一体なにが起きたのか、彼にはまったくわからなかった。

突如として敵陣から悲鳴が上がり、気が付くと、数多の敵兵が死体となっていたという。エインが実際に確認したわけではない。だが、騎馬兵から伝わってきた情報を総合すると、そういうことだった。

敵陣は半壊といってもいいような状況だったのは間違いない。エイン隊による後方からの強襲が成功したのが大きい。エイン隊による強襲は、そのままアスタル隊との挟撃となり、前後を敵部隊に挟まれたザルワーン軍は、統率さえも失い、瞬く間に陣形を崩壊させていった。

敵陣を正面から攻め立てていたアスタル隊の活躍もあり、エイン隊が後背を衝く前から優勢ではあったようなのだ。それでも持ち堪えていた敵軍にとどめを刺したのが、エイン隊の背後からの強襲であり、そこからの挟撃であろう。辛くも保っていた陣形は、後方から順次崩れていき、やがて元の形がわからないほどになった。敵部隊は散り散りになり、エイン隊もアスタル隊も入り乱れるような戦場になってしまった。

しかし、強襲と挟撃によって敵軍の兵数は目に見えて減っており、エイン隊とアスタル隊の兵数を総合すると、余裕で上回っているという状況にまで推移していた。戦力差を考える限り、乱戦になっても大きな問題はない。ただ、こちらが優勢だとはいえ、油断すれば押し戻される可能性があるのが実戦の恐ろしさだ。

そういう戦局の激変を、エインは一度体験している。

そんな乱戦の最中、敵部隊の真っ只中で起きた異変は、エインたちに慎重な判断を促すかのようだった。

エインは騎馬隊を纏めると、なにが起きたのかを確認しようとした。そうすると、またしても異変が起きた。敵集団が盛大に打ち上げられているのが見えたのだ。今度は、エインも目撃した。濃厚な血飛沫が夜の闇を赤く染めるように噴き上がり、切り刻まれた敵兵たちで上空へと吹き飛ばされていく。

異変の正体そのものは即座にはわからなかったが、それが人間業ではないことくらいはだれにでも理解できただろう。武装召喚師の仕業に違いなかった。その上、ザルワーン兵のみを攻撃するということは、ガンディア側の武装召喚師であり、ファリア=ベルファリアでないことは、その現象を見れば一目瞭然だ。彼女のオーロラストームは雷光を発射する兵器なのだ。

そして、ドルカ隊のルウファがこちらの援護を行うことは考えられない。彼がこちらの援護を行うとすればドルカ隊が勝利した暁であり、そうであれば、ドルカ隊の騎馬隊が敵陣の横腹を突いてくるはずだ。その様子はなかったし、伝令も飛んできてはいない。

(ということは……!)

エインは、目を輝かせるとはきっとこのことなのだろうと思いながら、馬を走らせて戦場の中心へと向かった。

(セツナ様!)

逃げ惑う敵兵が、エインの馬の眼前で両断された。漆黒の矛が翻り、鮮血が散る。物言わぬ肉塊となったそれを見届けることもなく、矛の持ち主は別の敵に向かって飛翔した。跳躍ではない。まさに飛翔だった。重力を無視した軌道を描き、敵集団に突っ込み、二本の黒き矛を振り回して殺戮する。

「黒き矛が二本……?」

「どういうことでしょうか!」

「あれは……」

エインには思い当たるふしがある。報告が正しければ、東の森でセツナと対峙した敵武装召喚師は、黒き矛の偽物を作り出し、セツナを圧倒していたということだ。その偽物の黒き矛をセツナが手にしているということは、彼は敵武装召喚師を倒したに違いなかった。その上で、偽物の黒き矛も使って、ここまで転移してきたのだろう。

黒き矛には、血を媒介とした空間転移能力が有る。実際に目撃したことはなかったが、状況を考えれば、それ以外には考えられなかった。街道を進んでここまで来た様子はない。忽然と現れ、敵軍を蹂躙したのだ。そして、敵兵の血で別の戦場へ転移し、再びこちらへと戻ってきたということではないのか。

エインは、セツナの戦いを間近で見たいと思う反面、彼がエインの信じた通りの結果を出してくれたことに感激してもいた。そして、セツナを信じた自分の判断は間違っていなかったのだと確認できて、ほっとする。もちろん、まだ安心してはいけないのはわかっている。戦闘中なのだ。もはや敵軍に勢いがないとはいえ、油断してはならない。油断はいつだって命取りなのだ。

だが、セツナがいる。あの黒き矛だ。ガンディアの最高攻撃力といっても過言ではない存在が、目の前の戦場を荒らしまわっているのだ。勝利を確信するのも無理は無いのではないか。しかも彼は黒き矛を二本持ち、戦場を自在に飛び回っている。負ける要素が見当たらなかった。

敵の武装召喚師たちの姿も見えない。もし、この戦場に現れたとしても、二本の黒き矛を手にしたセツナの敵ではないだろう。それくらいの安心感があった。

「これで我が方の勝ちは確定だな」

「将軍!?」

突如、予期せぬ人物に後ろから話しかけられて、エインは素っ頓狂な声を上げた。すぐさま、自分らしからぬ反応をしたことに気づき、ばつの悪い顔をするのだが、アスタルの目は冷ややかだ。

「なにを驚くことがある?」

アスタル=ラナディースは、徒歩であり、供回りも連れていなかった。威厳に満ちた鎧は返り血を散々浴びており、元から赤黒く染まっているのかと思うほどだ。もちろん、本当は美しい白銀の鎧であり、実用性と芸術性を兼ね備えた代物だった。アスタル自身は負傷していない様子であり、エインは、飛翔将軍の実力の一端を垣間見た気になった。

もっとも、エインはアスタルのことをこの場にいるだれよりも知っているつもりだ。戦闘者としての実力も、指揮官としての能力も、将軍としての才能も。だから彼はアスタルを尊敬し、彼女の元にあることですべてを学び取ろうと考えている。

「突然話しかけてこられたので……」

「見惚れすぎだな」

アスタルに図星を刺されて、エインは返す言葉もなかった。エインが下馬すると、アスタルは既に彼を見てはいなかった。戦場を見ている。

エインも、彼女に習って戦場に視線を戻した。戦場、といっていいのかどうか。敵の数は既に開戦当初の半数以下に減っており、戦意を喪失している敵兵の姿も散見された。だが、果敢にも立ち向かおうとするものがいないわけではない。もっとも、その判断は、勇猛というよりは無謀でしかないのだが。

吹き荒ぶ黒き嵐は、戦意の有無に関わらず、飲みこんだ敵を瞬く間に切り刻み、死体へと変えてしまう。天災のようだ。どれだけ足掻いても無意味だった。抗った瞬間には死んでいるのだ。二本の黒き矛は絶え間なく旋回し、無数の命を花と散らせていく。血が咲き乱れ、死が舞い踊る。断末魔の叫び声が響き渡り、悲鳴が散乱している。戦場特有の熱狂はなく、絶望だけが渦巻いている。

自軍兵士たちすら、息を潜め、セツナの殺戮を見守っていた。手柄を求めて突っ込めば、自分まで巻き添えに殺されるかもしれない。黒き矛の向かう先に味方はいないのだが、それでも、セツナの猛烈な斬撃が味方を巻き込まないとは限らない。兵士たちが消極的になるのも仕方のないことだし、部隊長たちは、むしろ積極的に部隊を取りまとめ、攻撃の停止命令を出している。これ以上戦う必要はないという判断を下したのだろうが、エインから見てもその決断は正しいと思えた。彼の側に控えていた部隊長たちも騎馬隊を纏め、動かしていない。まかり間違ってセツナの元へ突撃してしまったら、間違いなく巻き込まれてしまうだろう。いくらセツナが敵と味方を見分けていても、突然突っ込んでこられれば対処のしようがない。

「……おまえが執心するのもわからんでもないが」

「でしょう?」

エインは、セツナの活躍を誇らしく思ったものの、胸を張るわけもない。アスタルが以前からセツナを評価していたことは知っていた。アスタルがガンディアとの戦いで負けを認めざるを得なかったのは、彼の殺戮劇によるところが大きい。エインが目の当たりにしたものを、もっとも間近で見ていたのが彼女だった。セツナは、ログナーに敗北を認めさせるために、アスタル麾下のログナー兵たちを殺していったのだ。そのときの鬼神のような戦いぶりは、エインを惚れさせ、アスタルに敗北を認めさせた。

いま、ふたりの目の前で繰り広げられているのは、そのときよりも余程苛烈で、惨禍を極めるかのようなものだったが。

「戦いが終わったら、しっかり休んでいただこう」

アスタルの言葉に、エインは微笑を漏らした。アスタルの思考は、既にこの戦いの先へと向かっている。