Dungeon+Harem+Master
LV198 "Ripped the Shadow of Evil Love"
蔵人は抜け落ちそうな淫売宿の古い階段を、暴れ馬のような勢いで一気に駆け上がると、ラッセルがいるであろう一室へ向かった。
二階の左奥の部屋。煮染めたような木目の扉が飛び込んできた。
男女の淫蕩な気が凝り固まった、目を背けたくなるような汚らわしい部屋だった。古臭く、脂の浮いた扉の把手を見るにつけ、激しい嘔吐感が喉を突き上げた。
「遅かりし内蔵助か!」
助走をつけて扉を思いきり蹴破った。蝶番はネジごと破壊され、腐れかけていた木枠はバラバラに四散して室内に飛び散った。ベッドの横に置かれたランタンのわずかな灯火。網膜に情報が飛び込んでくる。
そこには、一糸まとわぬ姿でぐったりしているレイシーを前に、諸肌脱ぎとなっていま、まさに思いを遂げようとしていたラッセルの姿があった。
「なにやってんだ、このクソ野郎があああッ!」
蔵人は全身を火の玉のように燃え上がらせると、怒りで髪を逆立たせ、だっ、と飛び上がって猛烈な飛び蹴りを食らわせた。
めり、と。
つま先にラッセルの顔面を捉えた。
踏み込みも跳躍も完璧すぎる飛び蹴りだった。垂直に伸びた右足は一片の力も余すことなく伝えきると、男の中央部、鼻の軟骨を押し潰した。
そのまま勢いを殺すことなく、木戸を破壊して、朝靄が烟る宙空に踊った。
虚空でラッセルに掴みかかる。握り込んだ右手。盲滅法、狙いをつけず打ちまくった。
顔。腹。肩。胸。滅多打ちだ。
場所は二階であり、宿は川岸に建っている。当然ながら、ふたりはもつれ合うようにして、外の河原にそのまま墜落した。蔵人の怒りは類を見ないほど激烈だった。
激しく揉み合いながら、両雄は、上下左右に位置を変化させ、ついに、叩きつけられた。
水量の少ない季節である。おまけに骨まで凍るような極寒の季節だ。飛沫を上げながら、低い水面を転がって、互いに掴み合う。
蔵人は、どうにか蹴りを叩き込んで、ラッセルを突き放すと、水の中を転がって距離を取り、立ち上がると同時に腰の長剣を引き抜いた。
聖剣“黒獅子”。闇を映し取った刀身がぬめぬめと異様に輝いている。
時刻は、黎明に差しかかっていたが、あいにくの曇天で、光は見えなかった。
離れた向こう側の砂州では、奇妙な形の魔剣を構えたラッセルが油断なくこちらを窺っている。
「さあ、俺の女に手を出したことを、地獄の底で後悔させてやる」
目の前に白いものがチラホラと舞いだした。サラ雪である。目の細かなそれは、妖精のようにふわりと儚げに踊ると、川の流れに飲まれて、消える。
全身に水を浴びている。気温は零下をはるかに下回っているだろうが、闘気が横溢しているせいで、まるで寒さを感じない。
それどころか、蔵人の全身からは白い蒸気が立ち昇り、顔は火照って赤々と染まっていた。
飛沫を上げながら、氷のような川を渡っていく。
蔵人が、中洲に到着すると、それまでジッとしていたラッセルが、突如として走り出した。
三メートル程度に互いを隔てたまま、併走する。
潮合。瞬間的に満ちた。
蔵人は裂帛の気合を腹の底から搾り出すと、冷気を割って斬撃を見舞った。
鋭い音を残して銀線が真っ直ぐ伸びる。ラッセル。動じることなく正面から受けた。
が、剛剣である。
幾多の難敵を斬り伏せた膂力は、いくら魔剣の力を借りたといえど、基本スペックの低い鍛冶屋徒弟に防げるものではない。
力仕事に従事していたラッセルの身体は中々に鍛え抜かれており、並よりははるかに上だが、そもそもの立ち位置からして違った。
がいん、と。硬質な音が冷たい空気の中を抜けた。
「うおおおっ」
ラッセルは自分を鼓舞するように、顔面を真っ赤にして押し返そうとするが、子供が横綱に力で対応するようなものだ。惨めに背後に押し倒されると、転がった大小の石に顔面を打ちつけながら、あちこちに打撲傷を作った。
これを見逃すほど甘い人生を蔵人は送っていない。勝利の女神の後れ毛は、刹那の瞬間に消失すること知っていた。
迷うことなく、上段から打ち込んだ。刃は、びょうと轟音を立ててラッセルの顔面を唐竹割りに狙った。
がっ、と。
骨が断ち割られる、鈍く、重い音が鳴った。すんでのところで、ラッセルが左腕を犠牲にして、蔵人の攻撃を防いだのだ。
「おおお、おお……!」
だが、その代償はあまりにも大きかった。ラッセルは左腕をすぱりと落とされて、声にならない叫びをほとばしらせる。パッと赤い花が宙に咲いた。ビタビタと、凄まじい臭いを撒き散らして血液が散布された。白っぽい小砂利が、赤ペンキを零したように、あたり一面を隙間なく塗りつぶしていく。ラッセルの腕。切り裂かれた断面からは、肉片や白い骨が覗いている。
通常ならここで戦闘不能だろう。
「む!」
「があああっ」
が、ラッセルは降参の意思など微塵も見せず、残った右腕を振るってきた。
間合いは充分だ。剣撃は届かない。余裕を持って、後方に飛び退る。
ゾクリ、と死神の鎌が伸びた錯覚を覚えた。
魔剣ムラサダ。
男の握った武器は、ググッと鎌首をもたげる蛇のように、ありえない長さに変化した。
スっと腹の皮に火が走るような痛みを覚えた。
距離は四メートル。届かない間合いであったはず。
気づけば、目の前に異常なまでの長さに変化した刃が、風を巻いて踊っていた。
――あの直感が働かなかければ、俺の胴は輪切りにされていた。
「どうしたんだ、クランド。俺の武器がそれほどに珍しいかい?」
左腕を叩き落とされ。多量の血を失ってもなお、ラッセルは余裕を崩さず、泰然としていた。
(痛みを感じていないのか?)
「なんだ、おしゃべりはしてくれないのか。じゃあ、おまえを殺して、続きはレイシーとすることにするよ。クランド。おまえの間抜けな死にざまは寝物語にちょうどいい!」
異様な風切り音を鳴らして、ラッセルの剣撃が迫る。奇妙に伸び縮する魔剣の刃は、先ほどまで優位に戦いを進めてきた蔵人を防戦一方にさせた。
敵の得物が長いなら長いなりに、戦い方というものはある。
例えば、敵の武器が槍だとすれば、なんとか柄の内に潜り込めば、自由に振り回せる剣の勝利なのである。
が、ラッセルの使う魔剣ムラサダは少々勝手が違った。刃は、担い手の意思ひとつで自由自在に千変万化し、なんとか間合いの中にまで潜ったとしても、取り回しのいい長さに変えられてしまえば、即座には対応が難しいのだ。
びゅんと、自在に刃が伸びる。対応しきれず、受けるかかわすか迷った。飛び出してきた白刃が、脛のあたりを薄く裂いた。ピッと傷口か勢いよく血潮が吹き出した。
右手を突いて、後方に飛んだ。あと、わずかでも遅れたら右足が切断されていた。一度切断されたものが、紋章の力でつくかどうかは試したことがない。背筋が凍った。
が、考えている暇もなかった。敵の攻撃。ゆるめることなく、断続的に斬撃を放ってくる。
防ぐ。かわす。身体を動かす。動かし続ける。
とどまることは死と同義だ。あえぐように、駆け続けた。
「どうした、どうした! そんなことで、レイシーを守れるというのかッ。ダメだダメだダメだクランド! そんな拙い技では、とうてい話にならないっ」
「勝手なこといいやがって!」
伸びる魔剣。上下に分かれて、斬撃が放たれる。蔵人は、人間の反射能力をはるかに超えた戦いをここでしいられた。絶え間なく、刃と刃が噛み合う音が、雪の舞う川原の中に鳴り響く。寒さと、吹きすさぶ烈風が蔵人の底なしといえる体力を磨り潰していった。
酷使する筋肉へ乳酸が幾何級的に溜まっていく。全力で重い鉄の棒を何度も振るうのである。
それに、自分の命や家族の命運が乗っているとなれば、疲労はもう計り知れない。
打開策を見いだせないまま、時間と命だけが減算されていった。
呼吸が苦しい。寒さで指先が痺れ、身体中に倦怠感が負ぶさってくる。胸の鼓動はうるさいくらいに鳴り止まない。きん、と世界が張り詰めて、無音になった。
打ち合う剣の音と、砂利を踏んで動く、自分の足音だけがクリアになった。
見れば、ラッセルの右半身は、どす黒い闇のようなものに侵食されていった。
ラッセルが剣を振るっているのではない。魔剣が、振らせているのだ。激しい妄執に喉までどっぷり浸かった男に、もはや自我が残っているかどうかすら怪しいものだ。
魔剣がラッセルへと完全になり変わろうとしたときが、この戦いの最後になるだろう。
息を吐き出し続けながら、川原を駆け巡り、迫り来る刃を防ぎ続けた。呼吸が苦しい。頭の中心で電光が縦横無尽にほとばしり、ちょっとした気のゆるみで意識を手放しそうになる。
腕が重い。足が重い。胃袋が鉛を呑んだように、重く、身体の動きを制限する。
ラッセルが獣のように激しく叫び、魔剣を振るった。飛び上がってかわす。湾曲した刃は、虚空で意志を持ったように、捻じ曲がり、真っ直ぐと突き上げてくる。左胸から肩までの肉をこそげ落とされる。血飛沫が、雨のように舞って、降り積もった白い雪を汚した。
ついに、蔵人を捉えたと、ラッセルの顔が奇妙な形にたわんだ。
その瞬間、伸長しすぎた魔剣の重みに耐えかね、ラッセルの身体が、わずかにゆれた。
同時に、ラッセルの後方から大きな水柱が立ち上がった。ルールーだ。
この瞬間を狙って、骨まで凍る極寒の中、水に浸かっていたのだろうか。
言語を絶する忍耐力だった。
ルールーは凄絶な表情で、もう、これ以上ないほどの美しい投擲を見せた。
ラッセルの表情。振り返る形で、驚愕に染まっていた。
きらりと、白く輝く短剣は、流星のようにみっつ、流れた。
一本は、肩甲骨の下あたり。
一本は、腰の右斜め。
一本は、右足首へ、深々と埋まった。
絶叫が長々と流れた。それは勝利を高らかに祝う、ファンファーレに聞こえた。
ラッセルのバランス。大きく崩れた。
水に対する恐怖を克服した彼女の支援。ここで生かさないという法はない。
勝負をかけるときがきた。
蔵人は裂帛の気合と共に長剣を魔剣ムラサダに振るった。
伸びきった魔剣が、もっとも細くなった土手っ腹に、渾身の一撃が叩き込まれたのだ。
ぱきん、と。
繊細なガラスが脆くも崩れ去るような音が、響いた。
魔剣は、伸びすぎた枝が、庭師の鋏でちょんぎられるように、いともたやすく両断された。
「けあああっ!」
ラッセルの唇から、いままで耳にしたことのないような、狂人同然の絶叫が放たれた。
すでに、身体の半分を魔剣に侵食されていたのか。ドス黒い澱のようなものを、げえげえと吐き散らしながら、ラッセルは身体をくの字に折った。
駆けた。
このときのために、足を残しておいたのだ。
もはや余力を残す必要もない。大小の石くれを蹴散らかしながら、真っ直ぐに突き進んだ。
長剣を両腕で握り込む。ラッセルが吹きつけられる殺気を感じ、顔を上げた。
思っていた以上に幼い顔立ちであった。
突いた。
カケラの情も残さず両手突きを放った。
ズン、と。
肉を穿つ確かな感触が両腕に響いた。黒獅子は見事にラッセルの身体の中心部を貫き、刀身を残らず背中に露出させ、ツバ口でとどまった。
ラッセルの筋肉が強く収縮する手応えが腕に伝わった。素早く剣を引き抜く。ポッカリと空いた黒い空洞から、一拍置いて、多量の血が溢れるようにして飛び出した。
蔵人は、腕を生あたたかい血で汚しながら、虚脱状態に陥った。目の前の男は、目をカッと見開いたまま、醜いヤケドの痕を引き攣らせて、口をパクパクと開閉させた。
夏の暑い日だった。
頭上に浮かぶ黄色い炎の塊は、地上に存在する、ありとあらゆるものを焼き焦がそうとするかのごとく、偏執的に空を、地上を、動くものすべてに向かって照りつけていた。
少年の家は貧しかった。家族は、兄弟だけでも六人。家にはすでに、母が次の子を孕んでおり、ベッドに横になったまま、ピクリとも動こうとしない。
こんな天気の日に部屋に閉じこもるのは、鍋の中で蹲るようなものだった。
父親は、街中でも知られる博打狂いで、もう三日も帰ってこない。
つまりは、一家にもたらされる恩恵はゼロである。家族の誰もが飢えきっていた。当然のことながら少年も例外ではない。言語を絶する飢餓である。食わないことには慣れていたが、ここ数日の暑さは極めつけであった。固形物などなにも口にしていない。それどころか、水を買う金すら一家にはなかった。
街は、記録的な干魃に見舞われていた。
いつもであれば、たっぷりとした水をたたえた川も、底が見えるほど干上がっている。無数に転がる白い石ころは、陽光を反射してギラギラと妙に輝いている、記憶にある豊富だった水量の対比が、少年の気持ちを余計に荒ませた。
橋の欄干に掴まり、所在無く立っていると、ふたりの弟が物欲しそうに袖を引いていた。
喉が渇いたと催促しているのだ。
ああ、そうだ。生きていれば喉が渇く。当たり前だ。そもそも、少年は、幼い兄弟が揃って後をついてきたことも気づいていなかった。垢と、よくわからない皮膚炎や眼病に犯されて、弟たちは前がよく見えないのか、時折転んだ。
少年は、骨と皮のような身体を引きずって、なんとか弟たちを抱き起こしてやった。拍子で、着ていたシャツが破けた。弟の身体。自分とふたつしか違わないのに、枯れ木のように軽く、腕などは枝のように細かった。
弟たちの眼には、なんの感情も浮かんでいない。昏い闇だった。少年の親戚は、城外の遠くに住んでおり、不義理を重ねた父親のせいで援助は求められない。
通りには、日光に照らされるのを嫌がって、ほとんどの人間が内に篭っていた。閑散としている。すべて暑さのせいだった。
あちこちに、茶色い布のようなものが転がっている。野良犬の死体だった。
裕福な家ならば、通りをたまに流している水売りから、飲料水を購えるのだが、略奪を恐れてか、それも見当たらない。
「ねえ、喉渇いているの?」
声。力の残った少女の声だった。
少年は、朽ちそうな身体を無理やり声の方角に動かして、その人物を見た。
知っている。近所に住む酒場の娘だ。少年は職人の息子であり、ものを作らない職業の人間は愚かだと、父母に叩き込まれていた。
だが、知っている。
少年の父親は口ではそういいながら、酒場にいる女目当てに通っていることも。また、母親が濁った目で、その父親の素行に気づいていることも。
「ちょっと待ってて」
少女はそういうと、酒場の中に駆け込んでゆく。
――ほどなくして両手に革袋を抱えて戻ってきた。
「はい、これあげる」
飢えた野良犬のように、それに反応した。水の匂いだ。死にかけていたふたりの弟が、飛び上がって寄りかかり、ギラギラした眼で中身を見つめている。悲しかった。軽蔑している家の娘に物乞い扱いされたことも、また、それを期待して、店の前を立ち去らなかった自分にも。
銀馬車亭は飲み屋だ。ならば、いかなる手段をもってしても、水を切らすはずがない。
現に、悪童仲間からは、この娘に、幾度も乞うて水を分けてもらっていた者が何人もいた。
自分だけは、そんなことはしたくないと。密かに誇っていたのに。
ポロポロと涙があふれ出る。
ふと、羽毛のようにやわらかいなにかが、頭の上に触れた。それから、聞いたこともないような美しい歌が、空から降ってきた。
子供の頃よく聞いた子守唄だった。どこまでも透き通った天使のような歌声だった。礼拝堂で見た、宗教画を思い出す。救いはこんなところにあった。少年は、自分の中の胸に溜まった、黒い澱が、確かに清められていくのを感じた。
この声は、きっと世界のいかなるものよりも貴い。信じて疑わなかった。
チラと視線を動かすと、水を奪い合っていた弟たちも、手を止めて呆然と聞き入っている。この声の価値がわかるのだろうか。身体の底から吹き出る熱い炎で、視界がぐにゃりとたわんだ。
少年は、ついに、おいおいと叫びながら、恥も外聞もなく身を震わせた。解き放たれた気分と、奇妙な多幸感に包まれ、すべてが希薄になっていく。
頬にすべすべとした手が、添えられた。冷たくて、気持ちのいいものだった。
「泣かないで。ね、ラッセル」
独特の金色の髪も。真っ白で雪のように白い歯も。なにもかもが神々しかった。
少年は、レイシーに恋をした。
それが、なにもかものはじまりだったのに。
――ああ。自分はいったい、どこで間違えてしまったのだろう。
蔵人は剣を引き抜くと同時に、ラッセルの記憶の一部と感応した。凄まじく後味の悪い気分だった。かつてこのような能力はなかった。戦闘を重ねるにつけて、なぜか生まれた能力であった。
妄想と呼ぶには生々しすぎる。道を違えた男の記憶であった。どのようなタイミングかはわからないが、命のギリギリになると、近くにいる人間の記憶や人生の一部が透けるのだ。誓っていえる。こんな能力必要ない、と。
「クソッタレが……」
肉の塊が目の前で長々と伸びる。生命の気配を感じさせない。徹頭徹尾、不快な戦いだった。
自分で空けた男の傷口から命が漏れ出している。塞ぐことはできない。この戦いから目を逸らすことこそ、命をやりとりしたラッセルをもっとも侮辱する行為である。残らず、飲み込んで噛み締める。勝ち残ったものの背負う責務であった。
蔵人は、カッといまだ見開いていたラッセルの目蓋を閉じさせた。
そこには、狂ったような激情はどこにも見えず、憑き物が落ちたように晴れやかで、どこか眠っているようにさえ思えた。
「クランドさま」
水から上がったルールーが濡れ鼠のまま駆け寄ってくる。顔色は紙のように白く、唇は死人のように濃い青紫に変色していた。ちゃぷちゃぷと細かな水音が背後で鳴った。視線を転じる。そこには意識を取り戻したレイシーが、シーツで身体を包んだまま立っていた。
レイシーは倒れているラッセルを呆然と見つめ、やがて両膝から崩れるように座り込んだ。
次いで、怯えた様子で蔵人に向き直る。レイシー。乱れた髪が顔にかかっている。その隙間から凄絶な表情で、乞うるように上目遣いをしたまま、微動だにしなかった。瞳の縁に透明な涙が盛り上がっていく。いいたいことは、言葉にせずとも理解できた。
どれほど罪深くても死ねば仏である。
さらにいえば、どんな非道な人間であろうと、かつての楽しい思い出まで、そう簡単に消し去ることはできない。蔵人はそこまで狭量ではなかった。無言のまま首を縦に振った。弾かれたように、レイシーは立ち上がると、ラッセルの骸に取りすがって、声を上げて泣いた。
蔵人は彼女のことを責める気にはなれなかった。ラッセルが死んだのは結果に過ぎない。ひとりの女を命懸けで取り合えば、どちらかがこうなることはわかりきっていたはずだ。状況によっては、その場に伏していたのは蔵人であったかもしれない。
不意に、遺体のすぐ脇で、黒い炎のようなものが、ゆらりと立上るを目にした。ゾクと、背中に氷の柱が突き入れられたような、嫌な感触が走った。蔵人はすぐさま、遺体に取りすがるレイシーを引っ剥がすと、後方に大きく跳ね飛んだ。
その判断は正しかった。ラッセルの遺体は、みるみるうちに溶解すると、黒い泥のように変化して、細かな石が敷き詰められた河原にドッと広がった。それは、重油を撒いたような汚れた海を思わせた。
化学物質のような攻撃的な匂いが鼻っ柱を横殴りにする。蔵人はレイシーを外套の中に巻き込むと、突如として現れた黒い影に注視した。黒煙が立ち昇っているのは、先ほどの戦いで確かに打ち砕いたはずの、魔剣ムラサダの刀身からだった。
「いま一歩のところを」
「誰だ……!」
黒い影は、たちまちひとりの男の形を取ると、薄い唇をゆがめて、ニヤリと笑った。
「なんだ、この虫歯菌みてーな野郎は」
それが蔵人の男に対する第一印象であった。男は、全身に真っ黒な全身タイツを着込んで、さながらコントに出てくる、悪い虫歯をモチーフにした、どこか道化じみた格好をしていた。
唯一、露出している顔面部分は、血の気がないように青ざめており、眉はなく、眼球の中央部分の瞳孔は白濁しており、見るからに不気味な相貌をしていた。
「我は、魔剣ムラサダ。ようやく、あと少しでこの男の身体を乗っ取れたというに。愚かな人間風情が、邪魔をしおってからに」
「あ、魔剣ムラサダだと?」
「そう。我は、この魔剣に宿る精霊よ。人の魂の隙間につけ入り、その生命エネルギーを喰らう。実際、ゆがんだコンプレックスの塊であるこの男は、実に扱いやすかった。黙っていても、良質な負の力をいくらでも増産してくれる。我のいい苗床であったわ……」
「するってーとアレか。要するに、おまえがラッセルを操っていたということか?」
「操るもなにも。これは、こやつが心の奥底で望んでいたことを後押ししてやったに過ぎない。もっとも、我としてもその方が都合がよかっただけの話であるがな」
「おまえがよけーなことを横からゴチャゴチャ吹き込まなきゃ、コイツはそんなご大層なマネはしなかったってわけかよ」
「そういう考えもあるが。もっとも、この男が我を手にした時点で、結末は崩壊と決まっておったわ。魔剣は、その持ち主にふさわしい人物と運命的にめぐり合う。互いに、対で引き寄せ合うのよ。ふむ。だが、こんなところで宿主が死んでしまうとは。我は、宿主なしでは長時間、現世に姿を留めておられぬ。数百年ぶりに、覚醒したのだ。おまえは愚かだが、強靭な身体を持っているようだな。手はじめに、おまえの身体をもらいうけるぞ!」
魔剣の精霊ムラサダは、右手に黒い三尖刀を出現させると、有無をいわさず斬りかかってきた。
「クランドさまッ」
ルールーの声。蔵人は、背中にレイシーを回すと、落ち着いて黒獅子を構え、迎え撃った。
「けえええっ」
生理的に許せない甲高い声である。ムラサダは得物を片手に凄まじい速度で突っ込んできた。
蔵人は外套の前を跳ねのけると、手にした長剣で黒い影を真っ向から斬り下げた。
ムラサダは奇妙な吠え声を上げると、顔から突っ込むように地面へと転がった。
得物である三尖刀は転がって遠くに吹っ飛んだ。
男の身体。
右肩から腰のあたりまで、バッサリと綺麗に切り落とされ、真っ黒な泥に似た液体が、ところ構わず飛び散った。
「なんだこいつは、クソよえーぞ。ふんっ」
蔵人が虫歯菌もどきの腰を蹴りつける。ぎいんっ、とおかしな悲鳴を上げて、苦しみもがき、悶絶した。
「な、なぜだっ。ありえん、たかが、人間がこれほどまでの強さを擁しておるとは……」
「いや。おまえが弱すぎだっての」
蔵人はムラサダの顔面を、情け容赦なく靴底で踏みにじった。
めきり、と鼻の軟骨が砕ける感触。
ムラサダは痛みで、げえげえと激しくあえぎ、真っ黒な吐瀉物を吐き散らかした。
怒りに任せて、腹を蹴りつけた。二度、三度、四度。
めしゃめしゃり、と骨と内部がひしゃげる濁った音が断続的に響き渡った。
トドメとばかりに、長剣を胸のあたりに振り下ろす。
ムラサダはカッと両眼を見開くと、胸に突き刺さった刃をがっしりと握り込んだ。太く、不自然なほど長い指が、ポロポロと転がって地面に落ちた。
芋虫のようなそれは、くるくると回転してから、黒い煙を上げて霧散する。
蔵人が、グイと剣を引き抜くと、ムラサダはさらに濁った瞳で曇天の空を睨みながら、くぐもった声を上げた。
「我を破るとは、な。だが、このまま黙って消えゆく我ではない……」
「けっ。いってろよ」
ムラサダは仰向けのまま、最後に四肢を突っ張らかせると、黒い電光を放った。
「んなッ!?」
まさかこの状況で反撃に出るとは思っていなかった。いかなる回避行動も取れない。まともに、黒い雷を浴びてその場に立ち竦む。女たちが揃って悲鳴を上げた。
蔵人の立っていた場所に、外套や衣服、それに聖剣“黒獅子”までもが、続けざまにバサバサと崩れ落ちる。
「カエ、ル?」
レイシーが口元に手を当てたまま、ぼそりとつぶやいた。
そこには蔵人の姿はどこにもなく。
代わりに、なんの変哲もない大きめな蟇(ヒキガエル)が、げこげこと、気持ちよさげな風情で穏やかに鳴いているだけだった。