「黒獣隊?」

シーラは、彼の言葉を反芻するようにつぶやいた。それから、もう一度胸中で思い浮かべる。

(黒獣隊)

セツナがシーラたちの部屋を訪れたのは、その名称に関することを話すためだった。打診である。セツナがシーラの要請を受けて即座に考えついた案のひとつだといい、いまのいままで、その実現のために動いていたという。

それまでシーラたちが日がな一日、なにもせず、なにもできず、室内に籠もっていなければならないことを心苦しく思っていたといい、彼はまず、シーラたちにそのことを謝罪した。慌てたのはシーラたちだ。セツナの元に押しかけ、保護を求めたのはシーラであり、保護してもらっているというだけでも十分だというのに、なにもすることがない、なにもできないからといって不満を漏らすつもりもなかった。むしろ、感謝するしかない立場にいるのだ。それにまだ、泰霊殿に入って一日しか経過していないのだ。セツナが謝るほどのことではないはずだった。

話を戻すと、セツナがシーラに打診してきた黒獣隊というのは、龍府の領伯であるセツナの私兵部隊として新設する戦闘部隊のことだった。それもシーラたちのためだけに新設するという感じであるらしく、シーラのみならず、侍女たちは皆一様に感激し、セツナのはからいに感謝した。

だから、黒獣隊なのだろう。

シーラは合点がいったが、クロナがセツナに聞き返した。

「なんでまたそんな名前に?」

「黒き矛と獣姫を合わせただけだよ。それにしたって、悪くないだろう?」

セツナがいかにもお気に入りだとでもいわんばかりに聞いてきたが、シーラの感覚的にも悪いものではなかった。音の響きも、その言葉が意味することも、素敵としかいいようがない。

シーラは、セツナの顔をまじまじと見ていた。

黒き矛のセツナ配下の獣姫率いる部隊。ただそれだけのことだが、だからこそ、いいのだ。そして、そうあるべきだ。

シーラはセツナの庇護によって、ようやく安息を得ることができた。シーラだけではない。ウェリスも、クロナも、ミーシャも、アンナも、リザも、皆、泰霊殿に入ったことで、やっと安堵を覚えたようだった。安堵が心を軽くし、口を軽くしているのだ。

王都への帰還を拒絶されて以来、皆、笑うことすらできなくなっていた。タウラル要塞での日々にも安息はなく、心はひたすらに深く沈んでいく。タウラルの空気そのものが張り詰めていた。いや、アバード全体が緊張に包まれていたのかもしれない。息苦しく、生きていくのが苦しくなるような状態のまま、タウラルを抜け出した。センティアから国境を越え、マルウェールに入ってもその苦しさはほとんど改善されなかった

やっとの思いで龍府に辿り着き、旅館で給仕の真似事を始めて、ようやく笑顔を見せ始めた。だが、皆、空元気なのはわかっていた。絶望的な状況に変わりはない。スコット=フェネックには悪いが、彼は頼りにならなかった。あのまま、旅館で日々を過ごすというのは、不可能に近いといってもよかったのだ。

精神的にも肉体的にも限界が近づいてきていた。

そんなとき、シーラは龍府の領伯となったセツナに救いを求めた。本来ならば許されないような方法で天輪宮に忍び込み、彼に接触を試みた。

昨日のことだ。

セツナは、シーラの願いを快く受け入れてくれた。しかも、天輪宮の泰霊殿という龍府の中心部に置いてくれるというのだ。泰霊殿は余人の立ち入れる空間ではなかった。天輪宮ですら一般人の立ち入りは禁止されている。

他人の目を気にすることもなく、追手の影に怯えることもないということが、どれほど心を軽くするのか、シーラたちは身を以って理解したものだ。ウェリスやクロナが、緊張から解放された笑顔を浮かべた様子を見て、シーラは自分の判断が決して間違いではなかったことを知り、そのたびにセツナへの感謝を想った。想うだけでは足りない、とも考えていた。行動に移したいのだが、勝手な行動は、むしろセツナの立場を危ぶむことになりかねない。セツナがなにかしら求めてくるまでは、黙っていることしかできないのが少しばかり悔しかった。

彼が黒獣隊の話を持ってきたのは、そんなときだったのだ。

「確かに、格好いいですね!」

「まあ、悪くないですね」

「黒獣隊……」

「セツナ様と姫様の二つ名が結婚したというわけですね」

などといってセツナを困らせたのは、当然、クロナだ。彼女はさっきからそんなことしかいっていない気がするのだが、気のせいではあるまい。シーラは、クロナを睨みつけた。

「クロナ、おまえ少し黙ってろよ!」

「姫様、照れなくてもいいんですよ?」

「だれが照れてるっていうんだよ!?」

「まあ、なんだ」

セツナが割り込んできたのは、シーラとクロナのやり取りが長引きそうだったからなのかもしれない。彼としては、こちらのことよりも自分の提案のほうを優先したいのは、当然の話だったし、シーラとしても彼の提案に意識を集中したいところだった。

「気に入ってもらえたのならなによりだ。それで、受けてくれるか?」

「もちろんです。よね? 姫様」

「あのなあ、こういうときは俺が返事をするもんだろ?」

「そうですけど、姫様、セツナ様を直視できないんじゃないかと不安になったもので」

「なんでだよ!?」

シーラは、クロナに向かって悲鳴に近い叫び声を上げてから、セツナを一瞥した。セツナは、困ったような顔でこちらを見ていた。顔面が紅潮するのを実感として理解する。それもこれも全部、クロナのせいだということは明らかだ。彼女が茶々を入れてこなければ、意識することなどなかったはずなのだ。クロナさえ黙っていれば、ミーシャたちも口を挟んでくるようなことは、ありえない。

シーラはわざとらしく咳払いをすると、セツナに向き直った。セツナは、ウェリスが用意した椅子に腰かけている。領伯らしい衣装ではなく、極めて庶民的な衣服に袖を通しているのがセツナらしいといえば、セツナらしいのかもしれない。領伯が着るべき豪奢ない服は窮屈でたまらないのだろう。

「……受けてくれるんだな?」

「もちろんです、領伯様」

シーラは、セツナの前で恭しく頭を下げた。臣下の礼、というものだろう。これによってシーラはセツナを主君として仰ぐことになる。これまでシーラはアバードの王女として人々の上に立ってきたものだが、これからはセツナの下で働くことになるのだ。立場が大きく変わる。が、問題はなかった。むしろこれですっきりするだろう。

シーラは、アバードの王女ではなくなったのだ。いや、アバードの王女シーラ・レーウェ=アバードは処刑されてこの世にいないのだ。ここにいるのは家名を持たないただのシーラであり、クロナたちが姫様などと呼ぶのも間違っている。泰霊殿にいるということもあってこれまでは正さなかったが、これからは改めていく必要があるだろう。黒獣隊の仕事は、領伯の身辺警護や天輪宮の警備であり、人前に出ることもあるのだ。さすがに人前でシーラのことを姫様と呼べば、疑問を生むのは当然であり、疑問が疑惑に発展するのは時間の問題だ。もちろん、そんなことはシーラがいうまでもなく理解しているだろう。旅館での仕事中は、シーラのことを姫様ともシーラ様とも呼ばなかったのだ。ただ、シーラと呼んだ。それでよかった。旅館にいる間は同僚だったからだ。

これからも同僚となる。

もっとも、シーラは黒獣隊の隊長であり、彼女たちは部下になるようだが。

「わたくしは今日より、セツナ様の臣下にございます。なんなりと御命令を」

「……まあ、正式な発足はまだけどな。書類も必要だし、隊服も必要だろう」

「書類はともかくとして、隊服ですか?」

ミーシャが目を輝かせたのは、彼女が揃いの衣装というものに目がないからだろう。

「隊服の意匠に関しては皆の意見を聞かせてくれ。これからしばらくは着ることになるんだ。気に入らない意匠なんて嫌だろ?」

「なにもそこまでお気遣いいただかなくとも……」

「俺に意匠を決めさせたら酷いもんだぞ。それでもいいのか?」

「姫様は、セツナ様印ならなんでもいいそうです」

「んなこと、だれもいってねえ」

「嫌なんですか?」

「いや、そういうわけじゃねえけど……」

シーラはクロナに念押しされて、しどろもどろになった。彼女のいうようにセツナが決めた意匠ならばどのようなものでも構わないのは確かだ。しかし、それはセツナだからではないはずだ。隊服の意匠にこだわっていられるような立場ではないと思っているからだ。シーラたちは助けられた側の人間であり、こちらから要求すること、要請することなどなにひとつないのだ。

泰霊殿という安息の地を与えてくれただけで十分すぎた。

「まあとにかく、意匠は任せた。細かいことは、ダンエッジと話し合ってくれ」

「ダンエッジ?」

「この龍府の真の支配者さ」

彼が自嘲気味に笑った理由は、シーラにはわからない。

「はあ?」

「司政官だよ。俺の代わりに龍府を取り仕切っている」

セツナ自身の補足でようやく合点がいく。要するに領伯であるセツナの代わりに領地を運営するよう、国から派遣されてきた代理人なのだ。本来ならば領伯が行うべき仕事を肩代わりしている、ということだ。そしてそれは恥ずべきことではない。セツナは、戦争においてガンディアに多大な貢献をもたらしているのだ。この龍府をガンディアが無事に手に入れることができたのも、セツナの活躍が大いに関係している。むしろ、胸を張るべきなのだ。

「俺が会っても大丈夫なのかな?」

「そうだな……ダンエッジと話し合うのは、ウェリスかクロナのほうがいいかもしれないな」

「姫様は髪がねえ」

「仕方ねえだろ。セツナが染めろっていうなら、染めるけどさ」

「そこまでする必要はないさ。それにダンエッジに知れたからといって、問題になるわけじゃない。ダンエッジがアバードと繋がっているのならともかく、そんなことはありえないしな」

セツナは、ダンエッジという人物が信用にたるものだと断言したようなものだった。もっとも、ダンエッジ=ビューネルのひととなりを信頼しているからではないということだ。ダンエッジ=ビューネルは、かつてザルワーンの支配者として君臨したミレルバス=ライバーンの五人の腹心のひとりであり、故にアバードと繋がることなどありえない、という話らしい。

確かに、ミレルバスの遺志を継いでいるのならば、アバードに擦り寄る可能性は皆無といっていいだろう。アバードは、ミレルバス政権以前からザルワーンと険悪な間柄だたが、ミレルバス政権末期ともなると常に一触即発といってもいいような関係になっていた。そして、ザルワーン戦争では、アバード軍がザルワーン領内に侵攻し、ドラゴンの出現を目の当たりにしている。

ダンエッジ=ビューネルなる人物がミレルバスに心酔し、いまでもミレルバスの影響下にあるというのなら、シーラの正体を知ったとしてもアバードに密告する可能性は低い。ガンディア政府に連絡することはあるだろうが、それはセツナが先にするだろう。セツナは、国王レオンガンドと蜜月の日々を送っている。

「それに、せっかくの綺麗な髪がもったいないだろ」

セツナの何気ない一言に、シーラは、思考が停止する感覚を認めた。

容姿を褒められることには、慣れている。王族として生まれ育ったものの宿命といえばそれまでだが、生まれ落ちてからこれまで、容姿を褒められたことは何万回、何十万回となくあった。それこそ数えきれない。

子供の頃は純粋に嬉しかった言葉の数々も、やがて空疎なものでしかないという現実を知るに至る。王子として振舞っていた子供時代も、王女として返り咲いた少女のころから今日に至るまでも、彼女を褒め称えるのは、礼儀でしかなかったのだ。社交辞令であり、王家の支配下で生き抜くための知恵にすぎない。故に心に響くことなどはない。

だが、セツナは違った。

セツナは、シーラの支配下にある人間ではない。

むしろ、シーラのほうがセツナの支配下にあるのだ。世辞を用いる必要などはなく、だからこそ、シーラの胸に突き刺さったのかもしれなかった。

「綺麗な髪……か」

セツナが去った後、シーラはぼんやりとつぶやいて、自分の髪に触れた。