Ashes and Kingdoms
2-8. Dark Clouds and Hope
「前にコムリスから送った手紙に対する返事だ。向こうでは、闇の獣の動きについて変わったところはないらしい。ただ、東部の情勢が不明瞭だとか」
フィンは答えながら手紙を取り上げ、最後まで目を通してからマックに渡した。マックは束の間ためらったが、すぐに遠慮は捨てて手紙を読んだ。
「ふうん……なんだか妙な感じだね。本国側に闇の眷属が流れているのなら、何かしら変化が現れてもいい筈なのに。目立って攻撃が激しくなったという報告はない、か」
「東部でも奈落に近い方は、グラウス将軍の兵が抑えてくれているらしい。ただ、東北部……ドルファエ人の自治領や、マズラ州からの音信がほとんど絶えているから、そっちで何かが起こっているとしても、それは把握していないそうだ」
「だから兄貴に偵察してきて欲しい、ってわけだね」
マックは複雑な顔で読み終え、手紙を返した。
ヴィティア州のはるか東、草原の北に位置するマズラ州は、農業と交易で成り立っているような土地だった。古来ドルファエ人は商売熱心ではないし、ヴィティア人は商売が下手だから、マズラ人が間に立って交易を行い、ついでに南のノルニコムにまで足を伸ばして、果ては本国にも行き来するようになった。
そんなお国柄であるから、本来なら情報も彼らが運んでくれる筈だった。だがそれが、四年ほど前からどんどん量と頻度が減り不正確になって、しまいにすっかり消えてしまったのだ。
フィン達が風車小屋を離れざるを得なくなったあの頃、既に他の地方のことなどまったく分からなくなっていたが、今でもなお東北部との往来は絶えたままになっている。
「一人残らず完全に、闇の獣に滅ぼされてしまったとは考えたくないが……」
「気持ちは分かるけど、兄貴、皇帝陛下が心配しているのは、そういう事じゃないと思うよ」
「だろうな」
フィンは憂鬱げにため息をつき、同意した。
滅んだなら滅んだで、諦めはつく。それが皇帝や評議会の本音だろう。ヴィティア州の復興でさえ財源が厳しいというのに、マズラを取り返す余力などありはしない。いっそ完全に滅んでいれば、文句を言う民も、反乱を起こす軍隊もないのだから、静かで良いとさえ考えているだろう。流通の弱体化や税収の落ち込みは問題だとしても、支配する必要のない土地ならば放置しておける。
それを気にせねばならないのは、ドルファエ人という燃え草を載せたノルニコムの大地で、火種がくすぶっているからだ。そこへマズラ人の補給物資という風を送られては、たまったものではない。
「本国の思惑がどうあれ、そろそろ様子を見に行くべきだろう。闇の獣の動きも気になるし、また留守にするが、その間のことは頼む。と言っても、俺抜きで式を挙げてしまわないでくれよ」
おどけて付け足したフィンに、マックは照れ隠しの為か盛大に顔をしかめた。
「心配しなくても、ちゃんと花嫁の親族かつナナイスの守護者として、新郎新婦に劣らない見世物にするつもりだよ。そっちこそ当日になって逃げ出さないでくれよ」
脅されたフィンは大仰に降参の仕草をする。マックは笑い、フィンの腕を軽く叩いて部屋を出て行った。ネリスに報告に行くのだろう、足取りが軽い。フィンは温かな気持ちでそれを見送っていた。
それからふと、こんな知らせを聞いたらレーナも出てきてマックを祝福してくれそうなものなのに、と怪訝に思って意識で呼びかけた。が、いつもならすぐそばに感じられるはずの彼女の気配が、妙に遠い。
〈レーナ、どこにいるんだ?〉
また海の上でも飛びに行ったのだろうか。フィンのレーナに対する複雑な思いを聞かせずに済んだのは良かったが、いなければいないで不安になる。何か変事があったのならフィンにも分かるはずだから、何も告げずに出かけたということは、特段の事情もないのだろうが。
フィンが呼び続けていると、ややあって応えがあった。
〈待って、すぐ戻るから〉
返事があって一呼吸ほどの後、光がふわりと渦を巻いてレーナが姿を現した。
「どうしたの、何かいい事があったみたいね?」
「ああ。マックがいよいよネリスと結婚すると決めたらしい」
「わぁ!」
途端にレーナは眩しいばかりの笑顔になって、歓声を上げた。
「素敵、嬉しい! じゃあもうじき、二人の子供が見られるのね!」
「ちょっと気が早いよ」
フィンは苦笑した。どうやらレーナにとって結婚とは、子を産むことと同義になっているらしい。彼女は嬉しそうに、くるりとその場で回った。
「でも、何十年も先のことじゃないでしょ? うふふ、楽しみね」
「……ああ」
数年ぐらい、レーナにとっては待つほどの時間でもないのだ。分かっていた筈なのにまた思い知らされて、気が滅入りそうになる。フィンは努めて明るく気分を切り替えた。
「それより、君はどこに行ってたんだ? 珍しいな、呼んでもすぐに戻れないほど遠くへ行くなんて。海を越えて別の大陸を見物してきたのかい」
「あ……ううん、そうじゃないの。例えそうだったとしても、一度私達の側に戻れば地上の距離はさほど問題にならないから」
へえ、とフィンはうなずいた。『私達の側』というのが、レーナが姿を消している間に存在している世界だと、説明されなくとも分かる。神々や竜や精霊の住まう世界、いわゆる天界だ。
が、レーナはそこまで言っただけで、口ごもった。質問の答えにはなっていない。フィンは訝り、遠慮がちに問いを重ねる。
「それじゃあ、どうして」
強いて聞き出すまでもないことかもしれないが、妙に気になったのだ。するとレーナはもじもじしながら、見る間に真っ赤になって、ほとんど聞こえないほどの声で答えた。
「あの、ちょっと……聞きたいことがあって、……を訪ねていたから」
人の言葉には出来ない、何か偉大な存在を示す感覚がフィンにも伝わる。竜の中でも神に近いもの、あるいは、最年長の賢者、竜族の祖とでも言おうか。
「そうか、だから呼ばれたからっていきなり失礼しますとはいかなかったんだな。すまない。たいした用もないのに呼び戻してしまって」
「ううん、いいの。フィンに呼ばれるのは好き」
赤い顔のまま、けれどそこは純粋に喜びだけの声で、レーナは言って首を振る。フィンは知らず口元をほころばせた。そこで彼は、はたと気付いた。
「そういえば、君の家族はもういないと言っていたが、君が会ってきたその……相手は、同じ天竜なのか?」
「ええ、そうよ」レーナは寂しげな目になって答えた。「私の両親は大戦で酷く弱ってしまって、私に封印を施した後、間もなく死んでしまった。でも、天竜が皆いなくなったわけじゃないの。地上に出るものはごく少ないけれど、向こうに帰ればいつも何家族かはいるから」
「そうなのか」
フィンは驚くと同時に納得した。人間の歴史上、竜が姿を現したのは大戦の時ぐらいのものだ。それも常に片手で足りるほどの数。竜が実際にそれだけしか存在しなければ、とうに滅びているだろう。彼らには彼らの世界があって、そこでは人間の戦いに巻き込まれることもなく、彼らだけの生活が営まれているのだ。
という事はつまり。
「君に同族の伴侶が見付からないってわけじゃ、ないんだな」
フィンの脳裏に、ファウナの言葉がよみがえる。レーナに結婚したいと言われて動揺していた時、失笑と共に返された言葉が。
――レーナちゃんが竜のお婿さんを連れて来たのかと思ったじゃない。
実際、それもあり得なくはないらしい。そうして欲しいと願っているわけではないのだが、しかしレーナの本来帰属する世界はあちら側だ。もし彼女が同じ竜をつがいの相手に選ぶのなら、それはフィンを選ぶよりも望ましいことなのだろう。レーナがフィンに対して、人間の女と愛し合って結ばれるのならそれは素敵なことだ、と言うのと同様に。
(俺は竜じゃないから、心から『素敵なことだ』なんて言えないが……)
フィンのそんな感情を理解したレーナは、こくんと小さくうなずいた。
「ええ。でも、私はフィンが好き。子を育みたい相手はフィンだけよ。だから、訊きに行ったの。人間を、つがいの伴侶にする方法について」
大真面目にそう告げられて、フィンはよろけそうになった。が、すぐに、相手に羞恥の感情がないと感じて気を取り直す。彼は黄金の瞳を見つめ返し、微苦笑した。
「やめておけ、と言われたんじゃないかい」
「心配されたわ。地上に出た竜が人間と絆を結ぶのは、ある意味、自然な成り行きだけれど……つがいの伴侶にまですると、つらい思いをするだろう、って」
ああ、やはりか。
フィンの胸中に苦い確信が降りる。初代ナクテ竜侯の悲劇は、竜の側ではよく知られたことなのだ。人間に関する教訓のひとつとして。
そう考えた時、フィンは意識せぬ間に強い反発を抱いていた。ほとんど怒りにも近い。彼は眉を寄せ、口から出かかった言葉を引き戻して再考する。
(そうと決まったわけじゃない)
確かに人間は竜にとって危険で恐ろしくて、何をするか分からない存在だ。彼自身そう考えたからこそ、三年も保留していたのだ。しかしそれを竜の側から指摘されるのは、正直なところ嬉しくなかった。
ならばなぜ、竜侯という存在があるのだ。竜を喜ばせる者がいるからこそ、絆が結ばれるのではないのか。竜侯だけではない、フィンの家族やクヴェリス、イスレヴらのような者もいる。人間は竜を不幸にするだけの存在ではないはずだ。
無性に腹が立つと同時に、ようやっと彼は目が覚めた。
(俺は馬鹿じゃないのか)
人間は怖い、というレーナの思いに対して何らの手も打たず、それどころか一緒になって、まったくだなと相槌を打っていたようなものだ。危険だから結婚できない、などと、人間に対する恐怖と嫌悪を助長するかのごとき理屈をこねて。
とるべき舵は、完全に逆向きだった。
たとえフィン自身にどんな変化が生じるのだとしても、マックは味方だと言ってくれた。恐らくネリスや両親も同じだろう。彼らとの信頼と絆でもってレーナを安心させてやるのが、竜侯であるフィンの務めではないか。
口の中で己を罵り、フィンは眉間を押さえた。レーナがことんと小首を傾げる。
「フィン? どうして怒ってるの?」
「自分の馬鹿さ加減に気がついたからだ。出来るものなら三年前に戻って蹴飛ばしてやりたいよ」
「?? フィンは何も悪くないわ」
「いや、君には悪いことをした。三年ぐらい君にとっては短い時間だろうが、それでも……」
フィンは頭を振ると、顔を上げてまっすぐにレーナを見つめた。迷いが吹っ切れると、あれほど危惧していた諸々のことがすべて、下らなく思えた。
(何を迷っていたんだ)
こんな風に、怖気も不安も打算もなく見つめ返してくれる少女が、ほかにいるだろうか。羞恥を押してまで、自分から彼のそばにいたいと告げてくれたのに、どうして今までその気持ちを受け止められなかったのか。
フィンは腕を伸ばし、レーナを引き寄せて強く抱きしめた。頬に感じられる陽だまりのような熱が、少し温度を上げたようだ。思わずフィンは小さく笑い、柔らかな髪に唇をつけた。
「決めたよ。君と結婚しよう、レーナ」
「……ほ、本当に? 本当にいいの?」
レーナは目を大きく瞠って、至近距離でフィンの顔を覗きこむ。その表情の無垢さには、結婚という現実的な生活の話があまりにもそぐわない。フィンは笑いを堪えるのに苦心しつつ、なんとか真顔でうなずいた。
「今すぐは無理だが、マズラから帰って来たら、ネリスとマックの式に便乗させて貰おう」
彼が言うと、レーナはぱあっと輝くような――実際にちょっと眩しいぐらいの――笑顔になった。
「フィン!! 嬉しい、嬉しい嬉しい嬉しい! 大好き!!」
歓声と共に首に抱きついてきたレーナを受けとめ、フィンはその温もりを全身で感じながら、ちょっとおどけてつぶやいたのだった。
「見世物になるのは一度で充分だ」