「仲良さそうじゃない。なにが不安だったのかしら」

ファリアは、ドアにつけていた耳を離すと、安堵の息を浮かべたものの、二日前のセツナの様子に疑問を覚えたのだった。セツナがクオン=カミヤのことを快く思っていないのは明白だったし、その結果、ちょっとした口論になってしまったのも記憶に新しい。宮殿に戻ってきたときにはすっきりとした顔をしていたので、なにかしら解決したのだろうとは思ったものだが、

ふと見ると、同じように扉に耳をつけて室内の会話を聞いていたマナ=エリクシアが、口元で人差し指を立てていた。静かにしろ、ということだろう。確かに、室内のふたりにばれるのはよくないことだ。ファリアは頷くと、もう一度扉に耳を当てた。

マイラムの宮殿内。時折通路を進む衛兵が、ファリアとマナの様子を不審がったが、王立親衛隊と《白き盾》の制服だと確認すると、声をかけることすらはばかって離れていく。それでいい。それでいいのだ。いま彼女たちは重要な任務の真っ最中だった。

セツナとクオンの会談は、互いの陣営にとって興味深いことなのだ。

無論、ばれたら嫌われるかもしれないが。

「といっても、そんなものはなんの自慢にもならないし、意味のない言葉なんだよ。ぼくは傭兵集団のトップ。この意味はわかるよね? ぼくは自分では殺さないけど、人殺しを命じる立場にある。戦争とはそういう状況なんだ。殺さなきゃ殺される。殺さなきゃ勝てない。負けないだけでは駄目なんだよ」

クオンが諭すようにいってきたのは、セツナにさっきの言葉を勘違いしてほしくないからなのだろうが。

セツナは、彼の言葉が言い訳ではないことくらいわかっていたし、言い訳だったとしても、非難するつもりにもなれなかった。だれだって人殺しなんてしたくない。それはセツナだって同じだ。バ

ルサー平原での戦いで数え切れない敵兵を焼き殺し、何百人という敵兵を殺戮した。最初の戦争で殺しすぎたのに、感覚が麻痺することなんてなかった。ひとを殺すたびに心が痛む。けれど、殺さなくてはならない。敵を生かすという甘さが、味方を殺す。現にそうやって、ガンディア軍が壊滅しかけた。その責任は追求されなかったものの、だからといって許されることではない。許されたいのなら、これからも敵を殺し続けるしかない。

ガンディアの敵を殺し続けるしかない。

そしてそれは、とっくに覚悟したことでもある。

だからセツナは、クオンの言葉を静かに聞いていた。いまなら、彼の言いたいこともすべて受け入れられる気がする。

「殺さないんじゃない、殺すだけの力がないだけなんだよ。ぼくの盾は仲間を守ることはできても、敵を殺すなんていうことはできないからね。だからぼくは、君が凄いと思うし、正直言って羨ましいんだ」

羨望されたところで嬉しくもなんともないのは、好きで人殺しをしているわけではないからだ。自分の中に闘争を好んでいる部分があるのは知っている。戦いの中で、敵を切り裂き、あふれる血を見て喜ぶような恐ろしい人格が潜んでいることも自覚している。だが、それがセツナのすべてではないのだ。それもまたセツナの一部にすぎない。だからこそ、懊悩し、苦痛を覚える。ランカインのようであれたなら楽なのだろうが、彼のようになりたいとは思えなかった。

「苦しいだけだけどな」

「そうかもしれないね。ぼくにはわからない境地だ」

「俺だって、おまえの境地はわからないよ」

告げて、ティーカップに手を伸ばした。久しぶりに逢って、普通に会話しているという現実が不思議だった。まるで夢の中にいるかのような、ふわふわした感覚がある。こうやって面と向き合って言葉を交わしたことなんて、いままで何度あっただろうか。それこそ、数えるほどしかないのではないか。

何年も一緒にいたというのに、それこそおかしな話だった。

おかしな関係だったのだろう。

「そうだね。他人の境遇を理解するなんて、おこがましい話さ」

クオンの言葉をセツナは否定しなかった。そのとおりだ。他人の立場を完全に理解することなどできない。たとえ、過去に自分が同じことを経験していたのだとしても、まったく同じ感情を抱いているとは限らない。セツナが無敵の盾の使い手だったなら、《白き盾》なんて起こさなかっただろう。きっとどこかの国にでも属して、いまとは違うものの、似たような立ち位置にいたかもしれない。クオンが黒き矛の使い手ならば、やはり傭兵集団を結成していたかもしれない。そのとき、黒き矛は団名になっていたのだろう。

そういう想像は、案外楽しいものだった。

口に運んだ紅茶はだいぶぬるくなっていたが、味は悪くはなかった。

「君は、うまくやれているかい?」

クオンは、セツナがティーカップをテーブルに置くのを待ってから、口を開いた。そういう気遣いは、セツナにはできないかもしれない。

「うん。みんな、いいひとなんだ。だから、なんの問題もないよ」

きっと、元の世界にいた時よりも充実した日々を過ごしているのだ。母に逢えないことだけが残念だが、しかたのないことだと諦めた。もう帰れないのなら、こちらで生きていくことに全力を尽くすだけだ。

「それならよかった」

クオンが少し寂しそうにした理由は、セツナには想像もつかない。

「本当はさ、君を《白き盾》に迎え入れたかった。そのために、君と逢うきっかけが欲しかったんだ。だからこれみよがしにマイラムに来て、ガンディアからの接触を待っていた」

「……俺を《白き盾》に?」

セツナは少しだけ驚いたが、クオンの考えそうなことだとは思った。正直に打ち明けてきたのも、彼らしいといえば彼らしい。

「うん。君のことを守ってあげたかった。ただそれだけだよ。やましいことじゃない」

昔のように、ということだろう。セツナがクオンとともに元の世界にいたころ、彼の庇護下にいたのだ。彼が王者のように君臨する世界で、セツナは平穏を享受していた。彼の下にいたからこそ、くだらない喧嘩や騒動に巻き込まれずに済んだのは事実だったし、だからこそ、辛くても彼のそばを離れることができなかったのだ。

クオンの目は、柔らかく、穏やかだ。どこかに寂しさは残っているものの、決して暗いものではない。

「でも、その必要はなさそうだって、さっきわかったよ。君には大切な仲間がいて、仲間にも大切にされている。だからぼくが心配することじゃないって」

「大切にされているかはわからないけどさ、みんな大切なひとたちだ。陛下も、ファリアも、ルウファも。俺はみんなに生かされて、ここにいるんだ。だから、どこにもいかない」

どんな話が来ようとも、だ。セツナの居場所はガンディアなのだ。レオンガンドの黒き矛であり、ファリアたちの隊長なのだ。隊長らしい仕事なんてしてもいないが、それはこれから積み上げていけばいい。それに、ガンディアの戦士としての実績は、自負できるくらいにはあるはずだった。

「うん。それでいいと思う。諦めないけどね」

「そこはすぱっとあきらめろよー」

「やだよ。君と一緒にいたいって気持ちは本当だし」

それは決して、心地の悪いものではなかった。むしろ、心の中にさわやかな風が吹き抜けた気がして、セツナは少しだけはにかんだ。

「……ま、いいさ。俺が断るだけだ」

告げると、クオンはしばらく黙った。目を伏せる。

「君は、変わったね」

「そうかな?」

「うん、ぼくがいうんだから間違いない」

「凄い自信だな」

セツナはあきれたものの、クオンは意にも介さないようだった。

「だって、ぼくは君のことをずっと見てきたからね」

そういって、彼は笑った。

クオンの透き通るような笑顔は、あれほど嫌っていたセツナですら思わず見とれてしまった。

「なんていうか……本当に仲がいいとしか思えなかったわね」

ファリアがつぶやいたのは、もちろん、セツナとクオンの会談が行われた部屋の前ではない。別室に移動してからのことだ。なぜか一緒にいるマナ=エリクシアが困ったように笑う。

「ええ。妬けてしまいます」

「ふーん……そういう関係?」

「いえ、わたくしが一方的に好意を抱いているだけのことで」

マナの照れた顔は、同性のファリアから見ても可愛らしい。人間、恥じらいを覚えるうちが華なのだ、などという感想を抱いたのは、恐らく同年代のファリアが同じように照れても可愛くはならないだろうと自覚しているからだが。そういう可愛さとは無縁の人生を歩んできたし、それでいいと思ってもいる。父と母の敵(かたき)を討ち、使命を果たす。そのためだけに生きている。そのあとのことは考えてもいなかった。

悲しい人生だとは思わない。悲壮感などあるはずもない。その道程でさまざまな出会いがあり、復讐への花道を彩ってくれているのだ。それだけで十分だとは思う。

「羨ましいわね」

「そうですか?」

「ええ……」

マナはひと通り照れたが、隙を見つけて切り返してきた。

「ファリアさんには、そういうかたはおられないのですか?」

「えっ……」

返答に戸惑ったのは、一瞬、脳裏にセツナの顔が浮かんだからだ。意識した瞬間、顔面が熱くなる。以前はそんなことはなかったはずだ。ただの監視対象であり、彼とアズマリアの関係を確かめるためだけだった。そうやって、彼のことを見てきた。

出会って、たった一ヶ月だ。だが、濃密な時間だった。彼がログナーの戦場に出向いている間、彼のことをぼんやりと考えることも多かった。無事にやれているだろうか、怪我はしていないか、無茶はしていないか。そんなことを考えている間に戦争が起き、ガンディアがログナーを制圧した。

状況は変わった。

ファリアを取り巻く環境も、彼を取り巻く人間関係も、大きく変化した。

セツナは王宮召喚師を叙任され、王立親衛隊《獅子の尾》隊長という肩書を与えられた。彼はもはやただの少年ではなくなった。責任のある役割についたのだ。いままでのようにはいくまい。彼とは疎遠になっていくのだろう。無論、アズマリアへの近道は彼の監視を続けることという結論に変化はないが、王の側に仕えるほどの人物においそれとは話しかけられまい。などと思っていたら、ファリアは《獅子の尾》隊長補佐に任じられてしまった。予期せぬ事だが、セツナのこれまでを考えれば、ありうる人事ではあった。

そしてまた、彼の近くにいる日々が続いた。

復讐のための人生。でも、そのためだけではない生き方も、あってもいいのではないか。少しだけ、そう考えてしまう自分がいる。そしてそれは、気持ちの悪いものではない。

「セツナ様……ですか?」

マナが名を上げたのは、意地悪だろう。ファリアは頬に触れた手から感じる体温の熱さに戸惑いながら、マナの微笑を見ていた。瞑目する。瞼の裏の暗闇になにも映っていないことを確認して、目を開いたときには、ファリアの思考は鮮明になっていた。顔面の熱も下がる。

「この話はおしまい。いいわね」

「はい」

マナは素直に応じてくれた。

彼女となら、うまくやっていけそうだ。