勝利は、目の前にあるかと思われた。

ログナーは優勢だった。圧倒的と言っても過言ではなかっただろう。戦力の差が、ログナーの勝利を決定的なものにしようとしていたのは間違いない。戦術を見ても、負ける要素はなかった。高所に陣取ったガンディア軍がその有利な条件を捨ててまで突出してきたのは、なんらかの策を講じているからかと思われたが、実際はそうではなかった。丘上に篭ってこちらを迎え撃つには、兵力が足りなかったのだ。丘から降りてきた敵軍の中で恐るべきは傭兵団くらいのものであり、それ以外の兵士たちがログナー軍の脅威になることは到底ありえない練度だった。

負ける要素など見当たらなかったはずなのだ。

数でも勝り、戦術的な粗の目立つ相手に負けることなど、通常ならば考えられない。

不安要素もなくはなかった。例えば、彼女の右腕ともいえるウェイン・ベルセイン=テウロスの不在。彼には特別な任務を与えていたはずだったが、連絡もなく、消息を絶っていた。それがどうにも気がかりだった。

彼は、飛翔将軍と謳われた彼女の片翼なのだ。ウェインのいない戦場はどうにも落ち着かなかった。いや、ただ離れているだけならばいい。彼が戦場のどこかにいるというだけで、彼女は安心できたはずだ。それはグラード=クライドにしてもそうだった。ふたりの騎士は、アスタル=ラナディースの戦術に欠かせない存在だったのだ。

しかし、ふたりは騎士の称号を剥奪され、彼女の側に置くこともできなくなってしまった。将軍とはいえ、人事を掌握しているわけではない。彼女が支配できるのは戦場のみであり、そして、此度の戦場も彼女の手の内にあったはずだった。

だが、ログナーは敗北した。

ガンディア王レオンガンドの放った矢が、アスタル=ラナディースの喉元に突きつけられたのだ。

黒き矛のセツナ。

またしても、あの武装召喚師が戦局をひっくり返したのだ。

混沌とする戦場の中で、彼の紅い瞳がこちらを見ていた。まるで死を告げる天使のように冷酷な目をしていたのを、彼女は今でも鮮明に覚えている。彼の言葉は死の宣告であり、彼の矛は死神の鎌に等しかった。彼女を守るために彼に殺到した兵士たちは、無慈悲な刃によって皆一様に屍となった。血が舞い、肉が飛び、死が踊る。

たった一人の武装召喚師に手も足も出なかったのだ。これほど屈辱的なことはなかった。が、二百人以上の部下が目の前で殺されれば、その屈辱も甘んじて受け入れざるを得まい。

対抗しようとすれば、犠牲が増えるだけだ。セツナを倒せたはいいものの、何百何千の兵を犠牲にしなければならないのなら割りに合わない。それは敗北と同じだ。彼に勝った挙げ句、ガンディア軍に負けるのだから。

決断するしかなかった。

敗けを認める以外の選択肢はなかったのだ。

(わたしが間違っていたのか?)

アスタル=ラナディースは、考える。どこで道を間違えたのかと。どこで進むべき道を見失い、どこで過ちを犯してしまったのか。

ログナーはザルワーンの支配から脱し、再び独立国家の道を歩もうとしていたはずだ。ザルワーンに骨抜きにされた国政を建て直し、近隣諸国との関係を見直し、なにもかもすべてをやり直そうとしていたはずなのだ。

が、ザルワーンとガンディアの横槍によって、すべては水泡と帰した。王家への忠誠も、ログナーへの義も、飛翔将軍としての誇りも、すべて踏みにじられた。いや、他者の所為ではない。原因はいつだって内にあるものだ。

見通しの甘さが、この事態を招いた。

(だとしたらわたしは)

死ぬべきなのかもしれない。

「なにを考えているのですか?」

不意に声をかけられて、彼女は、言葉を詰まらせながら顔を上げた。エリウス・レイ=ログナーが不思議そうな顔でこちらを覗き込んでいる。理知的な容貌だ。彼は、まるですべてを理解しているかのように、アスタルの失態を言及してこなかった。ただ敗北したという事実だけを受け入れ、王宮をガンディア側に明け渡したのだ。その決断の速さはアスタルも驚く程だったが、彼の何食わぬ態度を見る限り、それくらいの覚悟は常にしていたのかもしれない。

エリウスが先王に王位を譲り受けたのは、アスタルたちが反旗を翻し、武力で以て王宮を制圧したからだ。大義こそ掲げてはいたものの、やはり暴力以外のなにものでもない。そのような政権が長続きするなど思ってもいなかったのか。彼の温和な表情からは、そういった考えはうかがい知れないが。

「陛下……」

「わたしはもはやこの国の王ではないよ。レオンガンド王が訪れたとき、わたしが王である必要はなくなったんだ」

「しかし」

(しかし、なんだ?)

アスタルは、自分がなにを言おうとしたのかさえ理解できなかった。反射的に口をついて出た言葉に意味などないのだろう。取り繕おうとしたのか、言い訳でも述べようとしたのか。エリウスの穏やかなまなざしが静かに揺らめいているのが、彼女にはとても眩しかった。そして、己の心の浅ましさを恥じ入った。

「正直なところ、肩の荷が降りてほっとしているよ。あなたにそんなことを告白すべきではないのだろうが」

さっぱりとした表情からは、その言動が他人を欺くためのものではないことが一目瞭然だった。真実なのだろう。本来ならば、王位継承はもっと未来の話だったはずであったし、それが前倒しになっただけではないのだ。気苦労も耐えなかっただろう。情勢と立場が、彼に泣き言を許さなかった。

だが、それも終わる。解放される。

それは本来ならば悲しむべきことなのだろうが、エリウスの言動を鑑みるに喜ぶべきことなのかもしれなかった。エリウスのために。

「ガンディアは我々を殺すつもりはないらしい。将軍はまだしも、わたしを生かしておくことに意味があるのか甚だ疑問だが」

エリウスは、窓の向こう側に目を向けながら、囁くように言ってきた。寂光殿の一室は、王宮とは隔絶されたかのような静寂に包まれている。王宮も市街も大騒ぎに違いない。それこそ王都始まって以来の騒ぎかもしれなかったが、しかし、ガンディア側による略奪行為や暴力行為は確認されていない。

ガンディア軍の行動は厳粛そのものであり、彼らが如何に統制されているのか理解できるというものだ。だからこそ、彼女も多少の安堵を以て処分を待つことができるのだ。敗者は勝者に嬲られるしかないのが現実だが、されないのであればそれに越したことはない。

「わたしはね、将軍。ログナーの民が平穏と安寧を享受できるのならば、だれが支配者となっても構わないと考えているよ。国のために民がいるのではない。民がいてこその国であり、国があってこその王家なのだから」

エリウスの言葉も、ガンディア軍の粛々とした行動あってのものに違いなかった。ガンディア軍が戦勝の勢いのまま王都に入り、侵略の限りを尽くしたならばそうも言ってはいられなかっただろう。それはアスタルとて同じだ。それこそ、前言を翻して抵抗したかもしれなかった。

民の身の安全が保証されなければ、敗北など認められるものではないのだ。

「そういえば、アーレスがレコンダールに篭もったままだそうだ。我が弟ながら困ったものだよ」

エリウスは少しばかり憂鬱そうに頭を振った。

アーレスは、ザルワーン軍の謎の撤退によって戦力を失ったはずだったが、それでもレコンダールに立て篭ってどうするというのだろうか。元王子であり、反ラナディース派に担ぎ上げられた彼もいまとなってはなんの力も持たない人間に過ぎない。それでも、今回の敗戦に反発した連中が合流し、担ぎ上げるだけの名目はあるのかもしれない。

だが、無意味だ。離反する人数などたかが知れているし、元より、反ラナディース派自体が少数派なのだ。そんな連中が寄り集まったところで、王都に駐留するガンディア軍と対抗することはできないだろう。他国に協力を頼んだところでどうしようもない。

ガンディアが対処に動き出せば、それで終わりだ。

「悪い子ではなかったんだよ。正義感の強い子だった」

エリウスが、アーレスを過去形にした瞬間、彼女はただ寒気を覚えた。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

セツナがレコンダールを訪れるのはこれで二度目だった。一度目は、ヒース=レルガの居場所を探すために訪れ、そこでアーレス=ログナーやグレイ=バルゼルグと対面した。いかにもな貴公子と、見るからに強そうな猛将といった印象を抱いたものだったが、いまこの都市にいるのは貴公子の方だ。神経質そうな元王子が、彼の手勢とともにこの大きな都市を占領しているらしいのだが。

セツナは、レコンダールの閉ざされた大門の前にひとり立ち尽くしていた。従者などいるはずもなければ、彼の動向を監視する役目を担う人物もいない。彼はたったひとり野に放たれ、脳裏に描いた地図を頼りにここまで走ってきたのだ。戦争から三日目の朝を迎えたものの、傷は癒え切っていないし、体力も回復しきってはいない。酷使以外のなにものでもなかったが、一方でセツナは、このほうが気楽だと思っていた。

マイラムでひとり考え込むよりも、なんらかの任務に従事している方が、精神衛生上良いのではないか。もちろん、彼に与えられる任務など人殺し以外にはありえないのだが。

(それでいいさ)

もはや決めたことだ。いまさら道を違えることはできない。既にこの手にかけてきた命は数え切れなくなっている。綺麗事はいらない。そんなものは他人に任せておけばいい。所詮、自分には難しいことなどわからないのだ。ならば、何も考えず、ただ与えられた任務を完遂することだけに集中すればいいのだ。

セツナがセツナであるためには、そうするしかないのだ。

だからこそ彼は、今回の任務にも不平一つこぼさなかった。たったひとりで、規模も分からない敵集団と戦うというのは大雑把すぎる任務だったが、セツナにはちょうど良かったのだ。難しいことを考える必要はない。敵を残らず始末すればいいだけのことだ。慈悲をくれてやる道理もない。もう過信はしない。同情はしない。

恐ろしく研ぎ澄まされた意識の中で、彼はカオスブリンガーを掲げた。黎明の空の下、禍々しくも破壊的な漆黒の矛が鈍く輝いた。

「なんだっ! なにが起きているっ!」

天地を震わすような轟音に叩き起こされたアーレスは、悲痛なまでに情けない声を上げていた。安らかな夢は瞬く間に破壊され、粉微塵となって頭の上で散乱する。夢と現の狭間をさまよう余裕などあるはずもなかった。彼の仮宿たる部屋の天井が、震えているように見えた。建物が揺れているのだろうか。

「わ、わかりませんっ!」

部屋の外で待機していた親衛隊員は、期待外れの返答を寄越してきたが、よくよく考えればそれもそのはずだった。彼は屋内にいて、外の様子などわかるはずがなかったのだ。しかも、轟音が鳴り響いたのはついさっきのことであり、状況を把握するのはどのようなものであれ不可能に近かった。

アーレスは、天井の揺れが収まったのを見やりながら、冷静さを取り戻していく自分に気づいた。爆音にたたき起こされたおかげで、意識は完全に覚醒している。有り難くもない。寝起きの微睡みほど心地よいものはないのだから。

とはいえ、非常事態であることに変わりはない。彼はそそくさと寝台から抜け出すと、手早く着替えを済ませた。ザルワーンへの長期に渡る留学は、彼を、なにもかも人任せの王子からほとんどのことを自分でこなす人間へと変えていた。王宮で暮らしていた頃からは考えられないような変化だったが、いまの彼にしてみれば、王宮での生活の方が考えられなかった。それでも、彼は王宮を愛おしく想っているのだ。なにもかもが、懐かしさの中に輝いている。

ふと、部屋の外からどたどたという足音が聞こえてきた。アーレス配下の兵士たちが、外の状況を知らせに来てくれたのだろう。ここまでやってくるということは、急造の親衛隊に所属する人員に違いないが。

「殿下、申し上げます! レコンダールの大門が破壊されました!」

「大門が破壊された……だと」

アーレスは、視線を虚空にさまよわせたままつぶやいた。敵襲だろう。予想していなかったわけではないし、迎え撃つための準備もしていた。ログナー全土に檄を飛ばし、反アスタル=ラナディースに賛同するものを集った。たった二日で兵力は数倍に膨れ上がったが、まだまだ足りない。ザルワーンにも応援を頼んだが、グレイ=バルゼルグの件から考えるに期待はできない。ならば他の国に頼るのはどうか。考えを巡らせているうちにログナーがガンディアに敗れたという報が彼の元に届いたのだ。

となれば、敵はガンディア軍。どれほどの数が投入されたかはわからないが、そう多くはあるまい。ログナー軍に勝ったとはいえ、こちらに戦力の多くを割けるような状況ではないのだから。が、勝ち目はないだろう。頭の中の冷静な部分がそう告げている。

戦時には堅牢な城塞として機能するはずのレコンダールの鉄壁が、破壊され、突破されたのだ。それは、武装召喚師が投入されたという事実にほかならず、武装召喚師という存在がどれほど脅威的なのか、彼は身をもって知っていた。ザルワーンへの留学中、かの国の武装召喚師たちと触れ合う機会があり、その時に知ったのだ。

戦争は変わった。

「殿下!」

「あ、ああ……」

親衛隊の悲鳴に等しい叫び声に呼び戻されるように、彼は、我に返った。アーレス・レウス=ログナー。先のログナー国王キリル・レイ=ログナーの第二子であり、第一王子エリウスの弟として生まれた。ログナーという国と家を愛すること尋常ではなく、ザルワーンへの留学もログナーの将来に貢献するためだった。私心などあるはずがなかった。国民に尽くすことこそが、ログナー王家のすべてだからだ。

アーレスがザルワーン軍を駆り出してまでアスタル=ラナディースらを討伐しようとしたのも、この国を思えばこそだった。いたずらに混乱を巻き起こし、臣民に災いを振り撒くものを許せはしなかったのだ。

(その結果がこれか)

当てにしたザルワーンには見捨てられ、祖国たるログナーはガンディアに敗れ、そしていま、アーレス自身が破れ去ろうとしている。勝算などあるはずがない。彼は知っている。自分に付き従うものの多くが実戦経験の少ない連中であることを。真に実力のあるものはアスタル=ラナディースによって重用されているはずで、この状況でこちらにつくようなものの能力などたかが知れているのだ。

ならばなぜ、レコンダールに留まろうとしたのか。

見通しが甘かったのか。奇跡を信じたのか。現実が見えていなかったのか。

(なにもかもか……)

アーレスは、みずからの失敗を認めざるを得ない状況に目を細めた。冷静さを取り戻せば取り戻すほど馬鹿馬鹿しくなってくる。国のため、民のためを思えばこその行動がみずからの首を絞めている。いや、それはいい。国民のためなればこそ、この首を捧げることも厭わない。しかし、現状はどうだ。国民のため、などというお題目とは乖離しすぎているのではないか。

突如部屋の扉が開き、武装した老兵が入ってきた。名は確か、クレイグ=クラシオンといったか。レコンダールに入って以来、アーレスのために身を砕いて働いている人物だ。その労に報いるために親衛隊に加えたのだが。

「殿下、逃げましょう」

老兵の目は、この状況に至ってなお輝きを失ってはいない。まるでこれからが本番だと言わんがばかりだった。しかし、その目にはなにも映ってはいまい。アーレスは失望とともに、彼の目を見つめた。

「何処へ……?」

レコンダールに逃げ帰ってきたというのに、これ以上何処に逃げるというのだろうか。

果たして、アーレス・レウス=ログナーは、クレイグ=クラシオンら親衛隊ともどもレコンダールからの脱出を図ったが、黒き矛を手にした武装召喚師によって発見され、一人残らず殺されたのだった。彼が最期に見たのは、血塗られた漆黒の矛の禍々しい姿であり、紅く輝く少年の双眸だった。

レコンダールに立て篭る反乱分子を残らず掃討せよ――王の名において下された命令を実行した武装召喚師は、セツナ=カミヤの名は、この時を境に黒き矛のセツナとして広く知られるようになる。ガンディアに歴史的な勝利をもたらし、さらにその勝利を完全なものにした功績は長く語り継がれるだろう。

ガンディアにとっては、英雄めいた存在として。

ログナーにとっては悪魔のような存在として。

そして、大陸の“時”は動き出す。

静かに、密やかに。