イルス・ヴァレには、ワーグラーン大陸には、古くから人間と数多の動植物が生息している。

そこへ、五百年ほど前、異世界から流れ着いてきたのが、皇魔と呼ばれる人外異形の生物たちであり、皇神と呼ばれる神々だ。皇神は、聖皇の死後、その存在が知覚できない領域へと消え去ったといわれ、いまや伝説の存在、神話上の存在と成り果ててしまったが、皇魔は現存し、人類の天敵として君臨し続けている。

しかし、そんな皇魔さえも遥かに凌駕する生命力を誇る生物が、この世界、この大陸には住み着いていた。

それがドラゴンだ。

竜、龍とも呼ばれるそれらは、万物の霊長として君臨した。あらゆる環境に適応する能力、人間など遠く及ばない圧倒的な生命力、この世のものとは思えないほどの巨大さ――そういったことから、遥か太古より神に等しい存在として人々に畏れられ、あるいは崇められた。ドラゴンを神そのものとして崇拝する国や地域も存在していたし、ドラゴン信仰は、ヴァシュタラ信仰が勢力を得るためにもっとも苦戦した宗派だといわれている。ヴァシュタリアはドラゴン信仰と敵対するのではなく、ドラゴン信仰そのものをヴァシュタラ信仰に取り込むことで、ドラゴン信徒のヴァシュタラ信仰への抵抗感をなくしていったという。

ともかく、ドラゴンがこの世界に実在し、神のように見られていたのは、歴史的事実だった。

ザルワーンが建国神話にドラゴンを利用し、支配階級が五竜氏族を名乗ったのも、そういう歴史的事実に基づくものだといえる。

そして、ドラゴンが人々の畏怖を喚起し、信仰の対象としたくなるのもわからなくはない。

ファリアは、オーロラストームを掲げる右腕がわずかに震えているのを認めて、息を吐いた。射線に敵はいない。敵は、セツナに向かって飛び立っていった。だが、ドラゴンと戦っていたという事実が、血に刻まれた恐怖を呼び起こしているのだ。

皇魔と対峙しているときよりも深く、重い、畏れ。

人間と皇魔の関係は長い歴史を誇るといっても、たかだか五百年かそこらの話だ。それに比べて人間とドラゴンの関係は千年や二千年で済む話ではないというのだ。もっとも、五百年以上昔の歴史について調べることは、現実的な話ではない。ドラゴンが何千年もの昔から崇められていたというのは、大陸各所の遺跡からわかったことであり、残された文書などから歴史を遡ったわけではなかった。聖皇による大陸統一以前の歴史は、まるで霧がかかったように判然としていない。聖皇一派による歴史の破壊、歴史の封印によるところが大きいのではないかといわれているが、それさえもわかっていないのだ。その謎は謎のまま、永遠に解けることはないのだろう。

それはそれとして、ファリアは、実在するドラゴンの生命力には愕然とするほかなかった。こちらの攻撃がまったく通じない、というわけではない。オーロラストームの雷撃は確実に届き、外皮を灼いた。レムの大鎌も、シーラのハートオブビーストもドラゴンを傷つけることには成功したのだ。しかし、あっという間に再生してしまった。傷痕ひとつ残らなかった。

「あれがドラゴン……太古の人々が神のように崇めたのも頷けるわね」

「ですが、ザルワーンに召喚されたドラゴンはもっと大きかったと伺っておりますが」

レムの一言に、ファリアは苦笑した。彼女のいう通りだった。ザルワーン戦争のまっただ中、おそらくオリアン=リバイエンによって召喚された五首の龍は、いま戦っているワイバーンの数十倍、いや数百倍の体積を誇る化け物中の化け物だった。目の前の水龍湖の直径が、そのまま首の太さだったのだ。いま考えると、とんでもない怪物を相手に戦っていたということであり、そんなものを相手によく戦おうとしたものだと思わないではない。

「そうね。もっと巨大で、もっと強かったわ。それに、馬鹿馬鹿しい能力も持っていた」

「馬鹿馬鹿しい能力でございますか?」

「ええ。相手の召喚武装を再現するっていうとんでもない能力よ」

「では、御主人様の黒き矛も?」

「もちろん、再現されたのよ。その上、クオン=カミヤのシールドオブメサイアも再現されたものだから、セツナも相当苦労したみたいね」

カオスブリンガーの圧倒的な攻撃力とシールドオブメサイアの絶対的な防御力を兼ね備えたドラゴンは、もはや完全無比な存在と成ったといっても過言ではなかった。攻防一体。どんなものでも破壊してしまう攻撃力は、その周囲の地形を激変させるほどの破壊となって現れ、どんな攻撃さえも寄せ付けない防御力は、黒き矛の攻撃を跳ね返したという。

「それでも、勝てたのでございますね」

それは、セツナとクオンが協力したから成し得た偉業だ。どちらがかけても不可能だったに違いない。セツナだけならばドラゴンが鉄壁の防御力を得ることはなかっただろうが、セツナ自身もまた、凶悪な攻撃に曝されるということであり、ドラゴンの攻撃によってばらばらに破壊されていたかもしれない。

クオンだけでも同じことだ。ドゴンが絶大な攻撃力を得ることはなかったとしても、絶対的な防御力を超える一撃を与えることができず、精神力、生命力の差にょってクオンが先に力尽きるだけのことだ。

ふたりが力を合わせて掴み取った勝利なのだ。

つまり、竜殺しとは本来、ふたりに贈られるべき二つ名であり、セツナだけを讃えるのは間違いといえた。だが、今回、セツナがワイバーンを倒せば、彼は本当の意味で竜殺しとなる。そういう意味でも、ここはセツナに任せるべきなのだろう。

「だから、今回も勝つわ」

ここまで時間がかかったのは、飛龍が距離を取っているせいだ。黒き矛の遠距離攻撃は当てにならない、黒き矛が真価を発揮するのは、敵を間合いに捉えたときなのだ。そして、敵はいま、みずからセツナの間合いに入ろうとしている。むざむざ殺されに行くようなものだ。

ファリアがワイバーンならば、決してセツナに近づこうとはしないだろう。水龍湖の水がなくなるまで水の矛を放ち続け、セツナがしくじるのを待つという戦法を取るべきだ。もっとも、ワイバーンが水矛の生成を止めたところを見ると、あの能力にもなんらかの制限があるのかもしれないが。

ファリアは、オーロラストームを抱えると、セツナとワイバーンの交戦地点に向かった。咆哮が轟いている。飛龍の雄叫びは、水龍湖の森を激しく震わせ、ファリアの身を竦ませた。続いて、閃光と爆音があり、衝撃波がファリアの体を打った。強烈な衝撃に体が浮かび上がった。

「え?」

予期せぬ浮遊感に対処する暇もない。吹き飛ばされる――。

「大丈夫でございますか?」

「え、ええ……ありがとう」

吹き飛ばされずに済んだのは、背後からレムがファリアを支えてくれたからだ。レムと彼女の“死神”が、衝撃波に吹き飛ばされないように、その場に踏ん張っている。湖面が激しく波立ち、木々が倒れそうなほどに揺れていた。ワイバーンの猛攻によって破壊された木々などは、衝撃波によって遠くまで吹き飛ばされているようだった。

「な、なに?」

「御主人様に御座います」

「それはわかるけど……」

とはいったものの、ファリアは、一体なにが起こっているのか把握できていなかった。衝撃波の中心、爆心地はセツナだ。それは間違いない。ワイバーンと激突した瞬間、なにかが起こったということも確かだろう、しかし、そこでなにが起きたのかまではわからない。その瞬間を目撃できなかったからだ。ただ、なにかが爆発したような光と音があったことだけは覚えている。それがこの衝撃波を発生させたらしい。

やがて、衝撃波が収まると、水龍湖周辺の景色が一変していた。元々、ワイバーンの水矛攻撃によって失われかけていた景観が、いまの爆発と衝撃波によって決定的なものとなった。衝撃波によって大量の湖水が打ち上げられた結果、水龍湖の北側は水浸しになり、数多の木々が横倒しになっていた。いや、木々が転倒しているのは、水龍湖の北側だけではない。セツナとワイバーンの交戦地点を中心とした周囲一体の木々が横倒しになっており、ファリアとレムの周囲でも同様の現象が起きていた。

水龍湖を囲う森という景観が台無しになってしまったのだ。

だが、そんなことはどうでもいいことだ。それよりも大事なことがある。

「セツナは!?」

ファリアは、レムと“死神”の支えから抜けだすと、オーロラストームの感知能力を全開にしてセツナを捜索した。

「おーい、無事かー!」

大声に目を向けると、シーラが空中からこちらに向かって手を振ってきていた。彼女は、翼を広げて飛行するルウファの足にぶら下がっているのだ。オーバードライブの反動で戦うことすらできなくなっていたルウファだが、ある程度時間が立ったことで空を飛べるくらいには回復したのだろう。

「わたくしもファリア様も無事にございます!」

「おお、そりゃよかった! こっちも無事だぜ!」

「へろへろですけどねー」

ルウファが疲れきった声を上げる。ふらふらとした飛行軌道を見る限り、彼がへろへろなのは明らかではあったのだが。

足首に掴まったシーラが頭上を睨む。

「いいから、セツナの元に急ぐんだよ!」

「なんで俺がこき使われているんですかねえ」

「そういう星の下に生まれたのよ」

「酷い言い様で御座いますね」

レムはそういってきたものの、否定しなかったところを見ると、ファリアと同意見なのかもしれない。それも酷いものだと思いながら、ファリアはセツナの元に急いだ。戦闘らしい戦闘もなかったのだ。体力は有り余っている。やがて、セツナと飛龍の交戦地点が視界に入ってくる。

そして、ファリアは言葉を失った。

セツナは、黒き矛を掲げ、その場に立ち尽くしていた。

セツナは、ワイバーンとの交戦地点から一歩も動いてはいなかった。ワイバーンの攻撃で吹き飛ばされるようなこともなければ、消し飛ばされているわけでもない。ワイバーンの攻撃で傷一つ負っている様子もなければ、黒き矛の使用で消耗し尽くしているようにも見えない。まったくの無事であり、心配するだけ無駄だったという他なかった、

そして、吹き飛ばされ、消し飛ばされたのは、ワイバーンのほうだった。

飛龍も、周囲の地形も、跡形もなく消滅していた。つまり、爆心地はセツナであり、セツナと黒き矛の発したなんらかの力が、森全体を激しく揺るがし、ファリアたちにさえも襲いかかったということだ。あれだけの生命力を誇る化け物を根絶するには、それだけの力が必要だったというのは想像に難くないが、それにしても、圧倒的過ぎると思わざるをえない。

駆け寄るファリアも、レムも、空中から近づくルウファも、彼に掴まったままのシーラも、爆心地に佇むひとりの少年の姿にある意味で見惚れる以外にはなかった。

「竜殺しなら、これくらい、簡単にできなきゃな」

セツナは、呆然とするファリアたちに向かって、そんなことをいってのけてきたのだった。