Dungeon+Harem+Master
LV254 "Cat Demon Curse"
朝起きたら猫だったなんて事象は、まずまともに生きている人間が受ける仕打ちではないだろうと、志門蔵人は鏡の前で呆然と立ち尽くしながら思うのだった。
ベッドの脇にある鏡の前で四つ足を踏ん張っている動物はどう考えても猫以外のなにものでもない。右手、もとい右の前足を「やあ」とばかりに持ち上げると鏡のなかの茶白は左の前足を持ち上げてみせる。
つくねんと佇んだまま、蔵人はしばし、本当に自分が人間だったかどうかを深く考えてみたが、たぶん間違いはないだろうという結論に達した。ぴょーいとベッドの上に飛び降りるとふわりとした動作で着地する。ふむふむ。これはこれで身軽でいいかもしれない。
毛布の上には散らばった黒外套と上下の衣服が脱ぎ散らかしてある。昨晩は、確かに飲むには飲んだが前後不覚になるほど深酒を嗜んだつもりはない。記憶を失うのは不可解だ。
と、すると、これらを鑑みるに、自分は寝ているうちに猫化したのだろうと推測するのが自然であった。蔵人はかつてカエルになった経験から、これらの摩訶不思議なできごとが起こるのになんの因果もなしにはじまるわけはないと強く確信していた。
とりあえず、喉が渇いたな。そういったつもりであったが、己が口からは「みゃあ」というなんとも腰砕けになりそうな甘ったれた鳴き声しか出てこない。なんてこった。これでは、屋敷の誰かに理由を説明して助力を乞うこともできないではないか。
しばし呆然とするが、まあ、生まれつきの性格からもあろうがこのときはまだ楽観視していた。
蔵人は、毛布の波間をよたよたとかき分けながら、再び机の上に向かってひらりと飛び乗ると、水差しからコップへ中身をそそごうとして、途方に暮れた。
なんてことだ。この猫の手ではどうしようもないではないか。今の蔵人の身体は子猫である。
したがって、瓶を逆さにすることはできず、結果として酷い乾きに苦しめられることとなった。
まあ、人間、どうにもならないとわかっていてもなかなかにあきらめがつかないものだ。
蔵人は、水差しの周りをうろうろとした挙句、ついには押し倒して中身をどばしゃとおん撒けてしまった。自分で倒したくせに、反射的に身体へと激しい震えがきた。いと凄まじい。
――まあ、こんなもんでも飲まないよりはいくらかマシだろうから。
そんな手前勝手な理由で水浸しになった机の上をぺろぺろとやって喉の渇きを潤していると、入口の扉が控えめにとんとんと叩く音がした。
お入り、といったつもりだが、蔵人の口から飛び出るのはやはり「みゃあみゃあ」といったなんとも気勢の上がらない鳴き声だ。我ながら涙がこぼれる。
ご主人さま、と鈴の鳴るような声とともに姿を現したのは、犬耳としっぽをピンと天に向かって尖らせた、従順な下僕のポルディナだった。
「まあ、なんてことをしているの。このどら猫。めっ」
ポルディナは普段は蔵人の前で絶対に見せない砕けた口の利きようで目を三角にすると、素早く駆け寄ると首の皮をひょいとつまんできた。おおう。なんという新感覚。
蔵人はポルディナの手によってなすがままにされると、ぺいっと放られた。
なんだよ、酷いなポルディナ。
「ああ、ああ。もお。ご主人さまの机をこんなにも水浸しにしてしまって。まったく、どこからどうやって潜り込んだのやら。みんなが勝手に餌などやるから、どんどんいついてしまって」
ポルディナはブツブツいいながら、白いタオルをバケツから取り出すと飛び散った水を拭いはじめた。とりあえずお腹がすいたので、その旨を伝えてみるが、彼女はあまり猫が好きではないようなので、かなり邪険にされた。
しまいには、「あなたはお掃除の邪魔だから出て行って」と廊下に放り出された。蔵人は、宙でくるりんっとトンボを切ると、見事な形で絨毯に軟着陸を収めた。この身体はやたらに身軽であるのが唯一の救いだった。
とりあえずメシを食いたい。すべてはそれからだ。そういえば、ヴィクトワールはかなりの猫好きだったはずだ。屋敷のなかに野良猫が増えたのは、彼女が残飯をやたらと与えることも一因ではある。自分でもやけに冷静だな、とヒゲをヒクヒクさせた。
なにか思い当たらないことがないでもない。昨晩、ヒルダが「金運の向上する壺をとってもお値打ちな価格で手に入れちゃったんですよう」とか宣っていた。
まあ、人がよくお嬢な彼女はまんまと市場の香具師にボラれたわけだが。
ヒルダはネリーたちから過酷な制裁を受けた後、半泣きで部屋に帰っていった。
そう、確かそのあと問題になった壺を部屋に持ち帰って……。
――じゃ、じゃあ! 昨日のアレは夢じゃなかったってことかよ?
蔵人は、昔懐かしのアニメを思い出して壺をこすっていたら、ドロドロとした白い煙とともに、頭にターバンを巻いた巨大な猫の魔人が湧き出てきたのを、いつの間にやら夢のなかのできごとと混同していたのだった。
そう、確か猫魔人は傲岸不遜な態度でみっつの願いを叶えるといってきたのだ。自分はどういった願いを伝えたのだろうか。かなり適当だったせいか、よく覚えていないのだが。髭をぷるぷる震わせて唸っていると、前方から見慣れたメイド服の美女がしずしずと歩み寄ってくる。
「あら、かわいらしい猫さん。うふふ。おはようございます。今日はお散歩かしら」
その言葉遣いに強烈な違和感を覚え、全身が雷光の直撃を受けたかのように痺れた。
「でも、勝手にお屋敷のなかを歩いちゃダメよ。ご主人さまの許可をとっているわけではないのですからね」
蔵人は、豊満な胸のなかに抱えられると頭をよしよしと撫でられた。碧の瞳が慈愛に満ちて潤んでいる。彼女はにこやかに微笑むと、蔵人の鼻の頭へとやさしくキスをして目を細めている。
――つか、キャラ崩壊ってレベルじゃねーだろっ!
もうやめよう。そろそろ現実を直視しよう。蔵人の目の前でたおやかに振舞う美女こそヴィクトワール以外の何者でもなかった。違う。やつは猫好きだがこんな言葉遣いは絶対にしない。蔵人は両眼を見開きながら全身の毛穴がワッと押し広がるの感じ、背中の毛を逆立てた。
――ちげーだろ! おまえの対応はこうだ!
おお、野良猫ではないか。まったく、自儘に泥のついた足で屋敷を這い回るとは不届き千万なやつばらめ。本来なら我が剣のサビにしてくれるところだが、今日は格別の温情を持って許してやるとしよう。ふふん、感謝せよ。その、だな。感謝ついでに餌をやろう。勘違いするなよ、これはただの残飯処理なのだからな。とかなんとか宣って、ハナあたりに現場を目撃されて狼狽しまくるのがおまえの個性だろうが。個性を殺すんじゃないよ、まったく。
「猫さん、おなかがすいていらっしゃるのかしら。ついておいでなさいな。今は、怖いお姉さまがいらっしゃらないのよ。厨房にいらしてもらえれば、少しはお裾分けもできますわ」
とりあえず胸に残る違和感は置いておいて。蔵人は華麗にターンしたメイドの背を追いつつ、最初の願い事を思い出していた。ひとつめの願いは「ヴィクトワールをお嬢さまっぽくしろ」だ。
蔵人は空きっ腹を抱えながら厨房にたどり着くと、ようやく朝食にありつくことができた。
さあ、お食べといわれるが早いか、餌皿に顔を突っ込むとそこは畜生の浅ましさ。顔が汚れるのもなんのその、がつがつむしゃむしゃと残らず平らげてのけた。
ヴィクトワールはにこにこしながら蔵人の食べっぷりを見終わると皿を片手に水場へと向かっていった。腹がくちくなったところでようやく頭が回りはじめた。現状を打破するにしても協力者が必要になる。
だが、冷静に考えて、まずどうやって猫語を解するものを見つけるのかということと、大前提として猫化の呪いを解く方法を探らなければならない。
ぺろぺろと顔のけづくろいをしながら、頭を捻っていると、いつ来たのかわからないがキジトラの子猫が机の影に潜んでこちらの様子を窺っていた。
「どうも」
「おめえさん、見ねぇ顔だね。新入りかい?」
蔵人があいさつをすると、キジトラは気さくな性格なのか、ハキハキとした声で訊ねてくる。
「ま、そんなような、そうでもないような。いや。てか、おまえはいっつもルシルに構われてる猫くんじゃないか」
「……なにか仔細があるようだな。おれでよけりゃ力になってもいいぜ」
キジトラはかなり親切な性格であった。これが幸運の第一であろう。
蔵人は、キジトラに、自分がこの屋敷の主であることと、昨晩、壺から湧いて出た猫魔人の魔力によって猫にされてしまったことを根気よく話した。
キジトラは、ふんふんと長くもない話を聞き終わると、ヒゲをピンと張ったまま、目を大きくして、あくびとも感嘆ともつかない息を長く、それは長く吐き出した。
「そいつは災難だったな。ようし、アンタにゃいっつも世話になってるからな。仲間が難儀しているならば、黙って見てるってわけにもいかぬ。まずは、角の隠居のところに相談に行こう。あのジイさんならこのへんじゃかなりの知恵者だ。おれらにゃ思いもつかねえ策を授けてくださるはずに違いない」
「そいつはありがてぇが。まず、あの壺がどうなったか気になるんだが。ひとりで確かめに戻るのも、存外心細い。悪いが、つき合っちゃくれねえか、やい」
「おう、いいともいいとも。おめえさんが気にしてるってのは犬の姉ちゃんのことだろう。あの娘は悪人じゃないのだが、どうにもおれらとはウマが合わないみてぇでな。酷い折檻を受けないまでも、どうにも苦手に思う気持ちはズンとわかるってもんよ。旅は道連れ。なあに、今日はたいした用事もないからな。とことんまでつき合うぜ」
「悪いな、助かるよ」
こうして猫蔵人とキジトラは、勇躍、景気づけに干し魚をかすめ取って胃の腑にブチ込むと、諸悪の根源であろう猫魔人の壺に向かって進撃を開始した。
――それにしても、このキジトラにも予定とかがあったのか。複雑な心境だな。
世話になっておきながらも蔵人は本人が聞いたら気を悪くしそうなことをぼんやりと考えながら歩く。たいした距離もないが、屋敷のなかは、小エルフという無軌道を体現化したような存在が盤踞している。
キジトラ曰く「やつらにめっかると、もうその日はドブに捨てたようなものだ」そうな。
幸い、この時間、尻の落ち着かない腕白娘どもは雨が降らない限り、外を野生の獣のように走り回っているはずだ。
「相棒。慎重には慎重を期さないとな。ちょっとした油断が、おれらは命取りになりかねない」
「なにげに、ふけーな」
キジトラは器用に施錠されていない蔵人の私室へ扉を押し開けてすべり込むと、曲がったカギしっぽをクイクイ振って「突入可」の合図を出した。
「これが問題のツボってやつかよ。なあ、おい」
どこか心が踊っているのか、キジトラはちょっと興奮した様子で唸っている。謎の壺は、昨晩蔵人が置いた部屋の隅から特に動かされることもなくそのままにしてあった。
低い位置で歩くからよくわかるのだが室内の清掃は完了していた。キジトラと並んで壺を眺めた。特に変哲のない普通の作りだ。蔵人はキジトラといっしょになって壺の周りをくるくると、飽きもせず回ってみるが、なにかしら期待していた変化の兆しは見出すことができなかった。
「できればこれを角の隠居に見せてえんだがなぁ。おれらじゃ持っていくのは無理そうだ」
「うーん」
キジトラは前足を壺の腹に引っかけてカリカリやるが、子猫二匹の力ではいかんともしがたい。
推して、転がしながら運ぼうかと思ったが、ちょっと非現実的な方法だ。
壺といっても子供でも抱えられそうな大きさだ。どうにかならんかな。うんうんふたりして唸っていると、キジトラが扉のほうを向いて、びくんと身体を揺らした。
「やばい、相棒。やつだ……!」
「は、え。なに?」
扉の向こうには半身を隠すようにして瞳をキラキラさせている小エルフの童女がいた。
ルシルだ。そういえばキジトラはこの娘によって猫族の誇りともいえる髭を残らず抜かれそうになった悲しい過去があった。
「うわっ。はやっ!」
キジトラは素早く身を翻すとベッドの下に飛び込んでゆく。ルシルは幼女独特の拙い走り方でととと、と絨毯の上をすべるように迫ってきた。なので、思わずいつものように呼びかけた。
「ちょっと待った! キジトラをいじめんのはやめてくれっ」
ルシルは電流に打たれたようにストップすると、とことことと蔵人の前まで来ると、しゃがんで視線を合わせてきた。
「お、おい。まさか、俺の言葉がわかるのか……? な、なに! なんとなくだが、フィーリングで理解できるだって? ははっ。はははっ。これぞ天佑! おい、キジトラ。出てこいや。今や、ルシルは我が軍門に下ったぞ。怯えることはない。そんなじめっとしたとこで震えてないで、早く角の隠居って猫がいる場所へと案内してくれ。それと、ルシル。おまえにひとつ頼みてぇことがあるんだ。今は、おまえだけしか頼れねえっ!」
ルシルは小さな胸を張ると「まかせてよー」とばかりに力強く叩いて見せるのだった。
一路、蔵人たちは「賢者」ともいわれている角の隠居が住む庵に向かって進んでいた。件の壺はルシルが背中の大きな風呂敷包みに入れて運んでいる。もはや、自分に脅威がないとようやく得心したのか、先導するようにしてキジトラが前を行っていた。
「にしても、その隠居ってのは相当な知恵者なのかい」
「ああ。そのへんはおれが請け負うよ。なにしろ、この土地を人間どもが柵でぐるっと囲う前から居着いているって話だからな。知らぬことはなしってのが本猫の口癖よ」
「おお、そりゃまた心強いことで」
猫の隠居が住む陋屋は蔵人の住む姫屋敷から北西に三十分ほど歩いた位置にあった。なるほど、角といえば角ではあるが、いかんせん子猫や子供の足には遠いのかもしれない。そんな蔵人の杞憂をさておいてルシルの足取りはまったく乱れることのない頼もしいものであった。
彼女の足の強さは知っていたので、距離自体はそれほど深刻に捉えていなかったが、なにしろ進めば進むほど緑が深くなってゆくのである。
また、陋屋は人が住まなくなってからかなりの年月が過ぎ去っているのだろう、あちこちの木材はひしゃげており、ちょっとした化物屋敷といったところだった。
キジトラは悠然と元玄関口だった場所に立つと、しっぽをふりふり「いいぜ」の合図を送ってきた。
「ま、しっかたなかんべ。行くか」
ぎしりぎしり軋む廊下だった場所をなんとか渡り終えると、まあまあの広さのある一室に、その猫は横たわっていた。元の毛色がなんだったか想像もつかぬほど真っ白になった身体で、隠居は端坐していた。
「これはこれは。久方ぶりのお客人。ささ、なにもありませぬが。粗茶と茶請けでございます」
「突然押しかけて薄みっともねえ話だが。隠居。この若造たちにひとつ知恵を貸してくれねえか」
キジトラは茶請けに出されたネズミをもぐもぐやりながら、辞を低くして頼み込む。蔵人も、目の前のネズミの盛られた皿をキジトラのほうに押しやると、背中を丸めて礼を尽くした。ルシルは、猫たちの不思議な会見にご満悦で瞳を輝かせて静かにしていた。
「ほほう。猫魔人の呪いですか。それは近頃珍しき古風な仕儀に。さぞお困りでしょうや」
「ルシル」
蔵人が命じると、彼女は背中の包みを解いて壺を隠居の前に置いた。隠居は猫とはいえ、ラブラドール・レトリバーほどの大きさがある。彼は、前足で壺をちょいちょいとつつくと、少しだけ思案顔になった。
「なんというか。それほど厄介なことがらでありませんな。ただ――」
「ただ?」
「残念ながらこの壺のなかにはもう魔人は存在しませぬ。ほら、ここを少しご覧になってください、ご同輩。ここ。ちょっとした傷があるでしょう。どこかで強くぶつけたのか、それともはじめからこうだったのか。やつめは、よほどなにか気に食わぬことがあったのか、ここからちょいとタバコを買ってくるというふうに抜け出したのに相違ございません」
「そんな。魔法の壷の精霊が、気に入らねえからといって散歩に出るなんて話は聞いたことがねえやな」
蔵人が猫耳をピクピクさせて憤ると隠居は起きているんだか寝ているんだかわからない目をさらに薄くして困ったようにしわがれた声を出す。
「壷の魔人はそう簡単にはつむじを曲げぬものです。たとえば、貴殿の願いごとが随分と魔人の気分を大いに害するものだったとか、そういうことはございませんかな」
「うーん。恥ずかしながら、かなりある」
なにしろ夢のなかのできごとだと決めつけていた蔵人だ。みっつの願いなど、適当にやっつけて鼻糞でもほじくっていた可能性が高い。酒にはまったくもって強いが、あまり昨晩のことを思いだせぬのも、チト気に入らない部分があった。
「どちらにせよ魔人は日が落ちぬまでに壺の元へと戻ってくるでしょう。お客人。貴殿が人から猫に変えられたのは、猫魔人の機嫌を損ねただけのことであって、かの者が戻ってきたときに改めてみっつめの願いごとを頼めばことは足ります。なにせ、願いがみっつかなえられれば、あなたは猫魔人の代わりにこの壺に封じられ、他者の願いを叶え続ける、いわば歯車のひとつに変異するでしょうからね」
「おい、ちょっと待て。そんじゃなにか。願いを完了させても詰みってことなのかよ?」
「なになに。猫魔人自体はたいした魔力を持っておりません。あなたの願いをかなえた瞬間に壺を壊せばなにごとも起きません。とはいえ、魔人も元は罪のない猫です。欲張ったばかりに、延々と壺に縛られ続けるのは不憫なことではありますが、こればっかりは……」
「そうか。結局俺が助かっても猫魔人はどうにもなんねーのか」
やけにキジトラが静かだと思い視線を動かすと、彼は皿の上にあるネズミを頬張ってしきりにもぐもぐと顎を動かしていた。健啖家ではあるな。
「まだ、日没までだいぶ時間がありますゆえ、昨晩頼んだ願いごとを思い出してはいかがな? ついうっかり同じ願いを口にすれば、猫魔人がへそを曲げて事態を先延ばしにしかねない。なにせ、そのくらいの小知恵は持ち合わせているでしょうし」
「ん。ひとつは思い出せたんだけど、あと、もうひとつがなぁ。隠居。重ねて頼むが、しばらく壺を見ててくれねえか。屋敷に戻って、色々と頭を働かせてみるよ。ルシルは、どうする?」
ルシルは隠居猫が気に入ったのか、その白い巨体に顔を埋めて遊んでいた。隠居は子供好きなのか、陋屋でルシルを預かってくれると快諾してくれた。蔵人は、昼寝を決め込んで動かなくなったキジトラを起こさぬまま、屋敷に戻った。
さて、ひとつめの願いが「ヴィクトワールをお嬢に」ならばふたつめはなんだったのだろうか。
いつもの調子で玄関口をくぐったところでハッとした。そうだ。今の自分は、いつものそれではない。猫になったことで、やや未来に関して思い悩む機関が停止しつつあるのか。蔵人は、またたく間に、周囲を危険な集団が十重二十重に囲みつつあることを察知し顔を青ざめさせた。
「あー。ねこちゃんがいるよー」
「あそぼあそぼー」
「おねーちゃん。このかみぶくろにいれてあげよーよ」
「だっこちたいよー」
「じゅんばんね、じゅんばんっ」
手心という文字を知らぬ無垢なる乙女の集団がゆっくりと包囲を狭めつつあった。小エルフたちは、子猫と化した蔵人を見つけるやいなや完全にロックオンしたのだ。
彼女たちは、インディアンが荒野の保安官を手取りにするような古来の手法を踏襲しつつ、蔵人の周りをぐーるぐーると弧を描いて走りはじめた。まさしく異世界に蘇ったジョンウェインかサムペキンパーの美学である。
「こーら。あなたたち、猫ちゃんをいじめちゃダメですよー」
次の呼吸で勝負の潮合が極まると予測していた蔵人を救ったのは、後方から投げかけられた明朗な女性のよく通る声であった。
――ふわっ。いい匂いがするなぁ。
ヒョイと抱え上げられて背に感ずる乳房の弾力からして、これは相当な逸材だ。どこかで聞いたような声だが、記憶と声がなかなかに一致しない。
蔵人が、小エルフを追い払ってくれた救出者を仰ぎ見ると、そこにはあまり見慣れない二十歳前後の美女がふんわりとした笑みを浮かべてやさしげに自分を覗き込んでいた。
ガツン、と頭をぶん殴られたようにどストライクな美女であった。背は、スラッとしていて低くなく、胸は不格好にならない程度に大きかった。
大人の色香が匂い立つような妖艶かつ繊細な目鼻立ちである。美人とはいっても、やはり個人個人には数値化できない好みというものが存在する。
そういった意味では、今、蔵人を抱えている美女は、口ではいい表せない雰囲気を持つ、今まで会ったことがない存在であった。単純な造形ではヴィクトワールには一歩譲るだろうが、それを補ってあまりある日輪のような輝きが彼女にはあった。
お仕着せを着ている、ということは蔵人が知らぬ間に誰かが雇った奉公人なのだろうか。が、金庫のカギを握っているのがネリーである限り、その可能性はまずないだろう。なにせ、彼女はびた銭レベルでも出納があれば就寝前に必ず報告に来ていた。
昨晩もネリーと話したが、大きな金の動きはなかった。人ひとり雇うとなれば、まず貴族の体裁として支度金は前払いするだろうし、試験期間だとしても話が上がってこないことはまずないだろう。
とすると、この女性は誰なのだろうか。蔵人の頭のなかは、洗濯機の水流のようにぐるぐると周り出しはじめた。
「ハナ。なにを遊んでいるのですか。そろそろ夕食の支度に取りかかりますよ」
「あ、はーい。ポルディナさま。今、まいりまぁす。猫ちゃん、さよならですねっ」
蔵人は、廊下に立ち尽くしながら、完全に成人したハナの背中を凝視していた。そして、天啓を受けたかのように思い出した。ふたつめの願いは「ハナをおとなにしろ」だった。
隠居の陋屋に戻るとルシルの熱い歓迎を受けてしばしなごむ。どちらにせよ、せっかくのチャンスを不意にしてしまったことは間違いない。
キジトラは日が落ちかけているというのに、いまだ高いびきだった。蔵人はルシルに抱かれたまま神妙に壺を見張っていた。なにかドッと疲れたような心持ちだ。隠居がくしゅんと小さくクシャミをすると図っていたかのように、壺の口からおどろおどろしい白煙がもくもくと立ち昇ってきた。ルシルがぽっかりと口を開けて、眼前に突如として出現した魔人を指差した。
「さあさあご主人さま。そろそろ真面目に願いごとを考え直してくれましたかな」
ルシルが驚愕するのも無理はない。なにせ、目の前の魔人ときたら頭に薄汚いボロ布を巻き、猫の顔にゴリマッチョの上半身で腕組みをしているので威圧感はなかなかのものだ。
ああそうだ。自分は夢だと思い込んでいてみっつめの願いを「お前を消す方法」と口走ってしまったのだ。これでは猫魔人がつむじを曲げるのも無理はない。なにせ、こいつの真の目的は、他者の望みを叶え続ける願望機から解放されることなのだから。
そう考えるとなにか物悲しい気持ちになる。隠居の大猫は壺の後方に回っていつでも飛びかかれるようにとキジトラとそろって身をかがめている。悲しいかな猫魔人。かの者は、そのような縛りがあるのかわからないが契約者である蔵人しか目に入っていないように思えた。
「さっきは悪かったな。ちょっと寝ぼけてたんでよ」
「まったくその通りでございますよ。さ、この猫魔人にみっつめの願いごとを聞かせてください。私は奇跡の猫魔人。いかなる無理難題もかなえてみせます」
蔵人は耳を立ててみたり寝かせてみたりして、しばし逡巡し、それから願いごとをいった。
隠居も、キジトラも、ルシルも、そして――猫魔人さえも蔵人の言葉に呆気にとられ、塩の柱と化したように、その場で硬直した。同時に、激しい発光が暗い室内を切り裂いて弾けた。
数日後、姫屋敷のベンチで悠々と午睡を取る蔵人の膝の上には、やけに恰幅のいい見慣れぬ猫が目を閉じたまま静かに寝息を立てていた。壺の魔人は永遠にこの世界から消えてなくなった。