Armed Summoners - Black Spears and the Brave Men of the Other World

Episode 851: May 5 - In the case of Sheila (1)

「はあ、はあ……ったく、限界ってものがねえのかよ、おまえにはさ」

シーラは、空気を求めて喘ぎながら、その場に倒れこんだ。周囲の視線などお構いなしに、だ、視界に広がるのは雲ひとる内青空であり、滲んだようなイルス・ヴァレの空は、相も変わらず泣いているように見えなくはなかった。

天龍塔から走り続けて水龍塔に辿り着いてしまったのだ。龍府の端から端へというのはいい過ぎにしても、それに近い距離を激走したのは間違いなさそうだった。ここのところの運動不足がたたった訳ではないだろうが、足の筋肉が悲鳴を上げていた。相当な距離を全力疾走したのだ。どれだけ鍛えあげていても泣きたくなるだろう。

シーラは、獣姫と呼ばれる。それは、ハートオブビーストの能力による外見の変化だけが理由ではない。むしろ、ハートオブビーストの能力によるものだというのは後付に等しく、獰猛な獣のような戦いぶりを見せることから、獣姫などと呼ばれるようになったのだ。それは、召喚武装を自在に扱えるようになる前からのことであり、彼女自身の実力によるところが大きい。

つまりなにがいいたいかというと、召喚武装を持っていなくとも一流の戦士といって差し支えない程度の身体能力を誇るのが、シーラという人間であり、彼女にはそれだけの自負や自信があった。

そんな彼女ですら疲れ果てるほどの距離を駆け抜けて、なおけろっとした様子でこちらを見下ろしている人物がいる。とてもシーラと同程度の体力を有しているとは思えないような体型の人物は、呼吸を乱してもいなければ、汗ひとつかいていなかった。微笑すら、浮かべている。

「限界はあるのでございましょうが、いまのところ、底が尽きるような状況に陥ることはなさそうでございますね」

化け物じみたことを平然と言い返してくるのが、その黒髪黒目の美少女の恐ろしいところだ。レム=マーロウ。使用人のような格好をした彼女こそ、この広大な都の支配者であり、ガンディアの英雄とも讃えられるセツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルド唯一の従者だった。唯一、彼女だけがセツナの側に仕えている。領伯ほどの地位にあれば、その周囲には数多の人間からなる側近団が形成されていてもおかしくはないし、むしろそうあるべきなのだが、セツナはそういうものを形成するつもりはないようだった。そんなものを作れば身軽に動けないというのが彼の考えであろう。領地の運営は、国から派遣された司政官に任せてしまえばいい、と彼は考えている。そしてそれは必ずしも間違いではない。ガンディアがセツナに求めるのは、戦果だ。戦場での働きこそ、黒き矛のセツナに求められるものであり、領伯としての手腕など、だれも彼に求めてはいなかった。つまり、セツナは自分の価値や役割を一番良くわかっているということだ。

そんな彼が、ただひとり、レム=マーロウだけを側に置いている。それもおかしなことに、彼女は一度、セツナを窮地に追い込んでいるのだ。

レム=マーロウは、かつてレム・ワウ=マーロウと名乗った。ジベルの暗躍機関・死神部隊に所属し、死神壱号と呼ばれていたのが彼女であり、彼女が一時期セツナの従者を演じていたのは、死神零号ことクレイグ・ゼム=ミドナスの命によるものだった。クレイグの目的は、クルセルク戦争のどさくさに紛れてセツナを暗殺することにあり、レムはそのための布石として、セツナの側に置かれていたらしい。実際、クレイグの策は的中した。セツナが見せた隙をレムは見逃さず、彼を影の中へ引きずり込んでいったという。

その影の中で、セツナはクレイグ率いる死神部隊と戦い、辛くも勝利することができたということだった。そして、影の国から排出されたセツナとレムを発見したのがシーラであり、彼女はセツナだけでなく、レムのことも軍医の元に運んだ。もっとも、レムに外傷はなく、すぐに起き上がってセツナのことを心配そうに見守り始めたのを覚えている。

レムは、自分がセツナを瀕死に追い込む原因を作ったということさえ忘れているのではないか、というくらい、セツナのことを心配しているようだった。

シーラには、セツナとレム=マーロウの間になにがあったのかはわからない。しかし、レムがセツナのことを大切に想っているのだけは確かなようであり、彼女がジベル国籍を捨て、ガンディア国籍を得てセツナの従者になったという話を聞いても驚かなかった。彼女ならばそうするだろうという確信めいたものがあったからだ。

セツナはともかく、セツナの周囲までも彼女を受け入れているのは、多少、意外に思ったりもした。レムはセツナに瀕死の重傷を負わせるに至る原因を作った人物だ。いかな理由があれ、それが事実である以上、セツナの部下たちが彼女を拒絶してもおかしくはないし、受け入れがたいと憤るのが普通の反応だ。しかし、セツナの周囲を彩る人物たちは、レム=マーロウを平然と受け入れているように思えた。ファリアにせよ、ミリュウにせよ、ルウファにしてもそうだ。皆、レムと普通に接していたし、昔からの仲間であるかのように振舞ってさえいた。

奇妙なことだ。が、セツナの人徳によるものだと考えると、納得もできるものかもしれない。

「本当に人間かよ」

吐き捨てるようにいいながら、やっとの思いで上体を起こす。レムの笑顔に変化はない。彼女は、十代前半から半ばの少女のような外見をしており、その容姿は、可憐といっていい。昔のシーラなら護るべき対象として認識したかもしれない。そんなことを考えてしまうほど、彼女の容貌は罪作りといってよかった。

案外、セツナがレムを側に置いているのは、その容姿のせいなのかもしれない――ふと脳裏に浮かんだ考えの馬鹿馬鹿しさに、シーラは胸中で苦笑した。セツナはそんなことをするような男ではなかった。そもそも、彼の境遇的に考えて、わざわざ美少女を側に置く必要はないだろう。ファリアがいて、ミリュウがいる。ほかにも多数の女性が彼に気を寄せているに違いない。

それに、その気になればガンディア中から美女、美少女を呼び集めることだってできるだろう。なにせ、彼はガンディアの英雄なのだ。

そんなことばかり考えてしまうのは、ここのところ、浮かれているせいかもしれない。だが、その浮かれた魂のおかげで、現実から目を背けることができる。目の前の残酷な未来を直視せずに済むのは、正直なところ、ありがたかった。

レムが、天使のような笑顔を湛えたまま、告げてくる。

「死神にございます」

天使のように微笑む死神などいてたまるか、と思うのだが、彼女は死神部隊の出身であり、死神と名乗るのも間違いではないのかもしれない。使用人が着るような黒と白の装束も、死神の装束に見えないこともなかった。

「……本当にそんな気になるな」

「本当でございます」

「本当?」

「はい」

レムは、至極真面目にうなずいてきた。シーラは、彼女の笑顔を見つめたまま、数秒、硬直した。彼女の冗談が冗談に思えず、笑うに笑えなかったのだ。

「ははっ……面白いやつだよ、おまえは」

「黒獣隊長にお褒めに預かり光栄でございます」

レムは、深々とお辞儀をすると、恭しく手を差し伸べてきた。シーラは彼女の手を取って立ち上がると、大きく伸びをした。足はまだ疲れているが、呼吸は整いつつある。レムがシーラの背後に周り、衣服に付いた砂や土を払い落としていく。これではまるでシーラの使用人だ。シーラはレムの行動に苦笑すると、前方に視線を向けた。

五龍塔のひとつ、水龍塔が聳えている。大きさは天龍塔と変わらない。しかし、石塔に絡みつく龍の外見や色彩が天龍塔の龍とは大きく異なっている。碧い龍は、水龍であることを強調しているに違いなく、天龍に比べて穏やかな表情なのも、水を司る龍に相応しいといえるのかもしれない。天龍塔同様、周囲には観光に訪れた人々や、五龍塔巡りの最中らしい人々がいた。中にはシーラとレムを遠巻きに見ているものもいないではない。場に似つかわしくない格好のふたりが突如として現れたのだ。注目するのもわからなくはない。

そういった視線が気にならないのは、やはり、持って生まれた立場によるところが大きいのだろう。生まれながらにして異性を演じなければならなかった彼女は、常に注目の的だった。アバード国内のどこにいても、彼女は数多の視線に晒され続けた。やがて、どんな視線が注がれようとも、なにひとつ気にならなくなってしまった。

とはいえ、格好が格好だ。自分には似合わないと想っているし、こんな格好をセツナに見せてしまったと思うと、気恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだった。しかし、セツナがいいというのなら、たまにはこういう服装をするのも悪くないかもしれない。

吹き抜ける風が、汗に濡れた肌に心地よかった。

五月五日。春の日差しは暖かく、風もまた、穏やかだ。

シーラは、レムが手を止めるのを待ってから、口を開いた。

「……ありがとな」

「はい?」

「いい気分転換になったよ」

「そうでございますか」

レムは相槌を打つだけで、深くは立ち入ってこない。セツナの従者としての自分の立ち位置を認識しているのだろう。そして、だからこそ、シーラも素直に言葉を発することができるのかもしれなかった。これが他人の心に土足に踏み込んでくるような相手だったら、こうはいかない。

「こんなにはしゃいだのはいつ以来だろうな。本当……いつ以来だ」

つぶやいて、空を仰ぐ。不純物の混じらない、不純物だらけの空。奇妙な言葉だが、それこそ、このイルス・ヴァレの空を示している。

レムを追いかけての全力疾走は、彼女に心地よい疲労感と開放感を与えてくれた。ここに至るまでのレムとの激しい言葉の応酬もまた、シーラの心を開放するのに一役も二役も買ったものだ。アバード以来、鬱積していたものが解き放たれていく感覚があった。

馬鹿馬鹿しいことに、だ。

「隊長ーっ!」

「やーっと、おいついたー!」

大声に振り返ると、ウェリスを始めとするシーラの元侍女たちが駆け寄ってくるところだった。黒と白を基調とする装束は、大体は似合っているが、クロナとウェリスには無理があったし、そのことは彼女たちも自覚していた。着替えの際、クロナがめずらしく恥ずかしそうにしていたのが印象に残っている。ウェリスは、シーラのためと割りきっていたようだが。

彼女たちは、シーラの元・侍女だ。シーラが王女ではなく、ただのシーラとなった以上、彼女たちを侍女として扱うのは無理があったのだ。それでも彼女たちはシーラの侍女であることに誇りと自負を持ち、それこそがすべてだといって聞かなかったから、シーラもしかたなく認めていた。

しかし、シーラの立場が変わった以上、彼女たちの我儘を聞き続けることはできなくなった。シーラは、龍府領伯近衛・黒獣隊の隊長となるのだ。ウェリスたちも黒獣隊に入るため、隊長と部下という関係になる。王女と侍女ごっこを続けるわけにはいかないのだ。

もっとも、戦闘要員ではないウェリスは、隊長補佐という肩書が与えられ、クロナたちは黒獣隊の幹部となる予定であり、一般隊士ではないのだが。

いずれにせよ、けじめは必要だ。

「おー、おまえら、おせえじゃねえか」

シーラは、ウェリスたちに手を振りながら、まだ笑っていられる自分に気づいて、安堵した。笑っていられるということは、生きていけるということだ。なんとしても生きていかなければならない。ただ、生きるのだ。生きて、生きて、生きて、寿命が尽きるまで生き抜いて、ようやく、ラーンハイルの想いに応えることができる。レナやセレネ、侍女たちの犠牲に報いることができる。

シーラの死こそ、皆の覚悟や死を無駄にするものだ。