「ようやく俺も捉えましたよ、リネンダールの巨鬼を」

クオールが声を励ましていってきたのは、ウェイドリット砦を離陸して数時間後のことだった。振り向けば、ウェイドリッド砦は遥か後方にあり、いまや豆粒くらいの小ささになっていた。高度もあるが、速度も凄まじいのだ。地上を馬で駆け抜けるよりずっと速く、リネンダールへと近づいている。

その間、彼はずっと飛び続けていた。セツナは、そんな彼の背にしがみついている。バハンダールのときと大きく違うのは、セツナを運ぶ方法だった。ルウファはセツナを抱き抱える方法を選び、クオールはセツナを背負うことを選んだのだ。

『男を抱き抱えるなんて真平御免ですよ』

クオールの渋い顔に、ルウファが苦笑した。ルウファがセツナを抱き抱えたのは、そのほうが怖くないから、ということだったのだ。抱き抱えていれば、少なくとも、知らない間に振り落としているということはない。

慣れているかどうかの問題だろう。クオールは召喚武装の能力でひとを運搬することがよくあるようなのだ。

「まったく、とんでもないものを召喚したものだ」

彼の言葉に、セツナは前方に視線を戻した。セツナは、漆黒の翼と翼の間に挟まるようにして、彼の背中にしがみついている。翼は、セツナの存在を邪魔にも感じていないのか、伸び伸びと羽ばたいていた。

ルウファがセツナを抱き抱えたのは、背負うことによる鬱陶しさもあったのかもしれない。

「召喚したはいいが、送還できるのか」

前方、巨鬼の姿ははっきりと見えている。リネンダールと呼ばれた都市は跡形もなく消え去り、大地には巨大な穴が穿たれていた。その穴から巨大な鬼の上半身が出現している。鉄色の外皮は見るからに硬質で、まるで装甲のように変形している部分が多い。隆々とした体躯には無駄な肉が見当たらず、見掛け倒しでないことは確かだ。上半身、胸に焦げ付いたような痕がある。マリク=マジクによる光波放射の直撃痕だ。癒えていないところを見ると、自己治癒力は低いのかもしれない。

腕は四本。そのうち二本が穴の縁に突き刺さり、もがいている。穴から抜けだそうとしているのだが、どうやら簡単にはいかないらしい。簡単に抜け出せるのなら、召喚当日、五体満足の姿を晒しているに違いないが。

残る二本の腕は、天に向かって掲げられている。それぞれ手の先に光の球が形成されており、その光球から発射される光弾が、各方面を進軍中の連合軍三軍団に雨霰と降り注いでいた。

頭部を見る限り、鬼だ。憤怒の相をした鬼神。燃えるような頭髪に稲妻のような角があり、ぎょろりと見開かれた目は金色の光を発している。その双眸が、こちらを捉えた。黄金の光が幾重にも走る虹彩には、神々しさがあった。

(神……ってやつか。異世界の)

セツナは一瞬、我を忘れてしまった。

ザルワーンに召喚されたドラゴンとは、明らかに次元の違う存在だった。

「制御出来ないものを召喚してどうする、って話ですよ」

「……それもそうか」

「オリアス=リヴァイアとやらは、送還魔法も使えるはずですよ。オリアス=リヴァイアを捕縛し巨鬼を送還させるのが、一番確実で、もっとも難しい方法ですな」

「……そんな時間はないさ」

「わかってますよ。だから、俺はあなたの翼になった」

巨鬼の腕が想像以上の速度で動いた。天にではなく、こちらに向けられる。クオールがレイヴンズフェザーで虚空を叩く。衝撃がセツナの体を貫いたかと思うと、視界が急激に旋回した。光芒が網膜を塗り潰し、熱気が過ぎ去っていく。それだけで、クオールが巨鬼の攻撃を回避したことがわかる。

レイヴンズフェザーの能力は、飛行だ。ルウファのシルフィードフェザーと同様の能力だが、それは翼系召喚武装の基本能力らしい。そこに召喚武装ごとに異なる能力が付加されているのが常識だということだった。シルフィードフェザーが外套に変形する能力を持つように、レイヴンズフェザーは超加速と呼称する能力を持つ。

通常の飛行速度は、シルフィードフェザーと変わらないようなのだが、超加速を使えば、十日あまりで大陸の北端から南端まで辿り着くことができるらしい。それがどれだけ凄いことなのか、大陸の面積を知らないセツナにはわからないのだが、ガンディア縦断が一日もかからないという話には驚かざるを得なかった。

そして、その超加速こそが、巨鬼に接近する確実にして唯一の手段だという皆の意見は、正しかった。

クオールは、急加速と旋回を繰り返しながら、つぎつぎと飛来する光弾をかわしていた。

「しっかり掴まっていてください。どうやら俺たちを真っ先に排除するべきだと認識したようですから」

「軍師殿の狙い通りだな。俺達が的になる限り、連合軍は安全だ」

「精々、撃ち落とされないようにしませんとね」

「辿り着く前に撃ち落とされたら、すべておしまいだな」

セツナは黒き矛を握りしめながら、クオールから振り落とされないことにのみ集中した。巨鬼まではまだまだ遠いが、近づけば近づくほど攻撃の精度が上がっていくのだ。その分、クオールの回避行動も激しくなり、速くなる。気を抜けば地上に落下するのは間違いない。

青空と大地と光と水面の反射、太陽光と雲の白さと――視界に飛び込んでくる濁流のような映像には、眩暈を覚えそうだった。それでも、彼は目を見開いて、クオールが光弾を避ける瞬間を見ていようと思った。

巨鬼の攻撃は、苛烈極まるものだった。

休みなく飛びかかってくる光弾に光線が混じり、曲線を描く光芒がクオールの右足の爪先を灼いた。クオールは歯噛みして、痛みを耐えぬいたようだったが、軽傷とはいいきれなかった。血のにおいがした。

「クオール……!」

「なにもいわないでくださいよ」

クオールが苦痛を堪えているのになにもできない自分が、セツナには苦しかった。

「いまここで降りるわけにはいかないんです。こんなところで降りちゃ、それこそおしまいだ。ファリアにも笑われてしまう」

「ファリアは、そんなことでは笑わないよ」

「……そうですね。彼女なら、笑わないでしょう。嫌ったりもしないでしょうね。ただ、傷のことを心配してくれるだけでしょう。ファリアはそういうひとだ」

「ちゃんと怒ってはくれるさ」

「それは……あなただからじゃないかな」

「え?」

セツナがきょとんとすると、クオールが、ふっ、と笑った。優しい笑い声にはやはり苦痛が滲んでいたが、彼はその苦しさを隠すのをやめたようだった。急降下して光線を回避すると、急上昇して高度を上げる。

巨鬼の攻撃は、上空に集中させなければならない。でなければ、流れ弾が連合軍に被害をもたらす可能性があるからだ。こんな状況でも、彼はその大前提を忘れていなかった。

「ファリアは気を許したひとにしか厳しくしないよ。他人に甘く、自分に厳しく。それがファリア・ベルファリア=アスラリアだ。厳しく接する他人がいるとすれば、それは彼女が心を許した人間にほかならない」

クオールは、レイヴンズフェザーを自在に操り、光の弾幕のまっただ中を平然とすり抜けていく。光弾が翼を掠り、翼が火を吹いても、彼は一向に気にしなかった。彼は、巨鬼への接近だけを考えているようだった。自分の身の安全などどうでもいいとでいうかのように。

セツナはそんな彼に危うさを覚えるのだが、掛ける言葉も見つからない。なにより、彼とセツナでは役割が違うのだ。口出しすることは許されない。

「俺は、彼女の翼にはなれなかった」

蛇行する光の奔流を器用に回転しながら回避する。翼の先端が焦げ付いたが、彼はまたしても黙殺した。多少の傷など、超加速を使う分には関係ないのかもしれなかった。

「皮肉だな。彼女の想い人の翼になるだなんて」

クオールが、光弾を避けながら、自嘲気味に笑った。