「負けた言い訳なんてありませんぜ」

リューグがため息まじりにいったのは、《獅子の牙》の隊舎に向かう道すがらだった。晩餐会まではまだまだ時間がある。一度隊舎に戻って体を休めるつもりでいた。着替えも必要だった。仮面は、王宮が用意してくれるということだったが。

道中、《獅子の牙》の隊長以下二十名ほどが、ついてきていた。皆、御前試合の決勝戦を観戦し、リューグに声援を送ってくれていたらしい。まったく聞こえなかったことを考えると、周りが見えなくなるほど緊張していたのかもしれない。普段ならば、どんな状況にあっても周囲を見ているというのに、だ。

セツナだけを見ていた。見ていなければならない相手だった。そうするだけの実力を持っている。注意をそらせば、不要な得点を与えることになりかねない。彼には、試合を操作する必要があった。無駄な失点も無駄な得点も、あってはならなかった。

緊張するのは、当然だったのかもしれない。

ラクサス・ザナフ=バルガザールがこちらを横目で見て、口を開いた。

「実力で負けた、か」

「はい」

「精彩を欠いた攻防だったわね」

シェリファ・ザン=ユーリーンの声が、少し厳しい。彼女は、リューグが負けたことよりも、美しくない戦いだったことが気に食わないらしい。シェリファらしい評価だが、そればかりはどうすることもできなかったことだ。言い訳がしたくなったが、飲み下す。いったところで、王立親衛隊の隊士が外部に言いふらすとは思えない。王立親衛隊は、ガンディアの中枢に関わる舞台でもある。口が固くなくては、隊として成立しないのだ。隊士の選定には、素行や性格も調べあげられている。

「決勝の舞台で緊張していたんですよ」

「確かに、そう見えたな」

ラクサスは、そういったものの、まったく納得していないような口ぶりだった。当たり前かもしれない。彼ほどリューグの実力を知っているものはいない。クルセルク戦争の最終盤、反逆者討伐の戦いにおいて、もっとも首級を上げたのがリューグだということも、ラクサスとシェリファしかしらなかった。掃討戦である。論功行賞の上位に食い込むほどの評価は得られなかったものの、《獅子の牙》におけるリューグの地位向上には役だったようだ。それ以来、シェリファのリューグを見る目が明らかに変わった。リューグには、それだけで十分だったし、上位二十名には入らなかったものの、五十位までには入っていたのだ。喜ぶべきことだった。

「隊長、なにがいいたいんです?」

「いや……ご苦労だった。準優勝でも十分凄いことだ」

「はい。二位でも賞金がもらえるというのが、嬉しい限りですよ」

「そうか」

「これで武器を新調できる」

「給料では無理だったの?」

シェリファが驚いたのは、無理もない。王立親衛隊士の給料は、軍団長並とはいわないにせよ、それに近い金額であり、親衛隊士の武器防具のきらびやかさが維持されているのは、そういう理由があった。武器防具の手入れや新調は、本来、給料で行うべきものだ。必ず手に入るわけではない褒賞金などをあてにしていてはいけないのだ。

そんなことはわかりきっているのだが。

「いやあ、給料は生活費に消えていくものですし」

「浪費家ねえ」

シェリファがあきれて笑った。

「人生、楽しまないと」

「ひとの生き様に口は出さないさ。隊の評判にかかわらないかぎりはな」

ラクサスが釘を差したのは、無論、リューグに対してだけではない。同じく隊舎に向かう《獅子の牙》の隊士たち全員に向かってだ。そこにはシェリファも含まれるし、自分自身さえ、その対象だったのかもしれない。

他者のみならず、自分自身へも苛烈で厳正なのがラクサスという男だった。

そんなラクサスのためにできることはなんなのか。

リューグは、そればかりを考えていた。

「まったく、困ったお方だ」

ジゼルコート・ラーズ=ケルンノールは、頭巾の男が椅子に座るのを待ってから、ため息をついた。ふたりがいるのは、王宮区画内のジゼルコートの屋敷だ。さすがに練武の間で話し込むわけにはいかない。練武の間は、使用人による撤去作業中であり、王宮警護の監視の目が光ってもいた。落ち着いて話し合うことなどできるわけがない。

「つけてくるほうが悪い」

彼は頭巾を脱ぎながらいった。北方人特有の雪のように白い肌が女のように見えた。実際は若い男だ。やや眺めの髪は漆黒で、やわらかな目に浮かぶ虹彩は茶褐色。顔立ちの良さは、彼の出自とは無塩のものらしいのだが。

彼がいったのは、本心ではあるまい。声が笑っていた。テリウス・ザン=ケイルーン。このベノアガルドからの来訪者には、ジゼルコートの友人アルベイル=ケルナーという偽名を名乗らせている。彼は本性を隠す必要があった。ベノアガルドの指先がガンディアまで伸びているということは隠さずともわかりきっていることだが、だからといって、ベノアガルドの騎士団を代表するひとりが、ガンディア王都に現れ、王宮に入ったとあれば事情は変る。外交問題に発展しかねない。

ジゼルコートが彼に偽名と嘘の立場を与えたのは、彼の目論見のためだけではなかった。ベノアガルドとの間に外交問題を発生させたくなかったのも確かなのだ。ガンディアは、大きな戦争を終えたばかりだ。国も民も疲弊している。そんなとき、新たな問題を抱えれば、国中の民が嘆き、絶望が蔓延するかもしれない。それは、ジゼルコートとしても望むべき事態ではなかった。ガンディアには安定が必要だ。安定こそが平穏と安寧をもたらす。

そのためには、問題を起こさないことだ。

「誘ったのは、どなたかな」

「すべてお見通しというわけですか」

「貴賓席からは会場がよく見える。ただそれだけのことです」

決勝戦が最高潮を迎える中、テリウスが立ち上がったのが見えた。運が良かった。もし、ジゼルコートがテリウスの座席を注視していなければ、彼の予期せぬ行動を見逃していたかもしれない。ジゼルコートもまた、セツナとリューグの激闘に半ば熱中していたのだ。そんな最中、テリウスが予定外の行動をとったのだ。冷水を浴びせられた。彼が気分を害したのは、当然の結果だった。もちろん、そのことでテリウスを詰ることはできないが。

「ふむ……それならば、陛下にも気づかれたかもしれませんな」

「いや、陛下は決勝に夢中でおられたようだ。王妃殿下も気づいてはおられまい。そもそも、気づいていたならば、王宮警護ではなく、王立親衛隊があなたを迎えにいったでしょうな」

「なるほど。王立親衛隊が」

「その場合、少し面白くない事態に発展したでしょう」

王立親衛隊と王宮警護は、その立場も設立目的も大きく異なる。王宮警護は、その名の通り、王宮の警護を目的とした組織だ。王宮で事件が起きないよう、起きたとしても即座に対応できるように警備網を構築し、その上で巡回している。王宮での行事が滞り無く進むのは、王宮警護の活躍によるところが大きい。

それに対して、王立親衛隊は、まさに王のための親衛隊なのだ。王がみずから選定した盾であり、剣。レオンガンドの意向によって動く彼らは、王宮警護のように融通が効く組織ではなかった。ジゼルコートの意見は黙殺され、レオンガンドの意思のみを聞き入れるだろう。王立親衛隊にとってはそれが正義だ。

その点に関しては、ジゼルコートが口を挟む余地はない。ジゼルコートの私兵団に国が口出しできないのと似たようなものだ。もし、王立親衛隊に領伯が干渉しようとすれば、それを口実に、領伯の私兵に国が干渉してくるだろう。現状、それだけは避ける必要がある。

「ジゼルコート伯が後ろ盾についていても?」

「……まあ、わたしが手を回せば、最悪の事態だけは回避できますとも。しかし」

「わかっています。目立つようなことは、もう避けます。わたしも、自分の立場くらい理解しているつもりですよ」

「それならばいいのですが」

とはいったものの、不安を拭い去ることができないのは、このベノアガルドからの訪問者が内心ではなにを考えているのかがわからないからだ。他国。彼が本心を明かせないのは当然であり、当たり前のことなのだが、胸襟を開かないものを信用し切ることは、難しい。だからこそ、ジゼルコートはみずから心を開き、彼の出方を見ているのだが。

テリウスは、ジゼルコートとの間に一定の距離を保っている。

「それで、レム=マーロウとはなにを話されたのです?」

「ちょっとした世間話ですよ」

彼は声に出して笑ったが、その茶褐色の瞳は無表情といてもよかった。

「世間話の結果、戦闘に発展したと?」

ジゼルコートは、目を細めた。彼の元に入ってきた情報では、レム=マーロウが“死神”を用い、彼に襲いかかったという話だった。レム=マーロウほどのものが攻撃を仕掛けたというのだ。テリウスに非があるとしか思えなかった。

「まあ、そうなります。わかっていますよ。ちょっと煽りすぎましたね」

「レム=マーロウは、どういうわけかセツナ伯に忠誠を誓っていて、彼のためならば命を投げ出すほどの覚悟があるようなのです。迂闊な挑発は死を招きますよ」

ジベル国籍を捨て、ガンディア国籍を得たことで、彼女のセツナへの忠誠心は明らかだ。生まれ育った国を捨てることは、簡単なことではない。自分のこれまでの人生を否定するようなものなのだ。特に、死神部隊として国の暗部に関わってきた人物には、様々な意味で、難しいことだったに違いない。障害をものともしない覚悟があり、実行に移すだけの行動力もあるということだ。

「不思議なこともあるものだ」

「セツナ伯には奇妙な魅力があるのでしょう。彼の愛人のひとりとされるミリュウ=リバイエンなども、元は敵国の人間。いまや彼の虜となっていますが」

「……セツナ=カミヤ。彼の実体は知れたものだと思ったが、どうやら、もう少し調べる必要がありそうだ」

「セツナ伯を調べて、なんとするのです?」

「なに。あなたの目的と合致することですよ」

テリウスは、笑いもせずにいった。

「ガンディアを救済するために戦力を派遣するには、ガンディアの最高戦力である彼を調査するのは、当然のことだ」

救済。

それこそ、ベノアガルドの神卓騎士団が掲げる目的であり、ベノアガルドが近隣国に侵攻する最大の理由だという。