「――様」

遠くから、呼び声が聞こえる。

夢と現の間で、彼はその声を聞いていた。不愉快そうな声だ。おそらく、彼のことを快く思っていない人間なのだろう。そういう人間は、この天輪宮には数多くいる。彼の存在を心よく受け入れられる人間のほうが少ない。

家族と、ミレルバスくらいのものだ。

「――リアン様」

声がはっきりと聞こえるようになってきて、彼は、仕方なく瞼を開いた。ぼんやりとした視界に、意識も判然としていない。多大な精神疲労が彼の思考を鈍らせていた。だから、こんなところで眠りこけていたのだ。

「オリアン様!」

「なんだ……?」

ついには叫び声を上げた相手を探して視線を彷徨わせると、すぐに見つかった。下方、こちらを仰ぐ男の姿があった。険しい顔付きで、こちらを見ている。五竜氏族相手に遠慮がないということは、彼もまた五竜氏族であり、それなりの地位にある人間ということだ。しかしながら、オリアンは彼の名を思い出せずにいた。意識が眠っているからだと決めつけると、 彼はあくびを漏らした。

「この状況でよく眠っていられますね」

「どんな状況にあろうとも、睡眠は大事だぞ。睡眠を怠った挙句、失態を犯すようなものに未来はないのだ」

「戯言を。わたしは、あなた様が玉座で眠っていることをいっているのです」

「そうは聞こえなかったがな」

つぶやきながら、彼は自分の居場所を再確認した。先の国主マーシアス=ヴリディア謹製の龍の玉座に腰掛け、頬杖をついていたようだ。呼び起こしに来た男が低い位置に見えるのも、玉座の高さが原因だった。

群れ集う龍をあしらった玉座は、マーシアスが自分のために作り上げたものであったが、ミレルバスが国主の座につくと、彼のものとなった。つまり、オリアンが座るのは国主への不敬に当たる。もちろん、ミレルバスはそんなことでオリアンを罰しようとはしないだろうし、一笑に付すに違いない。そういう男だ。乾いているのだ。

「で、わたしがここで眠っていることのなにが問題なのだ?」

「玉座は国主様以外が触れることさえ許されないものです」

「では、国主様みずからが掃除しているとでもいうのか?」

彼は皮肉を言ったつもりだが、相手には伝わらなかったようだ。ただひたすらに難しい顔をする相手に、オリアンは右手をひらひらとさせた。

「まあいい。わたしにはどうでもいいことだ。この国にとってもな。玉座ひとつに拘っているから、ガンディアに負けるのだ」

「なにを……」

気色ばむ男の態度で、オリアンは事情を察した。男の呼吸の荒さもその推察を後押ししている。

「冗談だよ。が、負けたのは事実だろう?」

「それは……」

「返答に困ることかね。征竜野の戦いが終わり、勝敗が決まったから、騒がしくも動き回っていたのだろう。そこでわたしを見つけたわけだ」

「……」

沈黙したということは、図星だということだろう。言葉で認めるのは不格好だとでも思ったのかもしれないが、どちらにせよ、彼の印象は最悪だ。

意識はまだ、覚醒しきってはいない。精神力の消耗が思ったよりも大きすぎた。そもそも、強力な召喚武装である双竜人と天竜童を併用などするべきではなかったのだろう。実戦で実験を行うのは、愚策極まりない。しかし、それによって、いかに自分に才能がないのかを再確認できたのは大きかった。これで、次代に託せるというものだ。

次代。

「ミレルバスは死んだか」

オリアンは、虚空を見つめながら、つぶやくようにいった。現国主が死んだとあれば、国主も、次の代に移らなければならない。

「はい。ガンディア軍本陣に辿り着き、レオンガンドに肉薄したものの、力及ばず……ということです」

「そうか。彼は目的を果たせなかったか」

彼は、瞑目した。

残る人生のすべてを擲っても、ガンディアの分厚い防壁を貫き切ることはできなかった。薬を飲み、力を得ても、真の意味での英雄にはなれなかったのだ。

雑兵相手には負けることはなかったようだが、それだけでは、彼の目的が達せられるはずもない。ミレルバスの望みは、ガンディア王の首であり、雑兵の首ではないのだから。

ミレルバスには悪いことをした、などとは彼は思わない。ミレルバスが望んだことだ。求めたことだ。その結末がどのようなものであれ、オリアンに非があるはずもない。オリアンはただ力を貸しただけだ。背中を押しただけだ。彼の半身として、出来る限りのことをしただけのことだ。

生き残ってしまったのは、結果に過ぎない。後悔があるとすれば、ミレルバスとともに死ねなかったことだろう。オリアンが死ぬとすれば、あの場所ではないのだ。

「それで、我々はどうすれば……」

「なぜわたしに聞くのかね」

「ミレルバス様の後を継ぐのは、オリアン様です。ですから、オリアン様を探していたのです。戦場に出られたと聞いてはいましたが、天輪宮で見たという声もあり……」

「ならば、わたしがこの玉座にいることをなじる必要もあるまい」

「それは……つい……」

「いや、わかっているさ。この場にいるのは、ミレルバスこそが相応しいと貴様は思っているのだろう。それでいい。それは正しい物の見方だ。わたしのようなものが国主の座につくのは、間違っているのさ。わたしは部外者だぞ? 五竜氏族の血とは無縁の、どこからともなく流れ着いてきた男だ。そんなものが、国の主になっていいはずがない」

リバイエン家の人間となって数十年。だれもが奇妙だと思いながら、暴君マーシアスの手前、放置するしかなかったつけが、いまになって出てきた。どこの馬の骨とも知れない男が、王になってしまうという愚かな結末は、だれにだって予想できたはずだ。

マーシアス政権が長く続き、つぎのライバーン家を国主とする政権が長期に渡り続いたとしても、そのつぎはオリアンか、オリアンの血統のものとなる。オリアンの子ならば、リバイエンの血も入っているものの、純血ではなくなるのだ。マーシアスやミレルバス、そして、オリアンにとってはたいしたことではないのだが、伝統と神話によって支配してきた国にとっては重大な問題だった。五竜氏族にありながら純血ではないというだけで、彼の子どもたちがいかに疎外されてきたのかを、彼は知っていた。だからこそ、彼の娘も息子も、箱庭の中で育て上げられた。過保護な妻と、義父母は、孫子が傷つくことを極端に恐れた。

「ですが!」

「それが決まりだというのだろう? ミレルバスにいわせれば、そんなものは糞食らえだ。まあ、彼はそんな言い方はしなかったがな。ともかく、ザルワーンの今後は、ミレルバスの側近たちに聞けばいい。わたしは全権を彼らに移譲する」

「それは……」

「国の有り様が変わるということだ。もっとも、それが機能するのは、この国がガンディアに飲まれるまでの一瞬だけだがな」

彼は皮肉に笑うと、手を振って男を退けた。男は、オリアンに抗わず、退室した。名ばかりの国主に最敬礼をする男の姿は、あまりに滑稽だったが、彼はなにもいわなかった。強烈な眠気が迫ってきている。

また、夢を見なければならない。

「夢……」

ミレルバスが押し黙る姿が、妙に面白かった。

いつもの彼ならばなんらかの答えをすぐに出したはずだ。問われたならば即座に回答しなければならないのが、今の彼の立場だ。でなければ、主君の不興を買う。そういう厄介な人物を主に持ってしまっている。不幸なことだが、さらに不幸なのは、彼がその人物に気に入られているという事実だ。ミレルバスはマーシアスの寵愛を受けている数少ない人物であり、そのために良からぬ噂が流れてもいた。彼自身の名誉のためにいえば、ミレルバスがマーシアスに気に入られているのは、ミレルバスの実直さ、純粋さによるところが大きい。もちろん、マーシアスの野望を満たすに足る実力、能力を持っていることは当然として、だ。

マーシアスは、その破壊的、破滅的な性質のくせに、他人には素直さを求めた。素直で、純粋で、かつ従順な人間でなければ信用しようとしなかったのだ。そういう意味において、オリアンがマーシアスの側に仕えていられるのは奇妙なことに違いなかった。ミレルバス同様、くだらない噂話が流れるのも無理はなかっただろう。少なくとも、オリアン=リバイエンという人間は純粋でも素直でもない。根幹からしてねじ曲がった歪な存在だ。そんな人間であっても受け入れられるのは、マーシアスの度量の広さなのか、どうか。

ミレルバスの沈黙が長引いたのは、彼と仲が良くなってから初めての事だった。

立場も関係もまったく異なるふたりからの質問に、彼はどう返答するべきなのか迷ったのだろう。答えがなかったわけではないはずだ。明確な答えはあったはずだ。彼はその夢に向かって生きていたのだから。

人生は試練の連続だ。夢があり、目標があったからこそ、乗り越えてこられたといっても過言ではないだろう。五竜氏族という選ばれた一族に生まれた彼ですらそうだった。辛いことも、逃げ出したくなるようなこともないわけではなかったはずだ。ライバーン家の次期当主としての教育を受け、たの人間とはまったく違うということを叩きこまれてきたのが彼だ。

夢。

彼には、夢がある。

ミレルバス=ライバーン。ライバーン家の長男として生まれ、いずれ、ライバーンの家を背負うことになるのが、彼の人生だった。定められた人生。決まりきった運命。道を外れることは許されない。家を背負い、家のために命を消費し尽くす義務がある。権利などはない。支配階級に有るというだけで喜ぶべきなのだ。

が、彼は、それだけでは満足できない自分がいることに気づいていたようだ。五竜氏族の当主など、無能であろうとも愚物であろうともなれる代物だ。当主になれるかなれないかは、当主の長男に生まれるかどうかというだけのことでしかない。才能も実力も関係なかった。たとえば、彼が当主としての教育を放棄したとしても、彼は当主の座に据えられただろう。実権を別のものが握るというだけのことに過ぎない。家によっては、そのほうが上手くいくといって、次期当主が愚物であることを願うものまでいるらしかった。当主が愚かであれば、操作もし易いということだ。

彼は、幸か不幸か、うつけものではなかった。どちらかというと、才能に恵まれた方だったかもしれない。ほかの次期当主の若君たちが見えないものも見えていたようだ。いま、ザルワーンに渦巻く黒い思惑も、その渦中に有るマーシアス政権の行き着く先も、見えていたのだろう。

マーシアス政権は崩壊すべくして崩壊するだろう。つぎの国主となるのはライバーン家の当主であり、順当に行けばミレルバスの父親が、国主の座につくということだ。国主、つまりはザルワーンの王である。ミレルバスの父親が国主となれば、少なくとも、現状は是正されるだろう。ザルワーンは破滅的な未来へと進むことはなくなるはずだ。

彼は、それでいいと思っているところがあった。彼は、国主の座につきたいなどとは思ってもいないのだ。この国を現状から救えるのならば、だれが国主の座につこうとも問題はなかった。むしろ、彼は国主の手足となって動き回るほうが性に合っているらしい。

そうすれば、国を変えるということも不可能ではなくなるのではないか。

要するに彼は、そのようなことをいってきたのだ。