Ashes and Kingdoms

2-4. Dragon Eye

ノルニコム領主館の歴史は古い。

大戦の終息後、元々南東部一帯のノルニコム人をまとめていた竜侯が、帝国の様式にならって建てたものだ。堅牢な石造りの館はそれから千年近くたった今も、ほぼ元の姿をとどめている。

そのため、今では無用の設備も残されていた。何の為に造られたのか分からない部屋まである。使途不明のそうした部屋は大概、魔術絡みであろうとされていたが、その内容を伝える書物も家訓もなければ、秘密を読み解くことの出来る魔術師もいない。そもそも今の時代に魔法がきちんと働くのかどうかも怪しい。

といって物置にするにも改装するにも、物騒すぎて決心がつかない。

時折そそくさと箒をかけられるだけのまま何百年も放置されてきた部屋の数々に、このところエレシアはよく足を運んでいた。炎竜ゲンシャスの知恵を借りて、それら無用の長物をどうにかしようというわけだ。

時折こほこほと咳き込みながらひとつの部屋を検分し、廊下で待っている召使たちに、ここはすっかり安全だから隅々までよく掃除するように、と命じる。びくつきながら彼らが部屋に入ると、エレシアは髪についた埃を払い、やれやれと歩き出した。

一階ごとに狭くなる階段を最上階まで上がり、窓のない細い廊下を通って、館の中央にそびえる尖塔へ向かう。すりへって崩れそうな螺旋階段を登ると、不意に開けた空間に出た。

四本のアーチが屋根を支えるその部屋は、完全に吹きさらしになっている。ここに来れば館の敷地はもちろん、都の町並みから城壁外の畑地まで見渡すことが出来た。

「あっ、陛下」

一人だけ立っていた歩哨の兵が、慌てて敬礼する。エレシアは鷹揚にうなずきを返し、気にしないようにと手を振った。とはいえ、狭い場所なのでそれも難しい。時々立つ位置を変えながら、兵士がちらちらとこちらに目をくれる。

エレシアは苦笑を押し隠し、赤銅色の髪をほどいて風を含ませると、ひとつのアーチの下を選んで手摺に寄りかかった。町の数多い鍛冶屋から煙が上がっており、盛んに金床を打つ音がここまで聞こえてくる。

「ここは見晴らしがいいわね」

彼女は子供の頃からこの場所が好きで、危ないと制止する子守の目をかいくぐっては、毎日のように登っていた。雨や雪の日でも、風さえ強くなければやって来た。

この塔も、使途不明の構造のひとつだ。おそらく見張り塔だろう、というのが何代も前からの認識だが、それにしてはひどく狭いし、昔は篝火を置く台すらなかったのだ。

というのも、床の中央に謎の物体が鎮座して、すっかり場所をふさいでいるせいである。どっしりした台座に据えられているのは、薄気味悪い球体だった。大人の両腕でも抱えられないほどの大きさで、恐らく石を磨いたものだろう。古びて汚れているが、よく見ると濁った黄土色の表面に不可解な模様が浮かんでいる。

エレシアがちらりとその球体を振り返ると、たまたま反対側からこちらを見ていた兵士と目が合った。彼は慌てて姿勢を正し、それからいささか不気味そうに球体を見やって、小さく頭を振った。

「エレシア様はこの場所がお好きだそうですが、自分はどうも……落ち着きません。なんだか、こいつが目玉みたいに思えてきて」

「そう言う者は多いわね」エレシアはあっさりとうなずいた。「恐らく実際に何か魔術に使われた道具なのでしょう。そなたや他の兵たちが臆病なわけではないわ。ここに夜間の歩哨を置かないのは、わずかでも危険があってはいけないからよ」

古代の魔術具は、稀に予想もしない惨事を招くことがある。昼間ならまだ皆が起きているから、対処や避難のしようもあるが、夜に万一の事態が生じたら、場所が都だけに被害は甚大だ。触らぬ神に祟りなし、である。

エレシアの言葉に、兵士はいっそう警戒と恐れをあらわにし、手摺の際まで後ずさって球体から離れた。臆病ではないと言われても、恐れて当然だからと説明されたのでは、安心するどころではない。

エレシアは苦笑し、球体に向き直った。

「それも今日までのこと。ゲンシャスにこれの正体を教えて貰いましょう」

〈シャス? 聞こえたなら答えて頂戴〉

呼ぶと同時に、頭上の屋根がミシリときしんだ。羽根のように降りることも出来るのに、わざわざ存在を誇示するとはいやらしい。炎竜というものは、それこそ燃え盛る焔のように、活動的で目立ちたがりで、近くに寄ると暑苦しい存在なのかもしれない。

エレシアが竜の性質について失敬な仮説を立てていると、ゲンシャスがアーチの下を覗き込んで答えた。

「これは竜の眼だ」

端的だが物騒な言葉に、ただでさえ怯えていた兵士が、気の毒にも顔を土気色にしてうずくまった。巨大な竜に間近で見つめられただけでも恐ろしいのに、抉り取られた眼球にまで挟み撃ちされたのでは、吐き気もむべなるかな。

ゲンシャスの声に愉快げな響きがあると気付いたのは、エレシアだけだった。やれやれと腰に手を当て、ため息混じりに「シャス」と唸る。

「嫌悪する場所で退屈な務めを果たしている、立派な兵士の自尊心を傷付けるのはよしなさい。おまえの冗談は時々笑えないわ」

「何が冗談なものか」

ゲンシャスはわざとらしく喉をゴロゴロ鳴らし、目を細めた。

「それは確かに竜眼だ。魔術師どもが作ったものだがな」

作り物、と聞いて、兵士はほっと息をつき、うずくまったまま改めて恐る恐る球体を見上げた。下側は埃や風雨の汚れを免れているため、元来の材質や模様がかろうじて判別できる。兵士は少しだけ近付いて、なるほど、とうなずいた。

「確かに……文字のようなものが見えます。上から見ていただけでは、気付きませんでした」

理性的な言葉を押し出して威厳を取り繕い、兵士はごほんと咳払いして立ち上がった。ゲンシャスがにやにやしているので、エレシアはぴしりと牽制した。

〈ここで『わっ!』とでも言って脅かすつもりなら、その口を紐で縛り付けるわよ〉

〈子供の躾でもあるまいに。我に脅しは通用せぬぞ〉

〈そうね、エオンの方が聞き分けが良かったわ〉

二人いた息子のうち兄の方を思い出し、エレシアは胸の痛みに唇を引き結ぶ。

エオンを産むまで、“男の子”がどういうものなのか全く分かっていなかった。心配も説得も、様々な罰さえも、息子の行動を制する力を持たなくて、躾どころかこちらが振り回されるばかりだった。それでもいくらか成長すると、兄のエオンは多少の分別らしきものを見せて弟を世話し、両親を安心させ、先行きに期待させてくれたものだ。

いずれは一軍を指揮する有能な将校になるのではないか、弟と協力してノルニコムを上手く治め、守ってくれるのではないか、と――。

だがもう叶わない。現実に軍を率いる将校や王国を支えている官僚の姿に、散った夢の残骸を見るだけ。

たとえ都へ人質に取られようとも生きていてさえくれたなら、今頃こうして竜侯となることもなかったろうに。

「エレシア様……?」

気遣わしげな兵士の声で我に返り、エレシアは首を振った。

「それで、シャス? これは放置しておいて安全なのかしら、それとも片付けてしまうべき?」

「それはおまえの立場がどうかによるな」

ゲンシャスは意味深長に応じたが、今度は愉快げな気配は含まれていなかった。エレシアは眉を寄せ、どういう意味かと説明を待つ。

答えは、球体そのものが教えてくれた。

バチッ、と小さく火花が散ったように見えて、エレシアと歩哨は揃ってぎょっとなり、球体から離れた。直後、立て続けにパチパチと火花が球体の表面を走りだす。

「これは……何が起ころうとしているの? シャス!」

「怯えずとも、これが直接おまえたちに危害を加える事はない。どうやら、古の技をよみがえらせた者がいるようだ」

言いながら、喉の奥で小さく音を立てる。笑ったのか唸ったのか、エレシアが判別に悩んでいる間に、ゲンシャスはするりと屋根の上に姿を消した。

兵士が剣に手をかけ、エレシアを守るため側に寄る。緊張して見つめる二人の前で、球体は表面に積もった埃と汚れを自ら燃やし、弾き飛ばして、光沢を取り戻しつつあった。

巨大な球が、まさに竜の眼のような黄金色に輝く。表面に波紋が広がり、聞こえるか聞こえないか、低く微かな唸りが空気を揺らした。耳ではなく腹に響く不快な音に、エレシアは顔をしかめる。

やがて、竜眼の奥から何かが浮かび上がってきた。

じわりと滲み出る闇の色。エレシアはたじろいだが、自分を守る兵の背中もこわばっていることに気付くと、強いて姿勢を正し、球体に向き合った。

じきに黒いその染みは、何かの形をとり始めた。

(人……?)

おまえの立場による、というゲンシャスの言葉を反芻する。

(これは誰かと話すための道具なのね。でも、誰と――)

はっ、と息を飲んだ。決まっているではないか、この術具が据え付けられたのは、初代竜侯の時代。すなわち、ノルニコムが対等の相手としてディアティウスと手を組み、その一部となることを決めた頃の物。となれば、このような便宜をはかる相手は……

〈これは壊せないの!?〉

焦って叫んだエレシアに、ゲンシャスはつれない返事をくれた。

〈壊せるが、貴重な遺産だぞ。相手が誰だか確かめるぐらいはしても良かろう〉

〈皇帝の顔など見たくもないわ!〉

〈さて、今の皇帝は若いと聞いた気がするが〉

とぼけられ、エレシアは立腹しながら竜眼に目を戻す。いつの間にか、黒い人影に代わって別の顔が浮かんでいた。初老の男だ。

「……これはこれは」

くぐもった声が響いた。エレシアは眉を寄せ、誰だったかと記憶の糸をたぐり寄せる。

「驚かせてしまいましたかな、ノルニコム王エレシア陛下」

慇懃ながら侮った気配のある口調だった。エレシアは深く息を吸うと、兵士の陰から前へ進み出た。

「ええ、驚かされましたわ。ナクテ竜侯セナト閣下。よもやあなたが魔術の技をお使いになるとは」

「名ばかりの竜侯に甘んじることなく、古の力を手に入れたいと願うのは、陛下だけではありませんのでな」

束の間、沈黙があった。エレシアは嫣然と微笑んだまま、心中で軽蔑に舌打ちした。同類扱いなど、勘違いも甚だしい。新たな帝王になりたいだけの男に、踏みにじられた女の怒りなど解るものか。

だがそんな内心は全く表に出さず、エレシアは小さくうなずいた。

「では、この風変わりな訪問は承諾の意と受け取って良うございますね」

「僭帝ヴァリスに対する共同戦線とは、願ってもないこと。ただ、ひとつ問題がありましてな。孫のセナトがまだ見付からぬのです」

「噂は聞いておりますわ。ご心痛、お察しします」

玉座を奪っても座らせる傀儡がいないのではね。

エレシアは皮肉に考えたものの、行方不明の小セナト本人のことを思うと自然に表情が痛ましげなものになった。竜侯セナトもまた、深刻そうな顔になって目礼する。

「……恐らく、こちらに戻ろうとしている途中で、身を隠すしかなくなっておるのだと考えております。しかし万一、ヴァリスの目を欺くためにあえて東へ向かっていたとすれば、陛下の領地に入っているやも知れませぬ」

「分かりました。こちらでも、そのような子供がいないか捜させましょう」

「かたじけない。歳は十三、金髪で、目は灰色に金が混じっております。なんとしても、ヴァリスより先に見つけ出さねば。小セナトの身柄が奴の手に渡れば、どのように使われるか」

「ええ、承知しております」

エレシアも唇を引き結んだ。皇帝が小セナトを盾に脅迫すれば、あるいはより狡猾に、改めて小セナトを養子に迎えて皇位継承者に指名したら。

(ノルニコムだけで戦わなければならない)

ナクテの第四軍団が当てに出来なくなる、どころか最悪の場合、彼らをも敵に回すことになってしまう。今のエレシアが手にしている駒は、かつての第五・第六軍団だけだ。それも、本国に忠実な将校は追放ないし処刑したので、指揮官となれる人材が少ない。つまり、単独では勝ち目がないのだ。

エレシアが間違いなく状況を理解していることが、セナトにも伝わったのだろう。彼は満足げな笑みを広げ、うなずいた。そして、ふいと視線を横にそらせる。

「戦の準備は、滞りなく進んでいるようですな」

さりげなく言われたために、その台詞が何を意味するのか、エレシアはすぐに気付けなかった。一呼吸置いてからどきりとし、慌てて動揺を押し隠す。

「そちらからも、この眺望をご覧になれるようですね」

「さよう。便利な道具があったものです。……しかし、そろそろ魔術師が苦しそうだ。今日のところはひとまず失礼させて頂こう。思いがけずお目にかかれて、僥倖でござった。では御免」

余裕の笑みを浮かべたまま、セナトの像が揺らいで消える。竜眼から完全に光が消えてしまうまで、エレシアは顔に微笑を張り付けていた。

竜眼が元の古ぼけた石の球体に戻り、しんと沈黙すると、エレシアはどっと疲れたように深く長い息を吐き出した。

〈ほう、それだけか。我はまた、おまえが竜眼を蹴りつけるかと思ったぞ〉

ゲンシャスが屋根からまた顔を出し、意地悪くからかう。エレシアはじろりと睨みつけただけで、何も言い返さなかった。

「厄介なものね」

代わりに唸って、彼女はぐるりを見渡した。この眺めは、見張りのためでも、領主の子供を楽しませるためでもない。遠く離れた土地の竜侯や、あるいは皇帝に対して、二心のないことを証するためだったのだ。だからこそ、この都で変事があれば彼らにもすぐ伝わり、助けを得られたのだろう――かつては。

だが今や、そんな大らかな信頼は失われた。手を結ぶと決まったところで、ナクテ領主を心から歓迎しているわけではない。かつてエレシアが夫から聞いた竜侯会議の面々に関する評では、セナト侯には常に失点がついていた。無能ではない、が、人物が好ましくない、というのだ。

(所詮アウストラは“女の一門”だとも言っていたわね。でも確か、セナト侯の奥方は随分昔に亡くなったし、先代の奥方も何年か前に亡くなられている。今は完全に、セナト侯一人が権力を握っているはずだわ)

果たしてそれは、吉と出るのか凶と出るのか……。

険しい顔で考え込んでいるエレシアに、歩哨が恐る恐る尋ねた。

「陛下、これを……破壊しますか?」

「今のところは、置いておくしかないわね」

苦々しく言い、エレシアは首を振った。壊せばセナトの疑いを招く。

「皇帝までが魔術を使い始めたら、その時は壊さなければならないけれど。それにしても嫌なものだわ。向こうはいつでも、こちらの様子を覗き見ることが出来るのに、こちらからは挨拶ひとつ送れないなんてね」

〈おまえも領内をくまなく探せば、一人ぐらい魔術師を見つけられるかも知れんぞ。もっとも、袖から鳩を出す以上の事が出来るかどうかは分からんが〉

〈本当におまえの冗談は笑えないわね。いいえ、いまさら魔術師を使うつもりはないわ。いたとしてもね。太古の大戦と同じ過ちは繰り返さない。私はおまえがいるだけで充分よ〉

〈ほう、随分と評価を改めてくれたものだ〉

〈どうかしら〉エレシアはやっと、気を楽にして微笑んだ。〈面倒なのはおまえだけでもう沢山、という意味かも知れなくてよ〉

ゲンシャスが鼻白む。エレシアはちょっと笑い、目をぱちくりさせている歩哨の前で、球体をぺしんと叩いた。

「これについては、皆に知らせておきましょう。これからは夜も見張りについて貰わなくてはね」

えっ、と兵士は抗議の声を上げかけ、慌ててそれを飲み込む。エレシアは振り向くと、いたわる口調で言った。

「気づかぬ間に覗かれたくはないのはもちろんだけれど、もしあちらで夜に緊急事態が起こったのなら、連絡しようにも誰もいなくては困るでしょう。あのご老人に、館じゅうを揺り起こすような大声で叫んだり歌ったりさせては、お互い体に毒だわ」

今度は兵士も間に合わなかった。まともにふきだしてしまい、遅まきながら口を覆う。エレシアがわざとらしく驚いて見せると、彼も恥ずかしそうに首を竦め、結局二人して笑ってしまったのだった。