Chronicles of The Hardships of Komachi in The Sengoku Era

One thousand five hundred and seventy-five, mid-November.

東国征伐の戦後処理が一段落した十一月中旬、静子は軍を率いて京を目指していた。

信長から申し渡された蟄居中だが、例外的に外出が認められる芸事保護の一環として法隆寺に向かうためだ。

直接大和(現在の奈良)へ向かわずに京を経由するのは、法隆寺(ほうりゅうじ)が誇る金堂(こんどう)壁画(へきが)を閲覧するためにほうぼう手を尽くしてくれた義父の近衛前久に礼を兼ねて挨拶をするためであった。

金堂壁画とは法隆寺の金堂(本尊を安置する建物)内を二つに区分する内陣(仏様を祀る場所)、外陣(参拝する空間)に配置された土壁の壁面に描かれた仏教絵画である。歴史的な資料が存在しないため作者不詳であり、7世紀末頃に描かれたとされる。

史実に於いては第二次世界大戦後の1949年に不審火で外陣が焼失してしまい、修復の為に取り外されていた内陣小壁の壁画20面のみが難を逃れて現存している。

そうした経緯を知っている静子は、少しでも保存状態の良いうちに写真に撮って資料を残そうと考えた。ようやく実用試験に漕ぎつけた写真がものになるかをはかる試金石となる事業でもあった。

静子が生まれた時代には既に永久に失われてしまった存在を、模写ではなく写真として後世に伝える機会を得られたことに静子は東国征伐よりも高揚していた。

「一般公開されない芸術品を目にできる! これこそ芸事保護の役得だよね!」

端緒こそ朝廷からの依頼を受け、信長から命じられた芸事保護の役目だが、今では名実ともに静子のライフワークとなっていた。

仮に信長が任を離れるよう命じたとしても、頑としてしがみつく心づもりですらあった。現代にいたころの静子はいわゆる歴女、悠久の歴史を振り返って当時の風物へと思いを馳せる女だ。

現代ならば国宝級に相当するような代物を直接見たり触れたりできる特権を誰かに譲り渡すつもりなどさらさらなかった。

普段は押しの弱い静子が、芸事保護や刀剣蒐集に関しては鬼気迫る執着を見せることが判り、その懸命な様子には信長も苦笑するしかなかった。

「さあ皆、この遠征の結果如何(いかん)でカメラの価値が決まるんだ。気合を入れていこう!」

静子は隊の中ほどで周囲を見回しながら、恐らく京と思われる方角を指さして号令した。いつになく高揚している静子の様子に、周囲は苦笑しつつも粛々と進んでいった。

「俺には静子がやる気を出すツボが判らん」

「某には少し判る気がする。静子様肝煎(きもい)りの『かめら』のお披露目だ、長い修練の成果を見せるようなものと思えば理解できよう?」

「俺はそれだけとは思わんがね。誰が認めなくとも『かめら』の価値は、既に静っちと上様が認めているから揺らぎようがない。まあ、そうは言っても寺の落書きを見るためだけに、大和くんだりまで出かけるのは酔狂だと思うがね」

長可の呟きを聞きつけた才蔵の言葉を慶次が引き継いで総評を下した。当の静子は鼻歌でも歌いださんばかりの上機嫌で、彼らの内緒話など耳に入っていなかった。

今回の大和行きの隊列は、いつにない大所帯となっていた。

長可、才蔵、慶次の3人は当然として、静子軍の中でも精鋭が選抜され五千名もが従軍している。彼らが守るのは主君たる静子は勿論、今回の目玉である写真技師及び撮影機材一式。

道中で京を経由するため、義父である前久(さきひさ)と顔合わせをさせるべく四六に器、教育係に収まった森可成も同道している。

更には新たに雇い入れた家人として、虎太郎(こたろう)、弥一(やいち)、瑠璃(るり)、紅葉(もみじ)のユダヤ人四名も前久に紹介するつもりだ。

彼らはそれぞれに一芸に秀でた才の持ち主であり、前久とよしみを結ぶことは決して損にはならない。

それにこういう機会でも無ければ、彼らは仕事に掛かり切りになってしまい、ろくに休みを取ろうとしないのだ。

そこで静子は一計を案じ、こうして顔見せと言う名目で物見遊山に連れてきている。物理的に仕事しようがない環境に置けば、彼らも気分転換になるだろうと言う思惑だ。

因みに静子自身がワーカホリックに陥っており、関係者をやきもきさせているという事には無自覚であった。

(上様が朱印状を発してくださったお陰か、道中が快適だなあ)

静子の大和行きに際して、事前に経路上の国人に対して信長から朱印状が届けられていた。

当然静子自身も黒印状を出して便宜を図って貰うよう依頼していたが、信長からの朱印状にはそれ以上の内容が記されていた。

即ち、『静子の大和行きに対して最大限の便宜を図り、万が一にも不埒ものが現れようものなら武力を以て鎮圧する』という信長からの脅迫に近い命令であった。

朱印状を見た国人たちは血相を変えて領内の順路を確認に赴き、道や橋などが傷んでいれば急いで普請を施し、付近の山々に対しても山狩りを行い野盗の一掃に血道を上げた。

前(さき)の東国征伐では、一敗地に塗(まみ)れたとは言え、殆ど損害も出さずに武田・北条連合軍を散々に追い散らしたという武勇が鳴り響いている。

静子の不興を買うだけでも恐ろしいと言うのに、更に信長からも念を押された形になり、僅かな粗相(そそう)もあってはならぬと、国主自らが関所まで出迎える領地すらあった。

更には静子軍に対する噂も、彼らの抱く恐怖を煽り立てるのに一役買っていた。

話によれば、静子軍を構成する人間の出自はバラバラであり、生粋の武人だけでなく、食い詰めた百姓や職人の倅(せがれ)や、浪人はおろか野盗上がりの元ならず者すら抱えていると言う。

通常であれば愚連隊(ぐれんたい)になるのが関の山という烏合の衆を、静子を頂点とする鋼の結束を誇る組織に纏め上げている。

口さがない者は、彼らを指して静子を崇める狂信者と言う程には皆が心酔しており、内部から静子軍を切り崩そうと企んだ者たちは逆に手駒を取り込まれて臍(ほぞ)を噛んだ。

そうした経緯から、静子軍の内情は外部に殆ど伝わらず、調略に失敗した者たちが悔し紛れに流布させた悪評のみが誇張されて伝わっていた。

そうした情報を鵜呑みにした訳ではないが、『火のない所に煙は立たぬ』の諺もあり、国人たちは彼ら一行を移動する天災と捉え、万難を排して通過させることに尽力することとなった。

「今回の順路には入ってないけれど、日程に余裕が出来たら春日大社にも寄りたいなあ……宝庫に『アレ』があるかもしれないし」

静子の言う『アレ』とは、1939年(昭和14年)に宝庫天井裏から発見された平安時代から鎌倉にかけての名刀12口(ふり)を指す。

いつ頃に隠されたのかは定かではないが、少なくとも第二次世界大戦終結前に発見されているため、戦後にGHQが実施した刀狩りを避けるためという説は否定出来る。

とは言え、真正面から捜索を願い出れば、先に発見された挙句に隠匿される可能性もあるため、宝庫閲覧の許可のみを得られるよう手回しを整えていた。

元々立ち寄る予定はない上に、許可が得られない可能性もあると言うのに、静子は一行に宮大工をはじめとした建物を解体し、再構築できるだけの職人を同行させていた。

(恐らく現時点でも隠されていると思うけど、確証はないからなあ……)

史実に於いては刀身が錆びついた状態で発見されたが、現時点であればもっと保存状態の良い状態で発見できる。まだ見ぬ国宝級とされる名刀に思いを馳せ、静子は心を躍らせた。

静子一行は大所帯であるため、京へと至る経路に陸路を選ばざるを得なかった。

如何に湖上水運が整備されているとは言え、小型から中型船舶が主流であるため、大規模人員輸送には適さなかった。

そこで前久への土産等は一行に先んじて琵琶湖経由で京へと届けられ、静子一行は安土で一泊することとなった。

信長の御座所でもある安土では、如何なる身分の人物であろうとも一泊することが義務付けられている。

静子は信長に拝謁し、挨拶を述べた。

その他にも道中の様子などを語って席を辞すと、高虎に近況を聞こうと遣いを出したが、安土城の工事が佳境に差し掛かっており、時間が折り合わなかった。

代わりに総奉行である丹羽が出向いて状況を説明する運びとなった。

聞けば年明けには天守まで完成する見込みであり、それを待って信長が移り住むことが予定されており、そうなれば信長が日ノ本で初めて高層建築で生活を営んだ人物となる。

安土城築城に携わる関係者が忙殺される中、静子が居ては相手をしない訳にもいかず彼らの邪魔をすることになる。最低限の挨拶だけを済ませた静子は、翌日安土を発ち一路京を目指した。

流石に安土−京間の街道は良く整備をされており、程なくして静子一行は京へと入る。

「よくぞ参られた。長旅の疲れもあろう、しばし寛いでは如何(いかが)かな?」

静子は京へ入ると京屋敷へ身を落ち着け、早速前久へと先触れを遣わせた。

そこで返ってきたがのが前述の言葉であり、頃合いを見て前久から迎えを寄越すとあった。

静子は前久の好意に甘えることにし、旅装を解いて湯浴みをして身支度を整えた。

まるで静子の支度が整うのを待っていたかのようなタイミングで前久の遣いが訪れ、静子を伴って近衛家の屋敷へと向かう。

前久の居室へと通された静子は、珍しく衣冠(いかん)(宮中等の勤務服)姿の前久自ら手厚く迎えてくれた。

京へと入る前から到着の先触れは出していたが、もしかすると内裏(だいり)から急いで戻ってきてくれたのかも知れない。

前久と猶子(ゆうし)を結ぶ前から余り貴族らしい振る舞いを見てこなかった静子は、彼の姿を見て改めて摂政という宮中の頂点に君臨する存在だと自覚した。

前久は相好を崩し好意的に静子に接するが、近衛家の家人達が浮かべる表情は硬い。それもそのはず、前久は静子の為人(ひととなり)を知悉(ちしつ)しているが、彼らはそうではない。

多くの公家達が困窮する中、近衛家の財政は隆々たるものがあった。

元より五摂家筆頭である近衛家の身代はそう易々とやつれるものではなかったが、静子を猶子に迎えて以降劇的に盛り返した。

尾張から発信される様々な文物を京へ伝える流行の担い手にして、静子の手ほどきを受けて荘園運営改革を推し進めた結果、かつて『望月の歌』を詠んだ藤原卿程ではないにせよ、名実共に公家の頂点へと駆けあがった。

今日の賓客はそれらの原動力となった人物であり、万が一にも不興を買えば我が身の破滅程度では済まないと言う切迫した思いが家人を萎縮させていた。

「さて、久々の顔合わせだと言うのにこうも堅苦しくては気も休まるまい。離れに一席用意させたので、そちらで土産話でも聞かせてはもらえまいか?」

「お気遣い痛み入ります」

静子の応諾を待って前久が席を立ち、彼自らが先導する形で離れへと席を移した。

前久自慢の離れには、湯気を立てる煎茶と軽食が二膳用意され、義父と義理の娘が向かい合う形で席へ着いた。

(流石は京だね。食事一つとっても尾張や美濃……いや、武家様式とは異なるんだね)

軽食とは言え、料理の盛り付けやあしらいにまで気を配り、膳や器、小物に至るまで贅を凝らした実に雅な懐石(かいせき)となっていた。

対する尾張や美濃では、良く言えば実利主義であり虚飾を排し、料理の味と量で勝負するという豪胆さがあった。

どちらが優れていると言うものではないが、これも文化の違いと受け入れた。

「此度の大和行きは、芸事保護を行う上で試金石となると小耳に挟んだのだが?」

「随分と良いお耳をお持ちですね。そうです、かねがね研究を続けて参りました『カメラ』がようやく形になりまして」

「ほう! それは、一瞬にして世界を写し取ると噂の?」

「本当にお耳が早いですね。今回の大和行きで実用に耐えるか評価し、その結果を以て京でも広めていこうと考えております」

「なるほど。そうなると前のいくさで多くの文物が失われたのが口惜しい」

前のいくさとは応仁の乱を指し、奈良時代から平安にかけて栄耀栄華を極めた朝廷文化は灰燼(かいじん)に帰している。

11年にも亘って続いた戦乱によって京は荒廃し、京の市街などは北部一帯が焼け落ちた。

治安の悪化から夜盗が横行し、他にも度々いくさに巻き込まれ、歴史的価値の高い書物や金品、芸術品などは軒並み失われてしまった。

現在は信長の庇護下、治安も回復し日ノ本有数の都市として復興していた。

京に平穏が戻ると、帝を中心とした朝廷文化と、大衆を中心として庶民文化が相互に影響し合い、独特の文化を形成しつつあった。

「既に失われてしまったものはどうしようもないが、『カメラ』があれば物の在り様を永く留め置けるのであろう?」

「芸事保護のお役目を頂戴して以降、京でも失われたと思われていた資料を見つけたことも御座います。『カメラ』が資料を複写する時間を大幅に削減してくれます。芸事保護にも弾みがつこうというものです」

「それは重畳(ちょうじょう)。いずれ『カメラ』とやらを見たいものよ」

静子の芸事保護が有名になるにつれ、日本中に散逸した文芸品や資料等が続々と集まるようになってきていた。

群書類従(ぐんしょるいじゅう)に近い資料を編纂する中で、盗難被害に遭ったとされる古書が発見されたり、戦災を避ける為に持ち出されていた資料が持ち寄られたりしている。

これらの古書や資料などは再び紛失しないよう、静子の手により複製が作られ近衛派の公家達にも一部が託され、朝廷文化の保管を担っていた。

歴史や格式を重んじる公家達の中で、貴重な資料を管理している近衛派の公家達は一目置かれるようになり、いつしか一大派閥を形成するまでになっていた。

「誹(そし)るつもりはないが、得てして武家の人間は芸事を軽んじる向きがある。中には理解を示す御仁も居られるが、多くは金になるかならぬかが評を分ける。無論、金銭的価値も重要な指標だとは思うのだが、随筆なども後世に残すべき美があると知って貰いたいものだ」

「そればかりは個人の性向ですゆえ、難しい面もあるでしょう。武家の方々は生き急ぐ方も多く、比較的身近であるはずの刀剣蒐集などにも理解を示されないこともしばしば……」

「多様な価値観の共存とは斯(か)くも難しい、せめて棲み分けが出来るよう力を尽くさねばならぬ」

「微力ながらお手伝い致します」

そんな会話を交わしつつ、静子は近衛邸で一夜を過ごした。昨夜は前久が自分の派閥の公家を招き、宴席を設けたため盛大な会食となった。

静子が持ち寄った珍しい食材や、静子が連れてきた料理人の振る舞う料理が並び、前久も面目躍如といったところだろう。

前久が自派の公家達を入れ替わり立ち替わり紹介するのだが、静子の頭にはまったくと言って良い程入ってこなかった。

取りあえず顔を繋ぎさえすれば良いと割り切り、にこやかに応対していたが内心辟易していた。

翌朝、朝靄(あさもや)が立ち込める中、静子一行は近衛邸を後にした。四六と器、教育係の可成は近衛家に残り、大和より戻る静子一行を待つことになる。

ここで四六と器は、公家の子女として最低限心得ておかねばならないことを学ぶこととなる。

彼らの教育については前久が請け負ってくれたこともあり、可成も同道しているため悪いようにはしないだろうと判断している。

こうして一路法隆寺を目指す静子一行は、事前に法隆寺と交渉役を担っていた足満と合流すると、法隆寺の周辺に陣を張った。

かつて信長が東大寺でそうしたように、静子も付近の治安を安堵するよう兵に命じると、法隆寺側へと到着を伝えた。

事前に交渉が済んでいることもあり、境内へ立ち入る人間を制限された以外は注文を付けられることもなかった。

静子としても武装した兵士を大勢連れ歩くつもりはなく、最低限の人員のみを随行させることで了承した。

法隆寺は7世紀ごろに創建された聖徳(しょうとく)太子(たいし)ゆかりの寺院である。

静子が目指す金堂が存在する西院伽藍(がらん)は、現代に於いて世界最古の木造建築物群と呼ばれていた。

写真撮影が順調に済めば、続けて夢殿(ゆめどの)を中心とした東院伽藍の調査も申し入れていた。

法隆寺側としては無法者の印象が強い武家の介入を極力排除したいが、信長の懐刀であり朝廷から芸事保護を託された人物であるため無下にも出来ず、折衷(せっちゅう)案として僧侶の修行を邪魔とならない間に限って了承した。

双方がそれぞれの条件をすり合わせた結果、撮影には法隆寺側の人間が必ず立ち会うこと、撮影が済み次第速やかに撤収すること、撮影機材や現像器具等は高価かつ危険な薬剤も存在するため、決して許可なく触れない事を取り決めた。

こうして静子が法隆寺前に陣を張ってから数日後、世界初となる写真撮影が斑鳩(いかるが)の地にて執り行われることとなった。

持ち込まれたカメラは二台。フィルムカメラで言うところのネガに相当するガラス乾板(以降、乾板と呼ぶ)は数百枚が用意され、印画紙に相当する鶏卵紙の素材として高級越前和紙を千枚ほどが持ち込まれた。

現像用の機材については大型の物も多く、文字通りの門外漢である法隆寺の僧侶たちは未知の道具を操る技術者を、遠巻きにこわごわと見守っていた。

「まず塔(五重塔(ごじゅうのとう)の事)の外観を撮影します」

現代に於いて主流となっている所謂デジカメは、レンズを被写体に向けボタンを押した瞬間に撮影が完了し、デジタル画像が保存される。

対する静子達の乾板写真は撮影の前後に様々な作業が必要となった。

まずカメラを三脚で固定し、蛇腹を開いてレンズを取り付け、光を遮る黒布を被り、レンズを開いてピントグラスと呼ばれる曇りガラスに映った像をルーペで確認しながらピントを合わせる。

次に暗幕に覆われた即席の暗室内で乾板をフィルムホルダーにセットし、シャッターを閉じてシボリを絞る。

ピントグラスを閉じてフィルムホルダーをセットし、フィルムホルダーから遮光板を引き抜く。

その状態で機械式のシャッターを一度だけ作動させ、規定時間露光させることにより撮影が完了する。

その後、再び遮光板をフィルムホルダーに差し込み、暗室内で乾板を取り出すという一連の作業を写真1枚ごとにすることになる。

これでも感光基材の改良によって露光時間を短くできた方であり、1枚の写真を撮るのに平均5分程度の時間を要するが、湿板時代の数十分かかる撮影と比較すると格段の進歩を遂げていた。

「撮影できました! これより現像致します」

撮影を終えたフィルムホルダーを持った技術者が暗室へ向かい、現像作業に入ることになる。

このフィルムに記録された像は明暗が逆転したネガと呼ばれる状態になっており、これを印画紙と呼ばれる感光材料を塗った紙に焼き付けることを現像と呼ぶ。

この現像の仕組みから、一枚のネガから複数の写真を得る事が出来、同じ写真を大量に作ることが可能となる。

今回静子達が選んだ印画紙は鶏卵紙と呼ばれるものを用いる。鶏卵紙の特徴としては安価で大量生産に向き、コントラストの強い鮮やかな像を得られることがある。

暗室にて薄明りの中、硝酸銀水溶液に浸された鶏卵紙を乾板と接着し、暗室から持ち出して露光させることにより乾板の画像を印画紙に焼き付ける。

この際に、ネガを通して焼き付いた像は明暗及び左右が反転した像となる。充分に露光させた鶏卵紙を乾板から慎重に剥がし、流水で洗うと徐々に映像が浮かび上がってくる。

程よく鮮明な像が得られた時点で印画紙を定着液に浸け、それ以上化学反応が進むことを止める。これをしないとどんどん反応が進み、最終的には印画紙全面が真っ黒に染まることになる。

ここまでの手順を踏むことによって、ようやく白黒の写真プリントが一枚手に入れることが出来るのだ。

本来ならば連続でどんどん撮影を続けるべきだが、まずは一枚焼き上がりを確認しないことには先に進めない。皆が固唾を呑んで見守る中、技術者が現像室より出てきた。

「静子様、成功です!! これをご確認下さい!」

子供のように目を輝かせた技術者が差し出した一枚の鶏卵紙。そこにはセピア調の背景に黒く浮かび上がる五重塔が屹立(きつりつ)していた。

現代ではもっと鮮明にカラーで撮影された画像を何度も見たはずだが、これほどに感動することは無かっただろう。

資料を頼りに、何もない処から始めて一から作り上げた写真がここにある。その感動たるやとても口で語ることなど出来なかった。

静子は矯(た)めつ眇(すが)めつして十分写真を堪能した後、真っ先に法隆寺の僧侶たちに写真を回した。とても絵筆では再現できない繊細かつ鮮明な画像がそこには写し取られていた。

僧侶たちは写真と実際に存在する五重塔を見比べ、その再現性の高さに驚嘆する。同様の手順で3枚の写真が現像され、それぞれに回覧された。

普段は何事にも動じず飄々とした態度を貫いている慶次ですら開いた口が塞がらない様子であり、写真の開発に少なからず尽力した足満も満足げに頷いている。

一方、芸術には然程興味がないため、大した反応を示さない長可、何だか判らないが兎に角凄いと感心する才蔵など反応は様々であった。

「良い仕上がりです。これならば上様からお褒めの言葉も賜れましょう」

「はっ! これで金食い虫と詰(なじ)られる日々ともお別れです!」

長く地道な研究を積み重ねた結果が、こうして多くの人に評価される。その様を見た技術者の一人が涙を流した。これで写真に対する評価は変わる、技術者はそう確信していた。

「さて、時間が限られています。現像は後回しにしても良いので、撮れるだけ撮りましょう」

「ははっ!」

静子の号令を受けて、技術者たちが再び撮影に取り掛かった。

しかし、彼らの意気込みに反してカメラは十全には機能しなかった。真っ先にゼンマイ式のシャッターが動作しなくなり、砂時計を片手にシャッターを手で操作する羽目になった。

他にも撮影作業に慣れてくると、手順が疎かになったのか乾板を光から保護する遮光板を差し込み忘れたり、運搬途中に乾板を落として割ってしまったりとトラブルが続発した。

現像作業に於いても、薬剤が高価であるため連続耐用試験をしてこなかったツケがここにきて表面化する。定着液は空気に触れたり、処理をしたりする度にその品質が劣化していく。

限界まで定着液を使用したことがなかったため、充分な定着が出来ず感光が進んでしまい真っ黒な写真が出来上がったりもした。

実地運用に際して多くの失敗もしたが、それでも金堂の壁面全てに加え、五重塔の立面図に相当する写真を撮影でき、金剛力士像『阿形(あぎょう)』と『吽形(うんぎょう)』をも写真に収める事が出来た。

また、休暇を取らせる目的で連れて来ていたユダヤ人の弥一だが、撮影された写真を見て閃くものがあったのか、静子に撮影の許可を願い出た。

技術者の観点とは異なる視点から撮影された写真を欲しいと考えた静子は撮影の許可を出し、弥一は虎太郎を通訳として技術者に撮影するポイントを示した。

「次の写真はこの地点から、下から見上げるような角度を付けてお願いします」

カメラの視点を得るべく、地面にしゃがみこんだ弥一が虎太郎を振り仰ぎ、技術者に内容を伝えて貰う。

正射影像を撮りたがる技術者とは対照的に、弥一は投影図のような立体感を感じさせる写真を好んだ。

こうして法隆寺にて撮影を続けること十日。遂に乾板のストックが底をついた。

京の静子邸にいくらか予備の乾板が遺されているのだが、必要な量の撮影は出来たと判断した静子は撮影の終了を宣言した。

「これは……」

撮影機材を厳重に梱包される作業が進められる中、静子は撮影に立ち会わなかった法隆寺の高僧達へ、数枚の写真を寄贈した。

初めて目にする写真の鮮明さは、年老いた高僧の胸をも打つものがあったのか、写真を悪鬼の所業と断じることなく正しく評価してくれたようだった。

(本当は人物も撮りたかったんだけどね……)

戦国の世に限らず、日ノ本では人の形をしたものには魂が宿ると信じられていた。

史実に於いても写真黎明期には、写真に人物を撮ると魂が写真に封じ込められると考え、忌避されることがあったという。

(まあ、急激な変革は反発を招くし、徐々に普及すれば良いよね。そうだ! 我が家の動物から始めよう!)

「ご主人は随分とご機嫌なご様子だ」

虎太郎が呆れ気味に呟いた。

「楽しいよ。こうやって新しい事の成果が出た時は特にね。ま、今回は上出来の部類だけど、大抵何かしら失敗がつきものだよね」

「それにしては失敗に対して寛容ですな?」

「同じ失敗を何度も繰り返すようなら叱責もするよ? 初めて挑んだ結果で失敗したのなら、その失敗さえも貴重な経験だよ。失敗を山と積み上げた先に、誰もが羨む成功があるんだと私は信じている」

静子の言葉を聞いて虎太郎は顎髭を弄(もてあそ)びながら応える。

「至言ですな。失敗無き技術など危なっかしくて使えませぬ。失敗を責めて萎縮させるより、失敗から学ばせて成功に繋げる第一歩とすれば良いのですな」

「そうだね。過度に失敗を恐れ、成功を求め続ければ近視眼的になって袋小路に迷い込む。だから失敗を恐れず、裾野を広くとって研究をするんだ。そうすれば一見失敗に見えても、そこから新たな芽が出ることもある。一番大事なのは研究者が、目の前の無駄に心を折らない環境を作ることだよ」

「ははは。それで気前良く設備投資を繰り返されておるのか」

「優れた研究成果は、優れた環境から生まれやすい。まあ、そのせいで研究費用は天井知らずに増えるから悩みどころ。今の処は、私の利益も右肩上がりだからお釣りがくるけどね」

「夢を追いつつ、現実もしっかりと見ておられると?」

「短期的な成果じゃ意味がないからね。百年、二百年先を見据えて基礎研究を続けられる下地を作っておく必要があるのよ」

「なるほど。現状に満足せず、常にもう一歩先を目指せと言うわけですな」

「研究だけに限った話じゃないけれど、現状に満足して歩みを止めたら、そこからゆっくりと腐り始めるんだよ」

静子の言葉に虎太郎は感じるものがあった。そうして停滞してしまった祖国を捨て、新天地を求めた。自分は面白い主人に巡り合えたものだと、一人ほくそ笑んでいた。