「ティータイムのあとはやっぱりお散歩ね、フェンリル」

 アビゲイルは崖に張り付いた状態で、それを聞いていた。

(子供の声だと?)

 声の響きから、相手が後ろを向いていることがわかる。

 アビゲイルは崖からそっと顔を覗かせて、声の主の姿を確かめた。

 ――やはり子供だ。

 黒いワンピースを着た、少女の後ろ姿、銀色の髪が見えた。

 しかし、彼女が散歩させているのは、犬っころなんかではない。

 ――それは、見たこともないほどに巨大なオオカミ。

(やはり、見た目に騙されてはいけないな。ここは魔族の巣窟……)

 アビゲイルの行動は素早かった。

 崖から素早く駆け上がったかと思うと、剣を抜いて少女に斬りかかった。

 シュザッ

 骨を断つ小さな音を伴って、横なぎの一閃が少女の首を切断する。

 小さな頭部は大量の血液を吹き出しながら転がり落ちる。

 しかしそれで安心するほど、アビゲイルは楽天家ではない。

 相手は魔族だ、首を落としただけで倒せるとは限らない。

 アビゲイルは返す刀で少女の可愛らしい両腕を斬り落とし、

 袈裟懸けに肩から腰を切断し、

 姿勢を落として両足を切り裂いた。

 可憐な少女の“部品”は、どくどくと血液をまき散らしながら地面に転がった。

 巨大な狼は、なんでもないことのように、バラバラになった少女の匂いを嗅いでいる。

(これだけやれば、さすがの魔族も……)

 額の汗を拭おうとしたその瞬間――声がした。

「あら?」

 背中にぞくりと寒気が走る。

 その声は、確かにさっきオオカミに話しかけていた少女の声だ。

「あらあらあらあらあらあらあらあらあら?」

 少女の首が、ひとりでにごろりと転がってアビゲイルを見た。

 血のように赤いくちびるが動いた。

「……お客様みたいですわね。フェンリル?」

 首が喋っている。

 5体をバラバラにされて、それでも平気で喋っている。 

(………………!)

 ここで逃げ出せば、アビゲイルは助かったのかもしれない。

 しかし目の前で起こっている凄惨な出来事に、アビゲイルの足は地面に縫い留められていた。

 グルゥ――と小さく唸ったオオカミが、少女の身体をむさぼり食い始めたのだ。

 ガフガフ、ガフガフ、クチャ、ペチャ、ゴリッ、バキッ

「うふふ、フェンリル、くすぐったいですわ……」

 転がった首が笑った。

 足と腕が飲み込まれ、胴体を引き千切るようにして、口の周りを血まみれにして狼は少女を食べる。

「うふふ……」

 やがてくすくすと笑う少女の頭部がかみ砕かれ、巨大なあぎとに飲み込まれた。

 オオカミは地面に流れ落ちた大量の血液をペチャペチャと舐めとっている。

(……同族食いか?)

 魔族の価値観はわからない。

 自分の身体が同族の力になるなら、それで良いという考えなのだろうか。

 しかしそうなると、次に相手をするのはこのオオカミだ。

「………………」

 アビゲイルは剣を構えた。

 獣を相手にするのは初めてのことではない。

 だが、このオオカミを今まで相手にしてきた獣と同じように考えるのは危険だ。

「うふふ……」

 くぐもった少女の笑い声が聞こえた。

(どこから……?)

 聴覚の発達したアビゲイルの耳に、その位置がわからないはずがない。

 しかし信じたくない――信じられるわけがない。

 ――その声は、オオカミの体内から聞こえていた。

「ようこそ……」

 オオカミが、急に身震いをし始めた。

 何かに取り憑かれたかのように、ガクガクと震え始める。

 首を伸ばして高く遠吠えをした後、まだ血のこびりついた口の端から泡を吐き始めた。

 ガ、ゴル、グルフッ、ガ、ゲッ、ゲッ

 次の瞬間、オオカミの背中がガバリと開いた。

「………………!」

 オオカミは白目を剥いてブルブルと震えている。

「うふふふふふふふふふふ」

 巨大な歯が並ぶオオカミの背中から、粘液にまみれた裸の少女がむくりと身体を起こした。

「な………………!!」

「お洋服が溶けてしまいましたわ……」

 バラバラに切断したはずの少女の、輝くように白い皮膚には傷ひとつ残っていない。

 銀色の髪は、粘液で束になっている。

 血のように赤いくちびるが、可憐な少女に似つかわしくない、凄惨な笑みを浮かべた。

「なかなか素敵なご挨拶でしたわね。ではこちらからも歓迎を……」

 少女が粘液を引く腕を広げると、突如何もない空間から触手が飛び出した。

「………………ッ!」

 アビゲイルは素早く飛び退ると、現われた4本の触手を切断する。

 緑色の血液をまき散らしながら、触手は地面に落ちた。

 相手は化け物だ。

 次に何が起こるか、まったくわからない――。

 少女は相変わらず微笑みながらアビゲイルを眺めている。

 もう一歩後ろにさがった瞬間、ぺたりと背中に何かが当たった。

「ひっ…………!」

 振り向こうとしたが――もう遅い。

 アビゲイルは、姿の見えない“何か”が伸ばした触手に、全身を絡め取られた。

「な……これは……な……ぐあああっ!」

 触手の巻き付く凄まじい力に、アビゲイルは剣を取り落とした。

 ぬらぬらとしたタコのような触手は、全身を舐め回すように絡みついてきた。

「あらあら、アルテーミア。すっかりお客様のことが気に入ってしまったようね」

 少女はオオカミの背中からほっそりとした足を抜いて、地面に降り立った。

 触手に囚われたアビゲイルに、歩み寄る裸の美少女。

 アビゲイルは死を覚悟した。

「化け物め……殺すならさっさと殺せ!!」

「アレイラならそうしたかもしれませんわね。もちろん、楽しんだ上で、でしょうけれど」

 粘液にまみれた指で、アビゲイルのおとがいをつつ――と撫でた。

「わたくしは、そう簡単に殺したりはしませんわ。四天王の長としての務めがありますもの。アルテーミア」

 少女の声に応じるかのように、先端の尖ったウツボのような太い触手が現われた。

「ひいっ……!!」

 触手は首をもたげて、アビゲイルの身体に狙いを定めている。

 死ぬよりも恐ろしいことが待ち受けている――そう直感した。

「では、“刺して”よろしくてよ……」

 ズブリ

 ――アビゲイルの腹に真正面から、太い触手が突き刺さった。

「がああああああああッ!!」

 アビゲイルは悲鳴を上げた。

 しかしようやく死ねる。

 悪夢とおさらばできる――!

 しかし、現実はそんなに優しくはなかった。

 ――痛みがない。

 そして、生きている。

 自分の体内で、何かが蠢いている――。

「な、何を……何をしている……」

 アビゲイルの言葉に、少女はクスリと笑った。

「アルテーミア……この子はね、人間のことがとても大好きですの。ですから……」

 少女はアビゲイルのやぶれた腹を撫でる。

 一滴の血も流れてはいない。

「こうやって、卵を産み付けたがるのですわ。人間の胃がちょうど良い苗床になるようで」

「………………!!!」

 頭が真っ白になった。

 卵? 私に? 卵を?

「こ、殺せ! 殺せ殺せ殺せ殺せ殺せーッ!!」

 アビゲイルは触手に絡め取られた身体を精一杯捻って叫んだ。

「うるさいのは嫌いですわ……ひとつめ」

「うぐうッ!」

 太い触手がむくりと膨らんだかと思うと、“何か”がアビゲイルの体内に送り込まれた。

「言うことを聞かないと、こうやってひとつずつ卵を植え付けますからね。良い子でいるんですのよ」

「あ……あ……あ……」

 “何か”は、アビゲイルの体内の、ずっと奥深くまで入っていく。

 そして次の瞬間、頭に電撃が走った。

「あびっ……あびいい……あびいいいいッ!!」

「ふふ……その触手はね、卵と一緒に、人間をとっても素直にする分泌液を送り込みますの……もっとも、それで気が狂う場合もあるみたいですけれど。わたくしもあまり試したことがないので、はっきりどうなるとはわかりかねますわ。あなたを観察しながら、質問していきますわね。よく聞くんですのよ?」

 少女は粘液に濡れた指を、アビゲイルの耳に突っ込んだ。

「ころ……じで……ころ……じでえ……」

「こらこら、そんなことを言ってはいけませんわ。命は大切にしないと。はい、ふたつめ」

 また、卵と分泌液が送り込まれる。

「びゃあっ、ああああああああ!!」

「では質問ですわ。あなたは誰の手の者? 答えなければ卵みっつ。答えたら卵ひとつですわ」

「あ、アシュトラン帝国! わ、わだじは、皇帝の命令でえっ!!」

「あらそう。では卵ひとつですわね」

 ごぼり

「びぎゃああああああああッ!!」

「では次の質問に移りますわね」

 少女が質問を重ねるにつれて、アビゲイルは“人間”を手放していった。

 あとに残った抜け殻が、少女の質問を素直に受け容れる。

「あなたのお名前は?」

「あび……げ……あびぃ……あ……」

「あらあら、もう壊れてしまったみたいですわね。少しやり過ぎたかしら」

 卵に腹を膨れさせ、ビクビクと痙攣するアビゲイルを見て、少女はため息をついた。

「え……へへへ……へへへひひひ……」

 アビゲイルは涙を流しながら笑っていた。

「まあいいわ、質問を続けましょう」

「えへ……いひひ……ふへ……ごろじで……ひひ……」

………………。

…………。

……。

「何をしている」

 現われたのはヴィクトルだった。

 粘液まみれのふたりを見ても、相変わらずの無表情だ。

「わたくし、今服を着てませんのよ。あっちを向いてなさい」

「………………」

 ヴィクトルは黙って後ろを向いた。

「ちょっと人間のお客様が来ましたの。歓迎していたところですわ」

「アレイラもそんなことを言っていたな……死んだらしいが」

「やっぱり。あの子はすぐ人間を殺してしまうからいけませんわ。ではわたくしは引き続きこの子を……」

 ヴィクトルは、無造作に右手を伸ばした。

 袖から拳銃が飛び出す。

「……ネズミは、もう一匹だ」 

 荒れ地に向かって、トリガーを引いた。

 ――わずかな時間をおいて、悲鳴が聞こえた。

「まさか殺したわけじゃありませんわよね? 楽しみもせずなんて、アレイラ以下ですわよ」

「………………」

 銃口と弾丸は、細い鋼線で繋がっていた。

 ヴィクトルが肘を曲げると、鋼線が巻き取られていく。

 岩場の向こうから、鋼線に縛られて暴れる女が地面を転がってきた。

「よくやりましたわヴィクトル! ではさっそくわたくしが尋問を!」

 卵に腹を膨らませた暗殺者から背を向けて、ディアナは新たな触手を女に向ける。

「ひ……ひいいっ……ひいいいいっ!!」

 岩場の向こうから、女はすべてを見ていたらしい。

 自分の仲間が何をされたかを――今から自分に何が襲いかかるのかを。

「………………」

 その触手を、ヴィクトルが制した。

「なんですの?」

「こいつは、俺が捕まえた。俺が魔王様に直接引き渡す」

「相変わらず真面目ですわね。まあ、悪いことではありませんわ」

 ――結局、3人の暗殺者の中で、生きた“人間”のままでいられたのはひとりだけだった。

 もっとも魔族の巣窟である魔王城を襲ったのだから、それは幸運なことに違いない。

 縛られた暗殺者と“壊れた”暗殺者は、謁見の間において、怪盗魔王のもとへと引き出された。