Dungeon+Harem+Master

LV132 "I Chewed Off the Chain of Repentance"

蔵人はドロテアの喉を覆っている首輪に両手をかけた。

「やめよ! おまえは、わらわの話を聞いていなかったのか? この首輪には強力な毒の呪いがかかっておるのじゃ!!」

「ああ、きちんと聞いてたぜ。よっ」

ドロテアはペタンと両足を外に出して尻を落とすアヒル座りのまま叫んだ。かつて、この首輪を外そうとして命を落とした男のことを思い出したのか悲痛な顔で狼狽する。

即座にやめさせようと立ち上がりかけるが、緊張の糸が切れたのか、彼女は腰を抜かしていた。上手く立ち上がることができない。

そうしている間にも、蔵人の指先は首輪から射出された毒の効果でみるみるうちに青黒く変色していく。見守っていた商会の傭兵たちからドッと笑い声が湧き立った。

「こいつは、こいつは! この男はかけ値なしの大馬鹿だぜ。自らあの首輪に手ェかけるとはよ。俺たちの手間ァ省いてくれるんなんて、親切すぎるぜ!」

「大方、アレクサンダーさまのいうとおり、昔の女の前でいいカッコを見せてぇんだろう」

「意地になりゃなんだってできるって勘違いしてんじゃねえのかよ!」

「自分を神さまとでも思い込んでんじゃねーの!?」

「勝手におっちんでくれんのは楽でいいが、嬲る楽しみが減るってのはどうにもつまらなくていけねえや」

「こんなやつにオレらの牧場が引っ掻き回されたなんて思いたくもねえよ」

「わざわざここまで武器を揃えて押し出したってのに、使う暇もねえんじゃ得物の磨き損ってやつだ。砥ぎ料くれぇは息のあるうちに支払ってもらいたいぜ」

「いくら粋がったってその首輪は外せねえんだ。男にゃあきらめが肝心ってものさ」

蔵人は飛び交う罵声をものともせずに、縛めに力をこめた。ドロテアは放心したようにダラリと両手を下ろし、滂沱の涙を流した。

「なんとも格好のつかない結末じゃねえか。もっとも、これはこれで想像とは違い、楽しめたことは確かだがな。ね、コルネリウスさま」

アレクサンダーが媚びるように後方に立っていた四十すぎの男に声をかけた。奴隷牧場の支配者、コルネリウス・キッドは垂れ下がった目蓋を半ば閉じながら口にした葉巻をふかしている。

蔵人はチラリと一瞬だけ視点を動かすと、獣のようにうなりながら奥歯を力強く噛み合せた。どうせ外せないとタカをくくっている。コルネリウスにしてもそうだった。

蔵人の脳裏に、畜舎で尊厳を奪い去られ繋がれた女たちの顔が思い浮かんだ。この世界では奴隷が必要だ。そもそも、蔵人が過ごした現代日本とは違う。その功罪を述べるつもりもない。

だが、奴隷であっても、彼女たちは間違いなく生きている、血の通った一個の人間なのである。斬れば血が出るし、叩けば涙を流す。気分が落ち込むこともあるだろうし、ちょっとした日常のささやかな幸運に胸を躍らせるのは、きっと自分たちと変わらないだろう。気が向かなければ手を抜くこともあろうし、メシを食えば糞もする紛れもない生き物なのだ。奴隷商人たちが、どんな理由を並べ立てようとも、最低限の敬意も払わず、工場で造った無機物のように彼女たちを無碍に扱うことなど誰にも許されないのだ。

イカロス、サンドラ、ドロテア、そして声を聞くことなくこの世を去っていった赤ん坊の顔が、順繰りに頭の中を明滅し駆け去っていく。

「クランドぉお、もうやめておくれな」

ドロテアがかすれた声を出して唇を震わせた。外そうとした者を毒で犯す呪いの首輪の効果は、誰の目にもわかるほどハッキリと示されていた。

蔵人の顔は墨を塗りたくったかのように濃淡のある黒点で埋め尽くされている。勝ち誇ったかのように、アレクサンダーがいった。

「いよいよくたばっちゃったかなぁ、クランドよお。その毒は、あのワイバーンと同等らしい。いくらおまえでも今度ばかりはおしめえだな」

「ワイバーンと同じだって? なら、そいつはもう経験ずみだ!!」

叫びと共に、胸元から青白い光が激しく放射された。

闇夜を切り裂くような光の塊は放射状に辺りを照らしていく。

昼夜が逆転したかの光景に、その場の人間全てが目を覆った。

光量が強烈過ぎて目を開けていられないのだ。

光輝が収束しきったとき、ドロテアの首輪は、硬質な音を立て、塵となって四散した。

夢でも見ているかのような顔つきで、ドロテアは立ち上がると、いまや縛めの解かれた自分の首筋に指を這わせる。

「クランド、これはいったい――」

不死の紋章《イモータリティ・レッド》は召喚された勇者に与えられた、唯一にして全の力である。蔵人の全身を蝕んでいた毒や胸元から流れ出ていた血は、時間を巻き戻したようにピタリと塞き止められた。

「嘘じゃ、こんなの。治ってる……!!」

ドロテアは小刻みに瞬きを繰り返し、腹の刺し傷をおそるおそる、撫でた。付着していた血は完全に乾ききっており、砂のような細かさで剥落していく。

蔵人はドロテアの前に立つとそっと手を伸ばして、白い頬を指で突いた。

「にゃ!? にゃにをするんじゃ!」

「リネットたちが納屋の中にいる。守ってやってくれ」

「で、でも子どもたちが」

「そうだぞおおっ。首輪が外れたくらいでいい気になるなァ!! ドロテアぁああっ、オレを裏切る気かぁああっ!! あんなに愛し合ったじゃねえかああっ!!」

「作戦変更。先に小屋の周りを掃除する。そしたらおまえは牧場に迎え。こいつらは俺が残らず片づける。一匹たりとものがしゃしねえよ」

「――大地竜牙《アースジャベリン》!!」

ふたりの会話を断ち切るタイミングで納屋の扉が開かれて、呪文が高らかに詠唱された。

褐色の肌に汗を浮き上がらせ、飛び出したリザが地属性の魔術を解き放ったのだ。

薄緑に魔光がほとばしると、たちまち大地はうねるように隆起し、射線上にいた四人の傭兵に向かって硬質化した土の槍が突き出された。無防備な状況でモロに魔術攻撃を受けた男たちは、それぞれ腹を鋭くえぐられると、紙人形のように吹き飛ばされて絶命した。

「なんだかわからないが、暖気運転は充分。とにかく、今夜のリザは気分が悪いので、スカッとさせてもらうのだ」

得意の降霊術で地霊を召喚していたリザは、褐色の肌にポツポツと汗をうっすら浮かばせて、バチッと音が出そうなほど激しくウインクを送ってくる。そのすぐ脇を、オロオロとしたリネットが顔を出した。

「なんとかあっちは大丈夫そうだな」

蔵人がホッと息を吐き出すと、ドロテアの長耳がぴくりと蠢いた。反射的に木々を見上げると、納屋に向かって弓を向ける男の姿が目に入った。

総毛立ちながら、その射線上に駆け出そうとする。一瞬早く走り出したドロテアが手にした長剣を振るい、矢を叩き落とした。

だが、射手はひとりではなかった。草むらに潜んでいた男が、リザに向かってひょうと矢を放った。わずかにブレたその矢はリネットに向かって真っ直ぐに流れていく。

それは蔵人の放った石の礫が樹上の男の顔を砕くのとほぼ同時だった。

間に合わないまでもと走り出した瞬間だった。

サッと身体を開いたドロテアが右腕を投げ出す。

矢尻がドロテアの右肩を貫く形で停止する。

蔵人が飛びこむように身を投げ出して男を突き殺す。

立ち上がって振り向くと、肩を押さえて呻くドロテアに無傷のリネットが半狂乱で駆け寄るのが見えた。

「ゆけ、クランド。わらわの教えたトピア流剣術の粋を見せつけてやれ」

「おまえにゃなんも習ってねえし」

ドロテアはわんわん泣きじゃくるリネットに支えられながら立ち上がり、痛みをこらえたままくちびるを端に釣り上げてみせた。

「ちきしょう、なんでだよっ! なんでおまえはあの毒を喰らって生きてやがるッ!!」

アレクサンダーは顔を引きつらせながら怒声を放った。

「あんなチンケな毒じゃ俺は殺せねえ。さあ、幕引きと行こうぜ、クソッタレども!!」

蔵人は外套を背中から外すと左腕に巻きつけて走り出した。アレクサンダーはわめきながら、後退すると仲間の影に隠れてたちまち見えなくなった。

「クランドのやつをぶっ殺せぇええっ!!」

アレクサンダーのかけ声と同時に、男たちが松明を投げ捨てていっせいに襲いかかってきた。

蔵人はイカロスの形見である大業物アスカロンを水平に構えると身を低くして目前に迫る男たちの中へと飛びこんでいった。

蔵人は腰を落としたまま刃を斜めに鋭く振るった。目の前の男は首筋から胸元まで二十センチほど断ち切られると声を上げて後ろにのけぞった。

「手ごわいぞ! 決してひとりでかかるな。半包囲しろ!!」

アレクサンダーの声に従って六人の男が蔵人の周りをぐるりと囲んだ。投げ捨てたたいまつが枯れ草に燃え移り赤々と地面を緋色に変えていく。夜空は漆黒の雲に覆われ月のカケラも見えないが、戦うには充分すぎる光量だった。

蔵人は左腕に巻きつけた外套を激しく振るって包囲網に突入した。長い道中で着古してロクに洗わない上にやたらと厚みのある外套は異様に重い。ゴワゴワとした外套でしたたかに顔面を打ち据えられた男たちはたまらず二、三歩後退した。

蔵人は男たちの距離が開くのを見計らって、一番近くの男に向かって長剣を叩きつけた。

腰の辺りを斬りつけられた男は激しくうめくと、激しく吐血して地に転がった。

蔵人はその場で素早く足を止め、呆然と突っ立つ男の顔面に向かって長剣を落とした。

男は顔のド真ん中を斜めに割られると目鼻立ちを崩壊させて前のめりに倒れこむ。

ほぼ同時に、左右の男たちが剣を握ったまま飛び込んできた。

蔵人は身を低くして左右の突きをかわすと長剣を半回転させた。

鋭く楕円を描いた刃は右方の男の喉笛を掻き斬ると血潮を飛び散らせた。

左方の男の攻撃は、左腕の外套で刃ごと綺麗に巻きくるむと、ぐいと下方に敵の得物ごと引っ張ってバランスを崩させた。

男が前のめりになったまま無防備なうなじを晒す。

手にした長剣を振るって男のうなじに叩きつけた。

肉を打つ鈍い音と共に、男の首は喉笛の皮一枚を残してダラリと胸元に落ちこんだ。

蔵人は首無しとなった死骸を蹴りつけると大きく飛び上がった。

怯え切ったふたりの男が眼下に見えた。

長剣が流星のように鋭く走った。

蔵人が地上に軽やかに降り立つと、喉元と額を斬りつけられた男たちが地にどうと沈むのは同時だった。

「バカ野郎、なにをぼうっと見てやがんだ! 相手はたったひとりだ!! どんどん続けざまにかかりゃどうってことねぇんだ!! いけ、いけよ!!」

アレクサンダーの叱咤の声が闇夜に響く。第二陣として五人の男が槍の穂先を揃えて正面から向かってくる。さすがにこれに真っ直ぐ立ち向かう愚は犯さない。

蔵人は素早く反転すると円を描くようにして駆けだした。男たちの槍は少なく見積もって三メートル近くある。急な動きにはついてこれないのか、たちまち陣形が乱れた。

時計回りの逆回転、いわゆる地獄周りに動くと、一番端の男の穂先に向かって長剣を叩きつけた。アスカロンはさすがに名剣である。ケラ首をすっぱり切断された槍を握って引っ張ると男は態勢を崩して右隣の男へともたれかかった。

蔵人はさらにぐいと力をこめて、左手一本で槍を奪い取ると石突きで男の喉を突いた。

尖った石突きでまともに突かれれば致命傷である。

男が血反吐を吐いてのけぞったのを確認すると、棒高跳びの要領で勢いよく飛び上がった。四人の男たちは咄嗟に槍の穂先を持ち上げるが、蔵人が虚空に踊る方が早かった。

左腕の外套を目くらましに投げつけると、身体ごと弾丸にして体当たりをかました。こうなれば狙いもなにもない。無茶苦茶に振り回した刃は四人の男たちのどこといわずに深々と切り裂いた。

蔵人が獣のように咆哮しながら立ち上がると、四人の中で立ち上がれる者はすでにいなかった。

男たちはあっという間に十二人もの仲間を討ち取られ及び腰になった。そもそもが、商会に対して忠誠を誓っているわけでもない。松明の炎に照らされて見える男たちの顔は蒼白となっていた。

「おい、テメェら! コルネリウスさまが、クランドを仕留めれば特別手当を通常の十倍出してくださるってよ!! ここで踏ん張らねえでどうするよ!! そろそろ、そいつも疲れてきたところだ。勝って山のような銭を手に入れて好き放題やりたかねぇのかよ!!」

アレクサンダーの言葉に欲心を掻き立てられたのか、男たちの瞳へと次々に脂ぎったものが宿った。半ばを討たれたといえど、自分たちの総勢は十八人も残っている。傭兵たちは数を頼んで蔵人に殺到した。いままでの攻勢がなかったかのように、蔵人はくるりと反転すると途端に斜面を駆け下りだした。

「ほら見ろ、オレのいった通りじゃねえか!! やつだって疲れきってるんだ。いまが大手柄の上げどきだぜ。逃がすなよ、絶対に逃がすんじゃねえ!!」

蔵人は斜面を駆け下りると木立の中に入りこんだ。こうすればそう簡単に囲まれることはない。追いかけてくる男たちの脚力にもそれぞれの速度の差というものがある。

つまりは一番欲の皮が突っ張っているものが先に死ぬことになるのだ。蔵人は木立を上手く利用して身を隠すとジッと息を潜めたまま呼吸を整え始めた。動き回っているときは気にならないが、一旦停止すると、ドッと疲労が押し寄せてくる。知らぬ間に、幾箇所か手傷を負っているのが切り裂かれた衣服の穴やほつれでわかった。いずれも、不死の紋章《イモータリティ・レッド》の力で修復は完了している。

丘の向こう側から、たいまつの列が蛇のようにうねって迫り来るのがわかった。地を蹴って走る足音に耳を澄ます。

タイミングを図って長剣を繰り出した。切っ先は一番最初に追いついた男の胸元をえぐると背中へと突き抜けた。男の腰を蹴って素早く刃を引き抜く。

蔵人の姿を探していた四人の男たちと目が合った。

猛然と駆け寄って長剣を激しく使った。

ひとりを真っ向から唐竹割り、もうひとりを袈裟懸けに斬り殺すと、残ったふたりは反転して逃げ出した。

蔵人は逃さじと踊りかかると、ひとりの背に長剣を深々と突き刺し、腰砕けになって地面に尻をこすりつけながら後退する男の頭を無慈悲に叩き割った。

「いたぞ、あそこだ!!」

「特別手当はオレのもんだぜ!!」

蔵人は落ちていた燃えさしを拾うと明かりに向かって勢いよく投げつけた。月の隠れた夜空である。放物線を描いて飛来する木切れを真っ向から食らった先頭の男は足をもつれさせてその場に倒れこんだ。連なって走っていた後ろのふたりも続けざまにすっ転んだ。

蔵人は起き上がれないでいる男たちをいともたやすく刃を振るい屠った。顔面、胸板、喉首を割られた男たちは激しく痙攣すると動かなくなった。たいまつを拾い上げて誇示すると、残りの追っ手が気づき接近してくる。

蔵人はそこからすぐ近くの渓谷に向かった。そこには丸木を二本ほど使ってかけた丸太橋があった。二メートルほど下には、流れの早い川がある。一度には渡れない場所だ。

蔵人が橋の半ばで佇立していると、凄まじい形相でにらみつけてくるアレクサンダーが見えた。大人ひとりがようやく乗れるほどの橋である。

功を焦ったのか躍起になって追いかけてくる。

六人ほど乗ったところで思い切り飛び跳ねてやると面白いように残らず落ちた。

流れは轟々と聞こえるが、たいまつをかざさないと全景ははっきりしない。不意に、黒雲が動いて月が顔を見せた。流れに再び視点を移すと、落ちれば到底助からない部類ものである。

蔵人が自分の綱渡りの策にゾッとしていると、向こう岸で立ちすくんでいた男たちがバラバラと逃げていくのが見えた。

「てめぇら、おい。どこへ行くんだ! おい、逃げるなって!!」

「離せや、コラ!!」

「えぶっ」

男たちを引き止めていたアレクサンダーは肘で鼻面を小突かれ勢いよくひっくり返った。

「ぎいいっ。あいつら、このオレをなんだと思ってやがるんだ。ひいいっ!?」

蔵人が迫っていることに気づかなかったのか、顔を上げたアレクサンダーは女のように泣きわめくと、棒立ちになっているコルネリウスの膝へと女のように取りすがった。

「アレクサンダー、てめぇを殺すぜ。文句はねえだろう」

「ちきしょう、てめぇのせいで。てめぇのせいで、やってやらァ!! オレの手で!!」

アレクサンダーは腰の剣を引き抜くとおぼつかない足取りで突っかかってきた。

蔵人は、軽く身をかわすと足払いをかけて引っ転がす。

アレクサンダーは地面に顔を激しく打ちつけ、血塗れになった顔を涙で濡らしながら激しい怯えを見せた。

「許して、許してくだせえ、クランドさまぁ。こんなゴミクズ斬ってもしようがないじゃありませんかぁ」

「ダメだね」

蔵人はアレクサンダーの喉元を足のつま先でぐいと押さえつける。

それから涙に濡れた顔面を長剣の頭の部分で散々に打ち据えた。

無論、一息に殺さないためである。

怒りをこめて無茶苦茶に打ち据えると、アレクサンダーの顔面は、目鼻の位置がわからいくらいに変形した。前歯は残らずへし折れ、鼻梁は潰れてブヨブヨになり、さながら幼児の捏ねた泥粘土同様になった。

「あがあああっ、いだあっ! いだああっ!! ゆる、ゆるじでぇえええっ!!」

「だから、ダメだっていっただろうがッ!!」

ときおり命乞いの言葉を吐くが、言語は不明瞭でありなにをいっているかわからない。

蔵人はアレクサンダーの腹へとつま先を叩き込んでひっくり返すと、両手に持った剣を胸元へと勢いよく振り下ろした。

アレクサンダーは張りつけになった昆虫標本のように四肢を突っ張らせて痙攣すると、股ぐらを濡らしながら絶命した。

もはや逃げる気力もなくなったのか、コルネリウスは青ざめた表情でその場に凍りついていた。蔵人が近寄ると、後ずさりながら、よどみなくまくし立てた。

「クソ。なにが、なにが望みだ。金か? 金なら、望むまま払うぞ」

「俺が欲しいのは、テメェの命だ」

「待てよ、冷静になれ。俺を斬ったところで一P(ポンドル)のタシにもならんぞ。そうだ、おまえは中々腕が立つ。こんな役立たずどもよりもはるかに厚遇、いやこいつら全員分の俸給をおまえにやるぞ!! どうだ、悪い条件じゃないだろう!? そもそも、俺がいったいおまえになにをしたっていうんだ!? あのエルフたちの扱いについてのことか? なら、詫びる。おまえの気がすむようにいくらでも詫びよう。なあ、同じ人間同士じゃねえか、わかるだろう? 同じ人間。同族同士、ここは相身互いってことで」

「詫びる必要はねえ。イカロスの意趣返し、させてもらうぜ」

その言葉ですべてを察したのか。コルネリウスの表情が絶望に染まった。

「やめろ!!」

コルネリウスは反射的にその場を駆けだした。蔵人はそれを予測していたのか、大きく跳躍すると手にしたアスカロンを激しく振るった。

長剣が一筋の光芒となって流れた。背中を真っ直ぐ断ち割られたコルネリウスは泳ぐように両手を前に突き出してうつ伏せに倒れた。銀色の月光が血の気の引いたコルネリウスの顔を照らし出している。激しく噴き出した血潮が、コルネリウスの背中を紅一色に染め上げた。

「助けてくれ、まだ死にたかねえ!!」

コルネリウスはすぐそばの一抱えもある巨岩の上に腹ばいになると、首だけ振り向いて最後の命乞いをした。

蔵人は月を背にしてアスカロンを上段に構えると、大気を割って振り下ろした。

凄まじい速度で振り抜かれた刃は、コルネリウスの顔面を真っ二つに引き裂くと勢い余って巨岩を半ばまで切り裂いた。

素早く刃を引き抜くと、巨岩は冷たい音を鳴らして真っ二つに割れ落ちた。

蔵人は放心したかのようにその場に腰を下ろすと、額の汗を拭って視線を夜空に転じた。目を瞑ればそのまま眠りに落ちてしまいそうな疲労感が押し寄せてくる。

すべて終わった。少なくとも、敵の総大将を討ち果たしたのである。これで、ジョシュヤ商会の野望の一端は瓦解したはずだ。にんまりと安堵の表情が自然と浮かんだ。背中は濡れた汗で急速に冷えてくる。疲れきった身体を無理やり揺り起こして立ち上がろうとしたとき、背後の森から容易ならざる激しい殺気を感じ振り向いた。

闇の奥で爛々と光る、六つの眼。鼻を横殴りにする激しい獣臭。

どうして、こいつの存在を忘れていたのだろうか。蔵人は自分でも信じられない速さでその場を飛び退くと、地面に手を突き、飛び出してきたそれを見た。

魔犬ケルベロス。三ッ首の猛獣は、風車のように四肢を回転させると蔵人が居た位置へと猛烈な体当たりを食らわせていた。渓谷一帯に乾いた炸裂音が響き渡った。間一髪で攻撃を避けたが、手にしていた剣は粉々になった石塊の中へと紛れ、見えなくなった。ケルベロスの大きな顎が目の前で激しく動いている。肉を引き千切る音が聞こえた。

ガフガフとなにかを貪る咀嚼音。

こいつ、喰ってやがる。コルネリウスを!!

ケルベロスは元牧場長だったモノを綺麗に平らげると、げうふ、と生臭いゲップをもらして、まだ喰い足りないぞとばかりに口を開けた。牙から滴り落ちる唾液が、周辺に散らばった石塊をめったやたらに溶かしている。甘噛みだけでも致命傷だ。

「軽くガブリとやられただけでゲームオーバーか……!」

即座に反撃を考えた。もっとも、唯一の武器は石塊の中だ。

蔵人は依然として戦闘を続行させることを余儀なくされたのだ。

万事休すか。

目の前のケルベロスは真っ黒な剛毛を振り立てて、凶悪な瞳でこちらの一挙一動を注視している。まず最初に、ケルベロスの注意をそらし、しかるのち破砕された巨岩の下から剣を掘り出して戦いの端緒につく。またもや無理ゲーである。蔵人は己の境遇を呪った。

(ほんの一瞬でいいんだ。何か注意をそらす方法があれば)

緊張で身体がこわばってくる。考えている暇もない。だからといって名案が浮かぶわけでもない。こちらの都合などまるでお構いなしに、目の前の猛犬はなんの気配もなく攻勢に移った。

蔵人の思考がなにかを形どる前の突如とした攻撃に対応できないでいると、横合いから白いなにかが音を立てて飛びかった。布の袋は目で追えるスピードでケルベロスの鼻面に激突すると、真っ赤な粉末を撒き散らした。

途端、猛獣はまるでそこらの野良犬のような声で情けなくキャインと甲高く鳴いた。

宙を舞った粉末が風に乗って目に飛び込んでくる。

記憶にあるそれを吸いこんで激しく咳きこんだ。

「これって、唐辛子?」

「クランドさん、いまです!!」

リネットの声に気づき顔を上げる。頭上の樹木にはいつの間にか登ったのか、声の主と小さな身体を弓なりにしてそらす、力強い援軍の姿があった。

「リネット、それにルシル!?」

幼女のハーフエルフであるルシルは、月光の中で金色の瞳を輝かせると、蔵人に向けてサムズアップを決めた。なんとも惚れ惚れする仕草でウインクを決めると投げキッスまでサービスする大盤振る舞いだった。

ルシルはリネットに肩車されたまま、素晴らしく美しいフォームで再度小袋を投擲した。

ひゅーんと放物線を描いて、唐辛子入りの粉末袋が上手い具合にケルベロスの鼻面に命中する。蔵人は上体をグラグラさせてよろめくケルベロスの足元に向かって走ると、頭だけ見えたアスカロンを見つけて手をかけた。一気に引き抜こうと力をこめる。しかしながら、肝心要の得物はどこかに上手い具合に引っかかって頑としてその場を動こうとしなかった。

「ふんぬぬぬっ。ぬ、抜けんッ!!」

だが、件の猛獣は三ッ首である。

残った最後の無傷な頭が口をかっぱりと開けて無警戒な蔵人の背に迫る。

「あ、やば――!」

「火炎砲弾(フレイムキャノン)!!」

轟々と大気を割って凄まじい熱量が飛来した。直径三メートル近い紅蓮の炎はシュルシュルと鳴りながらケルベロスの顔面にぶつかると、激しく爆散した。無論、蔵人も巻き添えを食って。

「んべしっ!?」

「あっら。ちぃと力加減をまちごうたようじゃが。結果、オーライじゃ」

蔵人は粉塵がもうもうと巻き起こる地面から顔を起こすと、すっとぼけた口調で自己弁護をしている女に向かって抗議した。

「なにがオーライだ、このノーコンばか女がッ!!」

「ひどいのう、愛する男のためにと息せき切って駆けつけたのに。わらわの心はブレイクアウトじゃ」

「その分じゃ仲直りできたようだな」

「ふん、なぁに。わらわたちは元々超仲良しじゃしな。誰かさんと違っていつでもそばにいてくれたしの」

ドロテアは強がって横を向く。樹上のリネットは、ご迷惑かけましたとばかりに頭を下げてすまなそうな顔をした。

「ま、そういうツレねーこというなよ。これからは、ずっといっしょにいてやる」

「あー、どうしよっかなあー。わらわ、ひとりの男に縛られないタイプだしぃ。そもそも、わらわたちのこと誰かさんが捨てなきゃ、こんなことになってなかったかもじゃしぃー。なんか、いうことあるんじゃないだろうかの。なー、リネット、ルシルー」

「……俺が悪かったよ。だから、いっしょにいてくれ」

「にひ」

ドロテアは満足したかのように満面に笑みを浮かべ、仁王立ちになった。

「となると、わらわたちの恋の障害は、あとはこの薄汚いワンころ一匹。サクっと片付けて新天地へ参ろうかの」

「あれ? なぜか抜けた」

蔵人はアスカロンに手をかけたままなんとはなしに動かすと、先ほどのどハマり具合が嘘のようにするりと石の間から顔を出した。

「クランドッ!!」

ドロテアの声に慌ててその場を跳躍する。めくら打ちに噛みついたケルベロスの顎が、蔵人の立っていた地面をショベルカーで掘り起こしたように、綺麗に削り取っていた。

「こいつを使え、ドロテア」

蔵人は駆けながらアスカロンを鞘に収めると、ドロテアに向かって投擲した。美貌のエルフ剣士は左手で器用に得物を受け取ると鞘をすべらすように落として剣を抜いた。

「炎よ。集え」

ドロテアは火属性の魔術適性を持った剣士である。生来、ロムレスには魔術属性を持った人間は希少であり、大抵は魔術の才能があれば、わざわざ剣技を習得しようとは思わない。なぜならば、魔術を極めた者には生半可な剣は通用しないのが定石である。

だが、片方のみをよしとしないドロテアはあらゆる術に貪欲であり、それはもちろん剣と魔術の両方に、均等かつ全力で精魂を傾ける形で結実したのだった。

ドロテアの構えたアスカロンが真っ赤に明滅する。尋常でない熱量が大気のマナを集約して召喚されたのだ。ドロテアの魔術行使を本能的に恐れたケルベロスはもはや蔵人のことなど眼中になく、巨躯を震わせながら突進を開始した。

「魔導剣――炎王大鉄槌(フレイムハンマー)!!」

ドロテアは真っ赤に輝いたアスカロンを上段から斜めに振り下ろした。

刀身は太陽のように一際熱く輝くと、巨大な炎弾を激しく撃ち出した。

暗い渓谷すべてが真昼のように照らし出される。

射出された軌道上の石塊は炎が通ると同時に白く光ると蒸発した。

ケルベロスは身をよじって回避しようとするが、それは不可能である。

瞬きの間に、必殺の輝きはケルベロスの土手っ腹にブチ当たると、天も焦がせとばかりにそのすべてを焼き尽くした。

耳を聾するような断末魔が響き渡る。

巨大な三ッ首の魔犬は全身を焦げ炭のように灰色に変化させると、神話に伝わる塩の柱と化してその場に崩れ落ちた。

「やった、やったぞ!!」

蔵人はブイサインをしたままよろけるドロテアに駆け寄ってその肩を抱いた。

「すげえじゃねえか! おまえ凄すぎッ!!」

「だがの、これは一度使うと全精力を使い果たしてしまうという諸刃の剣じゃッ!?」

蔵人がドロテアをジッと見つめていると、木から降りてきたルシルが横合いから飛びついてきた。バランスを崩して、ふたりは将棋倒しにぶっ倒れる。蔵人は、子犬のような瞳で胸元に顔をこすりつけるルシルを抱え上げると、慈愛に満ちた目でやさしく見つめた。

「ただいま、ルシル」

「んなっ! なんじゃ、その愛情あふれる再会シーンは!! わらわをなんと思うとるのじゃ!! クランドよっ!! なんとかいうてみるのじゃ!! なにを笑っとるのか、リネット。なにがおかしいんじゃ!! あっ……!」

ドロテアが怯えたように背後の森を見やった。そこには、監禁場所から解放されたハーフエルフの子どもたちが口々にクランドの名を叫びながら駆け寄ってきた。

「ま、待ちぃ。の、乗るな。乗るでない。わらわは、手負い傷を。ぶぎゅるっ!?」

ドロテアの言葉を無視して、子供たちは重なるようにして積み上がっていく。ギュウギュウ詰めになったドロテアは、なんとか肉の山から這い出そうとするが、彼女たちはそれを許さない。

「やめ、圧死。わらわ圧死しとうなぃ……」

「とりあえず、これで一件落着かな」

「ひ、ひいい」

蔵人はドロテアを引っ張り上げると、力強く胸の中に抱きとめた。

青い瞳が月光を映し取って輝いている。彼女の瞳を覗き込んで、告げた。

「さ、帰るぞ。俺たちの家に」

「あ……! うんっ!!」

ドロテアは顔をクシャクシャにすると、涙を流しながら胸の中に顔をうずめた。

小エルフたちがきゃいきゃいとはやし立てる。照れ切ったドロテアは、そうやってかなりの時間、顔を上げることはなかった。

「よかったね、ドロテア」

リネットは、目元の涙を指先でぬぐいながら、そうつぶやいた。

わだかまりの解けた彼女は、ドロテアのイマイチ素直に慣れない性格を思いながらも、これから迎えるであろう、蔵人のいる生活に心を膨らませるのだった。

だが、彼女たちはこの先待ち受けているまだ見ぬ過酷な真実を知る由もなかった。

つまるところ、蔵人の妻帯行為である。

月は歓喜の声で満ちる渓谷をやさしく照らしていた。