市場はとても賑やかだった。

 あちこちの店から、呼び込みの声が飛び交う。

 店員と客との気さくな会話があったり、値段交渉をしている人もいる。

 台の上に積まれたナガンの実の甘い香り、並べられた鮭が生臭い。

 そんな中にあって、思わずお腹が鳴るような、香ばしい匂いが漂ってきた。

「あ、あれ美味しいんですよ!」

 ローズに手を引かれて辿り着いたのは、牛肉の串揚げの屋台だ。

「1本ずつ下さい!」

「あいよ!」

 ローズが代金を手渡すと、大柄な店主が紙袋に串揚げをくるむ。

「お嬢ちゃんたち可愛いから、こいつをオマケしてやろう!」

 店主は別の紙袋に、揚げ芋を包んでくれた。

「やだー太っちゃうー! おじさんありがとうっ!」

 やっぱりローズは外遊びに慣れた様子だ。

「あ、ありがとうございますっ」

 マリィは慌てて頭を下げた。

「向こうにベンチがありますから、そこで食べましょう」

「あの、お代金なのですけれど……私、部屋に帰ってもトリストラム王国の貨幣しか持ってなくて……」

 マリィがおずおずとそう言うと、ローズはぽんっとブラウスの背中を叩いた。

「私のおごりですよっ」

「あ、ありがとうございます……」

 小さな公園のベンチで、ふたり並んで串揚げを食べた。

 ひとくちかじると、じゅわっと熱い肉汁が出てきて、それが甘辛いソースと絡み合う。

「美味しい……」

「でしょー?」

 マリィは、ふと空を見上げた。

 家々に区切られた真っ青な空に、ぽっかりと小さな雲が浮かんでいる。

「こんなふうに、お外で食事をするなんて久しぶりだわ……」

 マリィが呟くと、興味津々といった様子で、ローズが言った。

「それって、魔王を倒す旅のときですか?」

「ええ。野営をすることも多かったですから」

「そういうの、憧れます!」

 ローズのくちびるは、串揚げの油で光っている。

「勇者様とか、戦士様とかと旅をしてたんでしょう?」

「ええ、そうですよ」

 マリィが答えると、ローズはにいっと笑った。

「旅の途中で、うっかりパーティーの誰かを好きになっちゃったり、なんてことあるんじゃないですか?」

「そ……そんなことは……っ」

 無かったとは言えない。

 現にゲルムとメラルダは公然の仲だった。

 しかしマリィの頭に浮かんだのは、不思議とそのふたりではない。

『索敵完了だ。この周囲5キロに魔物はいない……』

 まだ魔王でなかったときの、盗賊キース。

 思い出したのは、ひたいの汗を拭うその顔だ。

「そんなことは……ないですよ……」

 マリィはうつむいて、揚げ芋を口に入れた。

「ふーん、そうなんですかー」

 ローズは少しつまらなそうに口を尖らせて――それから、また笑った。

「私、恋物語の本を読むのが好きなんです。いつも聖典を読むふりして、夜にこっそり読むんです」

「よくそんなもの、修道院に持ち込めましたね」

「ちょっとしたコツがあるんですよ」

 シスターは、結婚を禁じられている。

 けれどもいつか、誰かに見初められて還俗するのは、若いシスターみんなの夢だ。

「私も、恋をしてみたいな」

 ローズはハンカチで、指の油を拭いながら言った。

「でも、ピンと来ないんですよね。私、物心ついたときにはもう修道院にいましたから」

 捨て子か、それとも貴族や金持ちの庶子か。

 そのどちらであるかは、もちろん教えてはもらえない。

 修道院の中では、みな神の子だ。

「私も同じです」

 マリィは言った。

「私も親の顔を見たことがないんです。気がついたときには、ずっと修道院と教会と救貧院を行き来してて……」

「それで、勇者パーティーに選ばれて外に出たんですね。私も【ヒール】が使えたら外に出られるのかなあ……」

 空を見上げて、ローズは言った。

「魔力がないわけじゃないんだけどなあ……これくらいのことはできるんですよ」

 ローズはマリィの方を向いて、手のひらで輪を作った。

「其は清らなる……【アクア】」

 その詠唱とともに、丸い水の塊が空中に現われた。

「これをこうして……」

 ローズが指を動かすと、水はレンズのように形を変える。

「では聖女さま、この水に顔を近づけてください」

「? ……ええ」

 マリィは言われたとおりに、水の塊に顔を近づける。

 水の向こうからローズの顔が近づいて来て――鼻先どうしがツンと当たった。

「きゃっ」

 その瞬間、水はぱしゃっと破裂して、ふたりともびしょ濡れになる。

 ローズが指をパチンと鳴らすと、水はたちまち空へと消え去った。

「………………」

 ふたりの目が合って、同時にぷっと吹き出した。

「もうやだ! やめてくださいよ!」

「あ、聖女様!」

 ころころと笑うマリィに、ローズが言った。

「私、聖女様が笑うところ初めて見ました!」

 思えば、コールデン共和国に来てからこっち、こんなに笑ったのなんて、初めてのことかもしれない。

「ローズさん」

「どうしました、聖女様?」

「私のこと、マリィって呼んでくれると、嬉しいです……」

 マリィが少し頬を染めてそう言うと、ローズはにっこりと笑った。

「じゃあ、私のこともローズって呼び捨てにしてください」

「わかりました……ローズ」

「マリィ」

 そう言ってふたり、またくすくすと笑った。

「またこうして、お出かけしましょうね、マリィ」

 ローズが両手を差し出してきたので、マリィは指の間に指を通してきゅっと握る。

「ええ、約束ですよ。ローズ」

 ふたりは食事の時間になる前に、またこっそりと修道院に戻った。

 今朝の憂鬱がまるで嘘のような、とても楽しい1日だった。

 食事の時間、ローズと密かにウィンクを交わした。

 お祈りが終わって、部屋に帰ると、もう夜だ。

 マリィはひとり、今日のお出かけのことを思い返していた。

「ローズ……」

 呟いてみると、マリィ、と返ってきそうな気がする。

 友達と呼べる相手ができたのなんて、いつぶりのことだろう。

 マリィはカーテンを少し開けてみた。

 ローズは夜にこっそり恋物語を読むのだという。

 しかし、ローズの部屋には灯りが点いていなかった。

(今日は遊び疲れて、早く寝てしまったのかしら……)

 カーテンを閉めると、マリィはくすりと笑ってベッドに入った。

 “聖女”から解放された楽しい時間を思い返しながら、マリィはゆったりとまどろみの底に沈んだ。

………………。

…………。

……。

 ローズが機嫌良く部屋に戻ろうとしたとき、廊下の向こうから大勢の足音が近づいて来た。

「やあ、シスター・ローズ。ごきげんよう」

 大神官とその取り巻きを見て、ローズの笑顔が消える。

「大神官様……今日はその日では……」

 声の震えをこらえて、ローズは言った。

 大神官は朗らかに答える。

「予定が変わりました。では行きましょう」

「………………はい、大神官様」

 大神官はきびすを返して歩き出す。

 ローズは肩を落としてその背中に付き従い、廊下の奥へと消えていった。