ひたいから汗を流していた少女は、ゆっくりと目を開いた。

 貴族の娘の大病は、大神官様の【リジェネレーション】によって瞬く間に完治した。

 付き添いとして連れてこられた“聖女”マリィも、その効果には驚くばかりだ。

「ありがとうございます! 大神官様!」

 娘の父親は、柔らかな絨毯に膝をついて、大神官の手を握った。

「このお礼は……必ず!」

「すべては神の思し召しです。そのお気持ちはぜひ、神の家へ」

 大神官は目を細めて笑顔を作った。

「では、そろそろお暇致しましょうか、聖女様」

「はい……大神官様」

 マリィは貴族に深く頭を下げて、屋敷をあとにした。

 これで今日は3軒目だ。

「あとはエラーギン伯爵のご令息ですな。少々疲れましたね」

「お疲れさまです、大神官様……」

 マリィと大神官は、ふたり向き合って、豪華な馬車に揺られている。

「大神官様、ひとつ申し上げたいことが……」

 マリィはうつむいたまま、思い切って口を開いた。

「ひとりの大病を癒やすことはけして悪いことではないと思うのですが……その力を貧しい人々に分け与えようとは思われないのでしょうか?」

 マリィの頭には、貧民街で救いを求めてきた人々の顔が浮かんでいる。

 その表情のひとつひとつが、マリィの言葉を後押しした。

「大神官様は貴族やお金持ちの家ばかりを訪問されています。神のもとでは、資産や階級などは関係ないはずです」

 大神官は、柔和な表情を崩さずに頷いた。

「聖女様の仰る通りです。ですから貧しい方を救うために、救貧院がございます」

 確かにコールデン共和国には、トリストラム王国より立派な救貧院がある。

 しかしそこでも、収容数や魔術看護師が不足しているということは、マリィも耳にしている。

 マリィは顔を上げて、今まで溜まった心の澱を吐き出すように、言葉を続けた。

「しかし私にはそれで充分だとは思えません。それに、私自身の力も有り余っているのです。私に【リジェネレーション】は使えませんが、おそらく貧民街や救貧院で病んでいる人たちのほとんどを【ヒール】で癒やすことはできます」

 マリィの言葉を聞いて、大神官はまた深く頷いた。

「聖女様は、お優しい方ですね……神の愛はきっと、あなたのような形をしているのでしょう」

 大神官は、マリィの目を見て言った。

「愛と奇跡と信仰……この3つを語るために、なぜ聖典があれほど分厚くなったのか、考えたことはおありですか?」

 マリィが目を上げると、大神官は優しい声で語り始めた。

「愛と奇跡と信仰は、非常にシンプルで美しいものですが、対して世界は混沌に満ちています。混沌はあらゆるタイプの人間を生み出します。それに対して、“癒やし”というひとつの奇跡をもって彼らを救おうと願うのは、これは美しく見えてひとつの傲慢なのです」

 マリィは大神官の言葉をかみしめるように、ゆっくりと頷いた。

「まず神の愛があります。神の愛は奇跡を、奇跡は信仰を促します。この3つが教会の教えの根幹にあることは、聖女様もご承知のはずですね」

 大神官様は話を続ける。

「仮に聖女様が持てる限りの力を使って、癒やせる限りの人々を癒やしたとしましょう。そうすると皆はこう思う。神の奇跡とは、手を招けばいつでもやってくる犬のようなものだと。奇跡が犬に成り下がるのです。いったい誰がちっぽけな犬を見て、神を信じる心を芽生えさせるでしょうか」

 マリィは、この前に町中の人々を癒やしたことを思い返す。

 確かに、あれが毎日続けば、人はそれを当たり前のこととして受け容れてしまうだろう。

 大神官は、間違ったことは言っていない。

「神のお力の一部を与えられた我々は、奇跡を奇跡として留めおく義務があるのです。それは諸外国に対して接するときにも同じ事です。少し政治的な話になってしまいますが……」

 大神官様は悲しげな笑みを見せた。

「コールデン共和国は港を持たない内陸国です。そして数多の国と国境を接している。ラデン公国、トリストラム王国、アシュトラン……今は共和国でしたな。そして、魔王領。この国は非常に危ういパワーバランスの中にある」

 魔王領、と聞いてマリィの頭にキースの顔が浮かんだ。

「その中にあって、コールデン共和国が独立を保つためには、莫大な資金が必要です。しかし国土も小さく、資源にも恵まれないこの国には、それを生み出す財源がない。それを担っているのが、星導教会なのです」

 大神官は膝元で指を組んだ。

「まず神の愛があり、愛は奇跡を、奇跡は信仰を生み出します。そして人々は信仰を、献金というかたちで教会へ捧げる。献金を得た教会が、この国を支える。神の愛により、この国の平和は保たれているということです。よろしいですか」

 身を乗り出して、大神官は言った。

「神はこの世に生きるすべての人々を見守ってくださっています。我々は神に習わねばなりません。確かに目の前の人間を救うのは簡単なことかもしれない。しかし本当に必要なのは、世界に広く安寧をもたらすこと。これこそ真の信仰、真の救済と呼べるのではないでしょうか」

 しばらく、馬車の中に沈黙が流れた。

 車輪が石畳を叩く音と、スプリングが軋む音だけが響く。

 マリィは自分のつま先を見つめ、呟くよう言った。

「それは……私が人々をいたずらに癒やすことで、もっと大きな悲劇がこの国に訪れると、そういうことなのですね」

 マリィは、助けを求める人々の顔を思い返す。

 彼らを救うことが――巡り巡ってこの国に災いをもたらす。

 それを考えると、マリィは胸の奥が締め付けられるような気がした。

「悲しいことですが、世界は混沌に満ちている。聖典の厚みを思い浮かべてください。我々は清い心をもって、混沌の中で立ち回らねばならないということです……そろそろ着くようですね」

 大神官は窓の外を眺めた。

「聖女様」

 流れゆく町並みを見ながら、大神官様は言った。

「悩むのは結構なことです。しかしその姿を人々に見せてはいけませんよ」

「はい……心得ています」

 聖女として、迷いのない姿を見せなければならないのは、マリィにもよくわかっている。

 しかしこの先、病んだ人々を避けて通らねばならないことを思うと、気が重かった。

(私は幼すぎるのかしら……)

 マリィは大神官の言葉を、心の中で繰り返して考える。

(大神官様はコールデン共和国の平和を考えることを、全体として見ていらっしゃるわ。でも神様が見守っているのは……)

 それこそこの世の全てではないか――とマリィは思う。

 コールデン共和国だけではなく、その周囲の各国、悪の象徴とされてきた魔王国に住むすべての人たち。

 戦争でマリィたちを救ってくれた、魔王キースとその仲間たち、亜人(デミヒューマン)。

(確かに私は、目の前の人々にこだわるあまり、世界が見えていなかったのかもしれない。でも世界に広く安寧をもたらすというのなら、国境にとらわれていては……)

 考え込むマリィの顔を、大神官は見つめていた。

「ふむ……」

 大きな屋敷の前で、馬車が止まった。

 大神官に手を取られて、マリィは馬車を降りる。

「さあ、参りましょう聖女様。ひとりの命を――ひいてはこの世界を救いに」

 大神官は目尻にしわを作って微笑んだ。

 マリィは――ただ小さく頷いた。

………………。

…………。

……。

 大神官と出かけたのは朝早くだったが、修道院に帰ったときはもう夕方近かった。

 マリィが自室で物思いに沈んでいると、部屋のドアがノックされた。

「どうぞローズ、入ってください」

 しかし立ち上がって振り向くと、

「聖女様、お夕食のお時間です……」

 ドアを開いたのはローズではない、初めて会う少女だった。

「ごめんなさい、私、てっきりローズが来たのだと思ってしまって」

「はい、聖女様のお世話はローズのお役目と決まっていたのですけれど……」

 少女は言った。

「ローズが突然、熱を出して寝込んでしまって……」

 昨日はあんなに元気だったローズが――にわかには信じがたいことだ。

「ごめんなさい、お夕食へは後から参ります!」

「あ、聖女様!」

 マリィは自室を飛び出して少女を横切り、ローズの部屋へと向かった。