「それにしては、気づくのが遅かったのではありませんか?」

「そうだね……その通りだ」

反論の余地もないほどの正論に、クオンは唇を噛んだ。痛みはない。ここは夢だ。いや、夢と現実の境界というべきか。ともかく、現実そのものではない。あるものが創りだした幻想領域なのだ。だからこそ、だれもかれもが偽物だと言い切れる。イリスやウォルド、マナたちの目に生気がないのも頷ける。

「相変わらず、我が主は素直ですね」

「おまえのせいでねじ曲がりそうだよ」

「それはそれでおもしろいかもしれませんよ。むしろ、ねじ曲がったほうが、彼には受け入れてもらえるかもしれません」

彼というのがだれを指し示しているのか、クオンはすぐに理解したが、なにもいわなかった。堪え、周囲の変化を見届ける。

まず、イリスの姿が崩壊した。全身が奇妙に泡立ったかと思うと、爆発的に膨れ上がり、弾けて消える。明らかに悪意の籠もった演出に怒りさえ感じながら、クオンは、ウォルドやマナ、シグルドたちがつぎつぎと爆散していく様を見届けた。目を背ければ、嘲笑われるだけだ。

爆散するのは、ひとの形をしたものだけではない。横たわる木々も、宙に舞う粉塵も、土砂も、大地も、戦場を構成していたありとあらゆる要素が音もなく弾け、消えていった。残ったのはクオンだけであり、彼は、いつの間にかいつもの空間に立ち尽くしていた。

一瞬にして情景は様変わりしていた。曇天に覆われたザルワーンの森から、灰色の荒れ地へ。灰色。そう、灰色だ。大地も空も雲も太陽さえも灰色に染め上げられた世界にクオンは立っている。ただひとりだ。ドラゴンの姿も消え失せて、圧迫感も消え去った。

孤独感だけが、彼の心を蝕んでいく。意識は緩やかな壊死へと向かい、流れ落ちるように破滅を感じる。灰色。なにもかもが灰色に塗り潰された世界。大地も、地に転がる小石も、水たまりも、水たまりに映る空の色さえも、重苦しい灰色一色だ。

ふと、自身を見下ろすと、イルス・ヴァレに来たときの格好をしているのがわかった。それもまた、いつものことに過ぎない。黒を基調とした学生服は、《白き盾》の制服の元となったもので、クオンにとっては懐かしくもどこか見慣れたものでもあった。毎日のように身につけていた日々は、遠い昔のことだというのに。

しかし、その懐かしさのおかげで自分を取り戻せたのも事実だ。相手の演出ひとつで浮き沈みする心の脆さには苛立ちしかないのだが、こればかりはどうすることもできないのかもしれない。

この空間は、主催者たる彼女の独壇場であり、クオンは丸裸で戦場に放り出されているのと同じなのだ。抵抗することもできないし、対抗しようとするだけ無駄なのだ。これまでの経験がそういっている。だが、それでも抗いたくなるのが人情というものだろう。

でなければ自分というものさえあやふやになってしまう。

拳を握る。手のひらに爪が食い込む感触は、いつになく不確かだ。だが、わずかばかりの感触が、この夢と現の境界において大きな力になった。たったそれだけのことが、自分を確立させるための力として作用するのだ。

顔を上げる。

前方には荒れ果てた大地が地平の果てまで続いている。しかし、地平の果てまで目を向けると、もはや空と大地の違いなどわからなくなっていた。なにもかもが灰色に染まっているのだ。吹き抜ける大気さえも灰色なのではないかと疑ってしまうほどだった。

クオンは、前方のなにもない空間を睨んだまま、口を開いた。

「なんのつもりだ。あんなものばかり見せて、なんの意味がある?」

「我が主に現実を教えてさしあげたまでのこと。そう怒らないでください」

声が聞こえ、クオンの視界が不規則に揺らめいた。と思ったら、液体が染み出してくるようにして、なにかが出現する。白く輝くなにかは、一定の形を取ろうとはせず、クオンの不快感を煽るかのように様々な形状に変化していく。クオンの感情を逆撫でにするためだけの行動だ。理由も理屈もないに違いない。

召喚され、扱き使われる彼女にしてみれば、当然の行動でもあるのかもしれないが。

(現実? 現実だって……?)

「シールドオブメサイア……!」

クオンがみずからつけた名を叫ぶと、それはしばし沈黙した。たっぷりと間を取って、悠然と口を開く。不定形の物体に口唇のような亀裂が生まれていた。

「いやはや、大仰な名前をつけたものです。ですが、悪くはない。悪い気分ではありませんよ。もっとも、その名に込められた願いを叶えることはできそうもありませんが」

彼女が慇懃無礼なのはいつものことだ。そこは問題ではない。そもそも、シールドオブメサイアの意思たる彼女とは主従の関係ではないのだ。クオンが彼女を召喚できたのは偶然にほかならなかったし、契約を結んだという記憶もない。

クオンが行使しているのは、普通の武装召喚術ではないのだ。通常、武装召喚師は、術式の中に召喚武装との契約文を織り込んでいる。その契約内容を認めた召喚武装こそが、その術式によって召喚される召喚武装となり、この世界に呼び出されるのだ。だが、クオンの場合は違う。クオンはただ、武装召喚と唱えただけだ。術式の末尾、呪文の結語を口にしただけなのだ。そこに契約内容など含まれるはずもない。ただ望み、ただ召喚した。

そして、クオンはシールドオブメサイアを手にした。

真円を描く純白の盾。その能力を理解したとき、彼は、シールドオブメサイアと名づけた。救い主になりたいわけではない。そこまで傲慢ではないし、夢見がちでもない。だが、その高みに少しでも近づきたいとは思っている。命名は、その願望の現れなのだ。

シールドオブメサイアと名づけた盾の意思が夢の中に現れるようになったのも、ちょうどそのころだ。驚きはしたが、召喚武装が意思を持つ存在だという話は聞いていたし、シールドオブメサイアほどの力を秘めた存在ならば、夢に干渉してくることくらい容易いのではないかとも思ったものだ。もっとも、この空間は夢と現実の境界であり、夢ではないという話だったが。

クオンには、契約を結んだ記憶はない。しかし、シールドオブメサイアは、彼を主と認めているというのだ。言動を考えれば、彼女がクオンを主として敬っているとは到底思えないのだが、それとこれとは話は別なのだろう。

彼女にしてみれば、自分を召喚し、力を行使することを認めているだけでも有りがたがるべきだと思っているのかもしれない。そして、その考えは間違いではない。それで十分だ。クオンとて、それ以上を求めてもいない。力を使いこなせないのは自分の問題であり、彼女の助力には感謝してもしきれない。

だからこそ、やりきれないのだ。

「願い……か」

「救世主になりたいのでしょう? 身の回りのひとたちを護りたいのでしょう? 恋人を、家族を、下僕を、仲間を、味方を、民を、敵を、罪人を、それらすべてのひとびとを救いたいのでしょう? だから、シールドオブメサイアなどと名づけた」

クオンは、否定しなかった。彼女の言葉を妄言と吐き捨てるだけの精神的余裕などなかったし、否定しうるだけの根拠もなかった。一部は間違いでもなかった。確かに、身の回りのひとたちを護りたいという想いがある。愛するひとたちを護るための力でもある。それを否定することはできない。

不定形の発光体が、ひとつの形に纏まり始める。頭、首、胴体、四肢――極めて人間に酷似したものが形成されていく。しかし、光が収まる様子はない。頭部から髪のようなものが伸びると、発光体が女性的な丸みを帯びていく。胸部や臀部が膨らみ、腰がくびれていく。まさに人間の女性そのものの姿へと成り果てたそれは、虚空を蹴って、こちらに向かって流れてくる。長い髪が風に揺れ、光の粒子を撒き散らした。

まるで泳ぐような優雅さで向かってくる発光体を拒絶することは、クオンにはできない。拒否権など、端からなかった。ここは彼女の支配地だ。ただ、彼女の行動を受け入れるしかない。

女の姿をした発光体がクオンの体に触れた。光を放つしなやかな腕が首に絡みつき、腰を抱く。当然、女に抱きしめられているという現実的な感覚はない。膨大な量の頭髪が視界を遮るのが鬱陶しかった。声は、耳元で囁かれる。

「しかし、我が主にできるのは、目に映るひとびとを敵対者の攻撃から護ることだけ。恋人たちを、仲間たちを、下僕たちを、あの竜の攻撃から護り抜くことしかできなかった」

反論の言葉など、出るはずもない。シールドオブメサイアの能力とその限界については、クオン自身が一番理解していることだ。自分や対象を護ることに関しては、どんな召喚武装にも引けをとらないだろう。無敵の盾の異名に恥じないだけの能力がある。しかし、それだけだ。それだけの能力なのだ。

敵を倒すことはできない。敵が疲弊し、諦めてくれなければ、クオンの精神力が消耗し尽くすまで対峙は続く。その程度の能力なのだ。仲間がいる。仲間に倒してもらう必要がある。倒すまではいかなくとも、撃退してもらわなくてはならない。

シールドオブメサイアなど、それだけの力でしかないのだ。

クオンが《白き盾》などという傭兵団を率いている最大の理由がそれだった。自分ひとりではなにもできないから、仲間が必要だから、組織を立ち上げ、ひとを集めた。スウィール、ウォルド、マナ、イリス、グラハム。彼らの助力があればこそ、《白き盾》は不敗の傭兵団であることができるのだ。

クオンひとりでは、なにもできなかった。