花に彩られた、色彩豊かな、サロンのような一室。

しかしその部屋に灯りはない。

代わりに、壁一面に風景が映し出されていた。

魔王城、謁見の間。

キースが放った【衝撃波】が、ちょうど壁に穴を穿ったところだ。

テーブルには、バラの花びらを浮かべた紅茶。

それをひとくち飲んで、いばらの3姉妹の長女、バロン・アンリエットは微笑んだ。

「見て見て、あのキースちゃん。記憶を失ってまで救った女を、今殺そうとしてるわよ」

双子の妹、アンナとオリヴィエがクスクスと笑い合う。

「予想した物語が現実になる瞬間って、本当に甘いものよね。魔王キース・アルドベルグの悲しい悲しいお話……」

アンリエットは、ほうっと切ないため息をついて、壁に映し出される謁見の間を見つめた。

「でも大丈夫よキースちゃん。記憶はちゃんと返してあげる。あなたが愛しいあの子を手にかけた、その後でね」

「いじわるなお姉様」

「ほんと、いじわるなお姉様」

「あら、失礼なこと言わないでちょうだい」

赤いくちびるに指を当てて、アンリエットは言った。

「私はね、いい男が絶望する顔を見るのが大好きなだけ。取り返しのつかないことをしてしまった男の表情って……最高にセクシー♪」

灯りの消された部屋に、高笑いが響いた。

………………。

…………。

……。

魔王城謁見の間では、キースの凍えきった視線と、マリィの熱い視線が交差していた。

マリィののど元には、あらゆるものを盗むことができるキースの指先が触れている。

闘いというには、奇妙なほど近いふたりの距離――。

キースは少し屈んで、マリィの耳元に顔を近づけた。

「あなたの意志は……よくわかりました……」

――それが、最期だった。

「っ………………」

マリィの全身から、すべての力が失われた。

糸の切れたマリオネットのように――彼女の身体はバランスを崩した。

キースは無表情で、マリィを抱き留める。

マリィのまぶたは閉じられ、長い睫毛が重なっていた。

その身体は、もはや動く気配を見せない。

ボロボロに破れた聖衣の下は、古傷がひとつあるきりだ。

しかし、戦闘は終わった。

――マリィの闘いは、闘いというにはあまりに静かに幕を下ろした。

キースを救い、戦争を止めると宣言したそのくちびるは、薄く開かれたままだ。

その隙間からは、濡れた白い歯が覗いていた。

「………………」

静寂が謁見の間を支配する。

キースが破壊した壁から、ぱらりと破片が落ちた。

「魔王様……この女から、すべての力を奪われたので?」

ディアナの小さな声は、静かな部屋によく響く。

キースはマリィを抱き、冷たい視線をその白い顔に注いだ。

「一歩遅かったというところだ。彼女は自害のための毒を隠し持っていた」

キースはマリィを、そっと床に寝かせた。

「魔王にみすみす力を与えるつもりはなかったらしい」

細い指と指を組ませる。

背後にそびえる玉座は、まるで黒い墓碑のようだ。

キースはマリィの身体を整えると、立ち上がった。

「なかなかのステータスを持っていたからな、もったいないことをした」

キースは動かなくなったマリィを、冷たく見下ろした。

「聖職者というのはつくづく厄介だな。そしてこれで、俺たちも後には引けなくなったというわけだ」

魔王が大神官に続き、聖女までもを殺害したとなれば、もはや講和など望むべくもない。

自ら毒を飲んだとて、それは同じ事だ。

第一、聖女が自害したなどと、誰が信じるだろうか。

「聖都は殉教者の血で染まることになるだろう……」

ディアナは床に倒れ伏したマリィを、紫色の瞳でじっと眺めていた。

自分を追い詰めた相手が自ら命を絶ったというのは、胸が悪くなるほど後味が悪い。

アレイラは謁見の間の暗闇の中で、静かに杖を抱いている。

彼女の思い描いていた楽観的な未来は、跡形もなく砕け散った。

この闘いの勝利を喜ぶ者がひとりもいないことは、マリィにとって喜ぶべきことかどうか。

それは誰にもわからないことだ。

これで、すべてが終わった――。

――わけではない。

「もったいぶらずに出てきたらどうだ」

キースの言葉と重なるように、闇の濃い謁見の間に、さらに黒々とした雲が環を描き出した。

ときおり雲に雷光が走り、天井の高い部屋を照らす。

その中央から歩み出て来たのは――。

「あらあら、気づいてたのね♪」

いばらの3姉妹の長女を名乗る男、バロン・アンリエット。

そしてその妹である双子、アンナとオリヴィエだった。

ディアナとアレイラが身構える。

キースは冷たい視線で彼女たちを睥睨した。

3姉妹の拍手が、謁見の間にこだまする。

「素晴らしいわ……実に素晴らしいわ……! 悲劇ってのはこうでなくっちゃダメなのよ!」

「来賓を招いた覚えはないが」

キースの言葉に、アンリエットは美しい笑顔を返す。

「お茶の1杯も欲しいところだけれど……まあ、それよりもそれよりも」

腕を胸に当てて、アンリエットは優雅に頭を下げてみせた。

もちろんそれは恭順を示す姿勢ではなく、道化じみた軽薄な所作に過ぎない。

「今日はねえ、魔王様へとっておきの貢ぎ物をご用意しましたのよ」

アンリエットは赤いビロードのジャケットの懐から、一輪の野花を取り出した。

1枚1枚の花弁の色が違う、美しいが奇妙な花だ。

花は今摘み取られたばかりのような、甘く香り立つみずみずしさをもっていた。

「貢ぎ物というには貧相だな」

「そんなこと言っちゃだァめ。これはあなたにとって大切なものなんだから」

靴音高く、アンリエットはキースの前に進み出る。

「だから、今返してあげるわね♪」

ふっ、とアンリエットが記憶の花に吐息を吹きかけると、花は金色の鱗粉のようにさらりと溶け、キースの胸へと吸い込まれた。

「記憶の花が還ったわ。アンナ、オリヴィエ、ここからが見物よ……」

キースの目は、もはや何も映してはいなかった。

膨大な記憶の奔流に、一歩も動くことができない。

………………。

…………。

……。

先代魔王討伐後の宿屋での言葉。

キースにはゴミのようなアイテムしか回ってこなかった。

『お願いします。受け取ってください。あなたはこれを手にする以上の働きをしたはずです!』

――そうして、キースの手に魔王のマントが手渡された。

帝国を相手にした戦闘終結後の、ンボーン砦での言葉。

キースは人間を棄て、“魔王”という闇に取り込まれようとしていた。

『キースさんは魔王です。その魔王の中に、人間キースがいる。どちらかになりきる必要はないんですよ。そのままのキースさんを、みんなが慕っているんですから……』

――その言葉で、キースは人間を取り戻した。

………………。

…………。

……。

マリィにまつわるあらゆる記憶が、キースの胸の中で渦を巻いた。

キースは愕然とした表情を浮かべる。

「そんな……嘘だろう……? そんな馬鹿なことが……!」

いばらの3姉妹は、陰湿な笑みを浮かべてキースを眺めた。

キースが振り返ると、そこには変わらず、冷たい床に寝かされたマリィの姿がある。

記憶は戻った――しかし現実がそれに合わせてかたちを変えることはない。

「マリィ……俺は……」

固い床に膝をついて、動かなくなった身体をかき抱く。

力が失われた肉体は、あまりにも重い。

熱い涙が頬を伝って、マリィの胸元に落ちた。

「俺は……取り返しのつかないことをしてしまった……!!」

涙は次々と溢れてくる。

マリィの想い出がよみがえるのと、同じ速度で。

勇者パーティーで酷い扱いを受けたとき、いつもフォローしてくれたのはマリィだった。

魔王になってからでさえ、マリィはキースを救ってくれた。

――すべての記憶が、もはや動かなくなったマリィに重なった。

キースは涙も拭わず顔を上げ、ディアナとアレイラを見た。

「どうして……どうして何も言わなかった……!? マリィの記憶が奪われたことは、お前たちも知っていたはずだ……!!」

アレイラは杖をぎゅっと抱いたまま、キースに答える。

「魔王様、私何度も言いました……でも聞く耳持たないって感じで……」

「この子たちを責めちゃ酷よキースちゃん」

アンリエットは機嫌良さそうに、固い床を蹴ってターンした。

「その記憶に関わるあらゆる言葉を受けつけない……それが本当の意味で記憶を奪うということなのだから」

「そんな……そんなこと……そんなことあっていいはずがない……ッ!!」

マリィのまだ温かい身体を、キースは固く抱いた。

「ああ、マリィ……マリィ……マリィーーーーーーッ!!!」

キースの慟哭の残響に、アンナとオリヴィエのクスクス笑いが忍び込む。

アンリエットは、自分の両肩を抱いて高笑いした。

計算通り組み上げられた悲劇は、アンリエットに最高の愉悦をもたらす。

「私の計画通りに動いてくれるって信じてたわ! 私素直な男って好きよ!」

こんなに甘いものはない。

これほど満たされる瞬間はない。

――それが、いばらの3姉妹の本質だった。

「なんならその子、生き返らせてあげましょうかァー?」

アンリエットは長い舌を出して言った。

キースは弾かれたように振り向く。

「できるのか……本当に……そんなことが……!!」

「もちろん、それなりの対価は頂戴するわ。そうねぇ、今度は何を貰っちゃおうかしらァー?」

アンリエットは、切れ長の目を細める。

「世界の半分……なんてどぉーォ?」

キースは耐えきれなかった。

この魔女に――この策略に。

すべてを奪おうとする悪意に。

耐えきれず、

耐えきれずに、

とうとう――吹き出した。

「ぶふーーーっ!」

「ちょっとキースさん、笑わないでくださいよ!」

マリィもつられて笑い出す。

「だって、世界の半分とか言ってんだぜ? あの間抜けヅラ見て笑うなって、そこまで我慢強くないよ俺は!」

「それを言うなら、キースさんの演技もくさすぎです! もうっ」

キースとマリィは、並んですっくと立ち上がった。

ディアナとアレイラも目を丸くしている。

「なに? え? なんなのォ!? どういうことォ!?」

アンリエットは顔を青くして、つばを飛ばした。

オリヴィエとアンナはクスクス笑いをやめ、顔を見合わせている。

混乱しているアンリエットの肩を、キースはぽんと叩いた。

「まあ、そう焦るなよ。じっくり説明してやるから」

マリィと本気で対峙していたあのとき、彼女の胸元の傷を見た瞬間、キースの脳裏にある記憶がよみがえった。

勇者パーティーとして旅をしていたときのことだ。

………………。

…………。

……。

猛烈な嵐の中、仲間とはぐれたキースは、誰かと一緒にいた。

それが誰かというのが、どうしても思い出せない。

そして嵐の中心にいるのは――翼の生えた巨大な獅子、マンティコア。

ふたりで相手をするには、なかなかの強敵だ。

一緒にいた誰かは、キースを下がらせて長く【シールド】を張っていたが、とうとうMP切れを起こした。

そこに襲い来る鋭い爪。

キースはその誰かをかばって、胸元に大きな傷を受けた。

ふたりはそのまま嵐に吹き飛ばされ、崖から転落した。

そこで記憶は途切れている――。

………………。

…………。

……。

キースはマリィの傷を見たとき、自分の胸元に手を当てた。

そこにあるべき、古傷の感触がない。

嵐の中で、大切な誰かと共に戦った記憶が、キースの脳裏を去来する。

しかしそれが誰だったのかが、どうしても思い出せない。

記憶の一部分だけが、まるで靄のように曖昧だった。

だが、それでよかったのだ。

それこそが、記憶を奪われるその前に、キースが施した策略だった。

マリィの胸の古傷は“記憶が失われている”という事実をキースに示した。

記憶が失われた理由は、容易にいばらの3姉妹へと結びつく。

彼女たちが一部始終を監視しているのも、たやすく推測できる。

「確かにあんたが言うとおり、マリィの記憶にまつわる“言葉”を、俺は受けつけなかった。だが傷というのは、形をもった“記憶”であり、刻みつけられた“記録”だ」

キースの言葉を聞いて、アンリエットはマリィの胸元に目をやった。

「まさかアナタ……その古傷をッ!」

「ご名答。そういうことだ」

キースがマリィの記憶を奪われる前の夜、キースは自分の古傷を盗んでマリィに与えていたのだ。

それが自分の心の鍵となることを確信して。

アンリエットに負けないほど意地の悪い笑みを、キースは浮かべた。

「分の悪い賭けだったが、その甲斐あってってところだな。あんたは記憶と言葉に執着するあまり、見えて当然のものが見えてなかったんだ」

キースはマリィの胸元にそっと手を当てた。

マリィの頬に、ぽっと朱が差す。

「傷ひとつない肌に、悪いことをしたな。それは返してもらうよ。俺の大切な“想い出”だ」

キースの指が滑ると、マリィの古傷は跡形もなく消え失せた。

もと有るべき場所、キースの胸元へと移ったのだ。

共に旅をした時代の古傷――それがふたりの心を結びつけた。

お互いへの強い信頼がなければ、この策略はけして成功しなかったことだろう。

記憶を奪われていることがわかれば、後は即興だ。

息のぴったり合ったふたりの演技は、完璧にアンリエットの目を欺いた。

ぽかんと口を開けているアンリエットに、キースはニヤリと笑いかけた。

「そういうわけで“貢ぎ物”はありがたく頂戴した……! ふふふ、どうだ? 今のは魔王っぽかっただろ?」

「キースさんは立派な魔王ですよ」

マリィはころころと笑う。

「どういうことよ……なんなのよ……なんなのよコレェ!!」

「要するにだ。最初から何ひとつくれてやるつもりなんか無かったんだよ。こちとら怪盗魔王だ。奪いはするが、奪われることはけしてない」

「き、きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ!!!」

アンリエットのこめかみに、青筋が立つ。

キースは白い歯を見せて笑った。

「バロン・アンリエット。俺の計画通りに動いてくれると信じてたよ。俺も素直な魔女は嫌いじゃない」

アンリエットは衝撃のあまり、口の端に泡を溜めている。

色男の面影は、もはやすっかり失われていた。