Dungeon+Harem+Master

LV79 "Hold Me Strong"

ルッジは夫であるユベールが、病み疲れて寝入っている切なげな表情を思い出していた。

はじめて会ったときから、精悍さからはかけはなれた存在だった。

顔つきは父親のライオネル公には似ておらず、はかなげで繊細なものだった。

初夜を迎えたベッドの上でそれは身をもって実感した。

ユベールができるのは身体の上でなにやらゴソゴソと動き回るだけである。おまけに、彼は病状のせいで勃起不全であった。

「ごめんね、ルッジ上手くできなくて」

ルッジは無理やり嫁がされた政略結婚になんの夢も幻想も抱いていなかったが、十六歳の少女には酷すぎる仕打ちだった。声を押し殺して泣く彼女を、困ったように呆然と眺める夫には男としてはなんの魅力も感じなかった。

それでも、十代のすべては研究以外の時間はすべて夫に対し献身的に奉仕した。使用人の女たちからはやたらに評判のいい夫の風貌であったが、ルッジにとってはやさしげな顔つきは弱さそのものだった。

元々薄かった性欲はますます減退し、夫との性的接触は皆無となった。

身体の繋がりも精神的な繋がりもない。これで、どうして男を愛せというのか。寒々しい新婚夫婦の寝室には衰えた男の顔と、強い薬湯の匂いが常につき纏っていた。

病人と看護者。

ルッジと夫を評すればそれがすべてだった。

家にいても気詰まりなだけである。研究に没頭すればするほどふたりの溝は深まるばかりであった。経緯が経緯だ。誰もが表立って非難することはない。

それでも、本当は誰かに構われたかったのかもしれない気持ちが残っていた。

ねえ、ルッジ。胸を、見せてくれないかな。

病状がますます進行したある朝、ユベールはしわがれた声で切望した。

ルッジは無言のままベッドの横で上着をくつろげると、乳房を惜しげもなく晒した。

枯れ木のように細くなった夫の手が乳房をゆっくりとまさぐる。カサカサした枯葉のような感触だった。目を細めて唇を動かすユベールを見て、ルッジは申し訳なさで胸がいっぱいになった。

ああ、やっぱり君は綺麗だなぁ。

妻の身体をまるで作り物のように評する夫に対し、寂しさと情けなさだけがこみ上げてきた。男なら立ち上がって無理やり奪って欲しかった。理屈などいらない。あの日失った祖父のように、雄々しく、強く抱きしめて欲しかった。

ルッジは過去から回帰すると、背後から迫るケダモノの息遣いを聞き怖気をふるった。

尻に節くれだった指が強くかかり、無理やり左右に広げられるのがわかった。

迫り来る無残さに強く目を閉じる。

ルッジにとっては狂気の時間がはじまりを告げていた。

「そっちへ行ったぞ! 絶対に逃がすんじゃねえ!!」

「若さまは捕らえしだい好きにしていいってよ!」

「オイ! 決して殺すんじゃねえぞ! 骸を抱くのは味気ねぇからな!」

「そいつは違いねえっ!」

ルッジの護衛騎士であるカロリーヌは、ゴルボットの追っ手から必死の形相で逃げ続けていた。

「どうしてこんなことに……」

カロリーヌは丈の深い草むらに腰を下ろすと、傷ついた右腕に巻いた布をキツく縛った。

ブラックウェル家の屋敷は喧騒を嫌ったライオネル公の意を受け、街の中心部からややはなれた土地に建てられていた。城内の内側とはいえ、自然は多々有る。ともすれば人家から遠ざかれば色濃い緑に包まれちょっとした保養地の趣もあった。

それは同時に人目につきにくいということである。

(ゴルボットのやつが、たまには使用人たちに休養を取らせようといいだしたことがおかしかったんだ。こうしている間にも、奥さまは)

カロリーヌは義弟であるゴルボットがルッジに対して異常な執着を見せていたことを常々危惧していた。そして、ルッジの留守をよそにゴルボットは凶行に出たのだ。

主であるライオネルを監禁し、無理やりルッジと契り、既成事実を作ってブラックウェル家を相続するという単純かつ極まりない行動に出たのだった。

――なに。ルッジ義姉上がオレ様ちゃんの子を孕んじまえば、オヤジや親族連中だってもうどうすることもできねえよ。なんたって、オレ様ちゃんは歴としたあのライオネル公の落胤であることに間違いはねえからな。男が生まれりゃ万々歳。たとえ娘であっても、オジキの息子を婿に迎えるといやぁ、あとはどうとでもなるさ。なんせ、オヤジの弟であるロニキス男爵はオレ様ちゃんに負けず劣らずのごうつくばりだからなっ。きょうから、半年間。ルッジをヤってやってやりまくって絶対孕ませてやるからな。なあに、女なんてもんはどんだけ嫌っていても一度抱かれちまった男をそうそう嫌うことなんてできねぇのさ。それに、これからは時間はたあーっぷりある。へへ、おめえぇカロリーヌとかいったな。おとなしくしてりゃ、おまえの仕える主と一緒にケツを並べて交互にオレ様ちゃんという美丈夫を楽しませてやってもいいんだぜぇ?

ゴルボットのゲス極まりない発言。カロリーヌは即座に激昂し殴りつけた。

その行動がケダモノの怒りに火をつけたのだ。

(いきなり斬りつけてくるなんて、想定外だ。ここまで強硬手段に出るとは)

怒り狂ったゴルボットは配下に向かってカロリーヌを膾に切り刻むよう指示を出した。

「だが黙って斬られるほどこちらもヤワじゃない」

もちろん剣の腕が多少立つとはいっても、カロリーヌの腕は所詮道場剣術であった。

彼女は二十七年間の人生で真剣を使って人を斬ったことは一度もなかった。

三人まで斬ったのは覚えている。

だが、そこまで。

利き腕を負傷し、体力を消耗しきった彼女に、もはや七人もの追っ手を正面切って撃ち倒す技術も気力もなかった。

はじめての真剣勝負。

はじめての殺人。

乱戦のうち、頼みの綱のロングソードは取り落としてしまった。

逃げるためにいつも着ていた重い甲冑は脱ぎ捨てている。

彼女は、最後に残った細身のナイフを抜くと、白く輝く刀身を見つめ呆然とした。

(ここで、終わりか。死ぬんだ、とうとう、処女のまま、ひとりぼっちで)

カロリーヌは知らず、顔をくしゃくしゃにすると、ボロボロと涙をこぼしはじめた。

(泣いても誰も助けてくれない。けど、身体を汚されるくらいならっ)

口元を手で覆う。思えば、主であるルッジも幸福とはいえない人生を送ってきた。

両親には愛されず、唯一慕っていた祖父は人生を捧げ続けた文化的事業をまったく考慮されず、虫けらのようにろくな治療もされずにひっそりと死んでいった。

ルッジの両親はひどく即物的で、実父にあたるバトレイ・ビブリオニアスが没すると同時に、彼が生涯をかけて集めた貴重な書物を残らず二束三文で叩き売り、隠居所にいたっては火をかけさせた。ルッジの両親たちからすれば、高価な本ばかりを集めるバトレイなど金食い虫以外のなにものでもなかったのだろう。

――おじいさまのおうちを燃やさないで!!

幼い日、抱きかかえていたルッジが叫ぶ絶望の声をいまでも覚えている。

ルッジは幼いころ、いつか大人になったら、祖父と一緒にダンジョンを冒険するのが夢だと楽しそうに教えてくれた。貴族で、しかも女の身であるならば不可能としかいいようがない。バトレイ・ビブリオニアスの屋敷を処分した次の日、彼に長らく仕えていたメイドのアデレーが楡の木で首を吊った。

その日からルッジの性格は一変した。

よく笑い、純真で人懐っこく、いたずら好きだった部分は完全に影を潜め、人形のように感情を表に出さなくなった。王立の図書館に通い、取り憑かれたように書物を読みあさった。四つの歳にはダンジョンの知識においては、並の学者では太刀打ちできないほどに補強されていった。死んだバトレイが蘇ったように思えたのだろう。ルッジの両親は、ますますルッジを忌避し、十年以上放置したのち、彼女を放り出す形でブラックウェル家へ嫁がせた。

もちろん、膨大なブラックウェル家の財産や権力のおこぼれにあずかろうとする下世話な欲塗れだ。そこには、娘のしあわせを願う親の愛情など一片もなかった。結婚など拒否するかと皆に思われていたのだが、案に相違し彼女はふたつ返事で承諾した。

結婚式当日、カロリーヌは花嫁姿のルッジをまえにお祝いの言葉を述べた。

だが、彼女の返事は想像をはるかに超えたものだった。

「ええ。これでまた、迷宮に近づけたわ」

王都から迷宮の街、シルバーヴィラゴに嫁げばそれだけ研究が進捗するという事実のみが彼女の中にあるのだった。想像通り、ルッジは式の最中、ただの一度も表情を動かすことがなかった。文字通りのお人形である。

だが、ダンジョンから戻ってきた彼女の態度はあからさまに違った。

最初は実地調査が上手く運んだので機嫌がいいかと思いきやそうではなかった。

フィールドワークは失敗。資金は大減りして、先行きさえ見えない状況に陥っていたらしい。そんな状況ならば、顔のひとつも曇るはずがむしろイキイキとしていた。

そんなときの理由はひとつだけだろう。

男だ。

女の心を弾ませるのは色恋沙汰以外にありえない。

朝帰りを咎めてみたものの、うれしくもあり悲しくもあった。

無断外泊はしょっちゅうであったが、それはあくまで研究のために施設に泊まったり、数十人で行動したりと、あくまで公の部分が関わっていたのだ。

単純にハメを外して遊びに行くのなんて、はじめてのことだっただろうに。

ひとところに留まっていた風がようやく動き出すそんな気配を感じていた。

だが、なにもかもが終わりである。

「私は奥さまをお守りしたかった。ただ、そのためだけに生きてきたのに」

大きく肩を落とす。茂みの向こう側から多数の足音や甲冑が擦れ合う音が聞こえてくる。

「おらっ、出てこいや姉ちゃんっ!!」

「もうどうせ逃げらんねえぞっ! さっさと出てくれば命だけは助けてやるかもしんねえぞ!?」

「なーんで、疑問形! ぎゃはははっ!!」

せめて最後だけは見苦しくしないようにしよう。草むらから立ち上がると、前方をぐるりと八人ほどの男が取り巻いていた。各自、長剣やナイフを引き抜き凶暴な目つきでカロリーヌの身体を値踏みするように視姦していた。野獣が獲物を品定めするようなものだった。瞳の奥。本能で烟り、濁りきっていた。

自決するのはやめた。

こうなれば、ひとりでも多くあの世への道連れにしてやる。

カロリーヌはしっかりと両足に力をこめて、グッと前へ歩を進めた。

邸内の一室。ゴルボットはついにそのケダモノ同然の情欲を開放していた。

男は、ルッジの尻をジッと見つめながら、ニタニタと微笑んでいる。

ルッジはあらん限りの怒りを籠めて吐き捨てた。

「――死ね」

「おっひょおおおっ。この期に及んで、その強気! たまらんっす。たまんないっすううっ!!」

ゴルボットははしゃぐように両足をバタバタ動かすと、両手をワキワキさせながら近づいてくる。

護衛の男たちは残らず退出しており、半開きにした扉の向こう側ではマカロチフがひとりで待機しているのみである。半ば、ルッジの予想通り警戒は多少緩んでいた。

ゴルボットが無警戒に尻へと顔を埋めようとする。チャンスだった。

(見てろ。いまに見てろぉ、よっ!!)

「ほげっ!?」

ルッジは隙を見て身体をひねると、両足をゴルボットの首を挟み回転した。

ヘッド・シザーズである。

ルッジはあお向け状態になったゴルボットを首をグイグイと締めつけた。

脚の筋肉量はおおよそ腕の四倍だ。

貧弱な力しかないゴルボットではこの技を単独で解くのはとうてい不可能だった。

ルッジは怒りの感情のまま、満身の力を込める。

ヒキガエルの断末魔のような声が轟き渡った。

「おぐるぶぇえっ!!」

「どうだっ! そんなにボクの脚が好きならイヤってほど味あわせてやるっ!!」

「ちょっ、ばっ、やべっ、ぐるじっ!?」

先ほどの陶然とした表情とは打って変わって、ゴルボットの顔つきは打ち上げられた魚のような死相に豹変した。小さな瞳は張り出して、一気に充血する。微細な毛細血管がプツプツと音を立て千切れていった。競り上がった瞳孔がグッと開いていく。カニのような白い泡が口のはしからブクブクと噴出した。

「貴様、ゴルボットさまから離れろぉ!!」

「そっちこそ、クランドを開放するんだ!」

マカロチフは剃り上げた額に青筋を立てて憤怒の表情を見せた。服の上からでも盛り上がった筋肉の凄さが理解できた。途方もない殺気が膨れ上がり全身から照射されている。

ルッジは怯えを見せず、さらに脚へと力をこめた。

知らず、口元がニヤついていた。溜飲が下がった。

「いいい、いうどおりにじろおおっ!!」

「ほらな。おまえの大切なご主人さまもそういっている」

「――この、毒婦が!!」

マカロチフは倒れ伏していた男の身体を持ち上げると高々と差し上げ、室内の中央に放った。男の身体は外套をはためかせながら、大きな音を立て床に転がった。

ルッジの全身から血が引いた。

重症を負わされた上での行為である。怒りよりも不安で脳裏が塗りつぶされた。

「クランド!?」

「うんだらああっ!!」

「あっ!」

ルッジが瞬間、視線をそらした。

その隙をついて、ゴルボットが気力を振り絞り両腕を風車のように回し脱出を試みたのだ。無闇に振り回した腕が、ルッジの顔に当たり、眼鏡が弾き飛んだ。ルッジは極度の近視である。眼鏡なしではロクに動けないのだ。拾っている暇もないだろう。あらゆる行動が制限されることになる。心の揺れが身体に直結した。彼女の動揺を見過ごさず、マカロチフが獣のような咆哮を上げて駆けだした。

ここで捕まればもはや挽回の手は残されていない。

ルッジがゴルボットを捕らえていたのとはワケが違う。

なにをおいても逃げ出さなければならなかった。

「んのおおっ!!」

「ゴルボットさまああっ!!」

「ちょっ、やめっ、ぐへえええっ!!」

ルッジは両手で肩を押しゴルボットを前へ突き倒した。マカロチフは歓喜の表情で主を胸で抱きとめ股間を膨らませている。隙をついて、脱兎のごとく走り出し、窓に向かって身を躍らせた。

ガラスが粉々に砕ける音が間遠に聞こえた。ルッジは花壇の部分に尻から落ちると痛みをこらえ立ち上がった。右足首にジンジンとした痛みが走る。頭上の部屋では身を乗り出して叫ぶゴルボットとそれを後ろから抑えるマカロチフの姿が見えた。

頭上を不意に影がよぎった。

ルッジが顔を上げると同時に、ふたつの肉塊が絡まりあって地上に降り立った。

鈍い音と地を撃つ轟音が腹の底に響いた。巨漢の拳闘戦士マカロチフが半死半生の男を抱えて二階の部屋から飛び降りたのだ。

「女狐! 年貢の納めどきだ!! いますぐテメェの男を殺されたくなきゃ、おとなしくするんだな!!」

マカロチフは腰抱きにした男を脇に挟んだまま締め上げはじめた。

はなれた場所からでも男の身体が痙攣する細かな動きが見えた。

「わかった! わかった! おとなしくする。おとなしくするから。だから、もうやめてくれ。これでは、クランドが死んでしまう!」

とにかくこの場を脱してから反撃の手立てを考えようと思っていた。

だが、目の前でこうもあからさまな暴力を見せつけられればそれを無視して行動はできなかった。歪んだ視界の向こうで、小柄な男が背後を取るのがかろうじてわかった。

「ルッジぃいいいっ! てめえっ、絶対に、絶対に許さねえええっ! やはり、はじめが肝心だからやさしぃくしてやろうと思ったのによう! このオレ様ちゃんの広大無辺な慈悲の心を踏みにじりやがってぇ!! さあ、見せつけ輪姦ショーのはじまりだぁああっ!!」

ルッジはすべてが終わったと理解した。この上は抗うべくもない。せめて、従順に振舞うことで、消えそうな命を繋ごうとそれだけを願った。

ゴルボットをはじめ、大勢の男が木立の向こうから近づいてきた。その群れの中から、ひとりだけがゆっくりとした足どりで膝をついたルッジの目の前に進み出た。落としていた視線の下に眼鏡が放られた。

「かけろ。そして、こっちを見るんだ。へ、へへへ」

ルッジは眼鏡をかけると顔を上げてゴルボットの勝ち誇った顔を直視した。

生まれつきの容貌がどうという問題ではない。

そこには、この男の腐った心根が隠しようもなく染み出していた。

「この俺様ちゃんから逃げられると思ったのお? ふひ、ふひひひっ。残念! ざんねーんでしたっ。無理無理無りぃ! おまえは逃げられない運命なのっ、なのっ!! ふひ、ふひひひ。さあ、とっと観念してオレたちのものになるんだよおおっ!!」

ルッジは青ざめた顔で、身体を硬直させた。どうにもならない。

こんな最低な男に汚されるくらいならば、いっそのことと思う。

「自害とか考えちゃダメですよう! ふひっ、ふひひっ!! そのときは、君のいとしいダーリンの皮を生きたまま剥ぎ取って塩水につけて、タレをつけてこんがり焼いちゃうんだからなああっ!!」

怒りと羞恥で全身が火照っていく。彼女が桜色の唇を引きつらせたそのとき、風を切って閃光が走った。

大きく目を見開く。眼前のゴルボットが消えていた。

見れば、淫獣は目の前から弾き飛ばされのたうちまわっていた。

ゴルボットの凄まじい絶叫が流れた。

赤黒い血がルッジの顔面を濡らしていた。

突如として、飛来した長剣がゴルボットの肩を大きく削ぎ落とし、屋敷の壁際に突き刺さったのだ。

もんどり打って転がったゴルボットはけたたましく悲鳴を上げると、ジタバタと見苦しく四肢を動かす。マカロチフが慌てて駆け寄る隙に、ルッジは距離をとった。

反射的に振り向く。

背後にいた十人ほどの男たちが一様に投擲された剣の先に視線を転じていた。

「な、なんで」

「なんでもクソもねえもんだ。こんないい男を間違えるなんて、ちょっとひどすぎやしねえか?」

浅黒い顔がギラギラと照りつける陽光の中で揺らめいていた。

真っ黒な外套は風を孕んではためいていた。

黒髪が風に流れ、真っ白な歯が輝いて見えた。

漆黒の鋼造りの鞘を腰に急角度に落とし込んでいる。

人を食ったようなふてぶてしい顔つきが笑みを刻んでいる。

それは、どこからどう見てもルッジのよく知る男、冒険者、志門蔵人だった。

「どういうことだっ! どういうことだああっ!?」

ゴルボットが肩を押さえながら激しく叫んだ。動揺したマカロチフが脇に抱え込んでいた男の面貌を押し上げた。ルッジは立ち上がると胸もとを隠しながら両目を見開いた。

「ちがう。……似てるけど、まったくの別人だ」

白日にその顔をさらけ出した男は、蔵人に酷似していたがまったくの別人であった。

「そいつは、リード・ベルナルドといって盗賊崩れの冒険者だ。一度、冒険者組合(ギルド)でもめたことがあってな。おまえらがやりあってるのを近場の百姓が見てたんだよ。つくづく間抜けな野郎だぜ。人違いとはよ」

「なんだとおっ! てめえらああっ、どこまで間抜けな真似をっ!!」

ゴルボットは怒り狂って手下たちに吠え立てた。マカロチフは巨躯を縮めると、叱責されるがままに顔面を蒼白にした。

ルッジは細かく震えていたが、やがては身を折るとけたたましく笑い出した。ゴルボットの顔が怒りと羞恥で赤くなったり青くなったりした。

「てめえええっ!! ふ、ふざ、ふざけるなっ!」

「こ、これが笑わずにいられるかっ。だ、だってさ、ボクは、いままでなんの関係もない男のために、ずっとこの身を張って。張って」

ルッジは眼鏡をとると、海のように青い瞳から大粒の涙をあふれさせ、全身を小刻みに震わせた。蔵人は無言でルッジを抱きしめると外套を脱いで羽織らせた。

彼女はまるで親を見つけた幼児のように、蔵人の胸に抱きついたまま離れようとしなかった。

ずっと、それを探していたように。

「どうして、ここに来たんだ」

「おまえがいつまで待っても約束の場所に来ねえからよう」

「それはおまえとて同じことだろう。まったく、ふたり揃って約束の時間を無視するとは。ん! んんっ! それとだな、そろそろ離れたらどうだ。さすがにこれ以上の不自然な密着には、私も寛容になれそうもないぞ」

突如として割りこんできた女性の声。屋敷の入口側に近い場所から、主のライオネルに肩を貸し姿を見せたアルテミシアの姿が見えた。すぐ横にカロリーヌがつき従っている。彼女は弱々しい笑顔を作るとうなずいてみせた。

「あらかたは彼女に聞いたさ。とんだお家騒動ってわけか。ったく、貴族ってのも楽じゃねえな」

蔵人は顔をしかめて手の甲をかじっている乾いた血の塊がボロボロと地面に落ちた。

それは、先ほどまで戦っていた確かな証であった。

「ゴルボット、おまえはなんということを。兄嫁に不貞な気持ちを抱くだけではいざ知らず、わけのわからぬゴロツキを屋敷に引き入れ、あまつさえ奸計を用いてか弱き婦女子を組み敷こうなどとはっ!!」

ライオネルは髪を逆立てて吠えた。病人とは思えない声量だった。

「げええっ! お、オヤジ、じゃねえ父上さま! こ、これはですねぇ、ちょっとした戯言ですようう。ほら、オレ様ちゃんってば歴とした貴族の血を引いているのは間違いないしぃ、素直になれない、義姉上だってさあ、子どもを孕んじまえば観念するっしょ! ほら、後継さえ出来れば、お互いにウィンウィンでえ! ――だいたいが、兄貴のような種無し野郎が後を継ぐのが間違ってたんだよおおおっ!! オレ様ちゃんはぜんぜん悪くねえ! さっさとヤラセねえルッジやいつまでもくたばらねえテメェが悪いんだよおぉ!!」

ゴルボットは無茶苦茶な理論を振りかざすと駄々っ子のように唾をはき散らして己の正当性を認めさせようとした。追い詰められた顔は醜悪そのもので、見るものすべてに目をそむけさせたくなるような不潔さが浮き彫りになっていた。

「愚か者が。もはや、貴様がどのような行動を取ろうと無意味だ。ブラックウェル家は弟ロニキスの息子オイゲンを儂が養子に取ることに決定したわ。妾腹の負い目でおまえを甘やかしたのが悪かったかのう。ルッジ。お前に黙って勝手なことをしてすまなんだ。研究については、可能な限り出資するよう取りはからってある」

「いえ、お気になさらず。御義父(おとう)さま」

「うぇええええいっ!! なぁに、勝手に決めてくれちゃってるかなぁ! かなぁ! そんなこと、このオレ様ちゃんが了承するわけないっしょ!! おい、ジジィ! こうなったら、テメェとルッジを引っ捕まえて、再教育してやるううっ!! 捕らえて部屋に監禁してぇ。陵辱しいまくりーの、ヤリまくりーのだっ。ふひっ、ふひひっ! オレ様ちゃんの極太でよがりまくるその女を見れば、アンタも気が変わるだろうて。時間はたあっぷりあるからなぁ。ルッジを調教しまくって、ゴルボットさまなしじゃ生きていけなぁい、ってヨダレ垂らしまくってねだりまくる淫乱女に改造してやっからなぁ!! ふひっ、ふひひぃ。残りは全殺しだ!オレ様ちゃんに逆らうやつは生かしておかないのおおおっ!!」

「愚か者が。仕方がない、命だけはと思っておったがのう」

ライオネルが視線を傾けると、たちまち十人ほどの武装した騎士が背後から姿をあらわした。どれもが、ルッジの見覚えのある一族選りすぐりの使い手だ。

蔵人がルッジを抱きかかえて背後に移動すると、ゴルボットの手下たちは半円を描くようにして主の元へと下がる。たちまち戦場はわかりやすく二色に塗り分けられた。

ゴルボットの手下たちは残らず表情が暗い。握り締めた剣はカタカタと柄が震えている。

命知らずが売りの無頼者たちであったが、さすがに正規の剣術を習った騎士とは真っ向からやりあったのでは勝負にならないのだ。怯えは手に取るように顕われ、臆病風に吹かれたのか中にはくちびるまで紫色になっている者まで出てくる始末だった。

しっぽを巻いて逃げ出す野良犬たちが、焦点の合わない視線をさまよわせはじめたとき、泰然とした態度で進み出た巨漢が鋭い声を放った。

「どけっ!!」

マカロチフは上半身をモロ肌脱ぎになると、発達した上半身を見せつけた。

巨躯の野獣は全身から闘気を放射させると、素手のままライオネルの騎士たちへと果敢に戦いを挑んでいった。