Ashes and Kingdoms

5-2. Cestas and Farnain

深い緑の森は、季節にかかわりなく緩やかな時を刻んでいるようだ。

「外ではそろそろ、冬至祭の準備が始まる頃かな。……母上はどうしてるだろう」

セスタスは森をそぞろ歩きながら、ぽつりと独りごちた。ネラとタズはセスタスのために、寝床を整えたり食べ物を調達してきたりと、仮住まいを居心地良くすることに追われている。

ゆったりしたこの森の中で、あの二人だけが忙しなく巣作りする鳥のようだ。

と考えて、セスタスは自分の連想に顔をしかめて首を振った。

「お似合いだなんて」

そんなことあるもんか、と不機嫌に否定する。タズも悪人ではないが、ネラにはもっと立派な男が相応しい。少なくとも人の頭をしょっちゅうぐしゃぐしゃにしたりしない、真面目で礼儀正しい男が。

ついでに言うと、裕福で、ネラにきれいな服や美味しい食べ物をたっぷり与えられて、でも自分は派手な遊びなんかはしなくって、それから、それから……。

「ちぇっ」

セスタスは膨れて、足元の木の根を蹴飛ばした。自分が『セナト』であったなら、広い住まいもきれいな服も宝石も、美味しい食事も、全部ネラに与えることが出来る。それは皇帝の養子であれ、ナクテ領主の孫であれ、変わらない。

(……でもないか。お祖父様がいる限り、僕が勝手に何かを動かすことなんて出来ないよね)

ふ、とため息がもれる。どっちみち、ネラにとっては自分は歳の離れた弟か、いっそ犬猫のようなものだ。相手にされないに決まっている。

タズが自分達を売るつもりで近付いた場合に比べたら、まだネラに対して下心がある方がましだと思ったりもしたが、いざそれが本当かもしれないとなると、どうにも面白くなかった。

セスタスは一人でむっとしたり、拗ねたり、ため息をついたりしながら歩き続け、気がつくとすっかり集落から離れていた。

しまった、帰り道が分かるかな、とセスタスは慌てて辺りを見回した。ここで迷子になりでもしたら、ネラの中で彼の評価が下がることは間違いない。タズの方が頼りになる、などということになったら耐えられない。

焦って、小走りにあちらへ行き、こちらへ戻りしてから、彼は視界の端に人影を捉えてほっとした。だがそちらへ向かいかけて、あれ、と妙なことに気付く。どう見てもそれは幼い少女の後姿なのだが、苔むした岩の上に腰掛けて身動きひとつせず、その周囲に誰かが一緒にいる様子もない。そちらへ行っても、集落へ戻れる気配はなかった。

(迷子なのかな?)

歩き疲れて休んでいるのだろうか。セスタスは自分も迷っているということを忘れ、助けなきゃ、と少女の方へ進んで行った。

――と、不意に少女が雷に打たれたようにビクッと飛び上がり、恐怖の仕草でセスタスを振り向いた。

「あっ!?」

予想もしないものが目に飛び込み、セスタスはぎょっとなって悲鳴を上げてしまった。棒立ちになった彼の向こうで、顔の右半分が醜くひきつれた少女が、半狂乱になって逃げ道を探している。

「あ……ぉ、ぅあぁ……!」

言葉にならない声を漏らしながら左右を見回し、走ろうとして転び、四つん這いになって茂みの中へ逃げ込む。セスタスはそれを呼び止めるどころか、そうしようという考えさえ浮かばず、呆然とただ見ていた。

あまりの衝撃に、自分が何を目にしたのか、しばらく理解できなかった。

放心して立ち尽くし、どれぐらいの時間が経ったのか。気付くと、横にウティアがいた。

いつの間にどこから現れたのか、セスタスは疑問を抱く事なく、それよりも気になることを問いかけた。

「今の、子は……何だったんですか? 黒髪だったけど、フィダエ族じゃ……」

ウティアが首を振るのを見て、セスタスはゆっくりと息を吐いた。

「……ありませんよね。やっぱり。あの子も、外から逃げてきたんですか」

「そうだ。つい最近のことだが、ひどく傷つけられていて、人を寄せ付けない。食べ物や水は、置いておけば手にするようになったが、まだそれだけだ。ゆっくり時間をかければ癒えるだろう」

「何があったかは……」

「知らぬ。今の世も、大戦の直後も、あまり変わっておらぬということだろう」

「…………」

セスタスは、まだ揺れている茂みの葉をじっと無言で見つめていた。

(僕が逃げて逃げて、ここに隠れている間にも、外の世界はどんどん変わっているんだ。それもきっと、悪い方に)

きゅ、と無意識に手を拳に握る。

(僕は……でも、僕に何が出来る?)

出て行って、皇帝になんかならなくていい、だから戦をしないで、と訴えたところで、祖父は聞く耳を持たないだろう。

(だって、皇帝になりたいのはお祖父様なんだから)

悔しくて唇を噛み、うつむく。誰も僕のことなんか考えてない、と不貞腐れた考えが脳裏をよぎり、慌てて彼は頭を振った。

(母上と父上なら、僕の言うことを聞いてくれるかもしれない。昔から……)

僕の味方をしてくれた、と思い出して、はからずも墓穴にはまってしまった。そうだったではないか、昔からセナトの教育に関して、事ある毎に母と祖父は対立してきた。そして勝つのはいつも祖父だった。フェドラス帝との養子縁組もそうだ。

家庭内に吹き荒れる不和の嵐には、物心ついた頃から辛い思いをしてきた。思えば、ナクテを離れ、フェドラス帝の元で暮らしていた短い期間こそが、人生で一番幸せだったかもしれない。

はあ、と大きなため息をついたと同時に、

「おー、いたいた! 探したぞ、お坊ちゃん」

悩みなどなさそうな明るい声が飛んできて、まずいと身構えるより早く頭をぐしゃぐしゃにされた。

「おまえはちっこいんだから、あんまり遠くに行かれちゃ、茂みに隠れて見えなくなっちまう。無茶しないでくれよ、ネラさんが心配すっからさ」

「…………」

セスタスはむすっとして返事をせず、タズが来た方へ向き直ってすたすた歩き出した。ウティアは現れた時と同様、いつの間にか消えていたが、この森の中ではそんなこともまるで不思議ではなかった。

「おぉい、何を拗ねてんだよ。一人になりたかったんなら邪魔して悪かったけど、もうちょっと目の届く辺りで一人になってくれよな」

矛盾したことを言い、タズが横に並ぶ。セスタスは尚も無言だったが、しばらく歩いたところで、ふと思い出して急に立ち止まった。

なんだどうした、と怪訝な顔をしているタズを見上げ、セスタスは疑わしげに問いかけた。

「タズは北の出身だったよね。それに、水夫だからいろんな町に行ってる。僕らと一緒に来る前、シロスのほかの町や……場所では、どんな様子だった?」

「どんな、って?」

タズは問い返したものの、明らかに怯んだのが分かった。セスタスは森の奥を振り返り、沈痛な表情で言う。

「……女の子がいたんだ。八つか九つか、僕より年下だった。最近逃げ込んで来たらしいけど、顔が……ひどいことになってて。僕を見た途端に、ものすごく怖がって逃げ出したんだ。まともに口もきけない様子だった」

そこまで言い、もう一度タズを見上げる。と、そこにあったのは、陽気な若者の顔ではなかった。厳しい、大人の男の顔。

セスタスが絶句していると、タズは困ったように頭を掻き、それから、近くの木の根元に腰を下ろしてセスタスを手招きした。

「あんまり楽しい話じゃないぞ。ますますここから出られなくなるかも知れない。それでも聞きたいか?」

セスタスは彼の向かいに腰を下ろし、こくんと深くうなずいた。

それからタズが話してくれた内容は、先にあの少女を見ていなければ信じられないようなものだった。

セスタスがこれまで暮らしてきたのは、どこも概して平和で――皇都での騒乱は別として――闇の獣など、御伽噺の中にしか存在しない世界だった。夜通し明かりを灯す必要もなく、貧しい人々はいても、豆一粒を巡って奪い合いの乱闘になるほどではなかった。

子供や若者が、慰みもの、あるいは労働力として売られることも、少なくともセスタス自身は見たことがない。奴隷の売買があるのは知っているし、ナクテの館にも皇都にも奴隷はいたが、決してむごい扱いを受けてはいなかった。ましてや、麦一袋と子供が交換されるなどとは想像もつかない。

軍団兵が野盗化しているというのも衝撃だった。彼が知っている軍団兵は、皆、背筋を伸ばして輝く胸当てを着け、セナトの家族や皇帝にきりりと敬礼する、そんな男達だった。大きくなったら自分も彼らと一緒に行進できるかもしれない、と憧れてもいたのに。

タズが口をつぐんだ後も、しばらくセスタスは何を言うことも出来なかった。

「それは……本当なんだね?」

ようやく彼がかすれ声で問うと、タズはため息をついてうなずいた。

「残念ながら、本当だよ。おまえの爺さんや皇帝がすったもんだしてる間に、辺境……特に北部じゃ、えらいことになってる。俺のダチの話はしたろ? そいつも、元はナナイスにいたのに、コムリスまで逃げて来てたんだ。家族が揃って無事だったのは奇蹟みたいなもんだよ」

「そんなに酷いんだ……」

絞り出すような声に含まれるものを察し、タズは慌てて身を乗り出した。少年の小さな頭にぽんと手を置き、軽く撫でる。

「おまえが責任を感じるこっちゃないさ。おまえがいてもいなくても、爺さんも皇帝も好きなようにするに決まってるんだから」

励ますように言ってから、ありゃ逆効果だったかな、と困惑顔になる。慌てて取り繕おうとして、彼はよく考えないまま、早口にまくし立てた。

「いや、そりゃ、おまえにだって出来る事はあるだろうよ? でもな、おまえは子供なんだから、無理は……いや、ええっと、なんだ、つまりその、……ともかく、おまえは気にするな!」

強引に結論を出し、結局またセスタスの頭をくしゃくしゃにする。

「それはやめてってば」

セスタスはうんざりと抗議しながら、それでもいつもよりは嫌でなさそうに、手を払う。彼が膨れ面で睨みつけると、タズはほっとしたように苦笑した。その笑みにつられて、セスタスの内で黒く重く固まっていた何かが、さらりと溶けてなくなる。

セスタスはやれやれと諦めたようにため息をつき、立ち上がって尻についた木の葉や屑を払った。そして、森の奥を見やってうなずく。

「そうだね。僕が気にしても仕方ないのかもしれない。今は……僕に出来ることをしたいな」

フィダエ族以外で、あの少女に一番歳が近いのは自分だろう。それなら、もしかしたら、少しは慣れてくれるかも知れない。怯えなくなって、ゆっくりでも、一言だけでも、話せるようになるかも知れない。

「誰があの子に食べ物を持って行ってるのか、訊いてみるよ」

「ははぁ、なるほど。子供同士なら、怖がらなくなるのも早いかもな」

タズは納得すると感心した声を上げた。それから不意に、にた、と笑みを広げる。

「うん、いい考えだ、頑張れ坊ちゃん。俺も陰ながら応援するよ」

突然口調が変わったので、セスタスは胡散臭げにタズを見上げた。彼はもうすっかりいつも通りの、能天気な顔に戻っている。否、それを通り越して何やら……少しばかり、いやらしい。

視線で問うたセスタスに、タズはにんまりして答えた。

「手伝ってやりたいけど、大人が近付くのはまずそうだしな。俺はネラさんと一緒に遠くから見守っ……おあ!!」

思いきり足の甲を踏まれ、タズは悲鳴を上げた。

何すんだこのクソガキ、と怒鳴られるよりも早く、セスタスはさっさと逃げ出している。タズは大袈裟に片足でぴょんぴょん跳びながら、待てこら、と拳を振り上げて追いかける。何の騒ぎかと驚いたネラが迎えに来たので、二人は先を争って彼女に陳情した。

「ネラ、逃げなきゃ! タズは僕とネラを引き離すつもりだよ!」

「おまっ、何を……! 聞いて下さいよネラさん、こいつ人の足を思い切り踏みやがって」

「タズが悪いんだろ!」

「心配して探しに行ってやったのに、森の奥に捨てっぞ、この野郎!」

「うわ、聞いたネラ!? やっぱりタズなんか……」

「そこまで!!」

ネラがぴしゃりと遮り、二人はそれぞれ不満げに口をつぐむ。気付くと三人は、滅多にない見物に驚いた村人達の視線を、すっかり集めてしまっていた。

「お二人とも、フィダエ族の皆さんに迷惑をかけないよう、少し落ち着いて行動して下さい。セナト様はともかくタズさん、あなたまで一緒になって遊ばないで、なだめて下さらないと」

「……すんません」

うなだれたタズの横で、“ともかく”扱いされたセスタスもしゅんとする。

「ごめん。僕の方がタズを止めなきゃいけなかったね」

「待て、なんでそうなる」

そこでとうとう誰かがくすりと失笑し、それを皮切りに、村人達の間にさざなみのような笑いが広がった。決して誰も大笑いはしなかったが、どうやらこれほど笑うことも珍しいようだ。

笑いが収まった後で、久しぶりに楽しかったですよ、と礼を言われてしまった三人は、なんとも複雑な表情で顔を見合わせたのだった。