グレイ=バルゼルグの軍勢がファブルネイア砦の目前に到達したのは、二十二日の明け方のことだ。とはいえ、徹夜で行軍してきたわけではない、ブフマッツという最高の軍馬を得たグレイたちは、通常の倍以上の行軍速度を発揮することができており、頻繁に休憩を挟んでもなんの問題もなかったのだ。グレイが思っていた以上に早く目的地に到達する可能性がでてきたため、慌てて休憩時間を伸ばしたほどだ。

目的は、ガンディア軍より早くファブルネイアを抜き、龍府に達すること。それ以外はなにも考えていないが、彼らにはそれで十分すぎた。

龍府で死ぬ。

そのためにこの二ヶ月、ガロン砦に篭もり、軍備を整え、兵を鍛え上げてきた。しかし、奇貨があり、皇魔ブフマッツという戦力を得てしまった。三千体の皇魔だ。上手く活用すれば、五方防護陣を突破するどころか、龍府の防衛戦力さえ撃滅できるのではないか。とはいえ、龍眼軍は精強だ。二千人の精鋭からなる軍勢は、ナーレス=ラグナホルンの息がかかっていない数少ない部隊であり、軍師ナーレスの思惑を超えたところで成長を続けていた戦力なのだ。

龍眼軍を指揮する神将セロス=オードは、ナーレスとそりが合わなかったのだ。

セロスは、国主ミレルバス=ライバーンへの忠誠心がもっとも厚い人物であり、ミレルバスがナーレスに傾倒していくのを見て悔しかったに違いない。だからこそセロスは龍眼軍をザルワーン最強の部隊にしてやろうと考え、グレイに助言を請うようなことすらしたのだ。グレイは、セロスのそういう臆面の無さが嫌いではなかった。メリスオールが無事であり続けたならば、グレイは彼と轡を並べ、ガンディア軍を迎え撃つという将来があったのだろうが。

(詮無きことだ)

瞼の裏に浮かんだ将軍の顔を消し去るようにして、彼は目を開いた。夜が明けたはずだというのに、視界は暗く、澱んでいるかのようだった。遥か頭上には鉛色の雲が幾重にも折り重なっており、陽の光を遮っている。時計がなければ夜が明けているのかどうかさえわからないほどに暗く、気温も低い。吹き抜ける風の冷ややかさに体が震えるのは、気のせいではない。武者震いとも違う。恐怖でもない。

あの日、彼の魂は死んだも同じなのだ。

死は、もはや恐るべきものではなくなっていた。

イクセン街道の西の果て、ファブルネイア砦を仰ぐ位置にグレイたちは陣取っている。ファブルネイアの象徴たる群青の砦は、朝日を浴びていたのならば、さぞ美しく、色鮮やかに聳えていたのだろうが、生憎の天気は不気味さを強調するに留まっている。

ファブルネイアは、他の砦と同じく、龍府の周囲を覆う森林地帯に築かれた堅固な砦である。強固な城壁を突破するのは容易ではなく、城門を打ち破るのも簡単なことではない。普通ならば攻城兵器のひとつやふたつ用意する必要があるのだが、砦の前に整列したグレイたちには、そんなものはなかった。あるとすれば、三千体の皇魔であり、鋼鉄の軍馬と呼称される化け物どもの肉体こそが、ファブルネイアの鉄壁の防御を打ち砕く力だった。三千体のブフマッツが絶えず突撃を繰り返せば、如何に堅固な城壁であっても、耐えられはしないだろう。

グレイたちは、そのためにブフマッツから降り、ファブルネイア砦の動向を窺っていた。

ファブルネイアの第二龍牙軍は、ミレルバスの長男ゼノルート=ライバーンが天将を務めており、彼は、前任の天将とはまったく異なる方針を取り、兵士を鍛え上げたともっぱらの噂だった。しかし、第二龍牙軍の現在の戦力は五百人しかおらず、グレイたちの相手にもならないだろう。通常戦力の千人でさえ、グレイ軍の脅威には成り得ない。もちろん、ブフマッツを軍馬とする以前のグレイ軍ならば、苦戦を強いられることはなかったとはいえ、いい勝負になったことは疑いようもない。もっとも、その場合は別の手段を用いて城門を突破したのだが。

ファブルネイアの東門は固く閉ざされており、龍牙軍がどのように動いているのかはわからない。城壁の上には弓兵が配置されていると考えていいだろうが、五百人のうち、どれだけを弓兵に割くのかがゼノルートの腕の見せどころというべきだろうか。城門を突破された場合の事も考え、白兵戦の戦力も残しておきたいところだ。が、たった五百人では砦内に侵入された時点で敗北が確定するといってもいい。

三千対五百の勝敗など、火を見るより明らかだ。だから彼らは砦に篭もり、援軍を待つという戦術を取るしかない。砦の外に打って出れば、敵の大群に飲まれ、あっという間もなくもみ潰されるだろう。子供でもわかる道理だ。

果たして、援軍は期待できるのかどうか。第二龍牙軍にとってはそれが気がかりに違いない。龍府の龍眼軍が全軍で以って救援に来てくれれば、ファブルネイアの連中にも勝機は見えよう。しかし、龍府の防衛を優先する龍眼軍が、そう簡単に動くとは思えない。いや、動きたくても動けないのが実情だろう。

龍府に迫っているのは、グレイの軍勢だけではない。ザルワーンの各地に侵攻していたガンディア軍の各部隊が、龍府に向かって進軍中なのだ。マルウェールを落とした部隊とは擦れ違ったところだったし、ゼオルを落とした部隊も、バハンダールを制した部隊も、同じようにして龍府に向かっているという。どうやらガンディア軍は、三つの部隊で五方防護陣の三砦を落とそうという腹積もりらしく、それならば五方防護陣の連携をほとんど無力化できると踏んでのことだろう。

五方防護陣は、各砦が相互干渉することで成り立つものであり、きわめてか細く、不安定な代物だった。各砦に配備する戦力を倍の二千人ずつにするというのなら話は別であり、龍府を護る防衛網は強固にして堅牢なものになったはずだ。しかし、龍府のみならず、五つの砦に二千人ずつ配備するというのはザルワーンの総戦力を考えれば現実的な話ではなかった。総計一万二千もの兵力が首都周辺に集中することになるのだ。いつ来るとも知れない首都への敵襲を警戒するあまり、領土全体の防備が疎かになっては本末転倒も甚だしい。

とはいえ、戦力を分散しすぎた結果、ガンディア軍の電撃的な侵攻に対応できなかったのだが。

戦力を龍府周辺に集中していればどうなっていたか。

ガンディア軍のザルワーン侵攻は加速し、五方防護陣への進軍が早まったに違いない。ガンディア軍の消耗も少なくなり、五方防護陣を巡る戦いは激化したのは想像に難くない。さらにいえば、ザルワーン側がそのときまで武装召喚師を温存していれば、状況が大きく変わっていた可能性もある。ザルワーンが投入した武装召喚師は五人。それらが力を合わせ、ガンディアの黒き矛を討つことができれば、ガンディア軍の戦力は著しく下がり、戦意も士気も大いに下がっただろう。

現実に、もしも、などということはない。

もしもあのとき、などと考えたところで、過ぎ去ったものを変えることはできない。ザルワーンは国土拡大のため、国政改革のために、無理をし過ぎたのだ。我が身を省みず前に進むことだけに集中したがために綻びが生まれ、みずから首を絞める結果になった。身から出た錆といえばそれまでだし、その通りだ。

「もう、遅い」

ザルワーンは、座して滅びを受け入れるしか無い。

グレイは、周囲を一瞥した。彼に付き従う三千人の兵が、ブフマッツに取り付けられた鉄の鎖を手にし、そのときを待っている。だれもが死を覚悟した顔をしているのがわかる。生への執着から解き放たれたともいえる。透明な目、透き通った表情。常人には達し得ない境地に、グレイと麾下三千人は立っている。

風が止んだ。草木のざわめきも収まり、虫の鳴き声も聞こえなくなっていた。静寂があった。いや、沈黙というべきか。まるでザルワーンの大地が、グレイたちの行動を見守るかのように静まり返っており、彼は不思議な感覚に包まれた。

「全部隊、準備完了しております」

「いつでも、ご命令を」

部下が進言してきたのは、攻撃の時を待ちわびているからだろう。

ファブルネイア砦の龍牙軍に動きがない以上、長々と待機していても仕方がないというのはグレイの実感でもあった。砦の内部でなにかあるのだとしても、街道に展開したグレイたちには様子が窺えるわけもない。物見を走らせたところで、閉じた門の内側を覗くことはできなかった。

もう、敵の出方を待つ意味はない。

グレイは、闇の中に聳える群青の砦を見据えたまま、そう判断した。ブフマッツたちの鼻息が荒い。彼らは自分たちがどうなるのかを理解しているのかもしれない。眼孔から漏れる赤い光が、いつになく鋭く、烈しい。

「放て!」

声を張り上げて、グレイはブフマッツの手綱を手放し、腹を叩いた。数千の皇魔が、馬のように嘶いて怒気を発したかと思うと、地を抉るほどの脚力でもって飛び出した。土煙がグレイの視界を覆う中、二千のブフマッツはファブルネイアの城壁や城門へと突っ込んでいく。鬣が青白く燃え上がり、怒りに駆られているかのようでありながら、グレイたちに向かってくるようなことはなかった。ユベルの命令が、ブフマッツの行動を制御しているのだ。グレイがブフマッツの運用を決意したのも、ユベルの支配が絶対的なものだったからにほかならない。でなければ、皇魔のような化け物を軍馬に使うなどという馬鹿げたことをしようとはしなかっただろう。しかし、ブフマッツを軍馬にしたおかげで、グレイたちはなんの苦労もなくここまで来られたのは間違いなかった。

土煙の向こう側で、ブフマッツたちが城壁に体当りし始めたのがわかる。グレイたちへの怒りを、人間の住処たる砦にぶつけているのかもしれない。

鋼鉄の体毛に覆われた肉体だ。城壁を損傷することはあっても、ブフマッツが傷を負う可能性は低い。とはいえ、ブフマッツが怒りに任せて突進を繰り返せばその限りではないし、それくらいやってもらわなければ城壁を打ち破ることは難しい。そして、そのためには、彼らの怒りを高めていかねばならず、グレイは部下たちに弓射の用意をさせていた。

視界から土煙が消えると、皇魔たちが砦の各所で体当たりを繰り返す光景が目に入ってくる。通常ならば極めておぞましい情景だった。人類の天敵たる皇魔が、堅牢な砦の城壁を破壊しようとしているのだ。もし、皇魔たちが城壁を突破し、その事実が他の皇魔たちの間にも知れ渡ったらどうなるのか。各地の都市や街へ、皇魔の群れが殺到するという事態に発展するのではないか。

もっとも、皇魔に横の繋がりがあるとも思えないのだが。

「射て」

「射てーっ!」

復唱とともに発射された無数の矢は、ブフマッツたちに当たりこそしたものの、鎧のような体毛に弾かれ、かすり傷ひとつ負わせられなかったようだ。だが、彼らの怒りを助長するには十分だったらしく、化け物じみた奇声が闇を震撼させた。

いや――。

「なんだ……?」

グレイは、なんともいいようのない奇妙な感覚に襲われて、目を瞬かせた。前方、ファブルネイア砦の城壁に取り付いていた皇魔たちも体当たりを止め、頭上を仰いでいる。怪訝そうな態度は、グレイが感じている違和と同じようなものを感じているからかもしれない。周囲の部下たちも同じように不思議そうな表情を浮かべており、彼らもまた、グレイと同じ感覚に囚われているのだとわかる。

どくん。

鼓動のような音が、グレイの耳朶を叩いた。音の発信源はファブルネイア砦だというのはすぐにわかった。が、砦そのものに変化はない。城壁は、度重なるブフマッツの体当たりで損傷してはいたものの、突破には程遠いという有り様だ。しかし、このままブフマッツを焚き付け、城壁への体当たりを続けさせれば、城壁を破壊するのも不可能ではないのがよくわかった。城壁は脆くはないが、皇魔の執拗な攻撃を考慮して作られたものではないのは明白だった。本来ならばそれで十分なのだ。皇魔が城壁を突破してまで都市への攻撃を行うということ自体が稀であり、普通、城壁に囲われているというだけで皇魔の攻撃対象から外れるという。

「どう……したんでしょうか?」

「さあ、な」

ブフマッツが動かなくなったことを不審に思ったのだろうが、グレイにわかるはずもなかった。ブフマッツたちは、ファブルネイアの上空を仰ぐように首を持ち上げている。グレイもそれに習おうとしたが、そうする必要もなかった。

傷だらけの城壁に光が染み出してきたのだ。内側から滲みだすように現れた緑色の閃光は、闇を引き裂くほどに強烈だった。グレイは目を細めなければならなかったが。そうする間にも輝きはより激しくなりながら、増大していく。光が染み出してきたのは、城壁の一箇所だけではない。城壁のみならず城門からも溢れだし、ファブルネイア砦全体が緑色の光に包まれていく。

「なんだこれは……!」

グレイはうなりながら、闇の中、まばゆい緑色の光の柱が天を衝く様を見届けていた。とてもこの世のものとは思えない光だった。とてつもなく強く、激しく、それでいて圧倒的に美しく、心まで灼かれるような光。ただ見ているだけで意気を吸い込まれそうになる。自分はなんのためにここにいて、なんのために死に場所を求めているのか。疑問が生まれた。ただ光を見ているだけで、だ。

(いかん……!)

グレイは頭を振ると、声を振り絞った。

「下がれ! 全軍後退しろ!」

緑色の光の柱は、砦の周囲で立ち止まっていた皇魔たちを飲み込むと、さらに膨張していく。悲鳴が聞こえた。化け物どもの断末魔だ。光に飲まれただけで死んだというのだろうか。だとすれば、光に触れるだけでまずいのは間違いない。光の正体は不明だが、不明だからこそ触れてはいけないのだ。

グレイは、光との距離を取った。ブフマッツたちはつぎつぎと光に飲み込まれていく。抵抗しようともしなければ、その場から離れようともせず、ただ為すがまま飲み込まれていくのだ。まるで光に飲まれるのを待ち望んでいるかのように。

(いや、違う)

ブフマッツは、光の中でもがき、苦しみ、悲鳴を上げている。その事実は、光に飲まれることがブフマッツの望みではないということにほかならない。それでも、砦周囲のブフマッツは離れようともしないのだ。光に魅入られているかのようだと彼は思った。