Dungeon+Harem+Master

LV86 "Water follows the circle"

ここがどこかもわからない。どれだけ歩き続けたのだろうか。

靴はとうに破れきり、ぐるぐると幾重にも巻いた草の蔓で、アッパーとソールを無理やり繋いでいるに過ぎなかった。

街道には夕闇が迫っている。目指す街の城門はいまだ遠く、影すら見えない。腰の革袋になんとか手を伸ばし、水を飲もうと指先を動かす。乾ききってひび割れた唇からは、もはや血液も流れず半透明な体液がわずかにもにじむ程度である。痛みにも飢えにも慣れきっていたが、喉の渇きだけは耐えられない。袋の紐を解いて喉を開口する。水滴が幾粒かすべり込んできたような感覚があった。それでおしまいだった。見事に空である。

街道にうつ伏せになったまま起き上がる気力はない。街に戻る人々は、倒れ臥したそれをまるで見ることもなく足早に通り過ぎていく。

少年はまるで使い古したボロ雑巾のように、くたびれきっていた。全身は埃にまみれ灰色に染まっている。遠目で見れば、それはとても生物とは認識できない姿だった。小柄で痩せっぽちである。頬は削げ落ちて瞳は白濁していた。長らく栄養失調が続いたせいか、一時的に視力が著しく落ちているのである。

細い腕は枯れ木のように肉がなく、少し力を込めれば容易に折れそうな華奢な太さだった。肋骨を浮き上がらせた野良犬が、ふらついた足どりで真横を通り過ぎていく。野良犬は、少年の伸びきった頭髪にしばらく口吻をくっつけて臭いを嗅いでいたが、フンとクシャミを鳴らすと、興味を失ったかのように去っていった。

もう、何日も食物を口にしていないだろう。

顎の動かしかたすら忘れてしまったようだ。

やがて、雨が降り出した。

春先の雨とはいえ、叩きつける大粒の雫が全身の体温をドンドンと奪っていく。指先から徐々に感覚が薄れていく。口を開けて雨粒を飲み込む。あれほどにも、乞い願っていた水なのに、思ったほどは嚥下できなかった。

死が近づいている。

このまま寝転がっていては、それらが確実に牙を尖らせて喉元に迫るのはいままでの経験上誰よりも理解できた。

少しづつでもいい。

とにかく、身体を動かしつづければ体温は維持できるはずである。

うめきながらもなんとか立ち上がろうとする。

虚しい努力はやがて実を結び、少年はなんとか膝立ちになった。

だが、体力の衰えは自分が思っていたよりもはるかに凄まじかった。ちょっとした、強い風にあおられただけで、もういけなかった。

少年は木の葉のように街道の土手を転がり落ちると藪にぶつかって止まった。

脇腹に、鋭い痛みを感じた。

枯れて槍のように尖った木の枝が深く突き刺さったのだ。

痛みを感じたのはほんの一瞬だった。

身体から、傷口に向けてあたたかい血液が勢いよく流れ出していく。

全身が急速にカッと燃えるようにたぎった。

それから、急速に全身が凍りついていく。

視界が急速に狭まっていく。

目を閉じる瞬間、誰かの声が聞こえたような気がした。

瞳の向こう側、天使のように美しい少女が泣きそうな顔で覗き込んでいるのが映った。

気がつけば、少年はあたたかい毛布に包まれていた。

身体を起こそうとすると、幼い少女が枕元で心配そうに自分の手を握っている。

少女は、リコッテと名乗り、手ずから粥をとって食べさせてくれた。舌が焼けそうなほどあたたかい粥を咀嚼するたびに涙が溢れ出していくのを止められなかった。

リコッテは嗚咽を止められない少年を、まるで母鳥がかき抱くように胸元へ引き寄せると、しっかりと力をこめた。

少年は母親を知らない。

ただひとり自分を育ててくれた父親は善人ではあったがわかりやすい愛情を示すような男ではなかった。

リコッテは、透き通った声で不思議な歌を耳元で口ずさむ。

まどろみの中で、これが子守唄だということをなんとなく気づいた。

胸の中が多幸感で満たされていく。

少年、マーサは、この少女のためなら、どんなことだって出来ると、天命のように確信していた。

石積みのがっしりとした市壁が等間隔に灯された明かりでぼんやりと遠景に映えている。

蔵人は息せき切って小高い丘陵の見える位置まで駆け続けに駆けた。

酒精がいい具合に全身に回っている。今日は特にとびきりだった。

「ちょ、ちょっと待った。さすがに、心臓が口から出そうっ。おえっ」

蔵人は樹林帯の終わりに差し掛かると、近場の幹に背中からもたれて息を整えた。連打される太鼓のように心臓が激しく、強く、打ち鳴らされている。

しこたま食って飲んだおかげか世界がぐるぐると古びた映画のフィルムのように縦回転をはじめた。心臓が落ち着いた頃合を見計らって歩き出す。

背の高い草むらを超えると、右手に竹林が見えた。

視界の端に不自然な光が差した。ふと、顔を上げる。

「おーっ、お?」

額から絞り出したように流れる汗を袖口でぬぐった。

同時に、目の前の闇が突如として切り裂かれていく。

いや、事実は違う。

名工とうたわれたノワール・スミスの工房付近が火を噴いているのだ。

それは、小高い丘の上に真っ赤な躑躅の花が開いたようだった。

冷静に観察すると、母屋は無事のようだった。

しかし、あれだけ隣接していれば風向きひとつでいつ延焼するかはわからない。

どのようにせよ、最悪な状況には違いなかった。

焦りが頂点に達した。悪い予感は当たるものである。

フラつく腰を軽く殴りつけると、丘陵を駆け上がる。

「ちくしょう! なんとか無事でいてくれよっ」

蔵人は、ふと上方に視線を転じた。真っ赤な炎に照らされながら、七つの大小の影が急速に近づいてくるのわかった。

「てめえは、昼間のお節介野郎じゃねえか!」

「ノコノコ今更来たっておせえ、おせえ! 見ろよ、あの炎をスカッとくらぁ!」

ふたりのノーム族。リカルドと共にいたゴロツキである。ふたりに率いられるようにして五人の人間族がそれぞれ手に剣や刀を持って駆け下りてくるのがわかった。それぞれが背中に袋を担ぎ略奪品を運んでいる。充分な戦果があったのか、足取りは極めて軽かった。

蔵人がその場に立ち止まると、男たちは半円を描くようにして取り囲む。酔いはすでに覚めていた。汗でへばりつく髪を後ろにかき上げ、詰問した。

「いったいこれはどういうことだっ! マーサやリコッテたちはどうなったんだ!」

「へ? いまさらそんなこと聞いてどうするよう! おまえこそ本当に足りねえ野郎だぜ。リカルドの兄貴がもう待ちきれねえってんで、直接ジジイに談判しに来てやったのよ!」

「兄貴たちはいまごろお楽しみだぜ! サクッとすませたら合流する予定なんだよ。俺たちは先発でおいとまさせてもらったのよ。騎士団のやつら集まってくる前にとっととずらかろうってときに出くわすとは、つくづくおまえも運のねえ野郎だな!」

「おまえのダチ同様にあの世へ送ってやるぜ!」

「まあ、そこまでスパッとやってくれりゃあこっちも対処がしやすいってもんだ。てめぇらこそ、一匹残らず三途の川を渡してやる!!」

蔵人は腰に手をやって、指先になにも触れないことに気づき蒼白となった。

「やっば。剣、忘れてきた……」

無論、銀馬車亭にである。あろうことか、レイシーに預けたままで店を飛び出していたのであった。酔っていたとはいえ、反論できないほどの大ポカである。

一転して絶体絶命のピンチに陥ったのは蔵人の方だった。

「丸腰で来るとは、舐めてんのか!」

「このマヌケ野郎が!! おい、てめえら! いっせいにナマスにしてやれえ!!」

「おおおっ!!」

蔵人が無手だと知ると、男たちはいっせいに勢いづいた。自分たちは完全に安全圏にいて相手を思うさま屠ることができる絶好のチャンスである。奮い立たない方がどうかしていた。

「どおっ! あぶなっ」

蔵人は剣を振りかざして突っ込んできた男を紙一重でかわすと、くるりと反転し一目散に逃げ出した。丸腰で勝てるほど自惚れてはいない。弾丸のように元来た道を突っ走る蔵人を追って、男たちもしゃにむに走り出した。

「待て、コラ!!」

「誰が待つかーっ! アホーっ!!」

藪を漕ぎながらさらに駆け続けると、次第に追っ手同士の距離が広がっていく。個人個人の脚力の差だった。

蔵人は竹林を見つけると外套を翻して飛び込んだ。

鬱蒼とした青竹が茂っている。

蔵人を追って先行した男が、長い竹に阻まれながらも必死の形相で距離を詰めはじめた。

「死ねっ!!」

怒声を放って真っ直ぐ突っ込んでくる。

蔵人は器用に竹を背にして半回転すると斬撃をかわした。

カッと軽い音がして青竹の根元が斜めに割れた。

男は密生した竹に動きを阻害され、狙いを定めることができない。

蔵人は割られた竹の根元をつかむと、枝葉が茂った先端を振り下ろす。

が、その一撃も左右の竹に阻まれ男の頭上で奇妙に静止した。

「あらっ!?」

「ビビらせやがってェえ!!」

男は冷や汗を額いっぱいに浮かべながら再び剣を振り下ろした。

刃は上手い具合に竹の上部を再び両断した。

ツイていたのは蔵人だった。彼の手に残されたのは、ちょうど一メートルほどに切り分けられた竹槍が出来上がっていた。

蔵人はすかさず竹槍を握り込むと、凄まじい速度で突きを繰り出した。即席の竹槍は吸いこまれるように男の喉元へと突き刺さり、血飛沫を辺りに舞い散らせた。飛び散った血液は雨のように笹を打ち、細かな音を発した。

蔵人は男の腰を蹴りつけると、剣を取り上げて左手に持った。ノーム族のふたりにほぼ戦闘能力がないと仮定すれば残りの敵はあと四人である。追いついてきた集団は仲間が倒れているのを見ると躊躇して一瞬足を止めたが、数を頼んで再び竹林に踏み入ってきた。

「ああああっ!!」

「くたばれえっ!!」

ふたりの男が同時に剣を振り回して襲いかかってくる。

蔵人は素早く反転するとさらに奥へと分け入っていった。

「逃がすな!」

「絶対にブッ殺せェ!!」

男たちの剣は盲滅法振り回しているだけである。

冷静さはすでに微塵もなかった。不用意に動かされた刃は最悪な形で青竹の半ばに食い込むと容易に抜けなくなった。

勝機が自然、降り立ったのだ。

蔵人ははなれた位置から、竹の合間を縫って槍を突き出した。

片手撃ちに繰り出された青竹はうなりを上げて男の腹を突き破り、切っ先を背中に覗かせた。男は、食道をせり上がってきた血だまりを吐き散らして、横倒しに崩れ落ちる。

それを見ていた隣の男は瞳に激しい怯えを見せて腰から座り込んだ。

背にした竹をしならせながら座り込んだ男は腰が抜けたままその場を動けない。

幼児がむずがるように眼前で剣を無茶苦茶に左右に動かした。

蔵人は身を低くしたまま左手に持った剣で鋭い突きを放った。

長剣は男の顔面中央部、目と鼻の間に激しく叩き込まれた。

刃を横に寝かせたまま存分に薙ぐ。絶叫が鋭く尾を引いた。

「おらよっ!!」

蔵人は男の顎を蹴上げると、きびすを返し逃げ出したもうひとりの背に向かって剣を振り下ろした。刃は鋭く銀線を残して流れると、衣服を切り裂いて真っ赤な曲線を描いた。戸板を激しく雨が叩くような音が響く。流れ出た血が小雨のように茂みの葉をゆらした。

男は背中を斜めに断ち割られると、女の悲鳴のような声を出して顔からつんのめった。

蔵人は男のうなじに刃を鋭く突き入れて削ぎ、素早く手元に引き戻し正眼に構えた。

激しい剣気に威圧された男は奇声を発しながら突っかかってきた。

蔵人は長剣を前方に放り投げるようにして突きを繰り出した。

長剣はびゅうと風を切って真っ直ぐ走り、男の胸元に突き立った。

男の張り出した喉仏がくぐもった音を漏らした。

蔵人は男の腹を真っ向から蹴りつけて刃を引き抜いた。

遠景に走り去るふたつの小さな影が見えた。

手に持った剣を勢いよく投げつける。

剣は闇を裂いて薄い月明かりの下を流星のように駆けた。

「げっ!!」

長剣はノーム族の片割れの背を貫き地面に深々と食い込んだ。

片割れのノーム。足をもつれさせ無様に転んだ。

蔵人は車輪のように足を動かして前面に回りこむ。絶対に逃がしはしない。ノームは地面に顔を擦りつけながら必死に命乞いをした。無慈悲にノームを蹴転がすと、引き抜いた剣を深々と胴に埋没させた。刃を引き抜き刀身を確認する。さすがに安物である。ところどころ刃こぼれがして、脂が巻いていた。蔵人は舌打ちをして剣を放り捨てると、落ちていたモノの中から比較的マシな剣を選び、一本を腰紐に通して背負い、もう一本は抜身のままにして走り出した。

無駄な時間を食った。もっとも、いまから愛刀を取りに戻る時間はない。ナマクラといえど、武器が手に入ったことをよしとするべきなのか。ノームは思ったとおりに攻撃能力は皆無であると考えていいだろう。安否が気にかかるのは、マーサと身重のリコッテ。そして、老人であるスミスだった。借金取りに追い詰められたリカルドはなにをするかはわからない。おそらくは金で雇った無法者たちが、工房から家財道具を持ち出していたことを考えればリカルドの残存兵力は残すところ多くはないだろう。

「となると、残りはオーガだけだな」

丘陵を一気に駆け登る途中、草むらに違和感を感じた。

「待った、待った! 儂じゃ、若造!!」

本能的に剣を向けると這い出てきたのは、青ざめた表情で憔悴しきったスミスの姿があった。

「リカルドの馬鹿もんがいきなり押し入ってきおったわ!! 金なんぞはロクに置いてないことを知っとるくせにっ。あいつは、まるっきり血迷っておるわい。ああ、すまなんだリカルドというのはかつての儂が使っていた見習いじゃが……」

スミスの話を要約すると、夕餉を取っていた最中にリカルドはオーガとならず者を引き連れ母屋に押し入ってきたらしい。金品目当てで来たものの、予想以上の獲物の少なさに逆上したリカルドは暴れまくった挙句に納屋からめぼしいものを持ち出し火をかけたのだった。

「……あいつはガキの頃から知っておっての。まあ、昔から腰の座らん男じゃった。弟子に取っても、どうせ投げ出すと思ったが、リコッテがどうしてもと頼むのでズルズルと長い間使っておったが、まるでやつは素行を改めようとせん。あいつを追い出した当初は、リコッテのやつ儂を相当恨んだようだが、マーサのやつを拾ってきたあとから徐々に話にも出なくなったが。まさか、ここまでクズとは」

「おい、ジイさん……!」

スミスはそこまで語ると膝から崩れ落ちる。

咄嗟に、肩を貸すと手のひらにベッタリと生あたたかい血糊が広がった。

闇に目を凝らすと、スミスは右の肩口を大きく割られていた。

蔵人は、袖口を切り落として傷口を強く縛った。

それほど、深い傷ではないが血が流れ過ぎている。

一刻も早く医者に見せなければならないだろう。

「おい、若造。クランドとかいったか? こんなゴタゴタに巻きこんですまんが、出来れば街まで行って騎士団を呼んできてくれんかのう。儂の命なんざどうでもいいが、娘夫婦や腹の子だけはどうしても助けたいんじゃ」

「……ここで待ってろ。動くんじゃねえぞ、ジジィ」

「お、おい」

蔵人はスミスの身体を草むらに横たえると疾風のような動きで一気に残りを走破した。

勢いを殺さず戸口を蹴破った。

「誰だ!?」

土間にいた男たちがいっせいに振り返る。

そこには、全裸にされたまま両手を後ろ手に縛られ転がされているリコッテとマーサの姿があった。

「てめぇは昼間の……!」

リカルドを含めた三人の男は真っ赤に熱した火かき棒を持ってかわるがわるマーサに押しつけている最中であった。泣きはらして目を真っ赤にしたリコッテの顔は、幾度も殴りつけられたのだろうか青黒く腫れあがっていた。

「逃げて、逃げてください!!」

リコッテは腫れ上がった目蓋を凝らして視線を辺りに動かした。その行動が癇に触ったのか、痩せぎすの男が獰猛な犬のようにうなった。

「誰が口を利いていいっていったあン!」

男が手にしていた荒縄をリコッテの顔面に叩きつけるのと、蔵人が手にしていた長剣を投げつけるのは、ほぼ同時だった。

刃は水平に流れると男の喉元へと吸い込まれるように突き立った。

「げ、おぶうっ!?」

奇妙な断末魔と共に上体が前方に崩れ落ちる。それまでピクリとも動かなかったマーサの巨体が突如として浮き上がった。

「のおっ!!」

巨大な肉塊は弾丸のように宙を駆けリカルドの矮躯を壁際に弾き飛ばした。

続けてマーサがリコッテに駆け寄ろうとしたとき、残ったひとりは素早く剣を握り直し彼女の腹に突きつけた。

「この野郎がぁあ!! 腹ン中のガキ掻き出されたくなきゃ、動くんじゃねえっ!!」

蔵人は舌打ちをするとその場に張りつけになった。

マーサの巨体も凍りついたように動きを止めた。

「へ、へへ。でかしたぜマシュー。そうだ、そのまま剣を突きつけとけ」

リカルドは口から血の混じった唾を吐き出すと、猛然とマーサに駆け寄り手にした火かき棒を滅多矢鱈に振り下ろした。肉を叩く鈍い音が室内に木霊す。マーサの頭部からは真っ赤な飛沫が上がり、身体が横倒しになった。

「やめてえええっ!!」

「うるせええっ。てめぇらがさっさと出すもん出さねえからだぁ!! 俺は知ってるんだぜえ!! あのクソジジぃが“竜鱗”のカケラを手に入れたって話をおおっ!! あいつは、叩き売っても数百万P(ポンドル)になるんだあっ!! さっさと観念しねえかっ!!

おっとお! おめえ、クランドとかいったな。妙な動きはするんじゃねえぜ。もし、余計な手出しをしてみろっ。リコッテの腹のガキはズタズタの千切れ肉になるからなあっ!」

リカルドは卑しい顔つきでケヒヒと奇妙な笑い声をもらす。手にした火かき棒を、転がったマーサの頬にぐいと押しつける。肉の焦げる嫌な臭いが辺りに立ちこめた。

リカルドのいっている竜鱗とは、文字通り竜の体表から剥いだウロコのことであり、これらは叩き潰して粉末にし、剣を造る際に玉鋼に混ぜるとさまざまな加護を与えられているという、超一級の素材であった。

「あいにくと、この俺もそれほど余裕があるわけじゃねえ。こっちもケツに火がついてんだよっ!! 金の匂いには敏感にならざるを得ないのさっ!」

名工であるスミスはなんらかの形でそれを手に入れたらしいが、リカルドの今回の襲撃はそれを見越してのことだったのだろう。

とにかく金目のものを手に入れたいという追い詰められた気持ちが手近な人間にぶつけられたのだ。運が悪いとしかいいようのない事態だった。

「お願い。リカルド、もう許してよう。竜鱗のことなんか知らないっ。早く、早くマーサの手当をしないとっ」

「おいおい、リコッテ。冷てえじゃねえか、いくらこの俺が昔の男だってなあ。金はくれねえし、お宝はよこさねえ。昔のおめえは違ったぜ? 俺が頼めばどんなことだってやってくれたのによう。なあ、マーサ聞いてるか、よう。リコッテは俺が命じればどんな格好でも喜んで取ったもんだぜ? 犬みたいにケツを突き出せといえば、涙を流しておねだりをしたもんさっ。こいつは俺のいうことならなんだって聞く、ただの安い淫売なんだよッ!!」

「うそっ!! 嘘だよっ!! あたし、そんなことしてないっ!!」

リカルドはリコッテをせせら笑うと再びマーサに向かって語りかけた。

冥い瞳。

狂気に取り憑かれた情熱が宿っていた。

「信じるも信じないもおまえの勝手だが、所詮おまえは俺の使い古しを有り難がって崇めてたってことだ!! 俺もリコッテの身体にはまだまだ飽きちゃあいなかったてのにしゃしゃり出てきやがって。リコッテ。俺はまだ、おまえのことを好きなんだぜ。俺と、一緒に来いよ。んん? そのツラは嫌ってか。へいへい。まったく、どう俺のオモチャをしつけ直したんだか。調教が甘かったかな? 俺専用の肉人形が、こんなデカブツに乗り換えるなんてっ、よっ!!」

リカルドは転がったままのマーサの腰を蹴りつけると、顎をしゃくった。リコッテの悲鳴が流れた。奥の部屋からはふたりほどの男が苦り切った表情で姿を見せはじめた。

「ダメだ、兄貴。この家にはなにもねえやい。めぼしいもんはたいして……」

「チッ。とことん使えねえ。もおいい。ジジィを探して締め上げるぞ。リコッテはまだ道具として使える。身重の女の二本責めってのも乙だろうよ。それと、マーサはいらねえなぁ。殺せ」

「へい」

男が剣を振りかざす。蔵人が破れかぶれで飛び出そうとする。

リコッテの動きは唐突だった。

彼女は喉元に突きつけられた刃をものともせずにマーサの背にその身を晒した。

彼女の喉元は鋭く切り裂かれ血煙が舞った。

凶刃は、一瞬、躊躇した動きで当初の標的からややそれながらも振り下ろされた。

絶叫がつんざいた。

同時に蔵人は間隙を突いて、そばにあった水桶をの中身を赤々とした火床《ほど》にブチまける。

一瞬にして、辺りに水蒸気が立ちこめた。

「なにしやがる!!」

「逃がすな!! 絶対に逃がすなよおおっ!!」

怒声が飛び交う中、マーサを担ぎ上げリコッテを小脇に抱えて脱出した。

強靭な膂力を持つ蔵人にのみできる荒業だった。

戸口を転ぶように飛び出すと闇に紛れて草むらに駆け込んだ。

頭上に顔を出していた月光は流れこんできた分厚い黒雲に遮られつつあった。

丈の深い草は上手い具合に三人の姿を隠した。

ふたりの戒めをほどきその場に横たえる。あれほど拷問を受けていながらマーサは驚くほど頑丈なのか、素早く身を起こしてリコッテに寄り添った。

「よかった、マーサ……」

血泡と共にくぐもった声が漏れた。

リコッテは遠くを見るような表情で微笑んだ。蔵人は外套を脱いで彼女を覆うと激しく唇を噛んだ。マーサは肩を震わせながら、ほとばしるリコッテの喉元を強く押さえた。蔵人は革袋から布切れを引き出すと傷口に当てる。

途端に、それは水に浸したようにぐしょぐしょに濡れそぼった。

ほとんど周囲から注意を怠っていたせいか、その男に気づくのが遅れた。

「誰だ!!」

蔵人は容易ならざる気配に反転して身構える。草むらをかき分けてひとりの男が近づいてきた。手元には古ぼけたカンテラを提げていた。ぼんやりとした淡い明かりから、全身が浮かび上がる。

男は三十前後に見えた。腰には長剣を吊っている。焦げ茶色の髪をそのまま腰の辺りまで流していた。頬が削げ落ちるように痩せている。瞳には深い虚無が宿っていた。左目には真っ黒な眼帯をかけている。それが、ますます常人とはかけはなれた印象を打ち出していた。着古した墨染の上下は煤けて色が薄れていた。灰色のマントはあちこちつぎはぎだらけで、充分な年季を感じさせた。

「ちょっ、イカロスの旦那っ。なにやってんですか! ゴタゴタには首を突っ込まないって約束でしょうに……!」

腰巾着のようなネズミに似た男が甲高い声を上げた。

「おい。なにする気だ」

「血を止めねばならねえだろう」

イカロスと呼ばれた男は、自然な動きでリコッテのそばに跪くと巻いていた布切れを取り払った。ピンク色の肉が露出し、血流はとめどなく放出している。イカロスは冷たい瞳のまま手元を喉元の傷に重ねた。

「回復の光(ヒーリングライト)」

手のひらから淡い青みがかった光が放射される。

治癒の神聖魔術であった。

リコッテの喉元の傷は瞬く間に塞がると、青ざめていた顔に生気が戻った。

「あ、れ?」

イカロスは続けてリコッテを横向きにすると背中の傷にも光を当てる。

彼女の頬に徐々に赤みが差した。

マーサはイカロスに何度も頭を下げるとリコッテの手を取って自分の頬に重ねた。なにかを感じ取ったのか、ネズミ似の男はぷいと顔を背けた。

「まったく。あっしらが旦那に頼んだのは人助けなんかじゃねえってのに。取立てですよ、借金の取立て! あっ、ちょっと!! リカルドのやつを締め上げなくてもいいんですかいっ」

「来たぞ」

イカロスはネズミ似の男を無視して蔵人に言葉を放った。手に手に松明を持った影が五人。そのうち飛び抜けて大きい影はおそらくオーガであろう。蔵人は、背にくくりつけた剣を下ろすと鞘を放り捨てて吐き捨てた。

「安心しろ。そこまで、世話になるつもりはねえ。……それと、ダチのカミさんを助けてくれてありがとな」

草むらを突き破って飛び出す。

そこには、リカルドとオーガの他に三人の男が並んで立っていた。

「あっ、さっきの野郎だ!!」

「やいやい、邪魔ばっかりしやがって!! もう勘弁ならねえや!!」

「おまえらあっ!! そいつをまずは血祭りに上げるんだああっ!!」

男たちはリカルドの怒声と共に弾かれたように突っ込んできた。

蔵人は長剣を水平に構えると、真正面の男に向かって全力で叩きつけた。刃は男の顔面を真っ向から殴りつけると目鼻を深々と抉り取り、崩れた泥細工のように変化させた。

「うおおおっ!!」

喚きながらも左右のふたりが同時に襲いかかってくる。

蔵人は身を低くして斬撃を最小限でかわすと、長剣を上方に向かって突き上げた。

繰り出した激しい突きは、右手の男の胸板を貫くと刀身の半ばまで背を抜けて露出した。

男がぐらりと体重を預けると、鈍い音がして刃は折れた。

数打ちの安物である。

蔵人は半分になった長剣を持ったまま背後に飛び退った。

目の前の男は俄然勢いづいてジリジリとにじり寄ってくる。

勝機と見たか、オーガも咆哮を轟かせ突進してくる。背筋に冷や汗が伝った。

「若造!! こいつを使うんじゃ!!」

不意に草むらからスミスの声が発せられた。

闇を引き裂いて白い物体が飛来する。反射的に手を伸ばし受け取る。

それは、かつて手にしていた聖剣“白鷺”の白金造りの鞘だった。

弾かれたように男が飛びかかってきた。

鞘から剣を抜くと、真っ赤な光芒がほとばしった。

引き抜いた刃は炎を具現化したように赤々と燃えていた。

長剣が半円を虚空に描く。

その刃は凄まじい切れ味だった。振るった長剣は男の胸を深々と薙ぐと水平に走った。

「があああっ!?」

男は胸元から上下を分断されると、踊るようにその場に両手を挙げてつんのめった。

蔵人が真っ赤な刀身に目を奪われていると、スミスの哄笑が原野に響き渡った。

「……気が向いての。嬢ちゃんの鞘を預かっといたんじゃ。銘は“紅千鳥”。以前に赤龍のウロコで造った一品じゃ!! 有象無象の試し切りでは、チトもったいないわ!!」

「さっき会ったとき渡せよ。ったく」

迫り来るオーガ。地響きを上げて突進してくる。手にしていた松明は放り捨てたのか、両手には巨大な樫の棍棒を持ち上段に構えていた。

蔵人の全身にいつもの感覚が蘇っていた。頭の中からカッカした熱い感情が消え失せ、ただひたすら目前の対象物のみに意識が向けられる。代わりに手にした紅千鳥が熱く燃えたぎっているようだ。オーガの棍棒には筋金を打った鉄輪が幾重にも嵌め込まれている。

一撃を受ければ無傷ではすまない。

だが、奇妙なことに、この剣ならば打ち勝てるという奇妙な自信が沸き起こっていた。

オーガが鼓膜を破る声量で吠え立てた。耳元を風を引き裂いて奇妙な唸りが迫る。

蔵人は手にした紅千鳥を振りかぶると真正面から迎え撃った。

きいん、と硬質な澄み切った音が鳴り渡った。

同時に、蔵人は素早くオーガの脇を断ち斬った。

決戦を傍観していたリカルドの顔が紙のように真っ白になった。

手に持っていた松明は転がって枯れ草を焼き、周囲の草地がたちまち真っ赤な舌で舐め上げられる。

オーガの手にしていた棍棒から筋金の鉄輪がバラバラとこぼれ落ちる。

太い樫の木が線を引いたようにスッパリと両断された。

オーガは奇妙に身体をよじると口元から多量の血泡を吹き出し、太くゴツゴツした指先で宙をかいた。

腰から上の胴体は、斜めにズレながら落下すると辺りに臓物を撒き散らした。

巨体から流れ出た血液が辺りをたちまち池に変えた。

蔵人はブーツが濡れるのを構わずにへたりこんだリカルドに向かってゆっくりと歩み寄っていく。

「ひ、ひ、ひ。嘘なんだァ。リコッテが俺の思い通りになったなんて嘘だぁ。あいつは、つきあってたときも、無理やり抱いたときも声ひとつ上げねぇ女だった。べつに、あいつを辱めようと思ったわけじゃねえ。ちょっとした悪戯心だ。誰でもあるだろう。へ、へへ。な、なあ。許してくれよう。俺はおまえにはなんにもしてねえじゃねえかよう。どうして、そんなに怒ってるんだぁあっ」

「てめぇを殺す。文句はねえだろう」

「いやだああっ!!」

「そういったリコッテにおまえは情けをかけてやったのか!! 地獄へ、落ちやがれ!!」

蔵人は長剣をリカルドの顔面へと全力で振り下ろした。

刃は頭頂部から顎までを真っ赤な直線で彩った。

脳漿が飛び散り、眼球はピンポン玉のようにな軽やかさで尾を引いて弾けた。

リカルドは目鼻を無くした奇妙な生き物のように一瞬で変化した。

両手を天に突き上げたまま甲高い断末魔を上げて、どうと顔面から倒れ込む。

蔵人はゆらめく炎の中で長剣に付いた血糊を懐紙で拭うと虚空に放り投げた。

真っ黒な闇の中で、炎にあぶられた白い吹雪が切なそうにヒラヒラと踊り、やがて溶けていった。

「わ、わ! 赤ちゃん動いた! ほらほら、レイシーも触らせてもらったら?」

ヒルダはリコッテの腹から耳を離すと、おずおずと様子をうかがっていたレイシーを手招きした。

「え、いいかな。リコッテさん」

「はい、構いませんよ」

「おらーっ、小娘ども。儂のリコッテに気安う触るなっ。かわいい孫にさしつかえるだろうがっ」

微笑ましい女同士のやりとりに空気を読まぬ老人が大声を張り上げる。

明らかに胎教には適さない男だった。

「父さんはあっちいって!」

「そ、そんなぁ」

スミスはしょげかえると、鎚を持ったまま鍛冶小屋に戻った。近頃は、腰の調子もだいぶいいようだった。

一週間後、蔵人はヒルダとレイシーを連れてマーサの元を訪れていた。

もちろん、先日もらった“紅千鳥”の礼を兼ねてでもある。スミス曰く「鞘に釣り合った中身がたまたま紅千鳥だっただけ」とのことである。測ったように白鷺の鞘にピタリと収まったこともさることながら、スミスが打った剣に使ったのは、蔵人が倒した邪龍王ヴリトラのウロコであったことも運命的なものを感じるのであった。そもそも、代価を金で贖うならばどれほど積んでも足りるということはないのである。

つまりは、リカルドが価千金のウロコの粉末を求めて押しかけてきたときにはその物自体は存在しなかったのである。

それでも、あのような男に会心のひと振りを与えたくなかったのは名工としての業であろう。蔵人は腰に提げた紅千鳥をどのようなタイミングでアルテミシアに渡そうかと思い、目尻を下げっぱなしだった。

もちろん、下心はある。恥ずかしがりな彼女に無茶な要求を聞かせる絶好のチャンスであった。納屋は全焼してしまったが、母屋は案外に無事だった。リコッテもあのような事件がなかったかのように振舞っている。彼女の中には新しい命が宿っているのである。いまだ、蔵人の中からは疑念は消えないが、最終的に子どもの父親を決めるのは産みの母である。そもそもが、互いに納得しているのならばもはや蔵人が口を出す権利はなかった。

「ふあっ」

蔵人が木にもたれながら、騒ぐ一同を眺めていると、さっと日が陰った。

マーサが無言で傍らに立っていた。

「なんだ? ケガはもういいのか。にしても、丈夫な野郎だよ、おまえは」

蔵人がマーサの大きな肩を荒っぽく押しやる。髭面の大男は痛そうに顔をしかめたが、やがて安堵したかのように、真っ白な歯を剥いてうれしそうに微笑んだ。

なんとも無邪気な笑顔に一瞬見とれ、照れ隠しに分厚い胸板を拳で叩く。マーサはおどけたようにその場に腰を折って膝まづくと顔を上げて頭をかいた。

「なあ、マーサ。いま、しあわせか?」

返事を聞く必要はなかった。

男の顔を見ればそれは理解できた。

憂いはすでにない。

目の前の男にはすべてをやさしく包み込む、広く雄大な器があった。

蔵人は梢を吹き渡る初秋の風に髪をなぶられながら、外套の前を静かに合わせた。

それから、巨木にもういちどもたれて、そっと目を閉じた。