夜が明けた。

九月二十六日の朝を迎えるころ、空には雲ひとつなかった。昨日まで空を支配していた雲の大群は、夜中の間に押し流されてしまっていた。

晴れ渡った青空は、まるで濡れたように滲んでいる。イルス・ヴァレのいつもの空だ。その青空の下に、五首の龍が立ち尽くしている。いや、地中から首を突き出し、天から大地を睥睨している。

ザルワーンの首都たる龍府を中心とするかのように広がるのは、緑の海だ。広大な樹海は、久しぶりに太陽の光を浴びて、まばゆい輝きを放っている。無数の木々が風に揺れる様は、緑の波のようだ。しかし、生物の気配はない。樹海に息づいているはずの様々な動物たちは、ドラゴンの降臨とともに姿を消してしまったようだ。

動物たちは、異世界の存在が恐ろしいということを知っているのだ。皇魔という前例がある。約五百年前、聖皇ミエンディアが異世界から呼び寄せてしまった魔性の存在。それらは、五百年の長きに渡り、このワーグラーン大陸の生態系を乱し続けた。人間にとっても天敵である皇魔を根絶する手段は見つかってはいない。

(わたしにならそれもできる)

守護龍は、そんなことを考えていた。どうでもいいことだ。彼の出現は、皇魔たちの行動をも抑制したに違いない。五首のドラゴンは、皇魔にとっての天敵たりうるのだ。

圧倒的な巨躯を誇り、絶大な力を持っている。皇魔が束になってかかってきたとしても、相手にさえならないのだ。当然だ、と彼は思っている。でなければ、龍府を守護することなどかなわない。守護として君臨するのだ。皇魔如きに遅れを取るようではどうしようもない。

その一方で、巨大な目は、ヴリディアの南方を北に進軍する一団を捕捉し続けている。その一団が動き出したのは、昨夜のことだった。

ヴリディアの遥か南方に築かれた野営地に篭っていたはずの軍勢は、夜のうちに軍を整え、野営地を進発、ヴリディアに向かってきていた。

野営地はいまやもぬけの殻であり、ひとひとり残ってはいない。急遽作り上げられた野営地も、人気がなくなれば廃墟同然のようだった。並び立つ無数の天幕も、いまは空々しく立ち尽くしている。あの野営地が使われることはもはやないだろう。

彼らはここで負ける。ドラゴンの力の前に膝を折るのだ。

いや、そんなものでは済まさない。

守護龍は、目を細めた。

一団は、ゼオルからヴリディアへと至る街道をひたすらに北進していた。その数、七千を超えるという。戦力的に考えれば、ザルワーンに勝ち目はなかった。龍府には二千名あまりの龍眼軍しか残っていない。龍府に籠城したところで、戦闘らしい戦闘にさえならないのではないか。

しかし、それはその軍勢が龍府に到達できた場合の話だ。

守護龍がいる以上、彼らがヴリディアを突破し、龍府に辿り着くことができる可能性など皆無だった。

守護龍は、街道に満ちる軍勢の到来を待ちわびた。距離と進軍速度を考慮すれば、あと半日もしないうちにこちらの攻撃範囲に到達するのは間違いない。もちろん、それですべてが決するわけではないのは、彼も理解している。彼らとて愚かではない。勝てないなりにも、戦術を立てるはずだ。なんとしてでもこちらを出し抜こうとするだろう。そのための用意は万全のはずだ。きっと、そのための野営地だったのだ。きっと、そのための二日間だったのだ。

その万全の策を力でねじ伏せてこそ、意味がある。

彼らが守護龍の力に恐れ慄き、龍府を諦めさせることができれば、それこそ大勝利だ。無論、敵の殲滅こそ最大の勝利ではあるものの、それは高望みというものだろう。全滅する前に逃げ出すはずだ。

(ガンディア。獅子の国か。こうなるは、さだめだったのだな)

龍の国ザルワーンと獅子の国ガンディア。ザルワーンは南進を目論み、ガンディアは北進を掲げていた。ぶつかるのは必然であり、いまになって戦争に発展したのは遅すぎるくらいだった。因縁はあった。何十年も前、ガンディアの先王シウスクラウドが病を得たのは、ザルワーンの仕業なのだと噂された。当時のザルワーン国主マーシアスは噂を否定しなかった。認めもしなかったとはいえ、公然と否定しなかったのは、そこになんらかの意図があったからだろう。

シウスクラウドが死ねば、ガンディアは終わる。ザルワーンは、そう踏んでいた。しかし、シウスクラウドは長く生きた。病を得てから二十年もの間、生き続け、生き抜いた。その間、ザルワーンが南進し、ガンディアを攻め滅ぼすことができなかったのは、無念というほかない。

結果、シウスクラウドの跡を継いだレオンガンドの飛躍を許すことになった。属国であったログナーを攻め取られ、そしてザルワーン本土への侵攻に発展する。戦争が起きた。すべてが後手に回ったザルワーンに勝機は見えなかった。

彼も、死んだ。

ガンディアの武装召喚師との戦闘の末、死んだ。

(死んだ……?)

彼は、胸中で頭を振った。死の記憶が蔓延していて、よくわからない。ついさっきも死んだ気がするし、いまさっきまで死んでいた感覚さえある。生と死の反復の狭間で、彼は混乱を覚える。いつ死んだのか。いつ蘇ったのか。そもそも、死んでいるのか。本当に生き返っているのか。これは死後の世界ではないのか。地獄ではないのか。

(地獄。そう、地獄だ)

彼はドラゴンの目を全開にした。瞳孔が大量の光を取り込み、爆発的な輝きとなって彼の網膜を灼いていく。しかし、実際には焼かれてなどいない。実感を伴う錯覚。武装召喚師にありがちな悩みというべきか。

視界を埋め尽くすのは、太陽光だ。ただ白く、眩しい光だ。その光が、彼の脳裏でひとつの形に収束していく。細くしなやかな指先から手首、腕が流れるように構築されていく。腕が形成されれば、今度は肩だ。肩から首、頭部、胸部、胴体、腰――記憶が再生されていくように、ひとりの女性が頭の中に出現する。

女は、彼に微笑んでいた。

彼は歓喜した。

(俺は地獄で女神を見たんだ)

女神。

名も声も忘れてしまったけれど、その存在だけは覚えていた。

彼女は、白金の頭髪が気に入らないのか、鏡を見てはいつも怒ったような顔をしていた。そのときの横顔が好きで、彼はよく横目で見ていた。あの地獄で、彼女に出逢えたことは幸運以外のなにものでもなかった。彼女がいる限り、彼は生きる希望を失わなかった。絶望的な闇の中で、それでも生きてこられたのは、彼女のおかげだったのだ。

(女神……ああ、俺の女神よ!)

彼は、叫びたい衝動に駆られた。叫べば、ドラゴンの咆哮となって天地を揺らすだろう。そうすれば、彼女に届くだろうか。女神は生きているはずだった。それだけは覚えている。彼女は死んではいない。生きている。だから、取り戻さなくてはならないのだ。

あの黒き矛の魔の手より奪還して初めて、彼の女神は再び微笑むのだ。

不意に、視界に影が飛び込んできたと思った瞬間、視界が寸断された。右眼に激痛が走る。

(なんだ……!?)

鋭くも破壊的な痛みの中で、彼はそれでも冷静に状況を分析した。原因を探るのに苦労はしない。ドラゴンの召喚によって、彼の五感は必要以上に拡大されているのだ。いや、それは彼の五感ではない。ドラゴンの五感というべきだろう。

五首のドラゴンの感覚そのものが、彼の意識に流れ込んでいる。だから、彼は龍の視線を持っていたし、龍が傷を負えば、痛みを覚えた。

ヴリディアのドラゴンの視界が、欠けている。右眼が潰されたようだった。しかし、左眼だけでもその視野は広大極まりない。遥か南の原野まで見渡せている。街道を進む敵の群れも、眼下に流れるように落ちていく影も、しっかりと捕捉している。

影は、ふたつあった。

ひとつは、身の丈以上の矛を手にした人物で、ドラゴンの右眼を切り裂いたのはそちらだろう。もうひとつは、円形の盾を抱えた人物で、軍馬に跨っていた。馬を駆り、森の中を突っ切ってきたようだ。

街道を進むガンディア軍は陽動だったのかもしれない。

ふたりとも、見覚えのある人物だった。どちらも、守護龍の力を前に撤退せざるを得なかったことは記憶に新しい。しかも、ひとりには重傷を負わせたはずなのだが、見たところ、戦闘に支障はないようなのだが。

たった二日で回復したのならば驚異的な回復力なのだが、そんな人間が存在するとも思えない。彼は殺し損ねたとはいえ、意識を失うほどの痛撃を与えたはずなのだ。即座に回復するようなはずがなかった。いま目の前に立っている彼が偽物だというわけではない。傷を負いながら、それでも戦わなくてはならないのだ。でなければ、ガンディアに勝利は見えない。

彼でなければ、守護龍に傷をつけることすら難しいという判断は正しいだろう。ドラゴンに致命的な一撃を叩き込んだのは、彼の召喚した黒き矛くらいのものだ。雷撃も、爆撃も、ドラゴンの生命力を脅かすようなものではなかった。

だからこそ、守護龍もまた、彼を打倒しなければならない。黒き矛を討滅し、脅威となる存在を排除してこそ、守護は完全なものとなりうるのだ。

もうひとりもまた、厄介な存在だ。絶対無敵の盾シールドオブメサイアの能力は、彼がヴリディアに偵察に訪れたときに思い知ったものだ。純白の盾は、ドラゴンの攻撃すら無力化したのだ。強力無比といってもいい。そんな召喚武装をただの人間が扱っていいはずがなかった。

しかし、現実問題として、ふたりの人間が凶悪な召喚武装の使い手として、眼前に現れた。ふたりとも、ガンディア軍に属している以上、一緒に進軍しているものと考えていたのだが、どうやらそれは見当違いだったようだ。

(なるほど)

彼は、ドラゴンともども目を細めた。右眼の痛みに表情が歪む。だが、耐えられない痛みではない。この程度、あの地獄の日々に比べればたいしたものではない。女神を取り戻すことができるのだと考えれば、どうだっていいことだ。

倒さなくてはならない。

眼下に立つのは、黒き矛と白き盾、ふたりの武装召喚師だ。一度退けたものの、強敵であることに変わりはない。

重要な戦力である彼らをぶつけてきたガンディア軍の考えが、なんとなくわかった。

(わたしを釘付けにするつもりか)

ガンディア軍は、本隊が龍府に侵攻するための囮として、彼らを使ったに違いない。白き盾による絶対防御と、黒き矛による強力無比な攻撃があれば、守護龍の注意を振りきり、その攻撃範囲を突破できると踏んだのだ。

そしてそれは、反論しようもないほどに正しい。

彼はいま、眼前に現れたふたりの強敵に意識を集中しなければならなかった。

守護のために。

守護龍としての誇りのために。

そして、女神を取り戻すために。

(黒き矛よ。まずはおまえからだ)

ドラゴンが、右眼を貫いた召喚武装の情報を分析し、模倣を開始した。

龍の首を覆っていた鱗が剥がれ落ちると、あっという間に闇に覆われていった。首の中ほどに胴体が構築され、肩から腕が伸びた。足も生え、地に刺さる部位は尾となった。

彼は黒き竜となり、吼えた。