強引に振り向かせようと、肩に食い込んだ指の与える痛みに気を取られるよりも早く、私はオースティン様の顔色の悪さにギョッとし、次いで咄嗟に“ご機嫌よう”と口にしてしまった自分の失言に舌打ちしたくなった。

二週間前にはほんのり血色が良くなっていたはずの頬は、精気を感じないほど白くなり、せっかく顔の輪郭に柔らかさが出てきていたのに、また痩けてしまったせいで以前よりも険が強くなったように感じる。

無言のまま、縋るように私を見つめるサファイアの中に紫が散った瞳。肩に置かれた骨ばった手の甲に触れると、熱が出る兆候の冷たさがある。苦しげにせり上がってくるものを我慢しているのか、喉仏が嚥下を繰り返して動いているのが見て取れた。

思わず、こんな状態のオースティン様を外に出したバルクホルン様を怒鳴りつけそうになった。けれど、そのバルクホルン様を叱責するよりも先に今私がやらなければならないのは――。

「オースティン様のことは私に任せて、バルクホルン様はあの二人を追いかけて下さいませ」

「――オレを詰(なじ)らないで良いのか?」

「そんなに詰って欲しいなら、後でいくらでも詰って差し上げます。それよりも今は、ソフィア様のお心を煩わせそうな人間を野放しに出来ません。見失わないうちにお早く」

厳しい言葉でそう告げれば、バルクホルン様は「すまない、後を頼む」と言い残して、二人の消えた方角へ駆けて行った。その背中が見えなくなった瞬間、オースティン様が口許を押さえて咳き込んだ。吐きそうなのだろう。

けれど市場の外れとはいえ、人目があることを気にしている。それは当たり前なことでいて、当たり前ではない。彼はレッドマイネ家の次期当主になる人物なのだから。

周囲の人間に弱味を見せないように生きていかなければならない。そう教育され、それに沿う生き方をしてきた方だ。

――でも、

「大丈夫ですわ、オースティン様。今の貴男はただの平民です。伯爵家の人間がこんなところにいるはずがありませんわ。私もそう。子爵令嬢がこんな姿をしているだなんて、誰も思いっこありませんもの」 

暗に“吐いて楽になりましょう”と提案して冷たい手の甲を撫でれば、咳き込んだまま、それでも緩く首を横に振り、何とか嘔吐を堪えるオースティン様の姿がいじらしい。

だけどそれでは駄目なのだ。吐き気は吐くまで止まない。そういう風に人間の身体というのは出来ている。

「そう……ではオースティン様、このベンチ一人で座るには広いのです。どうぞよろしければこちらに来てお座りになって?」

……実際は三人がけのベンチなのだろうけれど、そこには敢えて触れない。私のお尻が大きすぎるのと、オースティン様の上背ばかりある身体でいっぱいになってしまうことには目を瞑る。

この提案には素直に頷いて、ふらつく足取りで隣に回り込んできたオースティン様が、ドサリと崩れ落ちるように腰を下ろす。けれどその振動でさらに酸っぱいものがせり上がってきたのか、口を押さえて前のめりになった。

私はそんなオースティン様を周囲の目から隠すように彼の前に立ち、本日のお忍び衣装にエプロンがついていたことを神に感謝しながら、スカートを俯く彼の前に広げる。

こちらが何を言い出そうとしているのかを察し、それでも弱々しく首を横に振るオースティン様の旋毛を見下ろしながら、私はそんな場面でもないのに苦笑してしまった。

「大丈夫、大丈夫ですわ、オースティン様。誰も私達のことなんて見ていません。それに一度吐いてしまえば楽になります。この服を貸してくれたうちの料理長の奥方には、後日新しいものを用意して返しますわ。だから、大丈夫ですよ」

駄々をこねる子供に言い聞かせるようにそう言って、片手でエプロンを器のように持ち上げたまま、もう片方の手で背中をさする。さすりながら首を横に振るオースティン様の耳許に顔を近付けて「大丈夫ですよ」と囁くこと数十秒。

ついに堪えきれなくなって嘔吐したオースティン様の吐瀉物をエプロンで受け止めながら、その背中をあやすようにさすっていると、吐きながら苦しげに咳き込むオースティン様の手が伸びてきて、私のふくふくしい二の腕を掴んだ。

縋るにしても乙女の二の腕はないでしょうと思いながらも、今はそんなことを気にしている場合ではないかと思い直す。ツンと酸っぱい臭いが鼻を突いてこちらもつられそうになるのを飲み下しつつ、吐き出したものの中に固形物があまりないことに気付いた。

「ああ、また何も召し上がっていらっしゃらないのですか。いつも言っておりますでしょう? 食べておかないと吐く時に辛いと。もうすぐうちの料理長が戻ってきますから、一度うちの屋敷に馬車を呼びに戻ってもらいましょう。それからレッドマイネのお屋敷に迎えの馬車を頼んで――、」

“頼んで、迎えに来てもらったら――そのまま、これで【さよなら】に致しましょうね?”と。そう言うべきだと分かっているのに。

「レッドマイネ家からの迎えが来るまで、うちの屋敷の客間で安静にしていましょうね」

弱っている人間を目の前に、狡い言い方をする自分に心底嫌気が差したけれど。二の腕を掴んだまま、まるで溜息のように「すまない」と小さく呟いたオースティン様が、肩で荒く息をつく。

私はこれ以上オースティン様が吐き気を催さないように、手早くエプロンを外して持ち帰りやすいよう吐瀉物をくるみ、ベンチの足許に置いてからオースティン様の手を解こうとその甲に触れた。

けれどそれに気付いたオースティン様は、二の腕を掴む指にさらに力を込めてしまう。何故私は失恋した相手に、弛んだ二の腕をむにゅっとされる屈辱的な罰ゲームに晒されているのか……。そして地味に痛いのですが?

とはいえ、振り払うことも出来ずに自由になった両手で、さて何をしようかと思ったけれど――。

「大丈夫、大丈夫、もう大丈夫ですよ。オースティン様を苦しめていた悪い気は、今のでどこかに行っちゃいましたからね。だから屋敷に戻ったら暖かい部屋で、蜂蜜をたっぷり入れた温かい紅茶を一緒に飲みましょう。それから少しお話をして、レッドマイネ家のお迎えを待ちましょうね?」

そう言いながら、これで最後になるかもしれないのだからと、どさくさに紛れてやや落ち着きのあるその沈んだ金髪を撫でた。私に正面から頭を抱えられるようにして撫でられたオースティン様は、一瞬だけピクリと肩をはねさせたけれど、二の腕を掴んでいた指先から少しずつ力を抜いて。

代わりに私の腰の後ろに腕を回したかと思うと、グッとご自身の方へ引っ張られた。そのせいで私達の間に僅かに開いていた隙間がなくなり、オースティン様の額が私の鳩尾の辺りに押し付けられる。

鳩尾にすら分厚いお肉のある自分の身体が恨めしいけれど、オースティン様は「少しだけ、こうしていても良いか?」と仰る程度にはお気に召したらしい。人を癒せる力があるとは思わないものの、僅かでも吐き気を忘れられる効果があるのならそうしてもらうべきだろう。

特に深く考えもせずに「どうぞ、お気の済むまでそうして下さって構いませんわ」と答えたら、何やらさらにギュウッと額を押し付けられた。屈辱的ではあるものの、今は我慢して差し上げましょうか。

ここ二週間で距離の近付いた弟に『姉様にギュウッてしてもらうとね、フカフカの枕に抱きついてるみたいで気持ちいいの』と、無邪気な子供の残酷な褒め言葉を頂いてしまったもの。

きっとそういう感覚を味わっているに違いないのだから、こちらもその分柔らかい金髪の触り心地を堪能しないと不公平だ。そんな風に考えたら俄然そんな気になったので、遠慮なく髪を太い指で梳いていく。指先まで丸い自分の身体がこんなに綺麗なオースティン様を抱えているのかと思うと、ひどく滑稽で。

思わず「男性でサラサラの金髪……良いですわね」と嫉妬心剥き出しの発言をしたら「はっ、何だそれは」と笑われてしまった。しかしうちの家系には金髪の人間はいない。

「そうは仰いますが、当家には代々焦げ茶か赤毛しかおりませんもの。ソフィア様とオースティン様が羨ましいですわ」

「そんなものか? 俺からすれば、お前の赤毛も美しいと思うが」

「私のは赤毛というか、人参のように間の抜けた橙色に近いでしょう? 弟は綺麗な赤褐色なのに……同じ姉弟だというのにあの子だけ狡いわ」

半ば以上本気でそう溜息をつく私に気を使ったのか、抱きしめる腕に力を込めたオースティン様は「だが、そのお陰でどこにいても見つけられる」と仰って下さった。

なかなか気の利いた嘘に気を良くして「あら、それなら体調の優れない時にオースティン様が私を見つけるのに便利で良いですわね」と嘯く。そんな私の言葉に彼が応える前に、背後から「てめぇ、うちのお嬢、いや、娘に何やってやがるんだ!?」と微妙に冷静なジェフリーズの声がかけられて。

顔を真っ赤にして「破廉恥だ!」と怒るジェフリーズを宥めて、呼んでもらった馬車の中で、オースティン様は屋敷に戻るまでの間中ずっと私の手を握って離そうとしなかった。