Dungeon+Harem+Master

LV196 "Demon Sword"

蔵人はいましがた出ていった男の財布を弄びながら、忌々しげに舌打ちを鳴らした。

「ちっ。シケた野郎だな。これじゃ、一晩の飲み代にもなりゃしねえぜ」

「じゃ、なーいっ。なにやってるのよ、クランド!」

「あたっ。なにすんだよう、レイシー」

後頭部をぽかりとやられ眉根を寄せる。背後には、おたまを持って目を三角にしたまま、仁王立ちするレイシーの姿があった。

「なにすんだよう、じゃないっ。これじゃ、うちの店ぼったくりでしょ! お客さんに早くお金返してきてっ。ほらっ」

「う。だって、せっかくのドロテアたちのナイスプレイだぞ。むしろ、褒めてやれよ」

「そだぞ。リザは褒められるのが好きだから、特別に頭をなでこなでこさせてあげよう」

「ふんっ。あたしたちの華麗な接客にケチをつけるなんて、百年早いんだからねっ」

リザとカレンはまるで場の空気を読む能力をどこかで置き忘れてきたように、頬を紅潮させながら、背中合わせのまま、謎の決めポーズを取っていた。

レイシーは、激しく肩を上下させながら、鬼のような形相でふたりを睨みつけている。聡いドロテアは、すでに窮地を脱してバックヤードに姿を隠していた。

「いいから、さっさとお金を返すッ!」

山が震えるような途方もない怒号が、レイシーの口からほとばしった。

窓枠が雷に打たれたかのようにビリビリと激しく震え、音の直撃弾をまともに喰らったふたりは、脳髄を直接ハンマーで叩かれたようにショックを受けた。

カレンは完全に三半規管をゆさぶられ、泥酔したような足取りでふらつき、転倒した。

リザはあまりの衝撃に白目を剥くと、口から蟹のような泡ぶくを吐き出し壁にもたれた。

(レイシーの怒りもわからなくないな。だって、こいつらがやったことって、乳を見せつけたのと、客の酒を勝手に飲み干しただけなんだもん)

もっともそれをやらせたのは蔵人なわけであって、むしろ命令に唯々諾々と従っていた無垢なエルフたちは被害者でもあった。

カレンは、頭を振りながら正気を取り戻すと、鬼の瞳を直視して、ひいっ、とひと声叫ぶとリザを抱き起こしながら、銀馬車亭の外へ転がるように駆けていった。

「クランドも。もう、あういうことさせるのやめたげてね。あの子たち、クランドのいうことならなんでも鵜呑みにしちゃうんだから、ね」

「反省してまーす」

「は!?」

「あ、うん、ごめん。調子に乗りすぎた。だって、こういうのって勝手がわかんなくてよう。マジでごめんな。次は、ちゃんとうまくやるから」

「はあっ。もう、本当にわかってるのかなぁ。ねえ、あたしたちは、ただお金を稼げばいいってわけじゃないんだよ。どうしてかはわからないけど、いままで来てくれたお客さんのほとんどが急に来なくなっちゃったんだから。だったら、無理やりぼったくって荒稼ぎするんじゃなくて、すっごく楽しく過ごしてもらってさ。また、何度でも銀馬車亭にいきたいなーって思うってもらうようにしなくちゃいけないと思うんだっ。だって、そうじゃなきゃ、このお店やってる意味ないよ。父さんだって、いっつもお客さんが楽しそうにしてるの、じーっと静かに眺めてるの好きだったんだし。ここは、そういう場所じゃなきゃ、ダメだと思うの」

「うん。マジでごめん。焼畑農業反対。みんなの土地を恒久的に肥やして使おう」

「? わかってくれればいいんだけど。それにさ、クランドが用意してくれたお店用の服。実は、けっこうかわいくていいと思うよ。その、胸が見えたり、脚が見えすぎるのはあれかなー、って思ったんだけど、実はけっこうオシャレだよね」

「おおっ。そうそう! 見えそうで見えないところが、ニョキニョキしてきちゃうポイントだよなっ。いやー、こう前かがみになったところなんか、理性を抑えるだけで精一杯で」

「それはクランドだけだと思うけど。とにかく、ちょっとえっちなコスかもしんないけど、いままでどおりの値段とサービスでやっていきましょう。それに、来なくなっちゃった常連さんたちだって、実はなにか理由があって来れなくなったのが、たまたま重なってるだけかもしんないしね。ほら、お店はみんなが手伝ってくれるから、人手は充分だよっ」

「レイシー」

「お、お客しゃまぁ、おまたせしまうまっ!?」

「ひいいいんんっ!!」

「ああっ。お嬢さまのトレイに乗っていた激熱スープが、狙いすましたかのようにお客さまの襟首から背面へとだばだばっと広がっていきますー」

「ばかあっ。棒読みしている場合かッ。お客さま、もうしわけございま――」

「んづうううッ!?」

「ああっ。またしても、たまたまお嬢さまが持っていた、アイスピックが狙いすましたかのように、お客さまの眉間に突き立っていますぅ。これはすごいっ。ちょっとびっくり!」

「は、はわわわ。こんな、こんなはずでは。お、お客さま。おい、なにをボサっと高みの見物してるんだっ、ハナ! おまえも、引き抜くのを手伝わないかっ。んあっ」

「おごえっ!!」

「ああっ。今度はダメ押しとばかりに、たまたまお嬢さまが持っていたお盆の縁が、狙いすましたかのごとく振り返ったお客さまの喉仏へと微塵の慈悲もかけずに叩き込まれましたー。これは、凄すぎる。さすがに鬼畜の所業といわざるを得ないっ。ハナ、お嬢さまがお客さまを殺しにかかってるとしか思えなくなってきましたー。かたきですか? 両親を殺された恨みでもあるのですかっ。――って、アンドリュー伯もヴィデッドさまもご存命でしたっ。てへ」

「にゃんでこうなるのおおっ。私、一生懸命やってるにょにいいっ! ふん、ふんぬっ。ピックが、ぬ、抜けないっ。ちょっ。ハナッ、これ抜くの手伝ってよおおっ」

「ハナはお嬢さまがなにをいっているのかわかりかねます」

「なんで、そこで冷たくなるのおおっ!?」

「あー。レイシー。ちょっと、ヒルダを呼んでこないと、銀馬車亭潰れるかも」

「なにやってんのよおおっ! ヴィーのおばかああっ!!」

壊滅的にお運び役には向かない女、ヴィクトワールの面目躍如である。

「なおるなおるなおる、いたいのいたいのとんでけー」

慌てて呼び出されたヒルダが、ナイトキャップをあみだにかぶりながら、治癒魔術を詠唱している。寝入りばなを起こされたと見えて、いつも快活な表情は、蔵人がこれまでに見たことないくらいに苦りきっていた。

「そりゃ、私もロムレス教のシスターですからね。困った人がいればお力にはなりますよ。でも、ヴィクトワールさん。今後、このようなことが頻発されるなら、姻族であるとしても、あなたとの関係を考え直さなければいけませかもしれませんね」

「あ、すっげえ他人行儀」

「ううっ。わざとじゃないんだ、わざとじゃ」

「わざとじゃないなら、他人さまの額に尖った針を揉み立てて許されるのですか?」

「すみませんでした。今後は気をつけます。よくいい聞かせておくので。ほら、ハナも謝らないか。まったく、おまえの不始末で、こうして私まで頭を下げねばならんのだぞ」

「わー。さすがお嬢さま。流れ的にすべての罪を、年下で侍女で、年来の従属的関係により、いっさい逆らえないかよわい妹分になすりつけてます。鬼ですね悪魔ですね」

「しーっ、しーっ」

「おまえはそれで恥ずかしくないのか」

蔵人がいった。

ヴィクトワールは急に押し黙ると、ペロリと舌を出して不器用なウインクをした。

媚びているのだろうか。一同から発せられる剣呑な空気が場に満ちる。

さすがにそれを感じ取ったのか。

ヴィクトワールは助けを求めるようにきょろりきょろり、と周囲を見回す。

ハナが呆れたように薄く笑みを張りつかせたまま、ぽんぽんと肩を叩いた。

「もう、今日は遅いからここで寝てゆきます。お静かに願いますよ。それと、なにかあっても呼ばないように。睡眠不足はお肌の大敵ですから……」

ヒルダがあくびを噛み殺しながら、トントンと階段を上がっていく。下唇を噛み締めながら屈辱に耐えているヴィクトワールと対比的であった。

(つーか全部自業自得だろうが。なに、悔しがっちゃってんの?)

「静かになんかできるわけねーだろ。なにいっちゃってんの、アイツ」

ここは酒場だ。おまけにいまは宵の口。

これからが、かき入れどきなのに、あいかわらず無茶をいう女である。

「と、まあ以上を踏まえて健全な業務の遂行を進めていきたいと思います。えー。スタッフのみなさん、街の人々に愛される店づくりを一丸となってがんばっていきましょう」

とりあえず、無理やりまとめる蔵人であった。

翌日の営業から、とりあえず違法行為は極力控えるよう、スタッフ全員に申し送り及び展開が図られた。

と、はいうものの、蔵人の採用した既定路線は、わかりやすすぎるほどに男の欲望を具現化したようなお色気営業である。

そもそも、酒場において、主要ターゲットが望んでいる酒精と色欲を切り離すことは不可能である。

以前の地域密着型酒場における展開方法でも、レイシーのライトなエロスは常に求められていた。

なんとなく、この娘といいことができるんじゃないか、という淡い希望がなければ、女のいる店には誰も足を運ばない。

蔵人というかなり明白な情夫(イロ)がわかっている場合でも、実質的な女主人であり、歌い手でもあったレイシーを口説こうとする男はいくらでもいたのだ。

ヴィクトワールの凛とした気品。

アルテミシアのすべてを包むような母性愛。

カレンのまるで客に媚びようとしないツン具合。

リザの天真爛漫な色気。

ハナのマスコット的キュートさ。

ドロテアのおっぱい。

「のう。いま、はなはだしく不愉快なオーラを感じたのじゃが」

「知らね」

レイシーやマーヤを加えれば、これだけの美女が揃っている店も中々見つからない。

その上、料金も良心的とくれば、常連の足は遠のいたとしても、新規の客は日を追うごとにクチコミで増えていった。

ときどき勘違いをして店内で堂々と不埒な真似を振るおうとするものは、自然に淘汰されてゆく。

十日も経たないうちに、銀馬車亭は徐々にかつての活気を取り戻していった。

「よーし、けっこう前みてーに店が埋まってきたな。もっと、稼働率を上げにゃ。んじゃ、第二弾として新規キャンペーンを投入するぞ。略して、“幼女の嵐作戦”だ!!」

幼女の嵐作戦とは。

その名のとおり、蔵人が養育しているエルフの子供たちを客引きに使う、人間の倫理を超越した、情理のヒダを刺激する草の根作戦である。

「おじちゃーん、おみせよってってよう」

「おさけおいしいよう」

「たのしくのもうよう」

幼女エルフたちは、その過去、奴隷商人たちが、その見目麗しさから随喜の涙を流して絡め取っていった、美形ぞろいである。飲み屋をハシゴするため、次の店を決め兼ねているオヤジたちの心理を突くため過剰なまでにあわれっぽい声で呼びかけさせた。

「なあ、ここまでさせる必要があるのか?」

アルテミシアは絞り出すような声を、そっと出した。

それに対して蔵人は唇の前に指を当て、半身を壁にサッと隠した。

「シッ。黙ってろ。いま、獲物が罠にかかる」

店の入口に立ち、客引きをする子供たちを、経営者としての冷徹な目で見つめる。

「ああ。外は寒いだろうに。早く中に入れて熱いミルクでも飲ませてあげないと。あの子たち、風邪をひいてしまうだろうに……」

幼女たちは道ゆく比較的身なりのいい男たちに声をかけると、次から次へと店の中に案内していく。

アルテミシアの心配をよそに、彼女たちは彼女たちなりに、男をつかまえるこの作業を、むしろ楽しんで行っているようであった。年が若くても、男を騙し、悦に入らせ、情を掻き立てさせる行為は本能に根ざしたものだと証明していた。

幼女たちは、中年男性の手を引きながら、意気揚々とテーブルに案内している。

男も、自分の家族のことを思い出しているのか、ときどき酒精で火照った真っ赤な鼻をすすり上げて、涙を目尻に盛り上がらせていた。

「ごしんきさんはいりましたぁー」

「ちゅうもんおねがいしますう」

「あー、ほらほらお嬢ちゃんたち。そんなに急がなくても、オッチャンは逃げないよ。ああ、クソ。思いだすなぁ、なんでこんな年明けからオレはグダグダ酔っ払ってんだろう。今年こそ、業績を上げて、都に帰るぞ。絶対に……!」

エロスと家族愛という、一種、両極端に思える具材を見事に料理し、銀馬車亭は蘇りつつあった。宴もたけなわとなれば、レイシーの自慢の喉が、快調に響き渡る。

「いやー。大漁大漁。そろそろ、いい感じに客の入りも戻ってきたんじゃね」

「うん。でも、ほとんどが一見さんだからね。どうして、前のお客さん、来なくなっちゃったんだろう」

カウンターの奥部屋で、ホクホク顔をしながら銅貨を数えていた蔵人は、レイシーのどことなく暗い声に気づき、瞳を曇らせた。

「そうだよなぁ。前は、来なくてもいいっていっても、毎晩来てた野郎どもがひとりも顔見せないっていうのもおかしなもんだ」

蔵人は銅貨の束を銭箱に叩き込むと、一瞬考え込む顔つきになる。

「うん。ジョーイにトムズ、アンディにイーデン、バレット。どうしたのかなぁ」

「んんん。そうだな。女王蜂は依然として店の入りがどの程度なのかわからねぇし」

「ちょくちょくお客さんは来てるみたいだけど。ほとんど、このあたりに住んでる人じゃないみたい。知ってる顔の人もいるけど、どれも大店のご主人さんみたいだよ」

「向こうの客筋と、こっちはまるで違う。住み分けはできてるはずだ。じゃ、なぜだ。なぜ、元いた客は戻って来んのだ。ふしぎ……。ちょっと出てくる。あとは、頼んだぜ」

「ああっ。どこいくの、クランド?」

「ちょっと色々とな。ま、俺のことは気にするな。店閉めるときは、戸締りをしっかりな」

蔵人はガヤガヤと酔客の絶えない店を出ると、外套の前を合わせた。時刻は、そろそろ日付が変わる頃であろうか。身を切るような鋭い寒気が頬にピリピリと痛い。暖を取るため、火を焚いている中とは違って、しばらくジッとしているだけで靴のつま先までが冷たくなってくる。革のブーツがキシキシと軋んだ音を上げている。当然のように、零下は超えているだろう。

「ルールー」

「ここに」

気配でそれと察知した。

声と共に。路地裏にあるゴミ箱の影から、染み出るように、女が湧き出てきた。

ルールーは、分厚い羽毛のコートで細い身体をすっぽり包みながら、立っている。

もふもふしたファーがいかにもあったかそうであった。

余談ではあるが、屋外行動の多い彼女のために、蔵人が買ってあげた逸品である。

ルールーは、密かにこれを宝として、クローゼットに仕舞い込みあまり出さなかった。

「あのな。来てたんなら、店の中に入ればいいじゃんか」

「私はこの戦いについてこれないとハッキリいわれてますので……」

「ああん? ああ、そうか。おい、あのおばかのいうことは気にすんなよ。全部脊髄反射なんだから。深く考えるだけ時間の無駄ってもんだ」

「どうせ、スペック不足の女ですよ」

ルールーは珍しく、ついと顔を横に向けてすねてみせた。なんともかわいげのある女である。

なので、蔵人はちょっとイタズラをした。

「みみー」

「きゃっ。引っ張らないでくださいっ。ああんっ。そこっ、敏感なんですっ」

「あとで、かわいがってやるから。な」

「もう、本当ですよ。クランドさま」

「屋敷の様子はどうだ」

「特に変わったことは。あの、ひとついいですか?」

「なんだ」

「その、ポルディナさまは。彼女をなぜ連れてこなかったのですか? 正直、いうと心が辛いですが、あの豊満な身体は男を引き寄せるのに充分な力となるはずですが」

「え? 冗談いうなよ。俺のポルディナにあんなマネさせられるわけないだろ」

蔵人の顔。真に迫っていた。ルールーの表情が能面のように生気を失う。

「へー」

「あ、ちょっ! なにその顔? ウソ! 冗談だってば。ルールーたぁん。ね、このことはみんなに内緒にしといてよね。俺もさ、悪気はないんだよ。ただ、感性で生きてる部分があるからさ。ね、ね。好き好き、ちゅっちゅっ」

「もおお。彼女ばかり特別扱いするのですから。こんなこと、いえませんよ、姫さまにも、ほかの方々にも」

「おお、サンクス。それと、シズカの具合はどうだ。まだ、絶賛ヒッキー中か?」

「いえ。そういうわけではないのですが。なぜか、街に出て人目につくのを必要以上に恐れているようで。クランドさまには会いたがっておられましたが」

「ふーん。ま、それは帰ってから考えるとするか。で、ひとつ頼みたいことができたんだが。いいか」

「なんなりとおっしゃってください」

「金貸してくれ」

「……」

「冗談だよ。銀馬車亭に来なくなった不人情なやつらについて洗ってくれ」

「はい」

「うわっ。特に突っ込まず、財布に黙ってお金を補充してくれるルールーやさしー」

「飲む打つ買うは男の甲斐性ですから。でも、あまり安い娼婦を買うのはやめてくださいね。お身体に触りますので。ルールーはそれだけが心配です」

「――なら、その心配だけ解消しておくか?」

蔵人がニタつきながらルールーの細い顎をクイッと持ち上げる。好色そうに舌なめずりをすると、嫌がるどころか、彼女は瞳を欲情の炎で燃え立たせた。

「はい。精一杯、努めさせていただきます」

ルールーは、雪の降りそうな寒さの中、燃えるように顔を赤く燃えたぎらせ、主の手を引くと、静かに物陰に消えていった。

酒場“女王蜂”のホステス、イネスはその日もいつもどおりの時間に出勤し、仕事を行っていた。

いくら造作が整っていて、調度品や什器が豪華で、貴族が行なう舞踏会のように、音楽で演出を行っていても、根っこは飲み屋に過ぎない。店側が、ある程度客層を絞っていても、酒が入れば人格まで変わるのは避けられない宿命のようなものであろう。

まず野卑な罵声が耳についた。砕ける酒盃や、怒号に混じって、鼻を突くような血臭が漂ってきた。

「おい。早く、裏手に隠れろ。ゴタゴタだ」

店の用心棒(オフィサー)であるオークの男が力任せに、グイと肩を掴んでくる。イネスは、痛みに顔をしかめながらすぐに席を立った。

好んでこの仕事をしているわけではない。おまけに、ときどき、好む好まざるを別にして暴力沙汰はどうしたって起こるのだ。

イネスは若い頃から水商売を転々としてきた女だ。堅気の娘に比べれば、はるかに暴力に対しては耐性があるが、慣れて無感動になるほどスレてはいなかった。自分より若い娘たちがキャアキャアいいながら、素早くオークに誘導され、一室に逃げてゆく。

わずかの間、ぼうっとしていたせいで、避難部屋に逃げ込むのが遅れてしまった。

「ちょっと、やめてよね、冗談でしょ!」

扉のノブをガチャガチャと回すが、内側からかっちり錠を下ろされたようだ。

以前、他店でこのようなことが一度あった。そして、イネスの記憶によれば、その娘は争いの余波で、荒くれ者に胸を刺され、あっけなく死んでしまったのだ。

あれから、もう、十年も経ったであろうか。

こんな不吉な考えが浮かぶもの、あの豚野郎が自分を締め出すからである。

「開けてよ! 開けてったら!」

ドンドンと力任せにドアを叩くが、ピクリともしない。

イネスはあきらめて、扉を背にもたれかかると、乱れた前髪を手櫛で整えてから、腹を据えていまだ起きている争いの場を少しだけ確かめてみることにした。

(こういうのってわからないから余計に怖くなるのよね)

「あれ?」

そろりそろりと顔を壁際からわずかに突き出すと、もう、そこには誰の姿もなかった。

「うっわ。これはひどいわね……あ」

店の中央付近ではかなり大規模な立ち回りが起きたのか、いかにも重たそうなソファが暴風雨にあったように、ひっくり返っている。

確か、諍いの中心付近に座っていたのは、冒険者でそれなりに名の通った男であったと記憶している。

基本、女王蜂は、貴族や裕福な商人、それに小金を持っていそうな比較的温和な街衆しか相手にしない。

特に、このシルバーヴィラゴで一番多いとされる冒険者は、鼻もひっかけてもらえないほど胡乱な存在であった。

なりだけは繕っていても、酒が入ればすぐに地金が顕になるのだ。

その点、先日イネスが相手をしたやけに若い冒険者の男は中々にかわいげがあった。

イネスから見れば、ひと回り以上年下であろうその男は、とにもかくにも若い男性特有の荒い性欲を隠そうともせずに、身体に触りたがった。

そこには笑って許せてしまえそうな独特の児戯的雰囲気があった。

陽気ないやらしさなのである。特に、幼児性が強いのか、乳房に手を伸ばしてくるのは、まだ幼い息子のことを思いだし、なんとなく笑えてしまう。

(やだ。こんなときになにを考えてるのかしら、あたし)

キョロキョロしていると、大きな音を立てて、オークたちが戻ってきた。こんなところを見つかれば、強く叱責されるのは免れない。彼らは、見た目の鈍重さや粗暴さからはまったく想像できないほど職務に忠実でなおかつ繊細であった。

イネスは、そろっとソファに隠れながら、四つん這いで移動する。聞くつもりはなかったが、フゴフゴという荒い鼻息と共に、愚痴が飛び込んできた。

「ラッセルのやつなに考えてんだか」

「自分ひとりでカタをつける? 雇われ店長が偉そうに」

「オレらだって、オーナーの指示がなきゃ、あいつのいうことなんざいちいち聞きゃしねえってのによう。オレらがヘコヘコするから勘違いしちまったんだぜ。きっと」

「せいぜい、腕の一本でもへし折られりゃこっちも溜飲が下がるってもんだぜ」

「相手は、バリバリの冒険者だ。特に、あの眼帯の男。シュトランザとかいったか。かなり使うぞ。たぶん、ヘルムートかマリオあたりじゃなきゃ、勝負にならない」

「外に出たとたん、お仲間もゾロゾロ、一ダースほど集まってきたし。ヘっ。こりゃ、アイツ死ぬしかねぇんじゃねえ?」

「もう、放っておけ。どうせ、金でカタをつけるんだろう。我らのような生粋の戦士ではないラッセルにとってはすべて織り込み済みの話し合いだ。どうせ、ヘコヘコ頭を下げるところを見られたくなかったのだろう」

「ケッ。んで、ションベンちびった挙句、戻ったときには、処理しておきました、とかなんとかいつもどおり取り澄ました顔で述べるんだろう。笑わせるぜ。ったくよ!」

「今日はどっちみちこのまま営業はできない。ベルグレイドさまもなにを考えて、あんな男に経営を任せたのやら」

「ヘルムートのいうとおりだな。あいつ、なんか妙なんだ。店の売り上げをまるで気にしてねーし。これじゃ、わざわざ苦労して銀馬車亭に張り合ってるオレらがバカみてーだ」

(ラッセルが直接話をつけにいったのかしら)

オークたちをやり過ごすと、イネスはペタンと床の上に座り込みながら、ふむん、と首をかしげた。このまま、ここにいても仕方がない。

かといって、あの豚どもの前に戻って、作りたくもない笑みを浮かべて、一銭の得にもならない酌なんぞは願い下げである。

持ち前の好奇心がむくむくと沸き起こる。イネスは入店して日が浅く、店長であるラッセルのことはよく知らないのだ。

それにあの男。こういってはなんだが、はじめて会ったときから、あまり虫が好かない。

ここで、ひとつならず者に脅されているラッセルのべそヅラでも見てやれと、イタズラ心を起こしたのが悪かったのか。

イネスは、ドレスの上にコートを引っかけると、たぶん、このあたりと見当をつけて、店の裏手にある小川に向かった。

鎧沢。

と大層な名前のついたこの川は、かつて高名な騎士が、中洲で決闘をしたことで知られているが、二月の寒さもあり、しかも闇夜だ。

この季節、水量は恐ろしく少なく、イネスのミュールでも、濡れずに渡ることができた。

(おおっ、やってるわね。え、嘘でしょう!?)

「おい、ラッセルとかいったな。もう、詫びてもすまんぞ。おまえは、それだけのことを我らにいったのだ!」

大きな岩陰に隠れながら覗いていると、ラッセルと向き合っていた眼帯の男。

シュトランザが腰の剣をサッと抜き放った。

この位置では、ラッセルの背中しか見えない。

さぞや青くなっているあろうと、高みの見物はできない剣呑さである。

イネスは恐怖で早まる鼓動に喉をカラカラに乾かさせた。

店で騒いでいた男は仲間をどこから呼んだのか。

ラッセルを素早く半包囲していた。

その数、七。

素人を脅すには充分すぎるほどの効果はある。

イネスはラッセルが詫びを入れるのを、むしろ懇願していた。

男たちから放射される殺気のオーラは尋常ではない。ただのケガではすまない。

いや、むしろ命があれば儲けものである。そういった類のものであった。

「詫びる。とはおかしなことをおっしゃる。シュトランザさま。私はあなたが、当店の気品を損なわず、それ相応の態度でお遊びになられると。その言葉を信じて、許可を出させていただきましたが。やはり、クズはクズということか」

「なんだと!」

「やはりクズさ。この世には、冒険者とかいう与太者は一匹たりとも必要ないのさ」

「おまえ、死んだぞ。腕一本程度ですませようと思ったが。もうそうはいかないな」

「なぜだ? ふん。そうか。おまえらが鼻息を荒くできるのは、しょせん俺が堅気の人間に見えるから。そうだろう。この臆病者めらが」

ラッセルは、身体のどこから出しているかわからない、奇妙で不快な笑い声を上げた。

地獄の底で鳴く、怪鳥のように陰鬱な響きが、荒れた風に乗って、耳元に届く。イネスは両肩を自分で抱くようにして、ガタガタと歯の根を打ち合わせて、硬質な音を作った。

「さあ、かかってこいゴロツキども。ま、俺が負けるという運命はどこにもない。おまえらのようなゴミは、これで片づけてやる」

「なんだ、その自信は。もっとも、それが末後の言葉だな!」

シュトランザがサッと右手を上げると、男たちが手にしていたランタンや松明を、いっせいに、ひとつの場所へと投げつけた。

火は、互いに喰い合ってひと塊の炎になると、ボッと音を立て、長大な柱を出現させた。

「斬り刻め。それが俺たちの作法だ」

男たちは剣を抜き放つと、巧みな連携でラッセルに襲いかかった。

イネスはこれから起こるであろう惨劇を予想し、目をつむった。

が、その行為は、途中で強制的に凍りついた。

瞬間、無手であったラッセルの右腕が、巨大な黒い火の塊に変化したのだ。

ボッと、炎が大気を割る、鈍い音。

剣だ。

イネスは、ラッセルの右腕に握られた、巨大な剣を確かに見た。

黒い塊は、左右に激しく動くと、パッと雨を降らせた。

生臭い雨だ。黒く粘った血潮が、あたり一面に散布されたのだ。

獣が激しく鳴くような吠え声。背中の産毛が、一斉に立った。

「ひっ」

イネスは音を立ててぶつかってきたなにかに、思わず怯えた声を上げた。

頬に、ヌチャリとした気色悪い感触を覚え、思わず手の甲でぬぐった。

血だ。

ラッセルが振るった剣が、あっという間に、男たちの数を半分ほどに減らしていた。

「ちくしょおおおおっ」

「おおおおっ」

「待て! 不用意に近づくな――」

指示を出そうとしていた男の顔が半分に割れた。大開きになった口から、綺麗に上下へと切り分けられたのだ。

ラッセルの動きは、まるで樹上を自在に這う猿のように、なめらかな動きだった。

不安定なゴロ石の多い足場をものともせず、高速移動を繰り返している。

ひとりは、袈裟懸けに、右の肩口から腰のあたりを。

もうひとりは、顔面から胸元まで斬り下げられ、血煙を上げて、吹っ飛んだ。

「と。残りは、おまえだけか」

「なんだ。なんなんだ、その剣は!?」

「これか? これは魔剣ムラサダ。もっとも、いまから死ぬおまえには、まるきり関係ないだろうな」

言葉が終わるより早く、ラッセルの剣が動いた。

肉を断つ音が鈍く響くと、眼帯をした男の首が、鞠のようにコロコロ転がった。

頭部のない胴体は、剣を構えたまま、暗い中洲に立ち尽くし、やがて糸が切れた繰り人形のように、その場に崩れ落ちた。

逃げよう。とにかく逃げないと。そう思った矢先だった。

「イネスだな。妙な声を立てれば斬る」

ほとんど気づかぬうちに、背後へとラッセルが忍び寄っていた。

くっ、と恐怖で喉が詰まる。ひんやりとした指先が、首筋に添えられた。

もうそれだけでいけない。彼女は完全に抵抗力を失うと、首を激しく縦に振った。

「先日、おまえがついたクランドという男。俺がいう場所に上手くおびき寄せろ。あいつは、おまえにご執心のようだ。抱かせる素振りを見せれば、すぐに食いついてくるだろう」

「――それは」

「おっと。俺の手並みを見ても、まだ抗う気力が残っているとは。好奇心の強さは猫も殺すと。確か、おまえには五つになる息子がいたはずだ。この夜の寒さは堪えるだろう。それとも、親子仲よく、あの河原に揃って首を並べたいかね?」

「や、めて」

「わかってもらえれば助かる。なんにせよ、あの男は調子に乗りすぎた。黙って店を畳んで逃げ出せば、もう少しだけ長生きができたものを。まったく、この世にはついていないやつが多すぎる。おまえも、そう思うだろう」

ラッセルはそういうと、さもおかしそうに、くぐもった笑い声を喉の奥で爆発させた。

横合いから吹きつけてくる烈風を感じながら、イネスは自分の物見高さを心の底から呪うのであった。