深夜の静寂を完膚なきまでに破壊したのは、ミリュウの悲鳴にも似た絶叫だった。実際、彼女は悲鳴を上げたのだ。認められない現実を叩きつけられれば、だれだって泣きたくもなるだろう。

《獅子の尾》専属の調理人であるゲイン=リジュールが、奥の厨房から顔を覗かせるくらいの大声には、間近にいたセツナも耳をふさぎたくなるほどだった。しかし、そんなことをすれば、彼女の感情をさらに逆撫でにすることは明白であり、セツナは彼女の悲鳴を聞き届けた。

隊舎一階の食堂の真ん中のテーブルを四人で囲んでいる。四人とは、セツナ、ファリア、ミリュウ、そしてレム・ワウ=マーロウのことだ。

セツナは、レムが自分の護衛になった事実を説明するため、ファリアの部屋に向かったのだが、あいにく彼女は不在だった。真夜中だ。こんな時間に部屋を空けるということは、隊舎のどこかでくつろいでいるに違いないということで、彼はレムを連れて隊舎内を駆け回ったのだ。

結局、ファリアがいたのがこの食堂であり、ミリュウとふたりでなにやら話し込んでいたようだった。そこへセツナがレムを連れてやってきたのだ。半ば酔い潰れていたミリュウが完全に覚醒したのは、必然ではあったのだろうが。

彼女は、レムを目の敵にしている。その理由も、セツナには理解できる。皇魔との戦いの最中、レムがミリュウを煽り、傷つけるようなことを口走っていたことを、セツナは知っているのだ。

そして、セツナはファリアとミリュウに事のあらましを説明した。レムが待ち伏せしていたことはいわなかったが、それをいえば、ミリュウが激昂するかもしれないからだ。死神零号とともに訪れたことにしたほうが、ずっとましだ。

とはいえ、それでミリュウが納得するはずもないのだが。

「どういうこと? どういうことなのよ!」

「ですから、いまさっき説明したばかりじゃないですか。国王陛下直々の命令により、わたくし死神壱号ことレム・ワウ=マーロウは、セツナ・ラーズ=エンジュール様の護衛を務めさせていただくことになりましたのですよ」

怒りに顔を紅潮させるミリュウに対して、レムの顔は白すぎるといってもいいくらいだった。天井に吊るされた大きな魔晶灯の冷ややかな光が、ふたりの対照的な表情を照らしだしている。

「だから、それが理解できないっていってんでしょ!」

「ミリュウ、落ち着いて」

「どうして? ファリアはどうして落ち着いていられるの? どう考えたっておかしいでしょ、こんなの!」

「陛下がお認めになったことをどうこういうつもりはないわ。たとえ納得できなくても、納得するしかないでしょ」

「他国の人間、それもジベルの死神部隊なんていういかにもあれな連中を親衛隊長の護衛につけるなんて、正気の沙汰じゃないわよ」

ミリュウが憤然と言い放った台詞は、正論といってもよかった。ジベルの死神部隊といえば、破壊工作から暗殺任務までこなす暗躍部隊だというのだ。そんな部隊の一員をセツナの護衛につけるというのは、普通では考えられるようなことではない。常に側に置くということは、情報の漏洩の可能性も考えられたし、喉元に常に刃を突きつけられているようなものではないのか。

もちろん、レオンガンドがセツナの実力を信頼した上での判断なのは間違いないのだが。

ついこの間暗殺未遂事件に遭ったばかりのセツナには、レオンガンドの全幅の信頼が目に痛いほど眩しかった。信頼してくれるのは嬉しいが、その期待に応えられない自分の弱さ、無力さを実感しているセツナにしてみれば、わけもなく信じてくれるレオンガンドに危うさすら覚えるのだ。

陛下は、他人を信じすぎているのではないか。

激高するミリュウを見つめるファリアの目は、きわめて冷静だ。

「それをいったら、ザルワーン戦争であなたを使っていたことだって、正気の沙汰じゃなかったわ」

「それとこれとは別でしょ。あたしはセツナの敵になんてならなかったわ!」

そのときには、ミリュウの精神はセツナの記憶を拠り所にしてしまっていた、ということをいいたいのだろうが。

「それこそ、あなたの勝手な言い分でしょ。陛下からしてみれば、どちらにしても同じことよ。いえ、危険性ではあなたのほうが上だったわ。戦争中の、敵国の人間だったものね」

「だからあたしは!」

ミリュウがテーブルに両手を叩きつけた。衝撃で、テーブルに置かれていたグラスが倒れる。幸い、中身は飲み干されていたようだが。

セツナは、グラスを戻しながら、ミリュウの目を見た。セツナの表情が厳しかったというわけではないだろうが、ミリュウは鼻白む。

「ミリュウ、とにかく落ち着いてくれ。じゃないと、話もできない」

「……セツナはいいの!? 納得できるの!? こんな女を護衛につけなくたって、あたしがいるじゃない!」

「ファリアのいった通り、陛下が認めたっていうんだ。納得するしかない」

「本当に陛下が認めたのかどうかは怪しいものだけどね」

ファリアがちくりといってくるが、それについても考えがあった。

「それは明日、陛下に直接聞くさ。死神零号が俺を騙していたのなら、そのときはそのときだ」

「隊長がそんなくだらない嘘をつくとでも? ジベルとガンディアの関係が悪化するようなことを、あの方がなさるはずありませんのよ」

どこか上から目線の発言だったが、レムのいうことももっともだった。レムの行動を不問にするためだけに虚言を吐くなど、それこそ馬鹿馬鹿しいことだ。外交問題に発展させたくない、という死神零号の考えそのものが嘘であり、ジベルとガンディアの関係がこじれてもいいというのなら、わからなくはないが。

現状、そんなことをしても、ジベルにはなんの利点もない。むしろ、クルセルクと正面切って戦わなくてはならなくなるのだ。不利益のほうが大きい。

「あたしは……認めないわよ」

ミリュウは、表情を強ばらせたまま、席についた。対して、レムは勝ち誇ったようにいうのだ。

「あなたに認められる必要はありませんの。あなたが認めなくとも、わたしがご主人様を護衛することになんの支障もありませんし」

ミリュウが拳を握りしめたが、セツナの視線に気づくと、しばらくして手を開いた。ゆっくりと息を吐く。怒気を含んだ吐息は熱を帯びていたに違いない。

「馬鹿馬鹿しい……」

彼女はぼそりとつぶやくと、椅子から立ち上がり、テーブルを離れた。

「ミリュウ!」

セツナは慌てて腰を浮かせた。話はまだ終わっていない。レムの処遇について話し合う必要があるのだが、いまのミリュウにそんなことを言えるものでもない。

ミリュウがこちらを見た。彼女の切なげな視線が、セツナの胸に突き刺さった。ミリュウの目には後悔が浮かんでいる。セツナの目の前で怒鳴り散らしてしまったことが辛いのかもしれない。

「……疲れたし、先に寝る」

ミリュウはそういって、こちらから視線を外した。淋しげな後ろ姿は、彼女が天涯孤独の身であることを思い知らせてくるかのようだった。彼女に血縁者がいないわけではない。父親は生きているし、ザルワーンには血縁者が相当数いるらしい。それでも彼女は孤独なのだ。精神的に、孤立してしまっているのだ。

魔龍窟での十年間が、彼女にザルワーンへの憎悪を植え付けてしまった。故郷は憎むべき敵となり、父親も殺すべき標的となった。ザルワーンの人々すべてを嫌悪し、拒絶した。戦いが終わり、ザルワーンという国が消え去り、ガンディアのものとなっても、その事実まで消え去るわけではなかった。

彼女は、孤独になった。

「あ……ああ。おやすみ」

「おやすみなさい、セツナ、ファリア」

「おやすみなさい。ゆっくり休んでね」

「おやすみなさいませ、ミリュウ様」

「っ……!」

ミリュウはレムを睨みつけようとして、やめたようだった。怒気も収め、食堂を出て行った。

重い沈黙が、食堂を包み込んだ。暫くの間、ゲイン=リジュールが食器を片付ける音だけが響いていた。

「前途多難ね」

「ですねえ」

「だれのせいだと思ってるのよ」

ファリアが横目でレムを睨んだ。ファリアはレムに直接絡まれなかったせいもあるのか、彼女の存在を受け入れてはいるようだった。レムは視線を彷徨わせた後、こちらを見た。漆黒の目がセツナを見つめる。なにを考えているのか、さっぱりわからない。

「ご主人様?」

「……あー、それは否定出来ないかも」

ファリアがうんざりとしたのは、レムに対してなのだろうが。

「なんでだよ」

「さあ?」

ファリアは素知らぬ顔をしたが、セツナは、彼女に裏切られたような気がして、肩を落とした。セツナのせいだとすれば、どこでなにを間違えたというのだろうか。

考えてもわからないのは、気分が乗らないせいかもしれない。

明日からのミリュウへの対応を考えると、気鬱だった。ミリュウがここまでレムを毛嫌いするとは思ってもみなかった。彼女のことだ。すぐに受け入れてくれると思っていたのが間違いだったのだ。ミリュウはやはり、ひとに対する好き嫌いが激しい質らしかった。

「彼女については明日にしよう。陛下に聞いてからでも遅くはないし」

セツナが提案すると、ファリアが静かに頷いた。

「ええ……そうね、セツナも疲れたでしょ。しっかり睡眠を取らないとね」

《獅子の尾》は、今朝から働きっぱなしだったのだ。王宮区画の警備に始まり、皇魔との激闘、そして晩餐会。心休まる時間など皆無に等しかった。

「うん、そうするよ。ファリアも」

「ええ、ありがとう。で、彼女の部屋は……」

「あ、わたくしはご主人様と一緒でいいですよ」

「はあ!?」

「じゃないと、護衛の意味がないですよね?」

レムは、邪悪といってもいいような笑顔でファリアに返答した。

セツナは、途方に暮れた。

『敵だ』

声は、夢と現の狭間で聞いた。

カオスブリンガーの警告だということはすぐにわかった。わかったが、だからといって相手にする気にもなれなかった。疲れ切っていた。それでも無意識に問い返したのは、カオスブリンガーを信頼しているからなのだろうが。

「敵?」

夢現の境界に横たわる灰色の世界で、黒い龍がセツナを見下ろしていた。血のように赤く濁った無数の眼は、いつか戦った守護竜を思い出させる。ザルワーンの守護龍。

『そう……敵だ』

天を覆うほどの巨躯が視界を埋め尽くしている。灰色の世界で、ただひとつ、色彩を帯びた存在は、それがこの世界の主であることを示しているのかもしれない。

「敵……」

彼がだれを指して敵といっているのか、セツナには理解できなかった。できなかったが、警戒を強める気にはなった。黒き矛の敵はセツナの敵であり、セツナの敵は、ガンディアの敵でもあるはずだ。

「だれだよ? だれが敵なんだよ」

セツナが竜に向かって問いかけたとき、突如、灰色の世界に光が差した。夢が終わる。焦燥感がセツナを襲うが、夢を引き止めることはできない。

『黒きもの。我と力を同じくするもの』

「また……あんたの関連かよ」

ウェインのことを思い出した。ウェインとランズオブデザイア。漆黒の槍は、死闘の末、黒き矛に取り込まれて消滅した。まるで茶番だと想ったものだ。

また、茶番が始まるのか。

『そのものの名は絶望』

夢の終わり、竜の声だけが耳に残った。

窓から差し込む光の眩しさに促されるまま、セツナは瞼を開けた。窓が開いているかというとそうではなく、昨夜の騒動のあと、カーテンを閉めていなかったのが原因のようだった。日は高く、午前も半ばを過ぎているだろうことは疑いようがない。

しかし、セツナは飛び起きる気にもなれなかった。疲れが溜まっているのか、体が重たいのだ。しかも、両腕が非常に重く、胸や足も圧迫されているような感覚があった。あれだけ長時間武装召喚術を行使していたのだ。反動が、全身の筋肉痛となって現れていても不思議ではなかった。想像していたよりもずっとましなほどだ。以前のセツナなら二、三日は眠り続けていたかもしれない。

疲労が激しいのだろう。自分の息吹が何重にも重なって聞こえた。

(本当……疲れ切ってたんだな)

肉体的に、だけではなく、精神的にも疲労困憊といっても過言ではない状態だった。長時間といっても、ドラゴンとの戦いに比べれば短いものだ。あの戦いの経験が、セツナに召喚を維持し続けるこつのようなものを掴ませていた。非戦闘時ならば、かなりの長時間、召喚を維持できる自信があった。

(まだだ。まだ足りない)

この程度で疲労困憊になるようではまだまだだ、と彼は思い、天井に向かって腕を伸ばそうとした。しかし、右腕は愚か、左腕も自由に動かせなかった。いくら筋肉痛でも、動かすことくらいはできるはずなのだが。

「んん……」

(え?)

セツナは、幻聴を聞くほど疲れていることを知って、愕然とした。いくらなんでも疲れ過ぎではないのかと思ったが、久々の本格的な戦闘だったのだということを考えれば、当然かもしれない。

「んなわけあるか!」

セツナは、自分自身にツッコミを入れながら視線を巡らせて、驚愕した。全身の至る所に感じていた圧迫感の正体を目の当たりにして、頭の中が真っ白になる。

「あ……起きた……」

まず、セツナの右腕を占領していたミリュウが寝ぼけ眼をこすると、

「ご主人様、おはようごさいます……」

セツナの左腕を占有していたレムが眠たそうな顔で挨拶をしてきた。

セツナは、一瞬にして眠気が吹っ飛ぶ感覚を味わいながら、素っ頓狂な声を上げた。