Din no Monshou (WN)

Episode XV: I Can't Block My Heartbreak

「バド――来てくれたのか」

第一声、俺はバドに声を掛けた。

先ほどの爆発でシャンリーズのいた穴は完全に落盤。

追撃の気配はない。魔力は感じるものの、接近してくる様子もなかった。

これを確認して、俺はバドのもとに駆け寄る。

すると彼は、仮面の位置を直しながら答えた。

「なんだ? その疑ったような目は。テメェが呼んだんだろ」

まあ、言伝を残したのは事実だ。

だが正直に言って、確信はなかった。

なにせ、あれほどまでに激怒していたのだ。

別れた時と同じ心境ならば、まず間違いなく追って来なかっただろう。

それゆえに、俺は内心からこみ上げる嬉しさを感じた。

しかし、ここでバカ喜びするわけにはいかない。

ただ一言、皮肉を発するだけに止めた。

「正直、来てくれると思ってなかったからな。どんな心変わりをしたんだ?」

「はっ、そんな風向きの時もあるもんだ」

バドは軽く受け流した。

気取った言葉でごまかしおって。

突っ込んだこと聞いてボロを出させてやろうか。

そう思った刹那、遠くから馬車が高速で駆けつけてきた。

「仮面男、勝手に先行くんじゃねえよ!」

中から慌ただしく出てきたのはワイルドナイツの騎士。

バドに伝言を託した人だ。

彼はアインの姿を見つけると、慌てて駆け寄っていく。

「うわ……アインさん!?」

「……ッ不覚」

吐瀉物に塗れたアイン。

安全圏にいたため、先ほどの激戦には巻き込まれていない。

だが、帝撰魔法師から受けた光魔法が尾を引いているようだ。

「立てますか?」

「……目が、眩んで」

「しゃーないですね。俺が運びます」

騎士がアインの下に体を入れ、そのまま担ぎあげた。

体格は同じくらいだというのに。

軽々運んでいく辺り、かなり鍛えているらしい。

騎士はアインを馬車に乗せると、俺の方を向いてきた。

どうすべきか伺いたいのだろう。

「もう大丈夫です。二人は帝都に戻ってください」

「お、ありがたいね。

この年で殉職したくないんで、さっさと引き上げさせてもらうぜ」

そう言って、騎士も御者席に飛び乗った。

手綱を握り、ライオットホースを出発させようとする。

「よっしゃ、アインさん行きますよ!」

「――待て」

だが、騎士の鞭はアインの言葉で止まった。

アインは部下の肩に手を置き、なおも立ち上がろうとしている。

「帝国騎士が……護衛を途中で投げ出すわけにはいかない」

「はぁ……また出たよ、アインさんの悪い癖が。

言っときますが、俺は投げ出しますよ。誇りよか命が大事なんでね」

しかし、騎士が向ける目は冷ややかだった。

上司と部下の関係であるらしいが、騎士は一切物怖じしない。

聞き入れない部下に対し、アインは呻きながら告げた。

「――姫様の任をこなすのが、私達の役目なのだ」

アインもまた頑固だった。

これを受けて、騎士は頭をボリボリと掻く。

どう説得したものか、悩んでいるようだ。

すると騎士は、バドにアイコンタクトを飛ばした上で言い放った。

「そこまで任務を達成したいなら、

なおさら俺たちがいない方がいいっすよ。邪魔になってます」

「その通りだ、足手まといは帰りな」

ここでバドが口を挟む。

彼は自ら短刀で手首を斬り、血を垂れ流している。

バドなりの臨戦態勢なのだろう。

「ここまで運んでくれたのはありがてぇが、関所はもう目と鼻の先だ。

たまには早上がりして酒でも呷っとくんだな」

「だ、そうですよ。アインさん」

「…………」

バドの口添えもあり、アインは決意したようだ。

騎士の肩から手を話し、ヨロヨロと座椅子に戻る。

「不甲斐ないですが……同行できるのはここまでのようです」

それだけ言って、アインは完全に沈黙した。

最後の確認のためか、騎士は俺に声をかけてきた。

「それでいいか? 王国の使者さん」

「ああ、ここまで運んでくれてありがとう」

「――そんじゃ、ご武運を。敵対国のミナサマ」

そう言って、騎士はライオットホースに鞭を入れた。

巨大な馬が轟音を立てて走りだし、帝都へ去っていく。

あの騎士……ずいぶんと急いでたな。

地中から漏れてくる壮絶な魔力を感じて、早く逃げ出したかったのかもしれない。

馬車が立ち去った後、バドはウォーキンスに視線をやった。

「そんで、そこの使用人様は、レジスも助けず何ブツブツ言ってんだ?」

おま……なんてことを言うんだ。

ウォーキンスは今、必死で詠唱をしているというのに。

「シャンリーズを倒すためだよ。とにかく時間を稼いで――」

俺はバドに注意を飛ばそうとした。

しかし、その言葉はとある気配で遮られる。

バドも気づいたようで、ダラダラと冷や汗を流した。

「……嘘だろ? まだ動いてんのか」

バドが声を発した刹那、地面から腕が突き出してきた。

数秒遅れて、煤に塗れたシャンリーズが出てくる。

しかし、その身体にはまったくと言っていいほど傷がない。

当然だ、シャンリーズは全身に漆黒の鎧を纏っていたのだから。

「……ふぅ、危ないところダ」

俺がイグナイトヘルを使う寸前で、鎧を着込んだのか。

漆黒の鎧はフルアーマーのように全身を覆っており、ほとんど地肌が見えない。

ただ、銀色に輝く長髪がたなびいているだけだ。

這い出てきたシャンリーズは、かなり立腹しているらしい。

その兜の奥から、鋭い視線を俺に叩きつけてくる。

「やってくれたナ……」

シャンリーズは俺の方へゆっくりと歩いてこようとする。

だが、妙に動きが鈍かった。

見れば、バドの付着した血液がシャンリーズの足元に付着している。

ボンドのように、奴を地面に縛り付けていたのだ。

「やめときな、既に血液は凝固した。

もうテメェは満足に動けねえ。一方的にタコ殴りにされるだけだ」

「――――」

バドの声掛けに、シャンリーズはまるで無反応。

ギギギ、と無理やり血液を剥がそうとしている。

しかし、その隙を狙い、バドが追撃した。

「そんでもって――これで詰みだ」

シャンリーズに向かって血液の弾丸を飛ばした。

何十もの赤弾がシャンリーズの鎧にぶち当たる。

しかし、鎧の効果か、ほとんど効いていないらしい。

だが、バドの狙いは別にある。

「動けねえだろ?

バカみてぇな魔力を持つ大陸の四賢も、しょせんは肉体に縛られてる。

触って、殴れて、殺せる時点で、俺にとっちゃ何一つ怖くねえんだよ」

シャンリーズの動きを完全に封じ込めた。

先ほどまで血液を剥がそうとしていたシャンリーズが、ピクリとも動けなくなる。

「あの時はビビっちまったが、今なら誰に対しても言い切れるぜ。

俺の魔法は――四賢にも通用する」

あの時、というのは、ウォーキンスとの衝突を避けたことを言っているのだろう。

やはり彼女を畏怖して仕掛けられなかったのか。

しかし、どうやら今は違うようだ。

バドの仮面に隠れた顔からは、盤石の自信が見て取れた。

「さあ、後は袋叩きにするだけだ。行くぜ、レジ――」

バドが俺の名を呼ぼうとした瞬間。

一つの波動が、シャンリーズを中心に拡散された。

それは、邪悪に満ちた濃厚な魔力。

むせ返るような魔素に、一瞬動きが止まってしまう。

その隙を、大陸の四賢が見逃すはずもなかった。

「天(テン)ヲ穿(ウガ)ツハ不浄(フジョウ)ノ大地(ダイチ)。

震撼(シンカン)招(マネ)ク暴圧(ボウアツ)ノ脈動(ミャクドウ)。震(フル)イ渡(ワタ)レ、転変(テンペン)ノ凶土(キョウド)――『オルクスガイア』」

一瞬にして、この岩窟地帯に魔法陣が広がる。

安全な場所は一つとてない。

シャンリーズが指を振り下ろす寸前――バドは何かの魔法を唱えた。

俺はウォーキンスを庇うため走った。

「砕けロ――この大地と共に」

シャンリーズの指が振り下ろされる。

その瞬間、引火したように魔力が爆ぜた。

俺たちの立つ地面が、大爆発を起こす。

「ぐっ、ぉおおおおおおおおおおおおおお!」

死の到来を感じさせる爆風。

しかし、それを無視して、詠唱を続けるウォーキンスを抱きしめた。

詠唱が中断されたとしても、構わない。

ウォーキンスが致命傷を受けるのだけは避けたかった。

背中に灼けるような熱を感じる。

砕け散った土塊が肌を切り裂き、粉塵が視界を奪った。

まさに天変地異。

何が起きたのかさえ把握できない。

激しい土煙が舞い上がる中、その切れ目から見える光景は一変していた。

「なんだよ……これ」

左右にあった崖が崩落し、地形が完全に変わっている。

俺たちの来た道は土砂に塞がれ、退路を絶たれていた。

ウォーキンスの詠唱は、どうやら続いているらしい。

集中して中断を防いでくれたのだろう。

彼女も今、頑張っているのだ。

大地に蹂躙され、瓦礫に埋もれた帝撰魔法師の遺体。

それを踏み越えて、シャンリーズは煙の中から悠然と姿を現した。

「血液を剥がせないなら、鎧を捨てればいイ。

血だまりに脚を取られるなら、地面を粉砕すればいイ」

淡々と言葉と紡ぎながら、接近してくる。

その声からは、もはや一切の感情は読み取れない。

「赤子でも分かる当たり前のことダ。

そして貴様らは、その当たり前に屈して――ここで死ヌ」

一歩を刻みながら、俺とウォーキンスに向けて手をかざしてくる。

俺はなおも詠唱を続けるウォーキンスを強く抱きしめた。

彼女の詠唱中は、俺が護る。

そう決めたんだ。

俺がシャンリーズを睨み返した、その時――

「なによそ見してんだ? テメェ」

わずかに残った土煙の中から、バドが飛び出してきた。

そして、泡と白煙を立てながら沸騰する血液を、その肉体から浴びせかけた。

恐らくは超猛毒の血液。

完全に不意を突かれたシャンリーズは――

「――フゥ」

小さく溜め息を吐いて、その血液を回避した。

避けきれない血液は土壁で遮断してしまう。

そして奴は、身体をさらけ出したバドの脚を払い、そのまま首を掴みあげた。

「グッ……ボハッ!」

バドが口から盛大に血を吐く。

しかしそれは意図的なものではない。

純粋に首を絞め上げられ、苦しんでいるのだ。

「あァ、いたのか? 眼中になかったヨ」

「テ、メェ……」

バドを片手で封じ込め、嘲るように呟くシャンリーズ。

俺はすぐさま火魔法で救出しようとする。

が――

「おっト、そうはさせン」

シャンリーズはバドの首を乱暴に締め上げ、そのまま射線上に持ってきた。

「……ッ」

このまま撃てば、バドに当たるだけだ。

回りこむしかないが、周りは落盤しており身動きがとれない。

舌打ちをした瞬間、シャンリーズが拳を振りかぶった。

すると、その手に土の短槍が現れる。

「そんなに出血が好きなら、見せてみロ――ッ!」

「バドッ!」

止めるまもなく、シャンリーズの土槍がバドの胸を貫いた。

心臓を破壊するだけにとどまらず、その部位に風穴を開けてしまう。

「……ガッ、ハッ」

ビチャビチャと、バドの喉と胸から血潮が吹き出す。

しかし、バドの心臓はすぐに再生を始め、失った肉が結合しようとする。

それを見て、シャンリーズが楽しげに声を上げた。

「ほう……超回復カ。心臓さえ修復するとは、いい魔法ダ」

すると、シャンリーズは再び槍を振り上げた。

そして悪魔の化身にも似た、歪んだ笑みを浮かべる。

「あぁ、実に素晴らしイ。何度でも死の苦痛を与えられるのだからナ」

再び振り下ろされる槍。

再生しようとしている心臓を、集中的に突き刺すつもりだ。

しかしその瞬間、バドがその土槍を掴んだ。

「……む」

「へっ……せいぜい俺に時間をかけてりゃあいいさ」

バドの闘志は、まだ尽きていなかった。

心臓を破壊されながらも、なお時間を稼ごうとしている。

その姿に、俺の心がざわめいた。

「……バド」

ウォーキンスを護るためとはいえ、ここでじっとしている訳にはいかない。

俺は逆転の目を信じ、魔力を一点集中させ始める。

「あの使用人のために血を使ってると思うと情けねえが――

まあ、そこはレジスの頼みだ。俺はここで、テメェを止める」

気迫に満ちたバドの眼光。

しかし、シャンリーズは不憫そうに乾いた笑みを浮かべた。

「貴様のような輩は、今までに何人も見てきタ。

不信に陥り、その渦から決して抜け出せず、

孤独に殺すことでしか己の価値を証明できぬ道化。外れていまイ?」

「ああ、当たってんぜ。腹が立つほどにな」

土槍が再びバドの身体に突き刺さろうとしている。

だが、バドは土槍に血を付着させ、その動きを止めようとしていた。

鍔ぜり合いの中で、シャンリーズは問う。

「そんな貴様がなぜ、レジス・ディンを守ろうとすル?」

「はっ、気になるか? ……いいぜ、そんなに知りたいなら教えてやるよ」

バドはこみ上げる血を吐きながら、シャンリーズへ告げた。

「普段つまはじきにされてる奴はな、

ちょっと優しくされるだけで感化されちまうのさ」

「ふん、世迷い言ヲ」

シャンリーズは一言で切って捨てる。

そして、バドの首を離し、両手で槍を押し込もうとした。

バドは最後の抵抗に、槍に血を吐きかけていく。

「へっ……分かんねぇ、分かんねえだろうなぁ。

テメェみたいな完成した英雄様にはよぉ。

弱者の辛さを知らず、無神経なこと訊いてくるテメェには――」

次の瞬間、バドの血が凄まじい光を放った。

「絶対に、俺の想いは分かんねぇよ!」

ほとばしる閃光。

それは帝撰魔法師が使った光魔法にも似ていた。

ダイレクトで光を受けたシャンリーズはとっさに目を閉じる。

「……チッ」

バドが血液の性質を変化させられることは知っていた。

だが、そんな使い方があったとは。

バドは怯んだシャンリーズから槍を奪い取り、射線上から飛び退いた。

「今だッ、やれ!」

「――ガンファイアッ!」

俺は低級魔法・ガンファイアを放った。

灼炎の弾丸がシャンリーズの喉元を捉える。

「ガ、ァアアアアアアアアアアアアア!

ガンファイアは、その再現の容易さと規模の小ささから低級魔法に分類される。

しかし、一点集中する力には長けているのだ。

魔力をねじ込んで詠唱すれば、すさまじい破壊力を持った炎弾となる。

現に俺のガンファイアはシャンリーズの熟練を貫き、その喉へ火傷を負わせるに至った。

「貴様ァ――」

しかし、ここからが予想外。

なんとシャンリーズは、再びバドの首を掴むと、全力でこちらに投げつけてきたのだ。

このまま衝突すれば、ウォーキンスの詠唱が中断されてしまう。

俺は前に出ると、バドの身体を受け止めようとした。だが――

「――グハッ」

体格のいいバドが、恐ろしい勢いでぶつかってきた。

そして彼のコートの中にある短刀の柄が、生地越しに俺の身体にめり込んだ。

メキッ、と嫌な音がした。

鎖骨の広範囲に、鈍い痛みが走る。

折れたか、もしくはヒビが入ったか。

当然、衝撃を殺しきれず、ウォーキンスの下まで俺ごと吹っ飛んでしまう。

「……ゲホッ、ゲホッ」

「……くそ、なんつう戦法だ」

咳き込むバドを尻目に、俺は立ち上がろうとする。

しかし、ここで気づいた。

眼前。

まさに目の前に、シャンリーズが立っていることに。

手を伸ばせば届く距離。

そんな所から、シャンリーズが俺を見下ろしていた。

俺に反応させる隙すら与えず、奴は――

「峡谷の因縁も、ここで終わりダ」

数秒後の死。

本能が感じた未来に、目の前が真っ暗になる。

だが、ここで背中から魔力を感じた。

よく知っている、ディン家使用人の、ウォーキンスの魔力だ。

しかし、その魔素は吐き気を催すほどにおぞましい。

背筋が凍りつき、呼吸すらできなくなる。

そして、シャンリーズが俺にトドメを刺す寸前――それは発動した。

「回帰(カイキ)セヨ、其(ソ)ガ贖罪(ショクザイ)ノ記憶(キオク)ヲ。

刻(キザ)マレシ追憶(ツイオク)ハ虚白(キョハク)ノ断罪(ダンザイ)。

イザ惑(マド)エ、記憶(キオク)ノ冥界(メイカイ)ニ――『コフォンメモリーズ』」

およそ人間が出しうるとは思えない、邪気に満ちた魔力。

振り向くと、ウォーキンスがシャンリーズを指さしていた。

その瞳は赤と金が綯い交ぜになった色をしており、口元が邪悪に吊り上がっていた。

数秒の後、ウォーキンスの魔力は収束する。

そして、俺の手を引いてシャンリーズから離れさせた。

あまりにも無防備な行動。

しかし、シャンリーズは追ってこなかった。

彼女は虚ろな目をしながら、自分の両手を眺めている。

「……ぁ、あレ?」

その瞳は現実のものを捉えておらず、どこか遠い何かを見ていた。

それを尻目に、ウォーキンスは咳き込むバドの肩を軽く叩く。

「行きましょう、戦いは終わりました」

「あぁ……? あの女が、そんな簡単に諦めるわけ――」

しかし、バドも気づいたのだろう。

シャンリーズがカタカタと震え、異常な挙動をしていることに。

先ほどとは打って変わって隙だらけなシャンリーズ。

その姿を見て、俺はウォーキンスに尋ねる。

「追撃しなくていいのか?」

「どんな反応を示すか、私にもわかりません。

今近づくのは危険ですし、下手に攻撃して目を覚まされたら終わります」

そう言って、ウォーキンスは俺を伴ってシャンリーズの横を素通りする。

その時でさえ、シャンリーズは止めようとしてこなかった。

そればかりか、彼女は虚空を見上げながら、何かを喋り始めた。

「なんだ、シェナか……もう起きていいのカ?」

シェナ……?

それは確か、シャンリーズの妹だったはず。

邪神の一派の手で殺された、英雄シャンリーズ唯一の肉親だ。

「……もっと寝ていロ。

私が――お姉ちゃんが、背中を擦っていてやるからナ」

シャンリーズはしゃがみ込み、何もない地面を撫でる。

荒れ果てた大地を、土の欠片が突き刺さることも構わず、震えた手で撫でていた。

そして手を切ったのか、シャンリーズは一瞬手を引っ込めた。

そして己の血を見た瞬間、表情が急変した。

「ア、ァ……? なんで、そんな……こと……」

頭をかきむしり、シャンリーズは呻き始める。

口から涎が垂れているが、錯乱していて気づいていない。

彼女は絶望的な顔をしながら、虚空を抱きしめる。

「やっと、見つけ、たのに……シェナ……早く、手当しないと……」

ここでようやく理解できた。

シャンリーズは今、現実ではない、何かを見ているのだと。

「あ……ア、ぁ……違う、違うんだシェナ……」

シャンリーズは目から涙をこぼし始めた。

泣き顔など想像もできなかった彼女が、ボロボロと、まるで無力な少女のように泣いている。

「私は、お前を、最後まで……」

カタカタと、シャンリーズの両手が震えている。

と、ここで彼女は再び己の手を見た。

無理矢理に地面を漁っていたので、手の平は裂け、爪も剥がれている。

そして、盛大にほとばしる血潮を見て、彼女は――

「ア……ア……アァあああああああああああああア!」

悲愴の泣き声を上げた。

その声はひどく痛ましく、俺の胸にまで響いてきた。

シャンリーズは外目も憚らず、ただひたすらに泣き続ける。

「私がッ、私が弱かったから……!

シェナが、シェナを……ァ、アァアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!」

そして、半狂乱のまま地面を殴りつけた。

その圧倒的な力により、周囲が地層ごと崩れ落ちる。

反動を受けたシャンリーズは、そのまま地の奥底まで落ちていった。

一瞬で姿が見えなくなるが、

想像を絶する泣き声が消えることなく響いてくる。

シャンリーズの消えた穴を見つめながら、ウォーキンスはボソリと呟いた。

「それを克服できない限り…邪神には勝てませんよ」

そして、次第にシャンリーズの声をも聞こえなくなり――

この場には静寂だけが残った。

あまりに呆気なく、大陸の四賢シャンリーズは退いたのだ。

「ふぅ……守っていただき、ありがとうございました、レジス様」

「……あ、あぁ」

「この戦いに勝てたのは、レジス様のお陰ですよ!」

激戦の余韻を感じさせることもなく、

ウォーキンスは邪気なく抱きついてくる。

その場でピョンピョンと跳ねまわるおまけ付きだ。

俺の心もピョンピョンしかけたが、バドの不満の声で正気に戻った。

「……俺様の功績はどうした」

「確かに、バドがいなかったら危なかったよ」

「へっ、そのとおりだ。もっと俺に感謝するんだな」

こいつもずいぶんとチョロい。

何かあったのかと心配になるほどだ。

俺達と別れてから一体どんな出来事が……

色々と気になることはあるが、

まずウォーキンスに確認しておきたいことがあった。

「さっきのアレ、何をしたんだ?」

「あれはですね、幻覚を見せたのです」

「幻覚……?」

そういえば、ウォーキンスは幻覚を自在に見せられるんだったか。

確か、俺の酔いもその魔法でごまかしていたはずだ。

「ええ。最も見たくないであろう惨状を、最も見たくない形で心に植えつけました。

ああなってしまうのも当然ですね」

えぇ……。

そんな恐ろしいことができるのかよ。

というか、そんな危険な魔法で酔いを抑えてたの?

衝撃の事実が今になって発覚したよ。

戦慄する俺に対し、ウォーキンスは苦々しく微笑んだ。

「四賢シャンリーズが身内に弱いことは、昔から知っていました。

なので、今回はそこを利用させて頂きました」

「利用……ね」

「種族や魔法師としての弱点は塞げても、心の傷は塞げなかったようです」

心の傷は、塞げなかった。

それが今回の勝因だったのだろう。

しかし、引っかかる。

どうしても、納得することをためらってしまう。

その勝因はいつか誰かの敗因にもなりかねない。

ひどく危うく、不確かなものだからだ。

決して、手放しで喜べる勝利ではない。

まあいい。

最大の難関を突破できたのだ。

そこは素直に嬉しがっていいだろう。

「行きましょう。幻惑魔法の効果はそう長く続きません」

「そうなのか? 急がないとな」

「あぁ。あんな化け物に、また首を絞められるのは御免だぜ」

シャンリーズの実力を思い知り、バドも辟易したようだ。

今回は、彼女に搦め手が通用したから勝てた。

しかし、もしあの手が通用しなかったらと思うと、ゾッとしてしまう。

「関所を超えて人混みに紛れれば、もう追っては来れませんよ」

「ずいぶんな自信だな?」

「まあ、同じ魔法を使われると知っていてなお挑んでくるのなら、それはそれで――」

最後の言葉を濁し、ウォーキンスはふふっと笑った。

正直、恐ろしいです。

バドも戦慄したのか、げんなりとした顔をしている。

こうして俺たちは、旅の始まりと同じように、再び同じ道を行く。

神聖国へと続くこの道を――しっかりと歩いて行く。

しかし、岩窟地帯を抜ける際、俺は振り返った。

誰が追いかけてきているわけでもない。

だが、振り返らずにはいられなかった。

シャンリーズ・ベルベット。

最愛の妹を守ろうとし、守れなかった英雄。

四賢の中で、最も憎悪の炎を燃やす魔法師。

そんな彼女の悲痛な声が、頭から焼き付いて離れなかった。

「――――」

だが、俺は心に歯止めをかけた。

雑念は無用。慈悲も不要。

こちらを殺そうとした相手に、同情する余地はない。

今はただ、王国に向けて帰るのみである。

「じゃあな……シャンリーズ」

ただ、一言だけ、どうしても呟いておきたかった。

この地で、あの大陸の四賢と戦ったことを、決して忘れないように――

こうして俺たちは、帝国を抜ける関所へと到達したのだった。