雲海を眼下に収めた遥か上空。
遮るものが何もないはずの世界の天蓋近くにあって、なお日光を妨げる雲海の下より突き出た大木は緑に覆われていた。
我先にと太陽に向かって枝を伸ばし成長を続ける葉は太陽の光を余す事なく吸収し、太く長い影を雲海を超えて大陸に落とす。それは、まるで時計の針のように、神秘の自然が生み出した天然の日時計は、大地に時を刻む。
以前の旅では、それに気が付きようはずもなかった。文字通り視点が違ったからだ。
地上ではなく、雲より遥かに高い場所から見て、初めてそれがわかる。それぐらい壮大なスケール。
その全貌を改めて目にした俺は、しばしその光景に目を奪われた。
心の中で、魔物と同列にしてごめんなさいと謝りながら。
──さて。
「目測でいくと、高山地帯を抜けて、平地に入った頃合いだな」
アークティアから戻ってすぐ飛び立った俺たちは、日が暮れる前に凍える大地とはおさらばする事が出来たが、雲より高い場所を飛んでいるせいか、防寒具を脱ぐ気にはなれなかった。一方で、俺を頭の上に乗せて飛ぶハクは、毛皮ならぬ、万能な竜燐のお陰で、さほど寒さを感じている様子はなかった。
羨ましい限りだが、凍えて飛べなくなる竜がいれば、それはそれでシュールだ。備わっていて当然の耐性かもしれない。
「ピィ?」
「いや、今日は雲が分厚い。下に行くなら、もう少し雲が開けてからにしよう。ずぶ濡れになりそうだ」
ハクは、肌寒そうにしている俺を心配してか、高度を下げるかと聞いてきた。しかし、息の苦しさにもなれた俺は、寒さに対する耐性も持ち合わせているため、どんよりした雲行きを見下ろしてずぶ濡れになるよりはと、このまま進むことに決めた。
「……てか、あれ見ろよ。あの積乱雲。ゴロゴロ言ってんぞ。あんな雲の下は絶対飛びたくない」
時折、明滅している分厚い雲の下など通ろうものなら、殆ど確実に真下にいる俺たちは稲妻の直撃を受けるだろう。個々の技量がものを言う魔法と違い、光速に迫る稲妻なんてとても避けきれないし、威力も段違いだ。唯一の防寒具が丸焦げになってしまう。
そこで俺は、風向きを読むために、指を咥えてピンと真上に向かって立てた。
「んー、こっちか?」
翼に掻き分けられ乱れた気流の影響か、風向きが掴みにくい。グチャグチャだ。
仕方なく、古典的な方法をやめ、雲の流れる向きから見当をつけた俺は、ハクに指示を出す。
「とりあえず世界樹に近づく向きに、あの雲を迂回しつつ、このまま南下しよう」
「ピィ!」
元気よく頷いたハクは、右に傾き進路を変えた。それに合わせ、頭の上にいる俺は、魔手を巧みに操り、振り落とされないようしっかりとハクにしがみつく。
直進上にあった積乱雲が流れる向きとは逆向きに、実際に視認して距離を測りつつ上手い具合に避けると、方向を調整して南下を再開。そうして、薄黒い雲の壁面が左側を流れていくのをなんとなしに見ていた、その時だった。
「ん? 何だ?」
突然、積乱雲にでも太陽の光が遮られたかのように、影が落ちた。しかし、夕刻まで数時間といった時間帯に、太陽があるのは南西の空。すなわち、俺たちの右側である。ほぼ真西にある世界樹についても同様に、影が落ちる位置関係ではない。
では、いったい何だと、俺は南西の空を見上げる。
「────ッ!」
俺は目を限界まで見開き、言葉を失った。
そこにあったのは、この空に置いて異質な大地。
円錐状に切り取られた大地はまるでダイヤの先端のようだが、磨かれていない表面に残る凹凸と先端から放射状に伸びる傷跡は、無理矢理引っこ抜いた時に出来たかのようだった。
それが、浮いている。飛んでいる。飛行している。
「そら……じま……」
唖然と開いた口から吐息のような声が漏れ、手はこみ上げる何かに触発され、震えていた。
──地上を離れ、天空を徘徊する大地。
七大秘境の中で唯一、所在地が不明とされる空の上の秘境。所属不明とされるのは、雲の上を浮遊し地上からは滅多に観測例がないためだ。加えて、世界中の空を不規則に泳ぐために、周期性からその場所を特定する事も出来ない。
七大秘境の中で発見が最も困難な、移動する秘境。それが、天空の要塞【空島】だ。
それが、今、俺の目の前にある。
「──ハク、アレを逃すな!」
何という奇跡。何とういう偶然。
こんなチャンスを見逃せようか。いや、これは最初にして、最後のチャンス。そう言っても過言でもない出会いだ。
俺は焦燥と共に声を張り上げた。
「ピッ!」
急旋回からの急上昇。
慣性と風圧のダブルパンチで、首が鞭打ちになる中、空島の姿を捉えた瞳は、瞬き一つせずに目標を見定める。
徐々に青い空は消え、ゴツゴツとした岩盤に埋め尽くされていく視界。近づけば近づくほどに、その大きさは現実から遠く離れていく。
まさに島。村一つ余裕で収まりしそうな面積に比例した円錐状の先端部の体積。いったい総重量は何トンに及ぶのだろうか。
魔法で浮かべていると仮定しても、いったいどれだけの魔力があればこんな真似が可能なのか。思い付く方法の中で、それが最も現実的だと言うのだから、その有り得なさは確かめるまでもない。
今、俺の目の前にあるのは、そんな未知の領域だ。
思わず口角が上がった。
楽しくて仕方がない。否が応でも、ワクワクする。
目に映る大地が空を飛ぶという異様な現象しかり、こんな大層なものまで用意したクラクベールの真意しかり。
奴が用意した未知が俺の心を擽り、掻き立てる。
「いい土産話が出来そうだ」
俺は嬉々として笑いながら、岩盤に沿って上っていくハクと共に、上昇。そして、断崖絶壁の側面へと踊り出ようとした、その時だった。
『親、何かいる!』
ハクの警戒が混じる声が耳を打つと同時に、無数の閃光が迸った。
それは、空島の上。いったい何の目的で作られたのか、島を埋め尽くす大きな建造物から、放たれた。
「なっ……!」
俺はいったいどちらに驚いたのか。
どこまでも真っ直ぐに伸びた閃光による砲撃か。
それとも、そんな防衛機能とでも言うべき機能が備わった城のような建造物にか。
確かな事は、ハクが警鐘を鳴らした何者かによって、助けられた事だけだった。
「ハク、ちょっとストップだ! このまま突っ込んだら、砲撃されるぞ!」
「ピィィッ!」
まさに危機一髪。
砲撃の威力は見ただけではわからないが、クラクベールが用意したものと考えれば、それが生半可なものではない事はわかる。そんなものを事前通告なしに貰っては、たまったものではない。
「何かは知らないが、感謝だな」
島の側面で急停止したハクの上で、俺はホッと胸を撫で下ろす。
魔物か、鳥かは知らないが、事前にわかって…………いや、ちょっと待て。
こんな雲よりも遥かに高い場所に、何がいたって言うんだ?
心に浮かんだ懸念。俺は撫で下ろした胸を引き締め、止むことのない砲撃が集中している一点に注意を寄せた。
「──キェェェェッ!」
けたたましい咆哮と共に、砲撃が爆ぜ返された。
目に見えたのは、膨張。爆炎や、噴煙とは違う何かが瞬間的に膨れ上がり、閃光の嵐を押し返したのだ。
激しい光明とともに、閃光が散る。俺たちがその膨張に巻き込まれたのは、その直後の事だった。
「ッ……」
風の煽りなど生易しい、質量を持った風圧が、強く全身を打ち付けた。
その刹那、霧散した光の中に、俺は確かに見た。
「……グ……ォ……⁉︎」
驚愕の声は風に呑まれた。
突き出た金色の嘴と鷲のような大きな翼。対して、獅子のように逞しい体と鋭い爪が生えた太い腕まで併せ持った生物とまで、言えばおおよその予想はつくだろう。
そう、言わずと知れたファンタジーの定番、グリフォンである。
しかし、俺が驚愕したのは、ド定番との初対面だったからではない。
この世界において、グリフォンは魔獣として分類される。特に、飛行が可能で人との間に何ら親交がない魔獣として、竜に並ぶ危険な種という意味で、広く周知されている。
狩猟本能が強く、人でもおかまいなしに襲うらしい。
さらに、生息地は基本的に山や森などの木々に囲まれた場所だが、すぐに獲物を狩り尽くしてしまい頻繁に移動を繰り返しているようで、人の生活圏に現れる事もしばしば。それで、冒険者に依頼が回ってくる事も少なくない。
だが、危険度は竜と比べるまでもなく、強い個体でSからSS級程度。とある谷には沢山いる成体の竜に比べれば、遭遇する機会は多いもののまだ可愛いものだろう。
少なくとも、こんな真似が出来るグリフォンがいるなどと考えないぐらいには、可愛げはある。
「───ガハッ!」
空島の岩肌に叩きつけられ、背中を強く打ち付けた俺と、岩に減り込んだハク。ズシンッ、ズシンッと、段階的に増す重みに体が押しつぶされ、岩盤にさらに深く食い込んでいく。その岩盤には、亀裂が走り、大きな岩石が切り離されては、落ちる間もなく、減り込んでまた亀裂が量産さらていく。さらには、叩き付けられた衝撃で散った石クズが、風の煽りを受け弾丸となって、身動きの取れない俺とハクに降り注いだ。
「……ッあ!」
細かな、だが、夥しい数の石の弾幕は、弾かれ、押し返されを無限に繰り返し、魔装を貫き、肉に突き刺さる。
言うなれば、石のむじろ。鍛え上げた肉体は、刃でさえ弾くというのに、あまりにも強い圧力が、それを超えて細かな石片を体にねじ込もうとしてくる。
遅れて発動した歪曲空間で左右に風向きを割ったものの、その頃には全身裂傷だらけで、ツーと小さな傷口から血が流れ出ていた。
されど、俺たちをそんな目に合わせておきながら、グリフォンは一瞥たりともくれない。まるで眼中にないといったその銀色の瞳は、目の前の城にのみ注がれていた。
「上等ッ……何の能力かは知らねぇが、邪魔しようっていうのなら、先にお前から潰してやる! ハク!」
「ピィッ!」
体を小さくして岩盤から抜け出したハクに対し、俺は両腕を力で無理矢理引っこ抜くと、拳を叩き付け岩を粉砕し、飛び出した。そして、すぐさま巨大化しなおしたハクの背に飛び乗り、歪曲空間で道を切り開く。
「ぶちかませッ、ハク!」
「グァァァァア!」
チャージ10秒。捻じ曲がった空間の中、ブレスの体制を取ったハクは、俺がグリフォンの真下に歪曲空間の出口を開くと共に咆哮を浴びせた。
『────!』
初めて、グリフォンの目がこちらに向いた。だが、気が付いた時には、既に遅い。
環境さえ変えうる竜のブレスは、回避の暇など与えず、グリフォンに食らいついた。
下から上に、突き抜けた雷炎の奔流。
それは、ハクが最も好む混合属性のブレスだ。表面を焼く炎と、内部を駆け抜ける雷。どちらかに強くても、意味はない。
竜のブレスの真髄とでも言うべき蓄積により高められた炎と雷は、どちらか一方でも敵を丸焦げにする。
そう、ハクがこのブレスを好む理由、それは────満遍なく火が通るからだ。
調理に最適かつ、火力はチャージ時間により調節可能という理由で、ハクはよく敵を丸焼きにしては食べている。
そんなハクが好んで使う理由はさておき、得意技とあって威力は中々のもの。短いチャージ時間でも、海坊主の腕の半分を焼失させるくらいには、火力がある。
さらには、ハクのブレスを受けて、留められていた閃光の砲撃が、グリフォンへと集中的に降り注ぐ。
これで生きてられたら、魔王級の化け物だ。
俺はそう思って、僅かに歪曲空間を調整した。どう調整したかというと、わざと俺の姿を城に見せてみたのだ。
すると、瞬時に閃光が俺の虚像を乱れ撃ちにし、俺はゾッと背筋を寒くした。
まるでレーザービーム。速すぎて、避け切れる気がしない。しかし、視覚的なセンサーを組み込んでいるのであれば、姿を見せなければ何とかなりそうだ。
恐ろしいのは、島を浮かべる技術があれば、振動や音によるセンサーまであって当然のように思える事だが……
と、俺が空島攻略に意識を切り替え始めた時だった。
『──ちょこざいな』
ゾッとするほど、高圧的な声が響いた。
俺は、その声を聞いて、反射的に空間を閉じた。グルリと俺とハクを囲むように球状の結界を張る。昔、シャルステナの婚姻を潰すためにギルクと会場に忍び込んだ時に使っていたものを拡大し、さらに捻じ曲げる空間を厚くした防御結界だ。
『身の程を知らぬ愚か者め、その骨肉に刻み込んでやろう』
デタラメに繋がった空間の中、遅れて声が届く。それは捻じ曲がった空間で反響して────気が付いた時には、目の前にそいつはいた。
「なっ────」
瞬間移動ッ……⁉︎ いや、違うこれは──結界を超えてきた⁉︎
空間の揺れは一切感じなかった。つまり、瞬間移動ではないと、瞬時に否定して俺は起きた事象を正確に捉えようと努力する。
だが、あり得ないと、頭は否定する。
何故なら、結界は瞬時に超えられるようなものではないからだ。隔離空間のように物理的に通さないのではなく、到着を遅らせる。それが、この歪曲結界の役割だ。
言ってしまえば、結界の壁には空間が織り込まれている。物理的な距離してしまえば、およそ1キロ。それが折り重なるようにそこに捻じ曲げられ、詰め込まれている。
だから、そこに入ったが最後、前後不覚で1キロ進まなければ、中に入ってくる事は出来ない。その逆もまた然りだ。
しかし、だが、それならどうやって……
『矮小な存在と愚王の眷属よ────』
首筋を撫でた、これはヤバイという感覚。それは、自分が作った異空間ごと全てを破壊した時によく似ていた。
「──逃げろッ!」
結果、頭にはそれしか残らなかった。
恥も外聞もそこにはない。二度と巡り会えないかもしれない夢があったとしても、それは決断には何ら影響しない。
死か、生か。
その二つが、全てだった。
『──冥府で己が愚行を悔いるがいい』
一片の迷いなく心を同じくして、目の前の脅威に背を向けた俺とハクに、逃がさぬと風の礫が向けられた。
「隔離……っ!」
振り向かず空間の流れでそれを読み取った俺は、断空の結界をただの二重の壁として置き去りに、全速力で真下に落ちたハクに捕まる。
ドガッ、ドガッと俺たちに向けられた礫が途切れた空間に阻まれ霧散するが、一撃一撃がとてつもなく重く、散弾のように迫るそれに、瞬く間に壁は切り崩された。
『エサ風情が足掻きよる』
解除した歪曲の結界を、今度は背後に展開。風の礫のベクトルを変え、俺達は雲の海にダイブした。
「一か八か、雲の中で撒くぞ!」
「ピィッ!」
体が濡れるのも構わず、少しでも逃げ切る確率を上げるため雲の中に身を隠した俺達だったが、咄嗟の苦肉の策が通じる相手であるはずもなく──上から吹き落ちた風圧を浴びて、雲の下に突き落とされた。
「くっ……負けるな、ハク!」
俺よりも遥かに大きな体のハクは、真上から落ちた空気の重さに負け、押し潰されるようにして力負けしていた。俺は、そんなハクに檄を飛ばしながら、魔力盾を展開し、少しでも圧を弱めようと努める。
その甲斐あってか、地面に落ちる前に何とか立て直したハクだったが、いざ雲の中に戻ろうとして、ピタリと動きを止めた。
『親、雲ない!』
「くそっ、逃げ場なしか! どいつもこいつも、簡単に天候変えやがってっ……!」
雲一つのない快晴の日の空とはこんな光景を言うのだろう。気持ち悪いほどに、空は澄み渡っていた。
その空に唯一浮かぶ島を背に、ギラつく瞳で俺たちを見下ろす一頭の捕食者。
『そろそろ己が分を弁えたか、愚か者共』
と、グリフォンの翼が大きく風を叩く。たったそれだけの動作で、目に見えるほどに凝縮した空気の礫が雨のように降って落ちてきた。
俺は即座に、ハクの大きな体では避けきれず被弾すると判断し、緋炎に手をかける。
「ハク、先に行け!」
緋炎を抜き飛び上がった俺は、刃の腹で風の礫を撃ち払った。だが、その数は暴力的なまでに多く、また一つ一つが途轍もなく重い。まるで重い水に剣が取られたかのような感覚。当然その重みの分、剣は速度を失い、防ぎきれなかった分だけで、俺の体とその後ろへと抜けていく。
「っは……!」
腹部に一撃。くの字に体を曲げた俺は、鉄の球を溝うちにモロに受けた時のように、呼吸が止まり、胃の中のものが喉に逆流してくる気持ち悪さを味わった。
これは、何本かイッたな……と、痛みと吐き気をグッと堪える中、背後でハクが悲鳴をあげる。
「キャゥァ!」
ハクが苦痛で、叫びをあげる声など初めて聞いた。見れば竜のもう一つの種族特性である斬撃も、魔法も弾き返す頑丈な竜鱗にはヒビが伝い、ハクは猫のように背中を反らしていた。何より深刻だったのは、飛行には欠かせない翼が片方、真ん中で折れ曲がっていてた事だった。
「ハクッ⁉︎」
そのまま気を失ったのか、力なく地面に向かって落下し始めたハクに、風の礫は、容赦なく襲い掛かる。俺は出来る限りの遠隔防御を駆使し、一撃でも多くハクに降り注ぐ攻撃を減らしつつ、その後を追って真下に向かって走った。
──が、そこへ割り込む巨躯。
「邪魔だっ……!」
『吠えるな、劣等種──貴様も、落ちるがいい』
見せつけるように振り上げられた大きな獅子の腕が爪を立てて迫る。頭から踏み潰すように。あまりにも直情的な動きで、かつ、緩慢にも見える速度で。
俺は思わず、唖然としそうになる。
何故なら、それが余りにもお粗末だったから。
何だ、この下手クソな攻撃は? B級の魔物の方が、もう少し読みにくい動きをする。
だが、フェイント──ではない。
グリフォンの瞳には、こちらを餌としか捉えていない強者の驕りがある。これで、押しつぶせるものだと思っている。
舐められているのか? ──あり得る。
だが、それにしても不思議だ。どう見ても、腕が俺を叩き潰すより、俺が剣を振り切る速度の方が速いというのに……
「──押し返せ、緋炎ッ!」
迷った末、ぶつけたのは灼熱の咆哮。至近距離で、何なら爪に触れた瞬間、吹き出した猛炎が腕だけと言わず、グリフォンを飲み込む。
だが、この程度の攻撃が効かないのは先のブレスで実証済み。俺は、続け様に瞬間移動を発動。グリフォンの背後をとった。
「──お前、歪だな」
吐き捨て、俺はグリフォンの右翼の根元を斬り払う。
その一撃は、先の高速移動をもってすれば、容易に交わすことが出来る斬撃。あるいは、隔離空間を即座に破壊する攻撃力に見合う防御があれば、容易に防がれることは見えていた。
だが、俺は当たると確信する。種はまだわからないが、このグリフォンは異様である。どう異様であるかと言うと、力に能力が合致していない。
動きから洞察力まで、下級の魔物でも出来る基礎がお粗末だ。おそらくこいつは──
『き、貴様──』
──特異な力があるだけのなんちゃって強者だ。
それを証明するように、俺の放った一撃は吸い込まれるように、その肉を断ち、鷲の翼が一つ、ポトリとその背から転げ落ちた。灼熱の刃に焦がされた断面は血こそ出ていないが酷く焼け爛れ、そこに翼をくっつけるのは、高名な回復術者でも不可能だろう。
故に、片翼。幾ら馬鹿げた攻撃力と移動手段を持とうと、もうこの空にグリフォンの居場所はない。翼のない獣は、落ちるだけである────そう、満足し俺はハクを追って、その背から後ろ向きに倒れ落ちた。
『エ……エサ風情が……っ!』
しかし、グリフォンは、揺るがなかった。その体は依然として空にあり、体制すら揺るがない。完全停止の状態。
まるでそう、飛ぶのではなく、浮かんでいるような、そんな安定感を持って。
『こっ、この身に傷をっ……逃がさぬっ、決して逃がさぬぞっ、貴様らァァァッ!』
鷲獅子は激昂し、その銀の瞳は血走らせて、翼を斬り落とした俺を睨み付けた。だが、俺はそれを鼻で笑い飛ばす。
「逃げる算段の一つや二つ準備してる」
ハクのブレスを受けた時点で、俺はすでに戦いを放棄した。ただ何も持ち帰らず逃げるのをよしとしなかっただけだ。次も同じ目に合わないようにするには、対策を立てる必要がある。でなければ、勝てないと相手の力を認識したのだ。
それで、ハクが怪我をしてしまったのは失態だったが、お陰で敵の情報は得られた。
高速移動、空中浮遊、ハクの竜鱗や隔離空間を打ち砕く魔王に匹敵する攻撃力。そして──弱点。
「やられた借りは返す主義だ。次は、その首をもらうぞ──グリフォン」
異空間生成────と、俺は気を失ったハクだけを連れて、その空から姿を消した。
〜〜〜〜
場所は、とある島のとある砂浜。
「ゼェ……ゼェ……」
全身びしょ濡れで、砂まみれになるのも構わず大の字で砂浜に寝転がり、息を切らす俺の姿があった。その横には、打ち上げられたような格好でハクがぐたりと横たわっていた。
──グリフォンとの予期せぬ遭遇戦。
その場から、異空間を使って上手く逃げた俺は、そのまま無重力の中を泳いで、離脱を図った。
異空間と現実空間の位置関係には互換性があり、まったく別の次元にいたわけではないのだが、異空間の中を現実空間から追うことは俺にも出来ない。
グリフォンが追って来ることはなく、逃亡作戦は上手くいった。
しかし、ここで一つ盲点があった。
異空間からもまた、現実空間を認識出来ないのだ。
つまり、どこに戻れるかわからない。それも、上下の概念さえ危うい暗闇無重力の中だ。
なんとなくこっちだろうと異空間の続く限界まで移動した結果、俺達は海のど真ん中に放り出された。
そんなわけで、ドバァンっと入水を果たしたわけだが、盲点二つ目。
ハクの体重だ。普段から小さくなったハクを体に乗せていために、俺は巨大化した時の重さを正確には知らなかった。そのせいで、少し予定が狂った。
持ち上げて飛べるような重さではなかったのだ。
必然ここは、海の浮力に頼るしかない。そこで、溺死だけはしないよう頭を持ち上げ、必死に陸に向かって泳いだわけだ。
そこで登場するのが、海に落ちた獲物を狙い、四方八方、果ては海底からも襲いかかってきた魔物達。ゴブリン並みに数の多い海の魔物は、息を吐く暇も与えぬほど、次から次へと襲いかかってきた。
そうして、文字通り死ぬ思いをして、何とか辿り着いた小島。
丸一日走り回れる体力を持つ俺も、さすがに力尽きて、倒れた。
「次からは……小さくなってから気絶するように……言い聞かせよう……」
次は見捨ててしまうかもしれないと、俺は途切れ途切れに、呼吸と言葉を繰り返して、おもむろに収納空間に手を突っ込むと、手のひらに収まるサイズの魔具を取り出す。
「あー……もしもし?」
『──レイ? 』
通信魔具を口に当て、呼び出しに応えた声に、ホッと胸を撫で下ろす。
「ああ、出てくれてよか──」
『──ちょうどよかった!』
「え? 何が?」
魔具の向こうで、シャルステナが何故か飛び跳ねるように喜び声を上げ、俺は素で聞き返した。
『大変なの、レイ! 街中の魔道具店から苦情が来たり、ライクッドが衛兵に追いかけ回されてたり、春樹くんが借金取りに追われてたり、とにかく大変なの! お願い、私じゃもう対応しきれないよ!』
「…………」
……いったいこの1日の間に何をした、社会不適合者どもめ。
「……もう自己責任でいいんじゃないか?」
俺はもう今日は本気で疲れたし……あいつらも一応は大人なんだしさ。っというか、一名本気で自己責任の奴がいるし。
「それが無理でも、どうせシルビアとか、皇帝が何とかしてくれるさ」
『そうかもしれないけど……何だか今日のレイは投げやりだね。何かあった?』
そりゃもう、ありましたとも。
「ああ、ハクがちょっとピンチだ」
『ええっ⁉︎ まだあれから1日しか経ってないのに、ちょっとピンチってどういう事⁉︎』
「一日しか経ってないのには、俺が言いたいよ」
付け加えるなら、俺とハクの場合は、想定外の敵と遭遇してしまったが故で、自己責任の類ではないと主張したい。
「とにかく、こっちに来てくれないか? 命に別状はないと思うんだが、意識が戻らない」
『う、うん! そういう事なら、急いで行くね。魔法学校の転移魔具を使ったらいい?』
「ああ、出口は繋いでおく」
そう言って、俺は通信魔具を切ってから、砂地の上に転移魔具を設置した。そして、ふと思う。
転移魔具は収納空間持ちの俺一人が全て持っているが、いずれ春樹や結衣が覚えたら、渡しておいた方がいいかもしれない。それは、転移魔具に限らず、今回のように別れて行動する事になった時には特に、必要な時に物がないというのは、困りものだ。
そんな事を考えながら、およそ10分ぐらいだろうか。
疲れと日向の暖かさから来る眠気に意識を持ってかれそうになっていると、ルクセリアを引き連れ、シャルステナが転移してきた。
「えっ、海?」
「……敵は、いないようだな」
転移地点が海だったのが予想外だったのか、シャルステナは目をパチクリさせ、物騒にも剣を構えて転移してきたルクセリアは、警戒を解いた。
二人はすぐに波打ち際で横になる俺とハクに気が付くと、砂に足を引っ掛けながら走り寄ってくる。
俺は、重い体を起こすと、ハクの側に行き、シャルステナにお願いした。
「ハクを見てやってくれ。攻撃をもろに受けたんだ」
「うん、わかった。レイは? レイは怪我してない?」
一応は頷いた彼女だが、その心配の傾きは意識のないハクより、俺に向いている気がした。俺としては、心配だからハクを早く治してやって欲しいのだが、俺がそっちゅう死に掛けるのが悪いのかもしれない。
「俺は怪我というより疲労が、な。まぁ、肋にヒビが入ってる程度だと思うよ。回復薬は飲んだから、放っておいても治る。それより、ハクを」
「うん、わかった……見たところ、体の傷は深くはないみたい。けど、骨折が酷いね。すぐに治すよ。ルクセリアさん、私が治療している間、レイをお願いします」
「了解した」
俺をルクセリアに任せハクの治療を始めたシャルステナの邪魔にならないよう、俺はルクセリアに肩を借りて、少し離れた場所で見守る事にする。
男2人で大海原を目の前に、ビーチの上に座り込む。ハクの治療をするシャルステナを見ながら、俺はふと呟いた。
「…………海だな」
「……ああ、海だ」
そう、呆然と呟く俺に、ルクセリアは困ったような笑みを浮かべて、返答する。
「──それで、ここはどこなのだ?」
「さぁ……? どこだろうなぁ。ユーロリア大陸の周りにある海域の、とある孤島? かな。ルクセリアはどこだと思う?」
「それは、街にいた私に聞かれても困るのだが……」
「だよな……」
……どうやら俺達は今、絶賛遭難中のようです。