Dungeon+Harem+Master
LV14 "I gave you the colors of the Shara 'a trees"
分厚い闇が広がっている。上下左右とも判別ができない。
空間も奥行きもない世界である。そもそも、世界といっていいかわからない状態である。
それを意識する自分というものがあるならば、ここがマリカのいっていた霊子的存在空間なのであろう。手も足もありとあらゆるものが見えない。感覚もない。思考できるということはすべてが闇に解け入ったわけではないだろうが。甚だ不安でたまらない。やがて、なにを不安に思っていたのかわからなくなってしまう。動揺しない。つまりは、恐怖もないのだ。知覚がなければ肉体が存在しないだろう。自分を害するものはないと思うが、落ち着きや心理的安堵感とはかけ離れた状態であった。邪神、の存在は感じ取ることができる。それは、外で感じていた、颶風のように荒れ狂う禍々しい存在では断じてなかった。
強く、一本の道筋をイメージする。闇夜に、薄くどこまでも続く道が伸びていった。
一定のリズムを取って進んでいく。
歩く。
歩くというのも、自我がなければ行えない動作である。闇夜にぼんやりと自分の動かす足が浮かんでくる。身体の一部がある。それだけで、もはや完全な闇とはいえなくなった。
道のはるか前方に、灰色の箱が置いてあった。依然として闇は闇だが、厚みが薄まった気がする。
あの箱を破壊しなければならない。敵を倒すには武器が必要だ。明滅しながら腕が浮き上がってくる。鞘から抜き放たれた、剣がそこにあった。
箱の上には白っぽいローブを着た、若い女性が座っている。どことなく、マリカに似ていた。たぶん、彼女の母親だろうと、推測した。途方もなく美しい。美しいと感じられるが、それは抽象的な美しさだった。彼女は、泣き笑いのような表情で立つと、指先でちょんと箱を指し示した。疲れきった顔をしていたが、どこか肩の荷が降りた、という感じだった。歩くというよりは、そこまでのポイントの空間が縮んだような感覚だ。彼女は、懇願するような目つきで、手にした腕輪をそっと差し出してくる。受け取って左手に持つ。彼女は、こぼれるような笑顔で手を振ると、上空に昇っていった。
ここで、はじめて空間に天地が生まれた。闇は、もはや闇ではない。彼女は、青白く輝く空に吸い込まれると、一際強く輝いて消えた。あとに残されたのは、箱だけである。箱に意思などないが、悲しそうに泣いていると感じた。右手に持った剣を振り下ろす。刃が触れた。箱は粉々に砕けると、四方に飛び散って、強い光を放ち、闇を駆逐していく。世界は再構成されていく。
光に飲み込まれたとき、ようやく、蔵人は、自分を完全に取り戻した。
蔵人は箱の蓋を押し上げると、どれだけぶりか分からないが、ようやく世界に生還した。
生き返った。比喩ではなく肌で感じたのだ。
崩れるようにして、箱からすべり出る。
「出れた」
室内は、薄ぼんやりとした明かりしかなかったが、蔵人には太陽にも思えるまぶしさだった。呼吸をする間もなく、なにか鋭い動きの影がぶつかってきた。抱きとめた瞬間、骨ばった筋が胸に当たった。蔵人は、箱に頭をぶつけ、痛みで脳裏に火花が散った。顔を上げて、自分を押し倒した人物に視線を転じた。
「ああ、神さま……!!」
絞り上げるような、悲鳴に近い女の声。
綺麗な銀髪は見る影もなく、くたくたになり、艶を失っていた。
頬はげっそりと痩けて、高い鼻と大きな瞳がぎょろりと飛び出していた。
白い肌は、キメが失われカサついてる。
別人のように憔悴しきったマリカだった。
彼女は、今度こそ、胸元に顔を押しつけてくると狂ったように泣き叫んだ。
「クランドッ!! ああ、クランドッ!!」
獣の咆哮と変わらない大きさだった。マリカは、その小さな身体から発声されたとは思えないくらいの声で、名を叫び続けていた。
蔵人が抱き返すと、マリカは自分の頭を胴体に埋めようとするぐらいの勢いでむしゃぶりついてきた。みるみるうちに涙が胸元をべったりと濡らしていく。枯れ木のようになった彼女は、全身の水分という水分をすべて吐き出すようにして泣き喚いた。涙の最後の一滴まで出し切らねば我慢できないという雰囲気だった。
「もう、二度と会えないと思ったのよ」
「すまねえ」
「ばか、ばかよ! あなたはばか!!」
マリカの顔は涙とよだれで見る影もなくベタベタになっていた。
不格好であるが、たまらなく愛おしさを感じた。
「今度という今度は、ついに愛想をつかされちまったみてぇだな」
「そんなことあるはずないわ。うん、でも、もう会えるなんて思っていなかった。私、ここでこのまま死のうと思っていたのよ」
「そうか」
蔵人は寝そべったまま馬乗りになるマリカの顔を持ち上げてキスをした。
彼女は、唸るように一声吠えると、猛然と食らいついてきた。そう形容するのがふさわしい勢いである。彼女は蔵人そのものを渇望していた。互いに、舌を絡め合わせる。マリカはうっとりとした顔で目元を真っ赤に染めると、首筋に鼻先を埋めてきた。
「人間は、私よりずっと早くに死んでしまう。弱くてとても悲しい生き物なの。だから、好きになるなんて思わなかった。ねえ、クランド。私を抱いて」
蔵人はマリカをの両肩を抱いてギュッと力を込めた。心臓の鼓動が、大きく聞こえる。
「でも、あなたの赤ちゃんがいれば、この先もずっとさびしくないわ。私を、少しでも好きなら、お願い。情けをちょうだい。あなたと生きた証が欲しいのよ……!」
「そんなもん、最初から好きだって決まってる」
「クランド、私を愛して! 滅茶苦茶にして!」
ふたつの影は、絡み合って、ひとつになると炎のように燃え盛った。
少なくともマリカの想いは成就したのであった。
蔵人は久方ぶりにダンジョンを出て、外の陽を浴びた。
疲れきったマリカは、横にすれば消えてしまいそうなほどやせ細っていた。
なのに、あれほど求めてしまって悪かったかなと己の愚劣さを呪った。
「自分を責めているのならやめてちょうだい。私は、その。うれしかったわ」
精も根も使い果たした彼女は背中でぐったりと安らいでいた。
前回、背負ったとき以上になんの重みも感じない。ときどき、本当に乗っているかどうか不安になってしまうほどだ。
蔵人がちらちらと首だけ振り返るたび、マリカは聞き分けのない子をあやすように、首筋にキスをする。
「心配しないで。私は、ここにいるから」
世界から邪気は払われた。もはや、驚異はひとつもないはずである。
静かな森は降りそそぐ光を反射して静まり返っていた。
このままでは終わらない。そう感じていると、予兆は間違いのないものとなった。
静寂を破って、木々がへし折れる轟音が辺りに木霊した。
背中でマリカがぶるり、とひとつ、大きく震えた。
視点を上げる。そこには、いまだ敗北を知らぬ、巨獣ヒュドラが長い首を激しく振り立てて迫り来るのが見えた。
蔵人は、マリカを背負ったまま走り出した。
可能であるならば、逃走を選びたかったが、ここで見つかったのも天命だと思った。
斜面を駆け下りながら、木々を縫って距離を稼ぐ。
まもなく、広い河にいきあたった。
対岸の林まで二十メートルはあるだろう。細かな白砂が延々と広がっている。幻想的な光景だった。ヒュドラは重機のように長い首を巧みに操り、森林を薙いでいく。大樹も、彼の前では脆いウエハースのようだった。
「止まって、ここでいいわ」
マリカがつぶやくようにいった。
それは、澄み切った芯のある力強いものだった。
自暴自棄になったわけではない。
そう判断して彼女を背から降ろした。
マリカはよろめきながら、けれども力強い瞳で迫るヒュドラの巨体を見やっている。
確固たる決意を感じ取った。マリカの痩身に闘争の気が満ちあふれている。
小さな彼女の身体が何倍にも膨れ上がったように思えた。
「やれるのか」
「あたりまえよ。私を誰だと思っているの。偉大なる、いにしえの民にして、世界一の大魔術師マリカ・ソレスさまにお任せなさい」
マリカはトレードマークのとんがり帽子を深くかぶると、ゆっくりと詠唱を始めた。
ヒュドラは古代より恐れられた伝説の怪物だ。巨体を震わせながら、樹齢数百年を超える木々をマッチ棒のように踏み倒しながら近づいてくる。九つの首からは、真っ黒な毒液を吐き散らしながら、辺りをたちまち丸裸に変えていく。
ヒュドラに立ち向かうマリカは、まるで巨像に立ち向かう蟻のようだ。
だが、蔵人はマリカの力を信じていた。
赤い瞳が燃え盛る炎のようにゆらめいている。
「残念だったわね。今日はあいにくと満月よ。こんな、いい日にハイエルフと出会うなんて、あなたこそ最高にツいてない。次に生まれ変わったら、せいぜい地を舐めて二度と顔を上げないようにしなさい」
マリカが杖を振ると、巨大な火球が頭上に顕現した。
オレンジ色に輝く炎の塊は、たちまち周囲を真っ白に染め上げた。
白い輝きは、一瞬で世界を覆い尽くした。
目前の河に異変が起こった。
凄まじい音を立てて、真っ白な煙が沸き立ったのだ。
流れていた河の水が一気に干上がっていく。
小太陽の周囲の木々が凄まじい勢いで燃え出した。
蔵人は異常な熱を感じその場を駆けだした。全身が青白い光で包まれている。
おそらく、マリカが被害を受けないように保護魔術をかけてくれたのだ。
パチパチと音を立て火の粉が空に舞い上がっていく。
木々は紅蓮の炎に包まれ、世界は灼熱地獄に一変していた。
マリカは天に高々と浮遊すると、小さな太陽に向かって杖をひと振りした。
「灼き尽くすもの(アルシャムス)」
火球は極めてゆっくりとした動きで進路をヒュドラに取った。
オレンジ色の光がまぶしい白色に変化していく。世界が歪む。空気が溶けた飴のように捻じ曲がり、世界が惑乱していく。
周囲の森はまるで最初からなかったように白い灰になって消え去った。
ヒュドラは身体を折り曲げて退却しようとするが、なにもかもが遅すぎた。
火属性の禁呪は世界に小太陽を造り上げて対象を消滅させる言語を絶した魔術であった。
ヒュドラの胴体に灼熱の炎がめり込んでいく。
二十メートルを越す巨体が陽炎のようにゆらめいた。
それが、巨獣の最期であった。
小さな太陽はヒュドラを飲み込むと、さらに白く輝いて明滅した。
次元が崩れるかと思う轟音が鳴り響き、森そのものが震えだす。
蔵人が、再び目を開けたときは、もはやヒュドラの肉は一片も地上に残らず存在ごとかき消されていたのであった。
蔵人はぼんやりと小屋の外の石に腰かけて夜空の月を眺めていた。
下弦の月である。
ヒュドラを倒した日からズルズルと、七日以上も経ってしまっていた。
邪神を倒した以上、森のモンスターが凶暴化することはなくなったのだ。蔵人は、村に降りて長にそのことを告げると、幾らかの報奨金を受け取った。ゲルタのことは特に聞かれなかった。実のところ、彼女は村の厄介者であった。蔵人が流れ者の冒険者なら、彼女の母親は元逃亡奴隷で村内の共有物であった。ゲルタの母は、道具として扱われ、結果生まれてきた彼女も仲間としては認められていなかった。村内で跡取りが断絶した休耕地をお情けで与えられたが、そんな彼女に婿入りする男などいなかった。ジョージは、荷担ぎの仕事をしていたが、少し頭が足りなく一人前として扱われていなかった。蔵人は、報奨金を村長に渡すと、彼女の供養を頼んだ。贖罪にもならないだろうが、その金を嬉々として使うことはどうしてもできなかった。
胸に苦いものが残ったが、基本は平穏な日々が続いた。身体を休めたマリカは徐々に健康を取り戻したが、邪神に関してはまだ完全に終わっていなかったのだ。システムとしての機能は完全に失われていたが、今後二度と誰も扱えないようにする解体作業が必要らしい。魔術的な作業であれば、蔵人が手伝えることはなかった。安息の日が続いた。昼はのんびりと木々や風景を眺め、夜はマリカの美肉を貪った。上げ膳据え膳である。食事の心配もなく、美しく侍る女が常にいる。どうでもいい日常の瑣末ごとを語らい、肌を寄せ合って眠れば情はますます深まっていった。今朝は、いっしょに庭に出て、ナツツバキの花を見た。ここ数日、異常に気温が高いため早咲きしたのだ。白く美しい花である。
だが、自分の側で微笑むマリカの方が美しいと感じた。
蔵人が身じろぎもせず、月を眺めていると、小屋から出てきたマリカが背中にそっと寄り添った。
「ねえ、月を見ているの」
「ああ。たまには月見も乙なもんだ」
「そうね。とても綺麗ね」
マリカは先ほどまで愛し合った名残を残しながら、裸身に毛布を纏ったままくっついてきた。蔵人は彼女を抱き寄せてキスをすると、整った銀髪に指を通した。清らかな水のようにサラサラと流れていく。長い耳がぴくぴくと小刻みに動いている。そっと、その耳を甘噛みすると、彼女はああ、と喉を震わせて歓喜の表情を露わにした。
「行くつもりなのね」
蔵人は無言のままうなずいた。昨日、話し合って決めたことだった。邪神の再封印にはどれほどの時間がかかるかわからない。実をいえば、昨日も、王都が差し向けた追っ手の十人ばかりをマリカに撃退してもらったばかりだった。さすがに、この結界には入れないが、近場の村や里を行き来していれば、それらの人々が害を受ける可能性もある。無関係な人々に迷惑をかけてまで居続けられるほど、無神経ではなかった。無限に続く追いかけっこではない。時間が過ぎるの待つしかなかった。共に生きることを考えないでもなかったが、蔵人にはやることがあった。強制されたわけではない。それをしなくても誰も困らないし、むしろ蔵人が離れることで悲しむ者もできた。それでも、違えることはできない。
マリカの魔力は月の満ち潮に左右されるし、無力状態のときに襲われれば不覚をとることもあるだろう。死ぬ、死なないの押し問答を続けた上、ようやく結論が出た。
「私、きれいに別れられる女じゃないわ。明日、あなたの顔を見たら、泣いて引き止めてしまうかも。だから、私が寝ているうちに出て行ってちょうだい」
「そうだ。その前に、これを」
蔵人は箱の中で、女に受け取った腕輪をマリカに手渡した。
「これ、お母さまの……」
マリカは白銀の腕輪を手に取ると、顔に押しつけてさめざめと泣いた。
蔵人は表情のない顔で、マリカの小さく震える姿をジッと見守るだけだった。
翌朝、朝もやの中、蔵人は荷物をまとめ上げると、肩に背負って小屋を出た。
腕には先ほどまで抱いていた女の残り香がまだあった。
庭に咲いている沙羅双樹に擬せられたナツツバキの花にふと目をとめた。
昨日、マリカと眺めたときは、白さが輝くように思えたが、今朝はその沙羅の花も色あせて目に映った。
沙羅双樹の花を摘む。しばらく眺め、胸元の襟に押し込んだ。
同じものとは思えない無常さをたたえている。
世界がセピア色に褪色していく。
腰にぶち込んだ長剣の重さがズッシリと感じられた。
背中には、マリカの持たせてくれた手弁当がたっぷり詰まっていた。時間が経っても、口にできるように保存のきくものと、昼食用にとの心尽くしである。
蔵人は森を出ると、視線を遠方に置いて歩き出した。ほとんど、足跡のない獣道を過ぎると、村に近い三叉路に出た。地図はマリカにもらった。古すぎて使えないかもと、しきりに謝る彼女を見れば胸がバラバラになりそうなほど狂おしい気分になった。古い街道を進んでいくと、小高い丘に出た。遮るものひとつない荒野が広がっている。迷宮のあるシルバーヴィラゴのことだけを考えようと努めた。そうでなければ、いますぐに森へと引き返してしまいそうな自分があった。
マゴットとの約束を果たさなければならない。
サッと吹きつけるような殺気に顔を上げる。
はるか彼方に、五つの影が見え、それはあっという間に蔵人の周りを包囲した。
「シモン・クランドだな」
「主命により、おまえの命をもらっていく」
「覚悟しろよ、昨日の借りを返す。仲間の敵討ちだ」
蔵人の胸の中に、青白い炎が静かに燃え盛っていく。無言で長剣を引き抜く。五つの影が弾かれたように散開した。男たちの武器。磨かれた剣が妖しく光っている。彼らの手にとった刃が濃い霧の中に霞んで消え、消えては浮かんだ。
「いまの俺は気分が悪ィ。てめえら、一匹残らず逃がしゃしねえぜ」
蔵人は怒声を発すると朝靄の中へと斬り込んでいった。
真正面の男を蹴り飛ばすと、長剣を上から下へと振り下ろした。
ガッと、頭蓋骨を叩き割る鈍い音が鳴った。
男の額が縦に裂けて、茶褐色の脳髄が勢いよく飛び散った。
同時に、右手の男が突っ込んでくるのが見えた。
半身を開いてかわす。
咄嗟に足払いをかけて男を転ばせた。
バランスを崩した男の上半身が泳ぐ。
長剣を水平に薙いだ。
刃は男の脇腹を深く断ち割って血煙を撒き散らした。
男が叫びながら急な斜面をすべり落ちていく。安心している暇はなかった。散開していた四つの影が素早く接近する。男たちは黒い目出し帽をそろってかぶっている。唯一露出した瞳は憎悪に燃えてぬらぬらと冷たく輝いていた。ふたりの男。突出して早かった。掲げている刃は青白く光っている。ゾッとする冷気を宿していた。
蔵人は、双方向から突き出される刃の下へと身を投げ出し、細かく長剣を動かした。
「ぎゃっ!!」
「うおおおっ!!」
ふたりの男は脛と腿を断ち割られ絶叫した。
真っ赤な血飛沫が乱れ飛び、うつ伏せになった蔵人の頭に降りかかった。
目の前の男が前のめりに倒れてくる。蔵人の攻撃範囲内だ。
片膝を突いたまま、振り上げるようにして斬撃を見舞った。
長剣が銀線を描いて下方から上方へと半月を描いた。
切っ先は倒れかかかっていた男の喉元を鋭く抉った。
男は目玉を剥きながら四肢を突っぱらかすと顔から地面に崩れ落ち絶命した。
残ったもうひとり。
左腿を押さえながら喚いていた。動脈を傷つけたのだろうか、多量の出血が見られた。
傷ついた仲間を助けようと、背後に回った男が猛然と襲ってくる。
蔵人は逆手に持った長剣を背後へ繰り出した。
刃は男の胸板に吸い込まれるように突き刺さった。
素早く引き抜いて、呆然と立ちすくむ片割れに向かって飛びかかった。
男は剣を頭上に掲げて斬撃を防いだ。
刃が噛み合って猛々しい金属音が耳朶を打った。
手元が痺れたのか、男が武器を手放した。
蔵人は長剣を両手で握りしめて身体ごとぶつかった。
渾身の諸手突きが男の胸板を貫いたのだ。刃はツバ口まで深々と刺さった。
筋肉の震える振動が伝わってくる。剣に力を込めて、上下に捏ねた。
カッと見開いた男の瞳は驚愕に満ちていた。
唸りながら男の顔面に手をかけ引き剥がす。
男は虚空に右手を伸ばすと苦悶の表情で背後に倒れた。
蔵人の背中はバケツで水を撒いたようにグッショリと汗で濡れていた。呼吸を整えながら、地を這っている男に視線を動かした。斜面を駆け下りながら、男の後頭部を蹴り上げた。
男は坂を転がって一番下の草むらにまで落ちるとあお向けになった。それでも抵抗の意思は消えないのか、瞳だけはギラギラと殺意の炎に満ちていた。割られた脛から下の右足首が皮一枚で繋がっている。蔵人は、男の傷口に右足を振り下ろし、ブラリとした足首を引き千切った。絶叫が鳴り響いた。左足を男の胸板にかけて動きを止めた。意図を察したのか、男の瞳に怯えが走った。両手に持った長剣を男の胸元へと垂直に突き降ろした。
男はピンで止められた標本昆虫のように静止すると、両腕をバタつかせながら、激しく血の混じった吐瀉物を吐き散らかして絶命した。
蔵人は斜面を見上げながら、折り重なって倒れる骸をジッと見守っていた。
強い風が、びょうと吹いた。
完全な朝が近いことを匂いで感じ取った。
風向きが変わった。乳色の濃い霧が辺りを覆っていく。
蔵人は、長剣の血糊を死骸の衣服で拭うと、街道に向かって歩き出す。草むらには、千切れて血に赤黒く染まった沙羅双樹の花びらが無惨に横たわっていた。
やがて、歩き去る蔵人の後ろ姿も朝靄の中へと呑み込まれていった。
ロムレス王国塞外地簿千百四十八年の記録には、「領内に跋扈猖獗する邪悪なる魔女。冒険者ルークとその一党により討伐成功。村人、その栄誉をたたえ石碑を森に建立する」とある。
他の者の名は記録に存在しない。