少女はマリィの隣で、心地よさそうに眠っている。

キースはディアナの紫色の瞳を見て言った。

「じゃあ、さっき言ったとおりだ。ディアナ、彼女を頼む」

「畏まりましたわ。寝室を用意し、夜をとおしてゴーレムの監視をつけます」

「そうしてくれ。それとマリィ」

キースの言葉に、マリィは思わずびくりと身体を跳ねさせた。

今ので少女が目を覚まさなかったか顔を覗き込んだが、相変わらず静かな寝息を立てている。

「俺の部屋で待っている。都合の良い時間になったら来てくれ」

「は……はい……その…………わかりました……」

マリィは自分の膝を見つめて、消え入りそうな声で答える。

「どうした? 顔が赤いみたいだけど、飲み過ぎたのか? よければアレイラ特製の酔い覚ましを……」

「いえっ、その、大丈夫です! ご心配にはおよびません!」

マリィはこのパーティーで、お酒をほとんど飲んでいない。

顔が赤いのは、今日の夜に起こることが頭を離れないからだ。

「それなら良いんだが……ともかく、夜に」

「はい……」

そんなふうにもじもじしているマリィを、ディアナはジトッとした目で見つめていた。

「………………?」

マリィがその視線に気づきかけると、なんでもないというふうに目を逸らし、オオカミを召喚した。

ディアナは小さな身体で少女をそうっと抱き上げて、オオカミの背に乗せる。

「では、寝室へ運びますわ」

「くれぐれも、気をつけてな」

「承知いたしました」

ディアナは深く頭を垂れて、オオカミを連れて会場を出て行った。

「さてマリィ……ん?」

気がつくと、マリィは壁際の椅子から姿を消していた。

………………。

…………。

……。

マリィはまだ賑やかな立食パーティーの中で、アレイラを探していた。

この魔王城で、相談ができるとしたら、彼女くらいしか思いつかない。

やっと見つけたのは、盗賊団とドワーフたちの輪の中だった。

今ではドワーフの中でも、すっかりジョーク文化が根付いている。

そのひとりが飛ばした下品なジョークで、アレイラは腹を抱えて笑っていた。

「あの……アレイラさん」

「いっひゃひゃひゃひゃ! 人間水車! 人間水車って……! ん? マリィ?」

「ちょっと、ご相談が……」

「それより聞いてよ! ねえ、さっきのもう1回!」

アレイラはグラスに残ったぶどう酒をあおって、ドワーフの背中を叩いた。

ドワーフはグラスから蜂蜜酒をこぼしそうになりながら、アレイラを見上げる。

「同じジョークを2回ってのは無粋にもほどがあるぜアレイラの姉ちゃん!」

「それなら、俺にもいいのがいくつかあるぜ!」

盗賊団のひとりが進み出た。

「いいか? ちょいと色っぺえ話だ。ある男と女が、夜にしっぽりやろうって約束をしてたんだ……」

「「「おうおうおうおう!」」」

それを聞いて、マリィはもう真っ赤になっている。

『夜、ふたりきりになりたいんだ』

頭の中で、キースの言葉がこだました。

「で、男は言った! “違う、そいつは俺の穴だ!”ってな!!」

盗賊団とドワーフの大爆笑で、マリィははっと我に返った。

大笑いの渦の中にはもちろんアレイラもいて、マリィの背中をバンバンと叩いた。

「あっひゃひゃひゃひゃ! 穴! 穴! ふひゃひゃひゃひゃ!」

「その……痛い……です……」

「ああ、ごめんごめん! んで、どうしたの?」

アレイラは、ゴブリンのウェイターから新しいグラスを受け取りながら、尋ねる。

「実はその……内緒の相談がありまして……」

「なるほど、わかった!」

新しいブドウ酒をひとくち飲んで、アレイラは言った。

「ごめんみんな! ちょっとマリィと内緒の話するから抜けるね!」

「ちょっとアレイラさん!」

そんなことを言われて、男たちが興味を持たないはずがない。

ドワーフたちと盗賊団は目を合わせた。

「……そうか、じゃあ俺たちは俺たちでやってるから」

「うん! また戻るねー!」

マリィはアレイラの手を取って、すすす、と会場の隅へと連れて行く。

その後ろから一定の距離を保って、盗賊団がすすす、とついてくる。

獲物の追跡は手慣れたものだ。

マリィもアレイラもそれに気づかず、柔らかい椅子に腰を下ろした。

「で、どしたの?」

「実はその……キースさんが、夜になったら部屋に来るようにって……」

それを聞いた瞬間、アレイラの表情がぱーっと輝いた。

「えっ、すごいじゃん! やったじゃん! それ今夜絶対眠れないやつじゃん!」

そう言って、黒いドレスの肩をバンバン叩いた。

「あの……痛いです……」

「ねえねえ、子供は何匹ぐらい産むの? いつ産まれてくる? 明日?」

「だからその……痛いです……」

アレイラは新しい玩具を見つけた子供みたいな表情で、肩をバンバン叩き続けている。

彼女は研究者で人体の仕組みは把握しているはずなのだが、それも頭から飛んでしまっているらしい。

「やっぱあれっしょ? ユーシャちゃん見て子供欲しくなっちゃったんじゃない?」

「それはその……わからないですけれど……」

マリィはもじもじと指を組み合わせた。

「でもその私……心の準備ができてなくって……いきなりの話だから……」

ふむ? とアレイラは肩を叩くのをやめた。

「もしかして、メスとしてあり得ないことだと思うんだけど、魔王様のこと嫌いなの?」

アレイラは怪訝な顔でマリィの顔を覗き込んだ。

もう、今日は“キース様”と呼ぶというルールを忘れている。

マリィはぶんぶんと首を振った。

「そんなんじゃないんです……その……イヤではなくて……ただこっちの準備ができてなくて……」

「やっぱそうだよね! 魔王様嫌いとかあり得ないからね! なんか準備が必要なの? 手伝おっか?」

アレイラはそう言って、指をワキワキと動かした。

何をどうするつもりなのかはマリィにもわからない。

「いやこれは心の方の準備なので……その……お互いのことを知らないわけではなくて……そういう部分ではその……きっと問題はなくって……」

「問題ないならいいじゃーん! どーんとぶつかってこ! いや、ぶつかってくるのは魔王様? どうなんだろ?」

それを聞いて、マリィの顔はますます赤くなった。

………………。

…………。

……。

結局アレイラに持ちかけた相談からは、何の成果も得られずパーティーは終わった。

マリィはいつものように、ゴーレムのメイドに手伝ってもらいつつ身体を洗い……気持ちいつもより丁寧に洗い清めた。

白い肩にしずくが流れ落ちる。

その肩をキースの大きな手のひらが掴むことを想像すると、身体にぴりりと電気が走るような気がした。

ともかく、ともかくだ。

落ち着かないと話にならない。

一人前の女性として振る舞わなければいけない。

マリィは長い廊下を歩き、その突き当たりにある大きな扉をノックした。

「あの……マリィです……」

「入ってくれ」

キースの声に促されて、マリィは大きな扉を開いた。

10人は眠れそうなベッドの端に、キースは座っていた。

自分にあてがわれた寝室の、倍は広い。

黒を基調としたインテリアを見て、マリィはなんとなくディアナのことを思い浮かべた。

「さすがに、広すぎるよな?」

「いえ、そんなことは、いや、はい……」

マリィは所在なげに入り口に立っている。

「俺も最初は寝付けなくて困ったよ。今はもうすっかり慣れちまったけど。まあ、座ってくれ」

「はい……」

マリィは思い切って、キースのベッドに座った。

座ってしまってから、あることに気づいた。

「………………!」

ベッドに向かい合うように、すでに椅子が用意されていたのだ。

きっとキースはそこに座るように促したわけで――。

マリィはあまりの恥ずかしさに、ますます顔を赤くしていた。

はしたない女だと思われてはいないだろうか?

キースの顔を見ると、思いのほか真剣な表情をしていた。

「とにかく、エルフに死者が出なかったのは幸いだった。傷を残した者もいない。君がいて本当に助かったよ。改めて礼を言わせてくれ」

「いえそれは……当然のことをしたまでで……」

うつむいたままのマリィに、キースは言葉を続けた。

「実は大事な話があって君を呼んだんだ」

マリィが顔を上げると、キースはまっすぐにこちらの目を見つめてきた。

「子供のことだ」

(ひええ、やっぱり!)

思わず身体が跳ねて、ベッドのスプリングが少し軋んだ。

「どうかしたか?」

「いえ……なんでもないです……いずれはと覚悟はしていましたから……」

「?」

マリィは黒いスカートを握りしめて、身を固くしている。

キースはツノを傾けつつも、話を続けた。

「その、ユーシャの話だよ。あの子は君によく懐いているな」

「……へ?」

突然の話題転換に、マリィはついていけない。

けれども、とりあえずうんうんと頷いた。

「それはその……あの子は可愛いですね……」

「実はあの子は、普通の人間じゃない」

キースは膝に肘を置いて指を組んだ。

これからふたりで――という雰囲気はもはやない。

マリィはぶんぶんと首を振って意識を切り替えた。

キースが話を続ける。

「あの子のステータスを調べたんだ。はっきり言ってマトモじゃなかった。総合的に見て……信じられない話だが、ンボーンを超えている」

ふたりの目が合った。

「彼女はユーシャと名乗っているが、おそらくその通り。きっと彼女は勇者だ」

それを聞いて、マリィははっとした。

あの可愛らしい少女が、まさか魔王を倒す運命を背負った勇者だなどと、どうして信じることができるだろうか。

「しかも、勇者としても規格外だ。ひとりで乗り込んできたことも、無防備に振る舞っていることも、まるで説明がつかない。あれが演技だとすれば、俺はあの子を魔王城に招いたことを心から後悔するだろう。少なくとも、放置はできない」

しかしキースの真剣な表情と声に、嘘は無い。

このことを相談したくて、キースはマリィを部屋に呼んだのだ。

マリィははしたない想像をした自分が恥ずかしくなった。

しかし――。

マリィはあどけなく眠る少女の顔を思い返す。

(あの子が……あんな小さな子が勇者だなんて……)

しかしキースがそう言う以上、事実は事実だ。

受け止めなくてはいけない。

マリィは深く頷いた。

「私を選んで相談してくれたんですね。すべてを話してくれて、ありがとうございます」

「礼を言いたいのはこっちだ。何か意見があれば聞かせて欲しい。こと勇者の件で相談できる相手は君しかいない」

「……私のために、ですか?」

マリィがそう言うと、キースは瞼をしばたかせた。

「……それは、どういう意味で?」

キースがマリィの顔に目をやると、マリィもキースを見つめていた。

「あの子のことを真っ先に私に伝えてくれたのは、私を危険から遠ざけるためですよね。キースさんの性格上、これは私の思い上がりじゃないと思います」

「……そうだ」

それを聞くと、キースは膝に頬杖をついて、ツノを指先でコリコリと掻いた。

「……やっぱりマリィの前じゃカッコつけられないな」

そう言って、苦笑いを浮かべる。

「確かに俺は、君をあの子から遠ざけたい。はっきり言うと、あの子をどうにかするよりも、それは優先すべきことだと考えてた」

マリィは、キースの目をまっすぐに見た。

キースが少しばかりおののくほどに、真剣な表情で。

「私はキースさんの仲間です。これまでも、これからもずっと。だからそんなふうに、私を問題から切り離さないでください」

マリィがそう言い放つと、キースは柔らかい絨毯の敷かれた床を見て頷いた。

「……悪かった」

「わかってくださればいいんです」

マリィは頷くと、ドレスの膝を見つめて考え込んだ。

「私の意見としては……やはり、教会が無関係であることは考えづらいことだと思います」

キースは顔を上げる。

星導教会の使命のひとつは、世界中の人々の中から星に導かれた勇者を見出すことだ。

それは遙か昔から連綿と続いて来た営為で、勇者はあのゲルム以前にも幾代にも渡り、何十人と存在している。

キースの話を聞く限り、あの子はその勇者の中でも飛び抜けた力を持っている。

そして自分が“ゆうしゃ”であることを、自覚している――。

「このままでは、キースさんが危険です……!」

「ああ、俺が魔王だと知られれば、あの子は俺を殺しにかかるだろう。だがあの子は……」

キースは深くため息をついた。

「魔王にツノがあることすら知らない、幼い子供なんだ」

自分に危険が迫っているにもかかわらず、キースは自分の天敵のことを心配している。

キースとは、そういう男なのだ。

「そんな勇者が現れたとなれば、教会内で噂が立たないはずがありません。幸い……」

マリィは言った。

遠い国での、短い日常を思い返しながら。

「幸い、私にはコールデン共和国の修道院に友人がいます。彼女とコンタクトが取れれば、大事にはならないかと」

マリィは魔王に嫁いだ“聖女”とされている。

一般の信徒からすれば、雲の上の存在だ。

そんなマリィが突然教会に現れれば、たちまち大騒ぎになる。

しかしそんな“聖女”と対等に話をしてくれる相手を、マリィはひとりだけ知っていた――。