Dungeon+Harem+Master

LV12 "Witch of Regret"

火の海にいるのとかわりはない。目を開けていられないほどの熱風が吹きつけてくる。

まさに地獄だった。

野原に咲き誇る、可憐な花々たちは紅蓮の炎に舐め尽くされ悲鳴を上げていた。

生木の裂ける雑多な音が間断なく続き、灰色の濁った煙が西に向かって流れていく。

樹齢千年を誇る、エントの巨体は、黒々と灰を吹き上げながら、真っ赤に踊っていた。

マリカは、その場にペタンと尻を突くと真っ白な顔を硬直させていた。

信じられないといった目で、蔵人の顔をすがるように見つめていた。

火の気などない自然そのままの森であった。蔵人は、一瞬だけ、頭の中に黒い影がよぎったが、敢えてそれをねじ伏せ、考えないようにした。

だが、予感を口に出さずとも、現実で起きたことから目をそむけるのは不可能であった。

放心状態であったマリカは、遠方に物陰を見つけると、弾かれたように駆けだした。蔵人も無言で彼女の後に続いた。灰色の煙がもうもうと立ち込め、一寸先も見えない。

マリカの銀髪から突き出ている長耳が小刻みにゆれている。不審な物音をとらえたときの彼女の癖だった。マリカのすぐれた聴覚や直感にもうなんど救われただろうか。今回もきっと救われるだろう。わかっていて、その先をなんとなく読めている自分が怖かった。灰色の煙が晴れた先で、小さな人影を見つけた。

影は、小高く盛り上がった土手に佇立しながら、低い笑い声を漏らしていた。地の底から響き渡るような、凄絶かつ陰惨な声であった。無上のよろこびに満ちている。昏く耳障りな音だった。声の主は、西から流れ来る灰色の霧に溶けたり現れたりしながら、狂ったようにひたすら笑い続けていた。

「あら、クランドさま。ようやく、追いついたのね」

ゾッとするような顔つきでゲルタは笑みを浮かべたまま、振り向いた。

彼女は、火のついた薪を手にしたままゆっくり近づいてくる。

蔵人が半ば想像していた現実が前の前に突きつけられていた。

さすがに、こいつは、こたえるぜ。

ゲルタの変わりきった姿は、はじめて会ったときの面影を微塵も残していない。

蔵人の心の中に、悲しみを通り越して怒りすら覚えるような激しい変容であった。

ゲルタは焦げ茶色に汚れた手斧を片手にすいすいと近寄ってくる。子犬を守る母犬のような自然さで、遮るように杖を構えたマリカが割って入った。視界から蔵人が消えたことによって、ゲルタの表情にはじめて人間らしい能動的な変化が起こった。

それは、悲しんでいるのかよろこんでいるのか、判別にしにくく、怖気を震わせるようないびつなものであった。

「あなたがエントをこんなふうに……! なぜ!?」

マリカは努めて激情を押し殺して問うた。ゲルタの唇が皮肉げに歪んだ。

「あら、そんなことどうして聞くのかしら、このエルフは。おかしなエルフさんね。あたしと、ジョージは役立たずのクランドさまに変わって、森に住む大きな化物を退治したのよ。皆によろこばれることはあっても、どうして責められるのかわからないわ」

「エントも狂っていたというの!?」

「狂っていた、狂っていないなんてことはどうでもいいの。あたしと、ジョージが悪い魔女の手先をやっつけたって事実があればそれがすべてなのよ。ねえ、ジョージ」

ゲルタは、弛緩した顔で笑うと、側に置いてあった物体に腕を回した。

まとわりつく煙が流れるにつれ、黒っぽい物体が露わになる。

マリカが口元を押さえて、半歩退いた。

蔵人は、ぐうと蟇の潰れたような声を喉奥で上げた。

「ジョージ。やったわ。ちゃんと、あたしたち、やり遂げたのよ。これでもう、村の人たちもあなたのことを半人前だなんてバカにしたりしないわ。これで、なれる。いっしょになれるわ。ごめんなさいね、クランドさま。ということで、あなたはもう用済みなのよ」

ここにたどり着く途中で幾多の怪物に襲われたのか、ジョージだったモノ(・・)の頭部は鋭い爪や牙で激しく掻きむしられていた。頭髪の半ばが抜け落ち、垂れ下がった皮膚の裂け目から脳髄の一部が覗いていた。流れ出た血潮はジョージの胸元をベッタリと濡らし完全に固まっている。死後、かなりの時間が経過している証拠であった。

ゲルタは自分の顔が凝り固まった血で汚れるのも構わず、遺体に顔を擦りつけていた。

一部の隙もない狂い具合だ。いちいち再確認する必要もないが、蔵人はゲルタにとって最初から最後までタダの道具に過ぎなかった。狂人の戯言にどこまで信が置けるかわからないが、結局のところ彼女にとって蔵人は所詮村を通り過ぎるだけの冒険者にしか過ぎなかったのであろう。

彼女が、蔵人の行方を探すと称して危険な森に入ったのも、愛するジョージのためにほかならなかった。となれば、あれだけ露骨な媚の売り方も、納得できる。

「ねえ、クランドさま。あたしたちは、森の悪い化物を退治したのよ。あなた、まさか村に戻って手柄を横取りなんかしないわよね。されたら困る。すごく、困るの。だからね、いまここで死んで欲しいな。あたしのお願い聞いてくださる。ねえ、クランドさま」

ゲルタは狂ったロジックを語り終わると同時に手斧を無造作に投げつけてきた。

半円を描いて飛来する手斧が左肩を深々と抉りとる。

激痛と驚きで回避行動が遅れたのだ。

蔵人は小柄な少女によって簡単に組み伏せられた。

自分が無力でいたいけな女になったと錯覚した。

ゲルタの吐息は吐き気がするほど血なまぐさかった。剥き出しになった歯は白く雪のように輝いている。犬歯から滴り落ちる赤黒い血が禍々しかった。

彼女の瞳は狂気に染まり爛々と輝いている。所詮は女の細腕と馬鹿にしていたが、馬乗りになった彼女の腕力は信じられないほど強かった。復活した邪神の悪気をモロに受けているとしか思えない。

蔵人は、腕力だけは自信があった。

同程度の背丈と体重の人間と組合っても、まず負けるとは思わない。バイトの肉体労働で鍛え上げた肉体はかなりの筋骨である。

現に、大学では、レスリングの国体候補をねじ伏せたことがあった。

けれども、のしかかってくる彼女の重みや圧力は、人知を超えていた。喉輪にかかる細い指に込められている力は油圧建機並でありどうあがいても外せそうになかった。鬼気迫る表情であるが、ゲルタはゲルタである。蔵人の脳裏に残っている彼女のやさしさは、いとも簡単に消せるものではなかった。左手をソロソロと剣の柄にかける。目の前の鬼神のような表情が著しく和らいで泣きそうなものへと変わった。

南無三、と心の中で唱える。

刹那の瞬間、心が躊躇した。

それを察知したのであろうか、ゲルタは酷薄に笑みを浮かべて口元を釣り上げた。

骨を砕く鈍い音が鋭く鳴った。視線の先では赤ン坊の頭ほどの岩を持ち上げたマリカが、再度ゲルタの後頭部に向かって振り下ろすモーションがコマ送りに見えた。

マリカは絶叫しながら両手で持った岩を激しく打ちつけている。

削岩機のように正確無比な動きだ。岩の先端は引き抜かれるたびに、粘液質の脳髄にまみれて茶褐色に近い糸を引いた。

蔵人の顔に、生暖かいゲルタの血潮がドッと降りかかった。濡れ雑巾を壁に叩きつけるような音が間遠にかつ間断なく聞こえる。白くて細い腕が車輪のように動くたび、ゲルタの後頭部が煮崩れたジャガイモのようにとろけていく。崩壊の過程を目の当たりにした蔵人の脳は自動的に理性のスイッチをオフにした。そうでなければ耐えられない。不可避の残酷すぎる所業だった。喉元に酸っぱいものが込み上げてくる。意思の力ですべてを飲み下した。胸元へ飛び込むようにしてゲルタだったモノが倒れ込んでくる。反射的に抱えた指先に、千切れた脳漿の一部がこびりつく。

それはもう、愛らしさは微塵もないただの崩れた肉塊だった。

腐った泥を抱えている。

不快な気分と憐れみが胸の中に混在したが、生理的不快感がまさった。

もう、終わってしまったことだ。

人形のように重くなった骸を投げ出して上半身を起こす。

マリカと視線がかち合った。

「え、だって。だって、こうしないと、あなたが……」

マリカは荒い息を吐きながら、虚ろな目でつぶやいた。蔵人の胸の中をびょうびょうと音を立てて砂煙が舞っているようだ。

「わかった、マリカ。だから」

「だってこうしないとっ、こうしないとあなたがっ」

「わかった、わかったから。責めない。おまえを責めないよ、マリカ」

「この女が悪いのよッ! この女が、この女が!!」

「だから、もういい。もういいんだ」

マリカの判断は行き過ぎたものであったが、咎める気にはなれなかった。蔵人は、自分の剣に指をかけたときは、能動的にゲルタを害するために動き始めていたのだった。すべて自分の命を守るべき行為である。そこには、蔵人自身も咀嚼しきれない悲しみと、やり場のない怒りが無意識のうちに込められていたのだ。マリカは、それを形にしただけである。責める気はなかった。

「おまえはちっとも悪くない。だって、俺を助けようとしてくれたんだからな」

そういってマリカを抱きしめる。彼女は、蔵人の胸元に身を投げ出すと、瘧にかかったように全身を激しく震わせた。彼女の動揺が収まるのを待つ時間もあまりなさそうである。殺意と立ち込める血の臭いにつられて、禍々しい怪物たちが迫ってきたのであった。

灰色の煙の中から飛び出してきたのは四足で歩く真っ黒な獣だった。

表皮は無毛でなめらかに黒光りしている。豚のようなヒヅメがやけに大きく見えた。

特筆すべきは、顔の中央部をほとんど占めるひとつ眼である。

単眼獣と呼ばれるこのモンスターは、森の最深部に住む腐肉食動物《スカベンジャー》であった。

本来の性質はおとなしいものであったが、邪神の波動を受けて著しく凶暴化していた。

彼らは狩りをほとんど行わないので、牙は退化していたが、他の肉食獣の喰い残しを見つけることには秀でていた。

また、完全に腐敗したものからでも、その強力な胃液で溶かして養分にすることができる能力を持っていた。

茫然自失と化したマリカを抱き上げながら、距離を取る。

五匹の単眼獣は前足のヒヅメで土を掘り返しながら、ジリジリと近づいてくる。血走ったひとつ眼が一様に注視しているのは、ジョージとゲルタの残骸だった。ほとんど腐敗していないそれらは、彼らにとって格好のご馳走なのであろう。

蔵人としては、時間が許せば彼女たちを埋葬してやりたかったが、もはやそのような猶予も余裕もない。右足をかばいながら長剣を引き抜く。血脂で固まった刃に切れ味を期待するのも無理な相談である。できうるべきなら戦闘は避けたかった。

ジリジリと後退する蔵人に勝機を見出したのか、一匹の単眼獣が襲いかかってきた。

パッと土が舞い踊って、黒い塊が飛びかかってくる。

蔵人は咄嗟にマリカを横に放り出すと、右膝を突いて長剣を上方に突き出した。

刃は流れるように単眼獣のひとつ目に吸い込まれていく。

錆びた吠え声と共に血潮が飛び散った。

刀身は半ばまで単眼獣の眼球を破壊したのだ。

手応えは固めのゼリーを砕いたような感触だった。素早く刃を引き抜くと、獣はドッと地面にひっくり返り、四肢をばたつかせると、血反吐をごぼごぼと吐いて動かなくなった。仲間の死を目の当たりにした獣どもは、怯えの色を宿した瞳を恨めしそうに光らせながら逃げることはしなかった。

よほど、目の前のご馳走に未練があるのだろう。蔵人が剣を構えたままマリカを再び抱き上げ、退いていくと、徐々に残されたご馳走に近づき、やがて我慢の限界が来たのか一斉に貪り始めた。

蔵人は振り返らずにその場を後にする。残ったのは、腸を競って引き千切り、細く白い腕を取り合う地獄のような光景だった。

もはや安住の地はどこにも残されていなかった。エントを失ったこととゲルタを手にかけたショックで、マリカは憔悴しきっていた。戻ることも進むこともできない。

蔵人は子供のように手を引かれるまま歩くマリカに気を遣いながら、休息のできる場所を探していた。食物どころか、水すらかなりの時間口にしていない。体力の疲労は同時に気力を萎えさせる。小川を見つけられたのは僥倖だった。川面を眺めれば小魚が気持ちよさそうに泳いでいるのが見えた。ここはまだ、汚染されていない。水をすくって喉を湿すと、人心地ついた。マリカに水を飲むように促すが、彼女は微動だにせずジッと遠くを見やっている。印象的な赤い瞳がくすんでいる。生気をまるで感じられなかった。

「マリカ、水だよ。飲まなきゃ身体がもたねえ。ホラ」

蔵人は顔を水中に突っ込んで口中に含むと、口移しで水を飲ませた。彼女は、されるがまま水を移されると機械的に嚥下する。身体はどうしたって水分を求めていたのだ。

「そうだ、まだ残ってたかな」

蔵人は腰の革袋をまさぐると、乾燥肉とドライフルーツを取り出し、口中でゆっくりと咀嚼し始める。僅かでも腹にものを入れるのと入れないのでは違うのだ。マリカに向かって食物を差し出すが反応は見せなかった。干し豆や肉をよく噛んで粉々にすると、これも口移しでマリカに飲ませた。ドロドロになったそれらを彼女は拒否することなく飲み干していく。彼女の薄ピンク色の唇が唾液で光っている。ひどく淫靡に映った。

そのまま、小川のほとりで腰かけて時間の経過を待った。空を見上げていると、急速に鈍色に染まっていく。シトシトと小雨が降り出した。

マリカはとても魔術を使える精神状態ではない。彼女の手を引いて、目的もなく歩く。無茶苦茶に走り回ったせいか、自分たちがどこにいるかよくわからなくなっている。森はそれほどまでに広大だった。

巨大な木の洞を見つけてすべり込む。中は湿っておらず、ひんやりとしていた。外敵から身を隠すにはまあまあの隠れ家だ。入口には枝を幾重にも重ねてその上に千切り取った葉を載せて簡易的なフィルターを形成した。寝椅子のように斜めに身体を横たえられる。蔵人は、腹の上にマリカを乗せると、親が子をいとおしむようにギュッと抱きしめた。マリカは蔵人の胸に顔をうずめたままやがて、すうすうと寝息を立て始めた。傷の痛みと筋肉の疲労で全身がギスギスと痛んだ。目をつむったまま、最低限の集中力は途切れさせない。身体は弛緩しているが、脳の一部が冴えている。気づけば表の明度がうっすらと濁っている。また、夜が来たのだ。胸元でモゾモゾとマリカが動いている。目線が薄闇の中で合ったような気がした。

「……ねえ、ここ。どこなの」

「適当な木の洞だ。場所は、よくわからん」

探るような口調であったが、マリカが確実に正気を取り戻していることに安堵した。

「ごめん、なさい」

「なにを謝っているんだ」

「だって、私、彼女のことを……」

「ゲルタのことはもう終わってしまった。それを悔いても仕方ない。残酷のようだが、俺は自分が死ななくてよかったって思ってる。それに、やるなら俺がなんとかしなければならなかったんだ。酷いことを押しつけてしまった。すまない、としかいえない」

「私、人を殺した。でも、それははじめてじゃないの……」

「そうか。別に俺だって、いままでに何人も手にかけている。こんな世界だ。スパッと割り切らなけりゃ、生きてはいけねえ」

「割り切らなければ、生きていけない」

マリカが闇の中でジッと考え込んでいる。進むにせよ、引くにせよ、決定権を持つのは彼女だった。蔵人は、マリカの銀髪を撫でながらひたすら言葉を待った。魔力はかなり回復しているのだろう。闇の中で、彼女の真っ赤な瞳が赤く輝いた。

「転移は一度くらいしかできない。でも、一度戻って、時間をかければ」

「そんな余裕はないだろう。次に、ああなるのは、俺かもしれないし、或いは」

邪神の波動は、日一日と強大さを増している。世界破滅の懸念はもはや絵空事ではない。

そもそも、こんな濁った空気で汚染された世界では、誰しも生きる希望を見失ってしまうだろう。

「俺たちに残された時間はない。だろう?」

「なら、あなたの命をちょうだい。私は、きっと邪神を封じてみせるから」

空間歪曲《ルーム》の魔術でエビルエントに強襲された野営地の近くまで飛んだ。

邪神の封じられたダンジョンまではそこから、目と鼻の先だった。受け取った地図はそこで途切れていた。聞けば、マリカの母が敢えてその先は記さなかったらしい。

「ダンジョンは、地下二階まで。気をつけましょう」

入口は巨岩の中へと巧妙に擬態されていた。マリカはうねるような文様の刻まれた岩の一部に手を当て、ごにょごにょと呪文を詠唱した。濃い緑色の苔に覆われた岩の一部が地響きを立てて左右に開閉する。ぽっかりと口を開けた暗渠の中に、チリの積もった人工的な石段がぼんやりと見えた。

マリカは杖を細かく振って、小さな楕円形の光の玉を打ち出すとランプがわりにして、ダンジョンの中を照らした。

ひとりがなんとか通るのがやっとの階段をゆっくりと降りていく。

淀みきった空気と鼻を突くカビの臭いが気分をゲンナリとさせた。

一歩進むごとに、うず高く積もった塵が足首まで埋まった。

蔵人は長剣を引き抜くと、精神を集中させてすり足で進んでいく。ある程度進むと、巨大な開けた空間に躍り出た。二、三百人は並んで走れる広さである。

「なんだよ、いきなり行き止まりだぜ」

マリカは無言のまま、すたすた壁際まで近づくと、スカートを摘みながら靴底を叩きつけ始める。彼女は、時計回りに壁を蹴りながら移動していく。わけがわからず、剣を持った手がダラリと下がった。

「なにをポカンと見ているの? あなたも手伝いなさい。最初の注意書きにそうあったでしょう」

「え、あれ字だったのか。てか、わかるわけねえだろ」

「古代文字よ。読めなくても当然ね」

「できないことを当然のように要求するのは悪い子だと思いますケド」

「つべこべいわず、お蹴り」

「へいへい」

蔵人はマリカに命じられた通り、規則的に周囲の壁を蹴り込んでいく。

やがて一部が軽い音を立てると同時に、ガラガラと崩れていく。

「やった!」

「ええ、でも本番はこれからみたいね。これを崩していかないと。ちょっとした土遊びね。クランド、あなたこういうのお好きでしょう。じゃ、お願いね」

「別に好きじゃねえけど」

蔵人は両手を使って、もろい土壁を丹念に崩していく。たちまち、二の腕までが泥だらけになった。蔵人の顔はやりきれなさで歪んだ。

「さ、いくわよ。ボヤボヤしない」

「先生、すごく、泥だらけです」

「いい子ね。ほら……」

蔵人が泥だらけになった手を見せると、マリカは頬にキスを降らせた。

「先生、ご褒美はもっとディープなのがいいです」

蔵人が阿呆のように唇を尖らせると、マリカは杖の先でグッと押した。

「そのような時間はないの。また、来週ね」

「来週とかねえだろよ、絶対」

「ブツクサいわないの」

ともあれ、突破口は開けたのだ。蔵人は泥だらけの腕を振り、できたての穴をくぐり抜け、さらに進んでいく。穴の先は、極めて精密な石壁が積まれた通路があった。立ち止まって嵌め込まれている石片のひとつひとつを指先でなぞる。よく磨かれた、ツルツルとした感触でプラスチックに近い気がする。

「あっ」

「うおっと危ねぇ!!」

背後にのけぞりそうになったマリカの腕を引いた。グイと、力強く引くと胸に抱き込む格好になった。ぽよぽよとした乳房の感触が思いがけずうれしい。頬がだらっとゆるんだ。

「ねえ、あなたって女なら誰でもいいの?」

「マリカのような美人なら、いつでもオーケイだ」

「そ、そう。……ねえ、かといって勝手に人のお尻を触るのはどうかと思うわ」

「いや、だって拒否しないし」

「んん。ねぇ、本当に。ちょっと――おやめ」

「やめられない、とまらない」

蔵人は両手をマリカの尻に回すとぐにぐにと揉み出した。なんの脈絡もない動きだ。

「や、やめてよ。この、性獣ぅうん」

「ちょっ、セクシーな声はやめろよ。くそっ、指の動きが自分でもどうすることもできない状態に制御不能にッ。ごめんなあ、マリカごめんなぁ」

「ああっ、だからダメだっていってるのにぃ。その、なんか硬いものがお腹のところに当たってるのだけど」

蔵人はマリカの涙で潤んだ瞳を見て我に返った。

衝動が自制できなくなっている。畜生、邪神のやつめ、と義憤に駆られたフリをした。

「すまん、ちょっと反省した。急ごう」

蔵人はペッティングを強制終了させると、キリリとした顔でいった。マリカはくすんと鼻を鳴らすと、ちょっとさびしそうな素振りを見せた。

石積みの廊下を突き進んでいくうちに、マリカの表情が曇っていく。

「思ったより全然モンスターが出なくて楽勝だな。おっと、ここからがまた階段か。あと、ちょっとだな! 邪神まであとちょっとだ。気を引き締めていかないと」

「ええ、そうね」

蔵人はマリカの生返事が少し気になったが、あと少しで終わりだと思えば、なにもかもが気にならなくなった。高い段差にのみ視線を落として、黙々と下降を続ける。ジクジクとした傷の痛みも疲労も、すべてが消え失せていく。降りきった部分に、細かい装飾の施された扉が見えて拍子抜けした。不意に、パンツの裾が引かれた。マリカである。魔術の光に照らされた彼女の顔は血の気が引いていた。

「ねえ、ここで引き返すっていうのは、ダメかしら」

「おいおい、そりゃイマイチなジョークだぜ! なに、どんなバケモノが出てきても、俺とおまえがいれば、きっとなんとかなるって」

蔵人はマリカのギャグを一蹴すると、目の前の扉を軽く押した。錠はかけらていない。無用心な神さまだな、と知らず笑いが浮かんでいた。中からは、ぼんやりとした光が漏れている。ラスボスにふさわしい。肩をぶつけるようにして中に突入する。視界に広がるのは、想像していた巨大な怪物ではなく、大きめの発電機に似た四角い箱のようなものがひとつ、激しい異音を上げていた。奇妙な箱からは、外で感じたような邪気の波動を感じ取ることはできない。激戦を予想していただけに、脱力加減は並ではなかった。

「なあ、マリカ。これって……」

背後に向かって語りかけた。

瞬間、蔵人は首筋に激しい痺れを感じ、うつ伏せに倒れ伏した。

この事態をどうとらえればいいのか、まるで見当もつかない。

それよりもなによりも、蔵人はこの部屋に入ってからマリカがひとことも発しないことに注意を払うべきだった。酸素を求める金魚のようにみじめったらしく、口をパクパクと開閉する。声が出ない。顔だけをなんとか動かして、背後に視線を転じた。

マリカは、電流のほとばしる杖を下ろしながら、その場に佇立していた。

かぶっていたとんがり帽子が足元に落ちていた。

能面のように無表情だ。なぜだ、という疑問だけがグルグルと脳裏を旋回する。

「それが邪神の正体。そして、止め方は知っているのよ。最初から」

蔵人は“邪神”から流れ出る、壊れたラジオのような異音を耳元で聴き続けた。

ザザッ、ザザッと甚だ勘に触る波音に似た響きが脳天に突き刺さっていく。

マリカは信託を受けた預言者のように、厳かな口調で邪神の故事来歴及び自分の身の上を話しだした。

かつて、ハイエルフと呼ばれる一族はこのロムレス大陸の全土に住んでいた。彼女らは通常のエルフ族と違い、寿命というものはもたず、生物が避けることのできない死を生まれながらにして超越していた。

つまり、病気や老衰で死ぬことはないので、他の生物と争わずに過ごす限り、基本は半永久的に生きることができるのである。古代よりそう伝えられていたらしい。と、いうのは長命を得たハイエルフなどは事実上存在しなかった。世界は、彼女らのずば抜けた魔術の才能に目をつけ、徹底的に搾取し、使役したのだ。ハイエルフは生まれつき強い抵抗力を持っており、どれほど凶悪な病がはびころうとも、その見た目の可憐さと打って変わって、必ず生き残った。どんな状況でも。その代わりといってはなんであるが、彼女たちは繁殖能力は著しく低く、生涯にひとりの子、しかも娘以外は産み落とすことができなかった。ときの権力者たちは、競ってハイエルフを乱獲し、その長命の秘密を探るべく残酷な研究を続け、あるいはその美しさに魅入られた王は寵愛して子を作り、国の滅ぶ元を自ら作っていった。マリカの母であるマグダレーナもそれらの惨禍を嫌って森に隠棲したハイエルフのひとりであった。マグダレーナはハイエルフにしては長命である五百歳を過ぎていた。基本スペックは高いものの、彼女たちは大抵外敵によって寿命を損なっていたのだ。

マグダレーナは並外れた美貌であったが、猜疑心が強く、基本的に自分以外は信じなかった。

通常、ひとり身を終えるであろう彼女と運命の出会いを遂げた男は、森の中に住む偏屈な木こりだった。マリカは父親の顔をおぼろげながら覚えているが、その頃にはもう髪が真っ白だった。ハイエルフはたいてい二十歳程度で肉体的変化は止まる。

つまり、老境に差しかかっていた男が美姫になぞらえるマグダレーナを運良く射止めたのであった。

やや、難しい性格であるが基本的にはやさしい母と、孫のような歳の娘を溺愛する父に育てられ、マリカはしあわせな幼少期を過ごした。

だが、崩壊は突如として起こった。その時代は常にいくさの火種が絶えることがなく、木こりであった父が薪を売りに里に降りた際、野盗に襲われてあっけない死を迎えたのだった。ここで、マリカの記憶は途絶する。マグダレーナは、十歳の誕生日を迎えたばかりのマリカを顧みなくなった。完全な育児放棄である。これは溺愛されてきたマリカには受け入れられない現実だった。はじめからやさしさを知らずに育てば我慢もできようが、ひとたび手にしたしあわせの味を忘れることなど誰にもできようはずがない。マリカの幼い心は激しく孤独の悲しみに打ち震えた。森の外は、戦乱で荒れ狂っている。生家の周囲が静謐で保たれていたのもマグダレーナの強力無比な結界のおかげであった。

ここでマリカは、魔術の習得に励むようになる。もとより、他にすることはない。母は、毎朝家を出ると森の奥へ消えていく。さいわいにも、魔道書は腐る程あった。魔術は原則として、相克のため地水火風のひとつしか習得できない。素養は生まれつきのものであるが、ハイエルフのみは例外的にそのすべてを行使することができた。普通の人間が一生費やしても、どれかひとつの属性を極めきれるかどうかというものを、五年で学び尽くすと、マリカは初級、中級、高級に至る四六種の全属性魔術、及びそれらに属さない十八種の無属性魔術を極めた。それに飽き足らずに、五つの禁呪法解読にまで手を出した。なにかに没頭する以外、孤独を癒すことはできない。そのすべてを習得し終える頃にはマリカは十八になっていた。彼女が、この歳になるまで口を利いたことのある人間は、父と母のふたりのみである。彼女は、幼い頃育てていたエントという魔術生命体のことを思った。あの若木も、知らぬうちに庭から姿を消え失せていた。きっとマグダレーナが、目を離した隙によそへ植え替えたと推察された。エントは顔を合わせるたびに、マグダレーナに意見を行う稀有な存在だった。マリカは典型的な引きこもりだった。

そして、ある日を境に、真の意味でひとりぼっちになる。マグダレーナが、邪神を完成させたのであった。転移の魔術で、ダンジョンの最奥に位置する部屋に飛んだのは、ある蒸し暑い夏の午後だった。マグダレーナはマリカの理解を超える範疇の理論を一方的にまくし立てると、邪神と名づけた箱の扉の中へと飛び込んでいった。そして、それっきりだった。システムは、確かにマグダレーナが飛び込む寸前まで、作動を続けていた。マグダレーナ曰く、世界の害悪を排除する神のシステムらしい。害悪とは、もちろん、すべての生きとし生けるものである。悪意の波動を受けた生物は軒並み激しく互いを憎み合い、殺戮を強制的に開始する。マグダレーナの出した結論はなんとも安っぽいこの世の破滅だった。

ならば、なぜ彼女は、邪神の繊細なシステムを構築した挙句、自分の手で破壊するような真似をしたのだろうか。理解できない。

「お母さまが壊したかったのは、結局世界ではなく、自分自身の存在だったのかしら。そして、邪神は再び中途半端な状態で眠り続けるようになった。私も、このシステムに再起動を知覚できるアラームをセットし、長い眠りについたの。まさか、千年ももつなんて、不思議ね。できれば、一生目覚めたくなんてなかったわ」

「単純に、破壊するとかじゃ、ダメなのか……」

「無駄ね。そんなことをすれば、私もどうなるかわからない。少なくとも、このロムレス大陸はまるごと吹っ飛びかねないわ。そんな決断私にはできない。でも、あなたの魂なら」

「俺の魂だって」

「邪神の中には、無数の霊子的存在が蠢いている。ただ、誰かを捕らえたり騙してつれてきたりして投げ込んだとしても、機能を完全に阻害することはできない。その、魂に世界の崩壊をくい止めたいという強い意志が宿っていなければ。だから、あなたを相棒に迎えたのは、鴨が葱をしょって飛び込んできたようなものね。邪神システムを構築するためのこの部屋は、お母さまの高度な魔術理論で防御されていて、転移は使えない。そもそも、私はちょっと不完全な体質で先祖返りのようなものを起こしているの。普通とは違って、私の魔術は完全に月の満ち欠けによって左右されているの。あなたと会ったときは、ひと月の中でもっとも魔力が弱い時期に差しかかっていたし、そもそも私は身体も生まれつき弱い。誰かに頼らなければ、あの森を踏破してここまで至ることはできなかった。長々と話してごめんなさい。あなたには、贄になってもらう。最初から、そのつもりだった。そのつもりだったのに……!」

「おい、よせよ。なにしてるんだ」

マリカは痺れたままの蔵人の側を通り過ぎると、邪神の上面の扉を開いた。

ごおんごおんと、奇妙な音がさらに強く響いた。

「私という霊的存在がこのシステムを破壊できること祈っていてね。それと、もしダメだった場合、逃げて。うんと遠くへ。約束よ、絶対。本当にごめんなさい。私ってお願いばかりね」

「人間なんてどうでもいいんだろう。そもそも、俺を生贄にするつもりでここまで騙してつれてきたんじゃないのかよ」

「そんなことできないわ。だって、あなたのことを愛してしまったのよ」

「マリカ……」

「たとえ、いまがダメでも、あなたには一日でも、一秒でも長く生きて欲しいの。この部屋の外側に、小屋へ戻れるための空間歪曲《ルーム》を張ったの。どうか、生き延びて。生き延びてください」

「やめろ」

蔵人の身体は気づいたときには機能を回復していた。胸元の紋章が激しく輝き、青白い光で部屋を埋め尽くしていた。

弾かれたように壇上に向かって飛び上がるとマリカを突き飛ばした。

棺のように寝ている上蓋は開かれ、無限の暗渠が横たわっていた。

身体を丸めて頭から突っ込む。

意識は寸断され、闇では生ぬるい暗黒がすべてをすっぽりと包んでいった。