無くなる。

ならば、今の内に人として殺してやるべきだ。認めよう。彼は強者であり、尊厳を持つ敵だ。ならば敬意をもって此処で殺す。己の主だってきっとそうした事だろう。

ドーハスーラは両眼を歪めながら、骨牙の軌道をゆっくりと修正する。そうして僅かにだけ、ルーギスならば気づくであろう穴を開けておいた。

少しばかりのやり取りではあったが、彼が罠を罠と知りながらそれでも尚脚を踏み出す人間である事は知っている。

だから、誘導は簡単だった。此方へと最短で至れる道筋を作り、そこへと骨牙をもって追い立てる。血を吐き出し続ける所為か妙な足取りを見せる事もあったが、少しずつ骨牙を動かして修正した。

ルーギスの足が、前へと踏み込んだ。間合いまで、後一歩といった所だ。次の誘導地へは数秒の後に至るだろう。

ならばもう、終わりだ。

――瞬間、ドーハスーラは開眼する。緑光煌く両眼を、魔性領域でもって見開いた。

其れは、ドーハスーラが持つ魔眼の威を示すという事に他ならない。

かつては見るもの全てを崩し切り、一夜にして砂漠を作り上げた威光はとうに消え去った。しかしそれでも、岩で作り上げられた足場を砂へと還す事くらいは出来るだろう。

無論、無尽蔵にとはとてもいかないが。隙を作り出すには十分だ。その僅かな空白を持って彼を突き殺す。

後は、造り上げた誘導地に向け四方から骨牙を差し向ければ良い。其れで終わりだ。終わりの、はずだった。

――眼前が、緑から赤黒い色に染まる事が無ければ。