「……どこから話そうかしら」

彼女がは、思案するように虚空を見つめていた。その横顔に月光が差し、肌が青白く輝く。ファリアが身につけているのは薄手の寝間着で、彼女が少し前まで寝ていたか、寝ようとしていたことがわかる。アズマリアとの会話で起こしてしまったのだとしたら、申し訳ないことだ。

「そうだわ」

なにかを思いついたのか、ファリアがこちらに視線を戻した。今度は、瞳が輝いて見える。

「わたしの名前ね、本当はファリア・ベルファリア=アスラリアっていうのよ。長ったらしいでしょ。だから普段はファリア=ベルファリアで通しているのよね。そのほうが呼びやすいでしょうし」 

「そうだったんだ」

「で、ファリア=ベルファリアには、ファリアの孫のファリアという程度の意味があるの。それだけでわかるひとには身分がわかっちゃうんだから、困ったものよね」

ファリアは、なにがおかしかったのか自嘲するように笑った。

「おばあさんの名前も、ファリア?」

「そうなの。お祖母様は、リョハンの戦女神と讃えられるほどの人物で、父と母は、わたしに祖母のような立派な人物になって欲しかったんでしょうね。わたしも、そうなりたいとは思っているわ。あまりに遠い目標だけれどね」

「ファリアならなれるよ」

「ふふ、ありがと。リョハンにいたころは、小ファリアとかベルとか呼ばれていたわね。ファリアは偉大な祖母の名前だって、だれもが思っていたのよね。わたしだって、ファリアが自分の名前だと思えないもの」

レオンガンド王が彼女をベルと呼んでいたのも同じ理由かもしれない。そしてその配慮は、いまの発言を聞く限り、ファリアにとっても嬉しい事だったのだろう。事情を知らないセツナにとっては、彼女のことはファリアと呼ぶしかなかったのだが。

「なんか……ごめん」

「え、どうして謝るの?」

「だって、ファリアって呼ばれるの、嫌なんだろ?」

「別に嫌じゃないわよ。ただ、自分の名前にできていないってだけで。こっちにきてからはファリアで呼ばれることが多いし、もう慣れたものよ。セツナが気にする必要はないの」

「それならいいけど……」

笑顔で告げられて、セツナはほっとした。気分を害していないのならよかったと心の底から思った。他人に嫌われたくないというのはセツナの行動原理の最たるものだが、中でもファリアには嫌われたくなかった。女々しいかもしれないが、それが本心だ。

「それから……そうね。これもいっていなかったけれど、わたしの父メリクス=アスラリアは、アズマリアに召喚された異世界人なのよ。祖母はアズマリアから父を預かり、武装召喚師として育てたそうよ。同じく祖母に学んでいた母と恋仲になり、やがてわたしが生まれた」

「異世界人……」

セツナは、ただただ驚いた。アズマリアからはそんな話は聞いたことがなかった。無論、尋ねてもいない問の答えなど返ってくるはずもない。セツナとクオン以外に異世界の人間を召喚したことがあるようなことはいっていたかもしれないが、覚えてはいない。

「だから、君が異世界人だと聞いても驚かなかった。むしろ親近感が湧いたわ。わたしの血の半分は、異世界人の血だもの。アズマリアがいうように君が異世界の化け物なら、わたしの半分も化け物。君が討たれるなら、わたしも討たれなくてはならない」

もっとも、と彼女は続けた。

「アズマリアの妄言なんて聞く必要はないんだけど」

それにはセツナも納得するところだ。嘘はいわないといいながら、本当のことをいっているようにも思えない。さっきの話だって本当かどうか。

「父は、普通のひとだった。異世界から召喚されたかどうかなんて、いわれてもわからなかったわ。君のように術式もなしに武装召喚術を使えるわけでもなかったし、なにか特別な力があるわけでもなかった。本当にごく普通の……でも優しいひとだった」

ファリアがこちらを見た。瞳が揺れているように見えた。

「君も、普通のひとよね」

「そのつもり」

とはいったものの、自信があるわけではない。戦場にでれば、自分の中の怪物性を否応なしに認識してしまう。それが黒き矛の力だとしても、自分のことのように感じるのだ。

化け物。そういう目で見られているのも知っている。恐れられている。《群臣街》ですれ違う軍人も、会釈こそすれ、その顔がひきつっていることが多かった。戦場でのセツナを知らない市民だけが、無邪気に近寄ってくる。

それは、救いになっている。

ルクスの元に通うようになってからというもの、市民の顔を見る機会が増えた。セツナの顔は結構知られていて、変装でもしなければ、だれかが声を上げて騒ぎになった。そのせいで王都の治安が乱れると注意されたものだ。騒ぎも日に日に小さくなっており、そのうちだれも騒がなくなるだろう。

ひとは、慣れるものだ。

「君はアズマリアに目をかけられているみたいだけど、父は違ったわ。祖母に預けられた時点で見離されていたんでしょうね。でも、それでも良かったのよ。父も母も祖母もわたしも、幸せだったもの」

それなのに、とファリアは続ける。

「アズマリアは、わたしの父と母を奪っていった」

予想もできなかったファリアの告白に、セツナは言葉を失った。

「独立記念日のあの夜、リョハン中が浮かれていたわ。父も母も祖母も街の人達も、みんな、祭を楽しんでいた。アズマリアが現れ、戦いを仕掛けてくるまでは」

ファリアの話を聞いていると、アズマリアという人物がますますわからなくなる。世界を救う力を欲しているといいながら、ファリアの故郷を戦闘に巻き込んでいる。いや、あの魔人が支離滅裂なのはいまに始まったことではない。

最初から、信用のならない人物だった。

「リョハンは《大陸召喚師協会》の総本山。住民の大半が武装召喚師で、戦力だけなら大国にだって引けを取らない。ヴァシュタリアがリョハンの支配を諦め、独立を認めたほどよ。でも、それが裏目に出た。リョハンの保有する戦力こそが、リョハンに被害をもたらしたといっても過言ではなかった。アズマリアには通用しなかったのよ。なにもかも」

武装召喚術は、凶悪な兵器を召喚する術だ。武装召喚師でもないセツナでも、それはわかる。いままで対峙してきた、あるいはともに戦った武装召喚師たちの戦いぶりを見れば理解できる。ランカインは小さな町ひとつを焼き尽くしたし、ファリアもルウファも、通常兵器では考えられないような武装を召喚する。黒き矛にしたってそうだ。とてつもなく強大で凶悪な破壊力を秘めている。

アズマリアは、そういう兵器群を相手にし、勝ったというのだろうか。それほどの実力があるなら、黒き矛も白き盾も不要ではないのか。たったひとりで世界を救うことも可能なのではないか。セツナの疑問は、ファリアの声にかき消される。

「父も母も、アズマリアに立ち向かったわ。でも、敵わなかった。わたしは、両親が殺される様を見ていることしかできなかった……!」

彼女の瞳が揺れている。無力だった自分を思い出しているのだろうか。悔しさと怒りが、声の奥に潜んでいた。

セツナには、慰めの言葉もかけてあげることができなかった。

「リョハンと《協会》はアズマリアを敵と定め、大陸中に情報を求めた。アズマリアが作り上げた組織がアズマリアの敵になったのよ。皮肉だけれど笑えない事態だったわ」

「アズマリアが作り上げた?」

それもまた驚くような事実だった。そして、ファリアがさらに驚愕の真実を伝えてくる。

「……そもそも、武装召喚術を発明したのがアズマリアなのよ。彼女は四人の弟子に武装召喚術を叩き込み、大陸中に広めるように命じた。アズマリアと四人の弟子によって《大陸召喚師協会》が設立され、リョハンはその総本山として機能するようになった。五十年ほど昔の話よ」

「知らなかった……」

「アズマリアの本性を知らなかった《協会》は、彼女に命じられるまま武装召喚術の普及に努めたわ。たった五十年で大陸各地に支部が作られるほどにね。武装召喚師の数も増えた。様々な国が《協会》と交渉を持つようになったのは、武装召喚術の軍事的利用価値が高かったからなのでしょうけど」

ファリアは、ため息をついた。彼女の嘆息の理由もわからなくはない。召喚武装は、敵を倒すためだけのものではない。ひとを守るものも、命を取り留めるようなものもある。しかし、強力な兵器を呼び出すという武装召喚術の認識を変えることはできないだろう。

黒き矛が活躍すればするほど、ガンディアの人々は武装召喚術の認識を強くする。敵を切り裂き、屠り、討ち滅ぼす兵器だと、思い知る。

「《協会》はそういった国々にアズマリアの目撃情報を募ったのよ。相手は大陸中を飛び回る魔人。《協会》の力だけで探しだすのは無理があったもの。で、《協会》との関係を壊したくない国々から情報が寄せられた。わたしがガンディアに派遣されたのも、有力な情報があったからなのよ」

ファリアが。セツナの目を見た。

「そして、君と出逢った」

セツナは、あの日のことを思い出した。それは、この世界に召喚された日のことだ。

カランが炎に焼かれた日。ランカインが狂気に踊り、セツナは命を擲ってでも倒そうとした。ただ理不尽な暴力への怒りがそうさせた。自分のことなんて考えてもいなかった。そして、ランカインを倒し、カランの街を包んだ炎を消し去ることに成功した。

しかし、セツナは瀕死の重傷を負った。いや、死の寸前までいったのだ。

たった一月ほど前のことだ。それが遠い昔のように感じるのは、それ以降いろいろなことがあったからだろう。

「本当、無茶苦茶よね。わたしが間に合わなかったら、君、死んでいたわよ」

ファリアが、セツナの額を小突いた。

実際、その通りだったのだろう。セツナはランカインとの戦いの中で全身に火傷を負い、意識を失ったのだ。重傷という言葉すら生温い状態だった。あのまま死んでいるほうが自然だったのだ。そして死んでいれば、ガンディアの黒き矛として戦場に立つこともなければ、ファリアとふたりきりの時を過ごすこともなかった。苦悩もなければ、喜びもない。

無。

考えるだにぞっとしない。

「ああするしかなかったんだ。あの時の俺には……」

いまならば、違う戦い方ができるだろう。矛の使い方がわかってきている。強大な力の引き出し方が、少しずつ、身につき始めている。

「君のそういうところ、あのころから変わってないのね」

「そんな簡単に変われるもんじゃないだろ」

セツナが口を尖らせると、ファリアは微笑した。が、すぐに真面目な顔つきになる。

「でも、もうあんな無茶はしないでね。前にもいったけど、君を救ったわたしの矢は、寿命という目に見えないものを生命力に変換して回復を促すものよ。何度も使えるわけじゃない。回復のために寿命を削った挙げ句、数日しか生きられませんでした、なんて笑い話にもならないもの」

「……努力する」

ファリアがセツナの身を案じてくれているのがわかるから、セツナもそう答えるしかない。とはいえ、状況によっては無茶をしなければならないのは彼女だってわかっているだろう。

黒き矛には、それが求められている。

ファリアは、あえて突っ込んで聞いてはこなかった。

「わかってくれればいいのよ」

「……ありがとう」

彼女の耳には届かないほど小さな声で、つぶやく。ファリアのように心配してくれるひとがいるということは、きっと幸せなのだろう。そんなことを噛み締める。たとえそれが勘違いであったとしても原動力になる。戦える。前に進める。

「ん? なにかいった?」

当然聞き取れなかったファリアが怪訝な顔をした。セツナは慌てて頭を振った。気恥ずかしい。

「なんでもない」

「そう?」

ファリアは、別段気にするでもなかった。

慎重に、言葉を選ぶように告げてくる。

「……そして、わたしが君に目をつけたのは、君が武装召喚師だからというよりも、君がアズマリアの名前を出したからなのよ。君はアズマリアの弟子だといったものね。アズマリアが新たに弟子を取る可能性はないとは言い切れないもの。君と一緒にいれば、アズマリアが現れるかもしれない。わたしの使命はアズマリアの討伐。形振り構っていられなかったわ。だから、君を利用した」

「利用……か」

「ごめんなさい。君の気持ちも考えないで」

ファリアが突然謝ってきたことに、セツナは驚きを隠せなかった。

「謝る必要はないよ。俺だって、ファリアを利用してる」

だれもがだれかを利用している。利用して、利用される。そうやって世界は成り立っている。だれもひとりでは生きていけない。他人の力を借りなければ、なにもできない。あの魔人ですらそうだ。たったひとりではできないことがあるから、異世界からセツナを召喚したのだ。

個人など、たかが知れている。

異世界ならばなおさらだ。寄る辺なき世界。どうやって生きていけばいいのかなんて、だれが教えてくれるというのか。生きていくには食っていかなければならない。食うためには金がいる。金は仕事でもして手に入れるしかない。仕事は、どこにある? 

ファリアとの出会いが、すべてを解決した。ファリアと出会い、レオンガンド王と出会い、レオンガンド王は彼女と面識があり、セツナは戦場に呼ばれた。バルサー要塞奪還戦での功により、セツナはガンディアという居場所を手に入れた。金も、国から支給された。そしていま、衣食住には困らなくなった。

それもこれも、彼女を利用して得たものだともいえる。

もちろん、黒き矛の力によるところが一番大きいのだが。

「お互い様だよ」

「そうかもね。じゃあこれからも存分に利用させてもらおうかしら」

彼女はお茶目に目配せしてきたので、セツナは嬉しくなって頬を緩ませた。

「うん」

「といっても、セツナにとってのわたしの利用価値なんて、とっくになくなってるんでしょうけど」

ファリアは笑っていってきたが、セツナは笑わなかった。そんなことはない、と声を大にしていいたかった。けれど、それでは意味が通じない気がして、なにもいえなかった。伝えたいのはそういうことではないのだ。側にいてくれるだけでもいい、というのも彼女に対する侮辱だろう。ファリアも武装召喚師だ。鍛えあげられた肉体は、セツナの比ではない。

(そういうことじゃない)

堂々巡りする自分の頭に激しく苛立ちを覚えた。そして、口をついて出た言葉は、陳腐なものだったことに落胆を覚える。

「俺は、ファリアのことをもっと知りたいって思ってる」

「わたしもよ」

社交辞令とも受け取れる彼女の返事を聞きながら、セツナは、彼女の姿がぼやけていくのを認めた。意識が闇に落ちていく。それを押しとどめることができない。ファリアにはそれがわかったのかもしれない。彼女の声は、子供を寝かしつける母親の声のように優しかった。

「今度は、君のことを教えてね」

セツナは、返答もままならぬまま、ふたたび夢の淵に沈んだ。