Ashes and Kingdoms

4-7. Empathy

紫紺の帳が下り、その裾を飾るように篝火が灯される。フィンは点々と続く光の列を眺めながら、手を握ったり開いたりしていた。細い糸がまとわりつくような感覚は、要所要所の篝火に注いだレーナの力を、ここからでも補強できるようにという工夫だ。

フィンが守りにつくようになって数日、今のところ他の場所への攻撃は初日と大差ない状況だが、安心してしまうには少し早い。一方彼の前に現れる青い光点は他より多かったが、向こうも警戒しているのか取り囲むだけで、初日のような激しい攻撃はなかった。

フィンは背後を見やり、篝火のそばでマックが先に眠っているのを確かめて微笑した。元々度胸のある少年ではあったが、今はそこに経験と落ち着きが加わって、早くも一人前の顔を見せるようになっている。

(まあ、見た目よりは確かに大人なんだしな)

小柄な体格ゆえ実際よりも幼く見てしまいがちだが、彼はネリスより年上なのだ。フィンは暗闇に目を転じて、静かに剣の柄に手を置いた。

音もなく、潮が満ちるように闇が寄せてくる。

(……?)

気配の違いに気がつき、フィンは眉を寄せた。あまりにも静かだ。闇の獣が立てる、きしるような物音がまったく聞こえない。だが、気温だけは確かにしんしんと冷えてゆく。

フィンはいつでも剣を抜けるように身構え、用心深く暗闇をねめつけた。どこから来るのか、見極めようとして。だが、青い光はただのひとつも灯らない。

(おかしい。マックを起こした方がいいかもしれない)

不安になって振り返った瞬間、彼はぞっと総毛立った。篝火がいつの間にか、弱々しく身を竦めているではないか。ちらちら揺れる炎に照らされたマックは、ひどく寒そうに毛布に顔を埋め、白い息を吐いている。

「マック!」

駆け寄って、霜の降りた毛布の上から揺さぶる。だが睫毛の一本までぴくりともしない。フィンが慌ててレーナの力を引き出そうとした時、

〈必要ナイ〉

覚えのある冷ややかな声が脳裏でささやいた。彼はぎくりと身をこわばらせ、ゆっくりと再び暗闇に向き直る。いつの間にか、周囲より濃く深く凝った闇の中心に、一対の青い灯が光っていた。わずかな濃淡が狼の巨躯を浮かび上がらせる。

最初の遭遇の記憶がよみがえり、フィンは絶望と無力感に潰されそうになった。かろうじて内にある光にすがりつき、膝をつくまいと堪える。

ぐっと両足に力をいれ、気力だけで背筋を伸ばすと、フィンは狼に対峙した。青い光が面白がるように少し細くなる。

〈戻ッテキタカ〉

フィンは応じず、黙ってゆっくりと自身の内に光の流れを巡らせていた。レーナの気配には萎縮も恐怖もなく、フィンを守ろうとする様子もない。周囲の闇に押されて少し窮屈そうではあるが、それだけだ。フィンが落ち着いてさえいれば、彼女のもたらす力と光で自分を守るぐらいは出来る。

ということは、これは敵ではないということだ。

フィンは唇を引き結んだまま、おまえは何だ、と心の中で問いかけた。そして、応じるように意識に触れた暗く冷たい力に、ぎくりと身を竦ませる。彼はぶるっと身震いし、改めて眼前の狼を見つめた。

「……あなたは」

意識に直に触れられ、おまえ、と呼びかけることが出来なくなっていた。これは闇雲に襲いかかってくる闇の『獣』とは違う。それだけでなく、何か強い力を有している。

「何なんだ。なぜ俺に構う」

〈相反スルモノダカラダ〉

返事が言葉だったのか、意思そのものだったのか、フィンにはよく分からなかった。いくつもの感情や声が、意識をかすめていく。

興味と好奇心、

(消シ去レ)

嫌悪、憎しみと侮蔑、

(光ニハ闇ヲ)

何の感情もない、ただ相克するだけの本能じみたもの。

そして、それらすべてを突き放して観察する大きな意識――

正体が分かった、とフィンが無意識に納得すると同時に、明瞭な声が届いた。

〈我ハ“祭司”〉

フィンはうなずきを返した。人間社会における祭司とはまったく違うが、あえて名づけるならそうとしか言えない。人間の祭司が一般人と異なる力を持つように、この狼も、闇の眷属の中で特殊な力を有しているのだ。

「だから、言葉を使って俺に話しかけることが出来るんだな」

ほかの獣たちが、直接あの凄まじい憎悪を叩きつけることでしか意思を伝えないのに反し、この“祭司”は意思そのものではなく言葉で伝えてくる。

〈我ラハ共感ニヨッテ動ク。タヤスクハ退カヌ〉

諦めてしまえ、その方が楽だぞ――そう誘うようにささやき、狼は闇の奥にすっと下がった。凍てついていた空気が和らぎ、篝火が再びパチパチと音を立てて踊る。

フィンが答えず睨みつけていると、青い光が瞬いて消え、闇はただの暗がりに変わった。うそ寒い気配が完全に消えてから、フィンは急いでマックに駆け寄った。顔色は青白いが、息はちゃんとしている。光を注ぐまでもなく、次第に勢いを増す篝火に温められて、頬に血の気が戻ってきた。

フィンはほっと息をつき、篝火の様子を確かめてから、闇に向かい合って腰を下ろした。今夜はもう攻撃されないと、確信出来たからだ。

座った途端にどっと疲労が押し寄せ、フィンは片膝を立ててごつんと額をあずけた。

〈フィン〉

ふわりと暖かい気配が心身を包む。顔を上げると、レーナがそばに姿を現していた。

「やあ。心配しなくても、俺は大丈夫だよ」

「でも疲れてるわ。今夜は眠る?」

「……そうだな。奴らの気配はまったくないし、今夜は安全だろう」

何気なくそう答えてから、フィンは自分に小首を傾げた。なぜそんな風に断言出来る? まるで、絆を結ぶ前、道案内をしてくれていたレーナのように。

と、そこまで考えてフィンは彼女を振り向き、

(そうか)

苦笑とともに納得した。無意識に、彼女の感覚を共有していたのだろう。いくらレーナの感覚が人間とずれていても、危険があれば、眠るか、などと訊きはしない。竜の知覚で闇の眷属がいないことを知り、それをフィンが無自覚に共有したのだ。

(闇の獣の共感とやらも、こんな感じなのかな)

いちいち言葉にすることも、相手と自分とを区別することもない。

となれば、「たやすくは退かぬ」と言った意味も分かろうというものだ。攻めてきた獣を倒しても、彼ら全体が憎悪を共有し、倒された獣の恨みを知り、巨大なうねりとなって押し寄せる。人間同士の戦争のように、先鋒を倒せば残りは逃げる、という現象が起こりえない。

(どうしたらいいんだ)

はあ、と深いため息をつく。暗い気分で膝を抱えたフィンに、レーナは横から手を伸ばし、そっと頬の傷痕をなぞった。

「少し休んで」

柔らかい手がそのままこめかみへと移り、そっと頭を抱き寄せる。フィンは返事をする余力もなく、レーナの肩によりかかった。

(それでも、諦めるわけにはいかないんだ)

暖かな優しさに埋もれていきながら、彼はそれだけを考えていた。

(諦めないぞ)

いつかまた、ナナイスで昔のように――。

「共感、か。なるほど」

ふむと唸ったイスレヴのほかは、ほとんどが狐につままれたような顔をしていた。

「なんだかよく分からねえな」

ヴァルトが正直に言って、胡散臭げにフィンを見る。寝惚けたか魔物に化かされたんじゃないのか、と疑いを投げかけたが、フィンはきっぱりと否定した。

「間違いなく、闇の眷属だった。ウィネアに入る前に接触してきた奴だ」

「ご親切に今度は警告に来てくれた、ってわけか? つくづくおまえは、節操なく人外にもてるな」

呆れ声は冗談を装っていたが、陰には剣呑な棘がある。何人かの仲間が笑おうとして笑えず、複雑な顔になった。フィンは肩を竦めてやりすごす。

「ありがたいことに、好意は感じなかったよ。単なる興味、というか、俺がどうするのか面白がって見物しているような雰囲気だった。いや、俺だけじゃないな。同じ闇の眷属のことも含めて、ことの成り行きを一段上からただ観察しているような印象だった」

「あ、それ、なんか分かる」ネリスが口を挟んだ。「あたしも祭司としての自覚を持つようになって、ものの見方が変わったもん。何もかもがちょっと、他人事みたいな……」

そこまで言って家族の視線に気付き、慌てて言い繕う。

「いつもってわけじゃないよ、もちろん。他人事みたいに世の中を見てたって、現に自分の身に降りかかるものは降りかかって来るんだしさ。ただね、あたしはそうだけどさ、本当に特別にすごい祭司様とかで、神殿にこもって一生過ごすような人だったら、それこそ……なんていうか、ふつうの人間とは違うことになっちゃう気がする」

ネリスの説明に、仲間達も「そういうことか」と得心してうなずいた。一同の理解を待っていたように、イスレヴが口を開く。

「闇の獣に人間のような社会があるのかどうかは疑わしいが、恐らくお嬢さんの言う通りなのだろうな。そしてコムリスに対する攻撃が、フィニアスや皆から事前に聞いたものほど激しくないのも、彼らが共感による意思疎通を行うとなれば納得がいく」

物問い顔になった皆を見回し、イスレヴは講義でもするかのように続けた。

「昨秋、君達がここにいた頃も、北辺ほどの攻撃には晒されていなかったのだろう? ということは、元々この辺りの闇の獣の敵意はさほどでもなく、北辺の獣の方が激しい憎悪を募らせていたのだろうな。その彼らが次々に町や村を壊滅させた後、多少の満足感を得たことは想像に難くない。

もしもウィネア以北に駐屯していた軍団兵が精強かつ大規模で、獣の攻撃をいつまでも退け続けていたら、怒りはますます増大していずれこの近辺にまで波及していただろうが、そうはならなかった。だから今も、北辺を平らげた連中がここまで南下してくることなく、かろうじて人間の領域が残っている……そういうことではないかな」

一同は神妙に耳を傾けていたが、イスレヴが仮説を締めくくると、次第に一人二人と嫌そうな顔になっていった。ややあってヴァルトが代表してその心中を述べる。

「つまり、テトナもナナイスも、飢えた獣をなだめるための餌になった、ってわけかよ。奴らにくれてやらなきゃ、被害はもっとでかくなっていた、ってか?」

「推論だがね。それに、結果的に餌をくれてやったことになったが、誰も好んで与えたわけではない」

「当たり前だ!」

語気荒く言い返し、ヴァルトは苦々しげにそっぽを向く。気詰まりな沈黙の後、プラストが小さくため息をついて言った。

「……となると、奴らが満足して人間などどうでもいいと思うようになるまでは、下手に反撃に出られないわけか」

「さてどうだろうね」

イスレヴは考えながら答え、意見を求めてフィンを見る。彼は一人じっと考え込んでいたが、ややあって慎重に口を開いた。

「闇の獣の攻撃が山火事みたいなもので、自然に消えるのを待つしかないのだとしたら、確かに反撃しても無駄でしょう。その場合は、燃え草を取り除く――つまり北部の人間が他所へ移住してしまえば、少しは早く収まるかもしれません」

無茶を言うな、とばかりの気配が場に漂う。フィンはそれを気にする様子もなく続けた。

「ただし、移住した先が安全とは限らない。本国側にいる間は北部ほどの酷い話は聞かれなかったが、あちら側の火事がまだ火花の段階にすぎないだけかもしれないし……いずれにせよ、この方法では北部を人間の手に取り戻すのは何世代も先の話になってしまいます。やはりどうにかして、少しでも火勢を弱めないと」

「どうやって?」

いささか皮肉っぽくヴァルトが問う。ネリスがむっとして言い返した。

「お兄にばっかり訊かないで、自分でも何か考えたら?」

「そうしたいが、何せこちとら、闇の獣のお友達がいるわけじゃないんでね。あいつらのことなんざ分かるもんか」

ヴァルトはネリスの抗議を鼻であしらい、肩を竦める。フィンはげんなりして頭を振った。

「俺だって分からないよ。ただ当面この町への攻撃が激しくなることはないだろうから、ちょっと山へ行って青霧に良い方法がないか相談しようと思っているんだ」

久しぶりに聞く名前に、古参の隊員たちが、その手があったかと明るい顔になった。そして、怪訝そうな新入りに、口々にサルダ族のことを教える。早くも場の雰囲気は、問題は解決したといわんばかりの楽観的なものに変わっていた。

――が、しかし。

数日留守にして山脈に向かったフィンは、声をかけるのも憚られる厳しい表情で戻ってきた。どうだった、と恐る恐る問われて、返した言葉はたった一言。

「駄目だった」