Dungeon+Harem+Master
LV88 "Waiting Woman"
蔵人がその女性に気づいたのは、冒険者組合(ギルド)の入口階段付近だった。
灰白色のくすんだローブを身にまとい、頭にはリンネルのかぶりものをつけている。
おや、と思ったのは右手に細い杖を持っていたからだった。彼女は、慣れない手つきで足元を探り、一歩一歩、見ている方が焦れったくなるような遅い動きで移動している。
入口に立っている番兵は、彼女の目が不自由なのをわかっていても微動だにしない。
無理もない。この世界では、身体弱者にやさしい世界ではないのだ。
誰もが、自己責任。自分のケツは自分で拭く。
人々に根付いた差別感は根強く、五体に欠損のある人間には生きにくい世界だった。
この世界に召喚されたばかりの頃、障害者に手を貸そうとしてひどく罵られたことを思い出し、嫌な気分がまざまざと蘇った。
さもありなん。
顔見知りでもない人間が理由もなく親切ごかして手を差し伸べるのは、なにかしらの下心があってのことと相場は決まっていた。
この世界では、一旦身内となればウザったいくらいに世話を焼く気風が根強くあった。
反面、見も知らない人間に対する警戒心は現代人が思いもつかないほど強烈である。
あっ、と思ったときにはすでに遅かった。
「え、きゃ」
女性は小さく怯えた声を出すと、状態をぐらつかせた。
昨日の雨でぬかるんだ石畳に手元の杖をすべらせたのだ。
カラカラと、乾いた音が鳴るが早いか、駆け出していた。
「危ねぇ」
蔵人は素早く身体を動かし、彼女の背中に回って転落を阻止する。
シトラス系のふんわりとした香りが漂った。
「あ、ありがとうございます」
「いや。いいってことよ」
女性の目蓋は伏せられたままであり、盲人のそれだった。
歳の頃は四十を過ぎたばかりだろうか、若い頃はさぞや美しかったであろう名残はあるものの、相応のシワが刻まれていた。
蔵人は彼女の手を取って立たせると落ちていた杖を拾って渡した。
「見ず知らずのお若い方。どうも、ご親切に。ありがとうございます」
「だからいーって。慣れない場所はいつも以上に気をつけるんだぜ。おば、……おねーさん」
蔵人が咄嗟に口ごもっていい直すと、婦人は上品に微笑んだ。
「ふふ、いい直す必要はありませんよ。わたしは、もうとうに四十を過ぎてるおばあちゃんですからね。あの、なにかお礼をしたいのですが、あいにくと持ち合わせが少なくて」
「だから、そんなつもりで助けたわけじゃねーって。事務所に用があるのか? だったら、ついでについてってやろうか」
「いえ、本当に、そこまではさせられませんよ。あ、わたしモニカと申します。あの、お名前を」
「だ、だからそんなつもりじゃないって、それに名乗るようなモンじゃねえし」
蔵人はモニカと名乗った婦人があまりに感謝の意を示すうちに、異常に照れくさくなったのかその場を逃げるようにして走り去った。
階段を一気に登りつめると大広間にたどり着く。
売店で、水を買うと一息に飲み干した。
水、と一口にいっても、ここで売っているものは、たっぷりと砂糖の効かせてある甘味の強いものだ。なんでもモノが揃う現代日本とは違い、砂糖は純然たる嗜好品であった。
どちらも高い税がかかっており庶民が気安く消費できるものではない。水に砂糖を入れることでお得感を生み出しているのであろうが、水は無味であると信じきっていた蔵人にとって、はじめて口にしたときは軽いカルチャーショックであった。
それは、友達の家に遊びに行って、麦茶に砂糖が入っていたときと同じくらいの衝撃度であった。彼の近くにクランのメンバーであるアルテミシアとルッジの姿はない。ここ数日は珍しくふたり同時に所要が入り、ソロで動くことになったのであった。
(でも、ひとりはさびしいし。ネリーと遊ぼうっと)
蔵人はグラスを売店の職員に返すと、ゆったりとした気分で受付に近づいていく。
あいも変わらず澄まし顔をしていたネリーは、蔵人がひとりでいることに気づくと、途端に口元をゆるめて、くくっと笑いを噛み殺していた。
「なんだよ、その笑顔は。んん? 俺に久しぶりに会えてそんなにうれしかったのか?」
「……見ていましたよ。中々、いいところあるじゃないですか」
ネリーはニマニマと楽しそうに頬をゆるめ、ほほ、と上機嫌に声を漏らした。
「はあっ!?」
「目の不自由なご婦人に親切に手を貸してあげる。これは、強度の善人でなければ中々できることではないです」
「はあっ!? ちっ、ちげーしっ。そういうつもりじゃねぇですしっ。あれは、たまたまだよっ。俺がフラーっと歩いてたら、こうっ、ひゅーんとおばちゃんが落ちてきてっ。反射的にパッと手が出ただけでっ。そんな、気は全然ねえですしっ」
蔵人は己の善行をこっそりと見られていたということに、なぜか強い羞恥心を覚え顔面をカッと火照らせた。
これには、軽くいじってやろうと思っていたくらいのネリーも呆然としていた。
どうやら、蔵人にとっては、人にあからさまに褒められたりするのは激しい気恥かしさを覚えるものらしい。
あっけにとられていたネリーも、好敵手の弱点を見出した利点に気づき、青の瞳が妖しく輝きだした。
「そんなあ、謙遜することないですよぉ。ネリー、やさしい男の方って憧れちゃいます」
「やめろ、マジでやめてくれ。ホント勘弁。あと、おまえはどこからそのきゃるきゃるした声を出しているんだ」
蔵人は顔を両手で隠すと、カウンターに突っ伏した。背後では受付の順番を待っていた女戦士があからさまにムカつき具合を露わにしていた。
「あのお、いちゃついてないで早くして欲しいンすけど」
「ねえ、超・絶・善人のクランドさま。徳を高めるのもいいけど、後ろの方がつかえているのです。順番を譲ってくれませんか?」
「はい、譲ります」
「あと、今日の善行を人々に流布されたくなければ、夜雀亭で私にランチをおごること。いい?」
「はい、奢ります。だから、みんなにはいわんといてや。ウチ恥ずかしいねん」
蔵人の完全敗北であった。
「ねえ、あんたらマジ、うちのこと無視してるよね。クレーム出そっかな」
女戦士のムカツキも頂点に達していた。
数時間後、カフェ夜雀亭でタダの昼食に舌鼓を打つネリーと、悄然としてうなだれるひとりの男の姿があった。
店長のビッグスは蔵人の姿を見つけると、扉に身体を半分隠しながら心配そうにしばらく観察していたが、今日は暴れそうもないとわかると安心して奥に引っ込んでいった。
「どうでもいけど、クランド。あなたは、この店でまたなにかやらかしたの? 店長さんが、しきりにこっちの様子を窺ってましたよ」
「気にすんな。あいつ、いっつも俺のこと気にしてんだよ。どうやら、俺に惚れたらしい。おまえといっしょだな」
「あら、そうですか。じゃ、惚れてるんで、スイーツお代わりしてもいいですか」
「……好きにしろよ」
「あ、すみません、店員さん。メニューのこっからここまでダーッとくださいな」
「そういうのやめてよっ!?」
ネリーはメニュー表を指差すと、だーっと叫びながら上から下まで滑らせる。若い女給は目を真ん丸くすると、蔵人に向かって視線で大丈夫かと語りかけてきた。蔵人は生気を失った顔でうなずく。
ネリーは対照的に、スマイルくんのように、にっと素晴らしい笑顔を意図的に作った。
「あんま調子に乗んなよ」
「心配しなくてもだいじょぶですよ。婦女子にとって甘いものは別腹、むしろ独立した別個の機関ともいうべきか。ま、そのような素敵空間に収納されるのです」
「素敵空間? おまえの胃袋は宇宙に繋がってんの? たくさん腹の中に溜めこんで反芻すんの? ったく、それを痩せの大食いっていうんだよ。おまえのファンに聞かせてやりたいね」
「ファン? ああ、いつも私にいろんなものを貢いでくれるセルフ奴隷さんたちですか。あの人たちも、悪いんですよ。私の胃を甘やかすから」
「血糖値が上がりまくって死んでしまえ」
「残念ながらこの程度では」
「たっぷり食ってせり出したボテ腹を、みんなの前で、堕せよこのクソ女っ!! って叫びながらめたくそにブン殴ってやりたいわ」
「そうしたら、許して、あなた! この子の命だけはっ! って叫びまくって、クランドの名前を聞いただけで女性冒険者が近づかなくなるように悪評を広めて差し上げます」
「鬼め」
「鬼の目にも涙。くーっ、この料理スパイシーです。これって香辛料がメチャ高くて、中々ランチに食べる気にはなれないんですよね。その点、本日クランドという金袋を持参した私に死角はなかった」
「その格言用途違うし。ホント人の金と思って食いまくる女ほど手のつけようのない生き物はないわ」
「あ、待ちに待ったデザート到着。一口食べます?」
「俺の金じゃっ!!」
「それにしても、いいことしてなんで恥ずかしいんですか? 悪行ならともかく。そもそも、あなたの場合は人生そのものが恥ずかしいと思うのですが」
「人脅して飲み食いするやつにいわれたくねぇよ」
「あ、追加オーダーお願いしますっ」
「おーい。そろそろ勘弁しようよー。あなたのクランドさんもそろそろマジ泣きするよー」
「やっばっ。私、クランドくんガン泣きさせたった」
「まだ泣いてねえし」
「それで、デザートの追加が来るまで間を持たせるために無理やり会話を続けますが、そのあのふたりは今日はいないのですか」
ネリーはちょっとしおらしげに、フォークで皿の中のミートパテを回転させながら訊ねた。
「ん? あのふたりって」
「ほら、あのおっきいのと、いやらしい感じの細い方」
「ああ、アルテミシアとルッジか。しかし、その体型で表現するのやめたげなよ。本人気にしてるんだぞ。ルッジは確かにエロいオーラ出てるもんな」
「女性の前でそういう下品な言葉をあからさまに使うと訴えられますよ」
「おまえが先に話振ったんだからな。どこまで自分勝手なんだよ。このゆるふわスイーツ脳が」
「ふん。んで、どっちなんですか」
「は」
「どっちが本命なんですか」
「なぜそれを、おまえにいわねばらなんのだ」
「私が聞きたいから。だから、話しなさい」
「横暴な……」
「すぐに答えないと、クランドが脅してここに無理やり連れ込んだと、いう」
「ぬう、また謂れ無き非難を人々の頭に培養する気か。……別にどっちってことはねえよ」
「どういう意味?」
「しいていうならば、俺がモテすぎるってことかな。アルテミシアもルッジも俺のものさ。そして、君もな。かわいこちゃん」
蔵人は前髪をかきあげると、斜めの角度で激しくウインクをした。
ちょどそれを直視した、向かいで新聞を読んでいた行商の男がコーヒーを威勢良く吹き出した。
「あっ」
「どうした」
「ほら、見て鳥肌が。クランドが気持ち悪いこというから」
「ひでぇこというなよっ!」
「クランドが気持ち悪いから」
「悪化してるっ!?」
「クランド単体の気持ち悪さ」
「もはや最初と方向性がぜんぜん違うよなっ!!」
「うえっ、気持ちワルっ」
「ただの食いすぎだよなっ、それっ!?」
蔵人はえづいたネリーの背を撫でながらため息をついた。しばらくすると、彼女は涙目になりながらも上目遣いでジッとにらんでくる。青い瞳が抗議するように爛々と輝く。
「さすがですね。相手を思いやるふりをしながらすかさずセクハラに至るとは」
「穿って考えすぎなんだよ、おまえは」
「おまえっていわないでください。私はあなたの妻でも恋人でもないのですからね」
「いいじゃん、どうせそのうちそれに準じたものになるんだから」
「あー、はいはい。それはどこの世界のネリーさんですか。夢はおウチのベッドの中で見ましょうね」
とはいえ、このふたり案外と仲が良い。悪態をつきあいながらもなんだかんだいって、どちらかが席を立つことはなかった。
蔵人が頬杖を突きながら、ネリーの細い顎がプディングを咀嚼するさまを眺めていると、彼女の視線が通りに向かって流れるのを感じた。
自然、視線を転じていた。そこを歩いているのは、今朝方事務所の入口で会ったモニカという婦人の姿があった。
「あー、モニカさん。彼女のこと気になります?」
「うん? まあ、な。どう見たって冒険者って感じじゃねえし。あの目なら、つき添いなしで出歩くのも骨だろうし、どういう用件で出入りしてるのかなって思ってよ」
「……彼女の息子さんは、冒険者だったんですよ」
ネリーの話はこうだった。つい、ひと月前ほどモニカのひとり息子であるクライドという青年は四人の仲間と語らってダンジョンに潜った。
もちろん、目的は一攫千金のお宝を狙ってである。かなり無理をして冒険者の資格を取ったクライドにしてみれば、是が非でも早いうちに戦果を挙げなければ借金で首が回らなくなる。
だが、ロクな装備も経験も技術もない若者の素人クランなど迷宮に巣食うモンスターたちの格好の餌食だった。組合に提出した帰還期限をはるかに越えても彼らのひとりとして戻ってくるものはいなかった。
確定的未帰還者(アンノウン)。
「この世界ではよくある話です。クランド、あなたのようにたったひとりでロクな装備もなしに帰ってくる人間のほうが稀なんですよ。おまけに、クライドは保険未加入の上、モニカさんの経済状態では探索チームを派遣することはできない。だから、彼女はああやって毎日決まった時間になると、冒険者組合(ギルド)にやってきて還らぬ息子の安否を気遣っているのです。一縷の望みを託して。……ああ、そんな顔しないでくださいよ。これじゃ、私が虐めてるみたいじゃありませんか」
蔵人はモニカの小ジワの寄った上品そうな笑顔を思いだし、胸がチクチクと痛んだ。
ネリーはスプーンを咥えたまま眉を八の字にすると、バツの悪そうな顔でぷいと横を向き、いった。
「ちょっと、散歩でもしませんか」
夜雀亭を出て大通りをあてもなくぶらついた。蔵人と比べれば頭ひとつ分は違うネリーは、自然後ろに従って歩く形になった。
「んで、昼休みはとっくに過ぎてるけど、いいのか」
「いいんですよ。いなきゃ、誰かが代わりをしてます。自由裁量なんですよ、私の労働時間は」
「嘘つけ。勝手なことばっかしてると、クビになっちまうぞ」
「大丈夫です。クランドと違って、私、皆に愛されてますから」
「性的な意味で?」
「ブッ飛ばすわよ」
「フ、やってみろ、出来るもんならな」
「あ、その笑いかた」
「なんだ? あまりな俺のニヒルさに惚れたか」
「クランドのその顔。悦に入っていて、いつもより五割増しで気持ち悪いです」
「……」
「気持ち悪い」
「……」
「ねえ、気持ち悪い?」
「聞こえてるよっ! あんま追いつめんじゃねぇよ! 顔のことはいうなよ、顔のことは。こんな俺でもけっこういいっていうやつだっているんだぜ」
「まあ、妄言は置いておいて、と」
蔵人は石造りの扁平アーチ橋に着くと、欄干に両手をかけて川岸の向こうを見やった。
川面を吹き渡る風が火照った頬に清々しい。ネリーは無言のまま、隣にくると大人しく視線を同方向に向けた。
はるか彼方に、ロムレス教会の大聖堂が見えた。
あの、荘厳な造りの宗教施設でマルコが今日も説教をしていると思うと複雑な気分になる。気づけば、自分の顔をジッと見つめているネリーに気づいた。
「どうした。俺の顔になんかついてるか」
「いや、なんでもないです」
ネリーは慌てたように手櫛で髪を整えると、自然な動きで距離を詰めてくる。
いつもなら、腰でも抱いてやろうかくらいの軽口が出るのだが、不思議とそんな気分にはならなかった。橋の中央をしきりに人々が行き交っている。背後を馬車が通過する。木製車輪が石畳を踏む、軋んだ音がのどかに遠ざかっていった。
「そういえば、この橋にも名前があるのか」
「ええ。泪橋、といいます。特に珍しくもないですね。この橋の先の開けた広場は、いまでは公園になってますが、昔は兵隊たちの練兵場だったそうです。この公園も、繁華街が出来てからは物騒になってしまって、夜になるとあまり人の通りもありませんが」
「ああ、この公園な茂みがあるからだろ。ひひひ」
「また、いやらしい想像をして。普通の恋人同士は、昼間でもあまり寄りつきませんよ。暇を持て余した若いゴロツキがたくさんうろついてますからね。私も、ひとりのときはこの橋まで来たりしません。買い物なら、冒険者組合(ギルド)の近くで事足りますから」
「ふーん。泪橋ねぇ」
泪橋。ありふれた名前である。
全国各地にいくらでもある名前の橋に対する謂れはほとんどが想像がつくようなものであろう。
大方、この橋の名も、戦場に向かう兵に別れを惜しんだ家族や恋人が涙をこぼしたことから由来されると推測できた。
「あれ、あそこにいるのは……」
「モニカさんですね」
土手の向こう側を見ると、目の不自由なモニカが頼りなげな足どりでふらついているのが見えた。
「彼女、最近失明されたみたいで。元々、視力はよくなかったみたいですけど、息子さんを亡くされたときの心労が祟って全盲になってしまったそうです」
生まれつきの全盲でなければ、足どりの不確かさも納得がいった。蔵人は、いいようもない苦味が自然と口中に湧いてくるようで、不快さに顔をしかめた。
「家族は。旦那はいねぇのかよ。他に子供は」
「母ひとり、子ひとりだったそうですよ。あっ……」
ネリーが指差すと同時に土手を見やった。つまづいたモニカが土手をゆっくりと転がっていく姿が遠景にあった。やわらかい草地とはいえ、あちこちを打ったのだろう。彼女は土手の下まで転げ落ちると動かなくなった。
蔵人は、ほとんど反射的に駆け出していた。
あっという間に坂を滑り降りてモニカを抱き起こす。
頬を軽く叩くと、彼女は小さくみじろぎをした。
「おい、大丈夫かよ!」
「え、あ。その声。昼間の、若い人。ええ、なんとか立てそうです。あ、あれ」
モニカは狼狽した様子で右手を宙に舞わせた。
なるほど、よくよく見れば今朝方使っていた杖がないのだ。
辺りに視線を這わすと、転げ落ちた拍子に川べりに落ちた杖がプカプカと浮いているのが見えた。
「……うん。おばちゃん、ちょっと待ってな」
「え、あ。あの」
蔵人は外套を脱いでその場に横たえると、躊躇せずに川の中へと躍りこんだ。
ざんぶと、膝まづ浸かる水に顔をしかめ、杖を拾い上げる。丈の長い水草が、蔵人の頬や髪をたっぷりと濡らした。苦労して岸に上がる。ブーツを脱いで、水をこぼすと、ザッと音を立てて青黒い水が地面を濡らした。
「ほら、足元には気をつけてな」
蔵人が杖を渡すと、モニカは戸惑ったような声を出してまつ毛を震わせた。蔵人は急に自分がやったことが照れくさくなって、くるりと背を向け歩き出す。気配を感じとったモニカは狼狽した様子で急に呼び止めた。
「えっ。もしかして、水の中に。あっ、ちょっと待ちなさい」
モニカは綺麗なハンカチを取り出すと、割とはっきりした声を出した。
先ほどまでの自信なさげな態度とは一転して、それは我が子にいい聞かせる母親そのものの口調だった。
「ちょっ、いいよ別に……」
「いいから、しゃがみなさい」
「はい」
モニカは蔵人の頭を丁寧な手つきで拭っていく。若い女とはまるで違ったカサついた手の感触に戸惑いを覚えながらもされるがままになった。
(そういえば、こうやって誰かに顔を拭かれるなんて何年ぶりだろうか)
くすぐったいような、不思議な感覚に身をよじらせる。
「ほら、これでよし、まったく。ねえ、若い方。お名前は?」
「く、クランド」
「クランド」
モニカは、驚いたように身を固くするが、すべてを頭の中で咀嚼するとふっと肩の力を抜いた。
「ねえ、クランド。心配してくれるのはうれしいけど、たかが杖よ。あんな川に飛びこんでしまったら、どんな深みがあるかわからないし。こんなことで、あなたを傷つけてしまえば、わたしはあなたの親御さんにどんな顔をして詫びればいいの? おせっかいもいいけど、無茶もほどほどにしないとダメよ」
「は、はい」
「聞き分けがいいわね」
(別に、どうってことねえのによ。なんだか、調子が狂うおばちゃんだぜ。ったく)
説教を大人しく聞き入ったフリをしていると、頭上から何人かが、揉みあう声が聞こえてきた。そっと顔を上げる。そこには、橋の中央でネリーの腕を引いている男たちの集団が見えた。
「んげっ!?」
「どうしたの」
「んにゃ。ちょっと、野暮用だ。ここで待ってて」
蔵人はモニカにそういい放つと、猛然と土手を登りだした。
「おらおらっ。どけどけっ!」
既に物見高い街衆が人垣を作って囲んでいた。
ネリーは、思ったより冷静な表情で自分の手を引いている男を睨みつけていた。
全員で四人である。
蔵人が近づくと、上背こそあるが身体にまるで厚みのない、顔つきからいって歳の頃は十三、四くらいに見える少年たちだった。少年たちは、蔵人が平然と歩み寄って来るのを見ると、気の弱い小型犬のようにキャンキャンと吠え出した。それは、怯えを隠すように吠え立てているようにしか見えない。滑稽な示威行動だった。
「あああっ。関係ない奴らは引っ込んででろやっ! ぶっ殺されてえのかよっ!」
「ああっ? 騎士団上等! 俺たちゃ泣く子も黙る、ドナート一家に出入りしてるモンだっ!! この女は今日から俺らのモンだからよっ!! 文句があるやつは、かかってこいや!」
少年たちは息巻いて、地廻りの名を叫んだが、そもそもそんなもの知らない蔵人にとっては無価値だった。効果抜群であるお守りの名に一向に態度を変えない男に、少年たちはたじろいだ。
蔵人は彼らに近づくと、自ら脳内に描く、慈母観音そのもののやさしげな笑みを湛えて両手を広げる。傍から見ると、ヒグマがいましも襲いかかってくるような強烈な威圧感しかない。両者の認識は天と地ほど隔たっていた。
「あー、君たち。やめなさい、やめなさい」
「なんだっ! おっさん。文句あるってのか!」
「お、おっさん。クソガキどもが」
蔵人はおっさん呼ばわりされたことで、こめかみをヒクつかせる。
だが、子ども相手にムキになるのも大人気ない。
冷静に対処しようと心がけた。
見たところ、相手はガキに毛の生えた侠客気どりである。
同じステージにまで落ちる必要はないのだ。
争いを眺めていた中年の行商人は、笑みを浮かべながら細巻きタバコを吹かしている。
まさしく、街の人々からしてみれば、午後のちょっとしたいい見世物だった。
「ネリーさん。ネリーさん。いくら男に飢えてるからって、そんな子供をいたずらしちゃダメですよ。ちと、こっちにおいでなせえ」
毅然とした様子を保っていたネリーであったが、それでも内心では心細かったのだろう。
彼女は蔵人の姿を見ると、男の手を切ってさっと駆け出し、背後に身を隠した。
軽く逃げられたことにプライドを傷つけられたのか、少年たちはいっせいに不満を鳴らし喚きだした。
「ああんっ! ンだっ、てっめ! ヤンのかコラあああっ!!」
「ぬっ殺すぞおおっ。ンンンくらあっ!!」
「その姉ちゃんは俺らの肉壷要員決定だかんなぁあっ!! マジぶち殺すぞっ!!」
「ああっ、けどいま俺らに泣いて詫びれば、一回くれーは使わしてやってもいいぜっ!」
「ああっ、そンかわし、一発百P(ポンドル)な! ぎゃはははっ!!」
「おお、やったな。ネリー、お得価格だ」
「やっちゃってください、クランド」
怒りに震えながら、ネリーは指先を下卑た野次を飛ばす少年たちに突きつけた。
かなりおかんむりの様子であった。
「ああン? なにぃ、誰が誰をやっちゃうってェん?」
まだニキビが浮いている赤毛の少年がメンチを切りながら顔を近づけてくる。
蔵人は無言のままノーモーションで少年の顔面を殴りつけた。
鼻面をへし折る感触がまざまざと拳に残った。
「あぶっ!?」
「ギースっ!? ギースぅううううっ!?」
少年は鼻血をまき散らしながら勢いよく背後に吹っ飛ぶと欄干に首根を叩きつけた。
くきっ、とうリズミカルな音と共に白目を剥いた。
周りの仲間がいっせいに駆け寄って揺り起こす。
ギースは白い泡ぶくを吹きながら気絶していた。
「てンめっ! ギース、ギースをよっくもおおおおっ! 殺すっ、殺すっ」
少年は、ナイフを抜くと血走った目で振り回しはじめた。面白がって見物していた群衆が雲の子を散らすように逃げ出した。
蔵人は、少年のふらついた腰を蹴りつけると、側頭部の耳の辺りに勢いよく拳を叩き込んだ。
丼茶碗大ほどもある、レスラーや力士を凌駕する拳である。
まともに喰らえばひとたまりもなかった。
ごうん、と鈍く骨が鳴った。
「ほぐわっ!? ン、いじいぃーっ!」
少年は激痛に苦悶すると涙目で石畳の上を這いずり回る。
痛みのあまりに、股間からは尿が漏れ下穿きがねずみ色に濡れていく。
少年は、両手で片耳を抑えながら激しく泣き喚いた。
そこにはいっぱしのワルを気取った小生意気な覇気はカケラもなかった。
「ぷっ、だっさ」
ネリーがあからさまに口元に手を当てて冷笑する。
蔵人は、彼らをじろりと睥睨すると、威圧感たっぷりにドスを利かせていった。
「今度会ったときは、容赦しねえからな」
少年たちは仲間を担ぎ上げると、吠えながらその場を去っていった。
「ふ。愚かな、このネリーさまに逆らうなどとは百万年早いわ」
ネリーは両腰に手を当てながら薄く笑った。
非常に満足した表情で瞳の青がいっそう涼やかに輝いていた。
「……あのなぁ。まあ、いいか」
蔵人はそのあと、モニカとネリーをそれぞれ自宅と事務所まで送迎した。
純粋な好意からである。
もちろん、無理やりネリーを時間外に引きずり回したとされて、事務局からお説教を受けたのは、蔵人の日頃の行いが悪いせいだったので自業自得ともいえたのだった。