Dungeon+Harem+Master

LV258 "Twenty-fourth Hierarchy"

その日、蔵人は久方ぶりに冒険者ギルドの事務所に寄ると、受付すぐ脇の掲示板に貼られた、各クランの冒険功績による格付けを、首を長くしながらジッと眺めていた。

「はぁ。しばらく見ない間に、みんな頑張ちゃってまぁ……」

以下、七月現在、ダンジョンにおける上位七チームの冒険功績結果である。

一位。六十五階層。クラン「闇の眼」マスター“魔導大帝”パンプキン。

二位。五十五階層、クラン「エトリア」マスター“勇者”アレクセイ。

三位。五十一階層、クラン「聖騎士連合」マスター“聖騎士”ブリジット。

四位。四十二階層、クラン「ネクロマンサー」マスター“死霊使い”ゴモリウス。

五位。三十五階層、クラン「ウルフヘッド」マスター“狼王”テオドール。

六位。二十九階層、クラン「蒼の翼」マスター、ルーシア・パニーラ。

七位。二十八階層、クラン「黄金の狼」マスター、バインリヒ・リテル。

「ま、当然といや当然ながら俺らの名前はないよなぁ」

蔵人たちのクランである「ダンジョンマスター」の名は掲示にない。

十階層で守護獣メタルゴーレムを倒し「羅刹手甲」を、二十階層で守護獣コカトリスを倒して「天元分儀」を手に入れているにもかかわらず、この結果なのは、ギルドの評価が純粋に攻略階層の深さのみに絞られているからであろう。

「そう卑下することないわ。クランドたちもよく頑張っていますもの」

いつの間にか隣に立っていた受付嬢のネリーが羽ペンをくるくる回しながら、やや誇らしげにいった。

「なにせ、もう二十四階層にまで到着したのでしょう? これ、ほとんどスピード記録よ。設立して一年経たないクランがここまで健闘するなんて、ギルドはじまって以来の快挙といってもいいくらいなの。これって、かなりすごいのよ」

「ふうん。でも、まだ俺らランキング外だしなぁ」

蔵人たちの攻略階層は二十四階層。しかし、いまいち実感が湧かない。蔵人はようやく少しだけ読めるようになったロムレス文字の人名だけを目で追った。

六位のあたりにルーシアの名を見つけ、ネリーに気づかれない程度の薄さで唇を釣り上げた。

――おいおい。そんなんじゃすぐ追い抜いちまうぜ。

「一位から五位までは五英傑ね。このあたりと比べればちょっと落ちてしまうけど、それでもたいしたものよ。誇っていいはずなのに、なんで恥ずかしがるのよ」

「恥ずかしがってねえよ。そもそも俺は謙虚な人間なんだ」

ふうん、へえ、とネリーは半目でジロジロと睨んでくる。幾分、居心地の悪い気持ちになった。

「で、わざわざ滅多に来ない事務所にまで来たのはなんの御用かしら。また、お小遣いの無心?」

「顔を見に来ただけだよ」

「……また、潜るのね」

ネリーの整った表情が悲しそうに歪んだ。蔵人は抱きついてくる彼女を受け止めると名残を惜しむような、長いキスをかわし無言で踵を返した。

ダンジョンは無情である。不死の肉体を持つ蔵人ですらいつどうなるかなどわからないのだ。

不死身といっても、怪我の回復が早いくらいで、ダンジョンのどこかにある奈落に通ずる亀裂や底なし沼に落ち込めばもはや余人の手によってどうこうできるものではない。

ネリーはあくまで平凡な女だ。一流の冒険者を目指すには肉体の素地があまりに普通すぎたし、年齢からいって鍛えはじめるのも無理がある。

かといって、なにか特別に優れた能力を持っているわけでもない。彼女にできることは、蔵人と出会う前と同じように、ただ、この受付に座って愛する人たちが無事に戻ることを祈り続けるだけであった。そういった意味では、彼女はすぐに自分の限界を見極めることはできたし、己ができることとできないことをしっかりわかっている聡さがあった。

ただ、待つ。

信じて待つということがどれほど難しくつらいことか、わからないまでも想像はできる。

ほかの女たちとは違った苦労を強いていることは理解できた。ネリーからしてみれば、ともに汗を流し、苦難を乗り越え、己が身に受けた傷のひとつひとつすら苦難を共にした輝かしい証明になるだろう。ネリーにはそれができない。ネリーにはそれが許されない。

できた女だと思う。自分には過ぎた女だ。彼女は容姿も知性も品格も家柄も一流だ。望めば、蔵人などよりもはるかに優れた男へと嫁ぐことができたはずだ。

が、それを本人にいうなどとはできない。ネリーはほかの誰でもない蔵人と人生を過ごすという選択肢をとったのだから。

――蔵人よ。甘ったれちゃあいけねぇぜ。おまえができることは、なにがあったって、ここにもう一度戻ってくる。ただ、それだけなんだ。

「クランド……待って!」

いつも留守番ばかりさせてすまない、ネリー。蔵人は振り返ることなく、玄関口の階段を降りてゆく。その深い想念を断ち切るかのように、ネリーの声が鋭く耳朶を打った。

「もうお砂糖がなかったから帰りに買っていってねー!」

ネリー、君は変わってしまったんだね。蔵人は世帯染みた彼女の声に腰砕けになった。

ダンジョン二十四階層である。蔵人は、ポルディナ、シズカ、アルテミシア、メリアンデール、ルッジ、レイシーの六人を引き連れて入口に立っていた。

人選はクジ引きである。そうでもしないと割り振りは不可能であるし、屋敷をカラにするわけにもなかなかいかない。

「それにしても、強運だな」

「ん。ボクのことかい。そういわれるとそうかもね。ここぞというときに、外したことは子供の頃から一度もないよ」

蔵人は天元分儀をいじくりまわしながら鼻歌まじりなルッジを凝視した。

あまりにも確率が高すぎる。疑いたくはないのだが、彼女は驚異的な参加率であった。

「どうしたんだよ、そんなにボクの顔をジロジロ見て」

蔵人は無言でルッジの尻を撫でると、彼女は「んにゃっ」としっぽを踏まれた猫のような声を上げた。なんというか、もう少し色っぽい声を上げて欲しかったが、疑惑はこれで相殺にする。

蔵人の一方的な思い込みをよそに攻略は開始された。編成は、

〈前衛〉アルテミシア、シズカ、ポルディナ

〈中衛〉クランド、レイシー

〈後衛〉ルッジ、メリアンデール

である。

歩きはじめはなだらかであった。傾斜もほとんどなく、歩きやすといえば歩きやすい。今回の編成は、前に槍、薙刀、曲刀と強力な火力が三枚そろっているので戦力的には問題なかった。

だらだらと、起伏のない通路を進んでゆくと、徐々に勾配がキツくなった。風化してサラサラになった花崗岩の砂礫地帯に突入した。

ぺらぺらとおしゃべりに興じていた雀たちが、一斉に口数を減らす。とにかく登りにくいのだ。一歩足を踏み出すたびに、ズルズルと二三歩分はしっかり後退する。

砂礫は乾ききっているのか、慎重にブーツの靴底を押しつけるようにしないと、上手くスタンスを取ることができない。たちまち、レイシーが顎を出し、続いてルッジが遅れはじめた。

軽装のシズカはともかく、甲冑を着込んだアルテミシアと重たい大薙刀を片手にするポルディナの身体能力の高さはずば抜けていた。地獄のような特訓を積んできたメリアンデールもケロリとしている。

蔵人は額に汗をかきながら、両脇にレイシーとルッジを抱え込むと、黙々と歩を進めた。無限に続くかと思われた洞窟の坂は、それほど長くはなかった。蔵人は、荷物のように抱えたふたりを、おしまいにはまとめておぶって半日ほど歩き通したのだ。

もはや、彼の力は人間の領域ではないのだが、周りの女たちは蔵人のずば抜けた馬力を誉めそやすばかりで、この意味をあまり深く理解していなかった。

開けた場所に出ると、一同は固まって休息を取った。ポルディナが用意した床机に座ると、炎のように燃え盛っている身体からドッと汗が吹き出した。

「ごめんねー。暑かったでしょー。ふきふき」

「手数をかけたよ、クランド。でもさすが殿方だ。頼りになるな。惚れ直したね、ボクは」

「がははっ。まあ、こんくらいは任せんしゃい」

蔵人はモロ肌脱ぎになると、上半身の汗をレイシーとルッジに拭かせた。よくよく考えれば、美女ふたりを侍らせながら汗を拭わせる行為は、かなりハーレム度の高い行為であるが、ポルディナやメリアンデールに頼めば普通にそれくらいやってくれそうではある。労力と対価が釣り合わないような気もするが、夫婦は助け合いということで無理やり自分を納得させた。

「汗でびしょびしょだ……」

「ご主人さま」

「ん」

蔵人が濡れた黒いシャツをポルディナに渡すと、ギュッと絞ってくれた。戦狼族(ウェアウルフ)の腕力は人間の比ではない。たちまちに捻られたシャツからジワッと汗が絞り出される。相当に強い生地でできているのだろうか、彼女のやり方に手加減というものはなかった。

「ポルディナはよく働くなぁ」

あれよあれよという間に、組み上げられた簡易的な物干場にシャツが広げられた。乾くまでしばらく時間がかかるということなので、皆で仲よく茶を飲むことにした。

夏である外とは違って、ダンジョンのなかは、やや肌寒いくらいだ。焚き火を見つめている蔵人の背中へと、恍惚とした表情のメリアンデールが寄り添っている。

鍛え抜かれて分厚くなった背中の筋肉へ、頬をぴっとり当てながら夢見るような瞳をしているので誰もが声をかけにくい雰囲気だ。

どうやらメリアンデールは、大きくて力強く頼もしいものに触れることで精神的な充足感を覚えるタイプだったらしい。放っておいても害はないので特に咎めないことにする。

「できたぞ、クランド」

「おう、ありがとな。シズカ」

蔵人は砂糖のたっぷり入った紅茶を受け取ると、彼女の顎先をちょこちょこと撫でてやった。

シズカは目を細めて陽だまりにいる猫みたく、くすぐったそうに口元をゆるめた。

水分を失ったあとはこまめに補充しなくてはならない。ちょっと甘ったるすぎる紅茶は、蔵人の口には旨いと思えなかったが、随時カロリーを補給しなければもしものときに動けなくなってしまうだろう。先ほどは、たまたまモンスターに出くわさなかったが、戦闘ともなればそのカロリー消費量は、想像を絶したものになる。重たい剣を振り回し、文字通り命懸けで動き続けるのは筋肉に重度の負担を強いる。

「なんだか、あんま進んでないのにかなり時間食っちまったなぁ」

「仕方がないよ。これほどの急登だもの。それにこの場所は周りが開けていて視界がいい。少し早いかもしれないが、ボクはここで休むことを提案するよ」

蔵人はルッジの提案を受け入れると野営の準備にとりかかった。手馴れたもので、全員がてきぱき作業に取りかかると、たちまちのうちにテントが目の前に出現した。

まだ一日目だ。疲れはほとんどないが、コンスタントに休みを取ることが重要である。手早く夕食をとり終えると仲よく固まって就寝した。

明けて翌日。野営地を出てすぐにゆるやかな坂が出現した。十人ほどが広がって歩ける通路である。登りよりも下りが楽かといえばそうでもない。長時間、前傾姿勢で下ってゆくと、覿面に膝に負荷がかかるのだ。さすがに、全員並以上の体力と根性は持ち合わせていたが、延々十時間を超える坂道を経験すると弱音のひとつも吐きたくなる。蔵人はパーティーの様子を見て、適宜小休止を取っていたが、膝への負担は目に見えないボディブローのようにジワジワと効いてくるものだ。下り坂の傾斜は、徐々にであるがキツくなってゆく。気を抜けば、ランタンの明かりも届かない闇の底へと真っ逆さまだ。蔵人は、中衛からトップにスイッチするとアンザイレンでルッジとレイシーをビレイした。足腰には自信がある。軽量のふたりが砂礫で滑落しても余裕で支えることは可能だ。

「ゆっくりでいい。一歩一歩、小股で降りるんだ。足を置くときは、接着した部分をギュッと押さえつける感じで。そうそう。姿勢を前のめりにすると落ちやすいぞ。そいつは浮き石だ。踏むんじゃねえ。底まで転がり落ちちまうからな……」

ルッジもレイシーもズブの素人ではないが、こうして声をかけることによって心を落ち着かせることに意味がある。自分たちが皆の足を引っ張っている。そういった余計な精神的ストレスが知らないうちに己のペースを崩して、疲労滑落につながることが多いのも事実だった。

坂を無事降りきったときは、さすがにホッとした。レイシーとルッジはものもいわずへたり込むと青い顔で息を荒くしていた。

「こっからは平地みてーだな。ルッジ。方角は?」

「うん。大丈夫。天元分儀は当初のルートを指し示している。問題はない」

「危ないッ!」

女の子座りで手元の表示を見ていたルッジへと鋭くシズカが声を発した。

つい、先ほどまでなにもなかったはずのはるか上方から巨大な岩が突如として出現し、勢いよく転がりはじめたのだ。

岩は、二転三転しながら次第に厚みと重みを増して唸り声を上げている。ルッジはなんとか立ち上がってさけようと試みるが、疲労が脚の自由を奪っていて機敏に動くことができない。

蔵人が歯噛みしながら駆け出そうとすると、一陣の風がルッジの前に立ち塞がった。

ポルディナである。

彼女は深く腰を落とすと摺足で前に出て、轟音をほとばしらせていた巨岩に立ち向かった。

うう、と低い唸り声が聞こえる。ポルディナは、しっぽを逆立てながら両手を前に突き出すと、ためらいひとつ見せず迫り来る石の砲丸を受け止めた。

同時にシズカが素早くルッジを抱きかかえると、軽やかに横へと跳んだ。ポルディナは、回転する岩に押されながらも、十メートルばかり後退した地点でなんとか押し止めた。

「クランド、あれを見ろ。なにかいるぞ」

アルテミシアが槍を掴んだまま岩の転がってきた先を指した。そこには、幾つかの白っぽい影がいつの間にか現れ、ゆっくりとした歩調で近づいてくるのが見える。

「あれは、サンドゴーレムです。となれば、近くに必ず術者がいるはずです……!」

錬金術に長けたメリアンデールがショートソードを抜き放ちつつ、いった。ならば、まず大元を断たねばいたちごっこになりかねない。

「メリーはあのゴーレムたちを操っている術者を探してくれ。あの砂人形たちは俺たちで片づける。みんな、いくぜ!」

細かな砂礫で構成された身体を持つサンドゴーレムは、ゆらゆらとしたぎこちない動きで坂を下り終えるとその全貌を露わにした。

数は六体。

子供のいたずら書きのような造形は、目鼻を示す場所もなく、宙から糸で釣られているかのように、ふわふわゆらゆら、動きをひとつところにとどまらせずクラゲのように揺れている。

戦闘の口火は速やかに切られた。サンドゴーレムは、見た目の鈍重そうな造形とは異なって思いのほかに俊敏だった。彼らは、まず一番近場にいたアルテミシアに狙いを定めると、一斉に襲いかかった。長く思い腕を風車のようにぐるぐる振り回すと叩きつけてくる。アルテミシアは槍を巧みに操って攻撃を受けるが、三方から襲いかかられてたちまち苦戦に陥った。

「アルから離れやがれ、このヤローッ」

蔵人は黒獅子を振りかぶるとサンドゴーレムの脇を素早く駆け抜けた。確かな手応えがあった。渾身の力を込めた薙ぎ払いだ。

やったか! と思って振り向くと、サンドゴーレムの胴体は確かに切り裂かれていたのだったが、数秒後には斬撃を受けた部分へと身体の砂礫が寄り集まって自動修復してしまった。

「げ! そりゃずっこいぜ……」

「クランドッ! こいつらは下手に傷つけても倒せない。身体を構成している核を破壊するんだ」

アルテミシアは聖女の槍を旋回させつつ、押し寄せた三体の敵を一旦突き放すと、狙いを定めた一点へと素早い突きを見舞った。

槍の穂先は白い軌跡を残して一直線に伸びるとサンドゴーレムの喉元を鋭く抉った。アルテミシアが槍を引き抜くと、先端には拳ほどの大きさがある玉があった。おそらく、サンドゴーレムの中核をなす宝玉なのだろう。玉は、一際白く輝くと金属的な音を出して、砕け散った。

同時に、喉を突かれたサンドゴーレムは、ざあっと音を立てて砂に戻ってゆく。乾いた音が耳から消え去る前に蔵人は走りはじめた。

二体のサンドゴーレムが、進行方向を変えてこちらに向かってくる。蔵人は、黒獅子を引き抜くと転がりながらサンドゴーレムの足元へ斬撃を加えた。

ざら、と脚首を割られたサンドゴーレムが体勢を崩し前のめりになる。連れ立って迫っていたもう一体が相棒を押すようにしてもつれた。

このチャンスを見逃すシズカではなかった。彼女は、猿のように素早い動きでゴーレムたちの肩に乗ると、曲刀を使ってうなじから素早くふたつの宝玉をくり抜いて破壊した。

「やったな、シズカ!」

賞賛の声を送ると、ふわりと地上に降り立った彼女は後ろも見ずに曲刀を背後に繰り出した。

鮮やかな流れで迫っていたサンドゴーレムは喉元を抉られた。

白っぽい砂煙が濛々と立ち篭める向こうに、ポルディナとアルテミシアが残りの二体を斃すのが見えた。

「ふうっ。ひと仕事終えたな。ん……?」

蔵人が立ち上がって身体の砂埃を払っていると、メリアンデールとレイシーがずるずると誰かを引きずってくるのが見えた。

「クランド。見つけましたっ。この人がゴーレムを操っていた張本人です」

メリアンデールが男の首根っこを引っ掴んだまま誇らしげにいった。瞳が強い光を帯び「褒めて褒めて」とねだっている。蔵人はとりあえず視線を動かすと、地に伏している男を見やった。

「くそっ。こんな小娘にやられるとは。このおれもヤキが回ったぜ……」

四十過ぎの頬桁が張った男は、右手を押さえながら苦々しく毒づいた。切り裂かれた腕からは赤い血がとめどなく流れ出ていた。皮一枚で繋がっているというところだ。

メリアンデールとやりあったのか、脇腹が酷く濡れている。衣服をかなり浸した出血と死相の浮き出た顔から、誰の目から見ても長くないということがわかった。

「テメェか。俺らをゴーレムで襲ったのは。いったいなにが目的だ」

「ハッ。そんなこといちいち教えると思ったのか。おめでたいやつだな。ま、しばしの幸運を楽しむことだ。なにせ、この先に災難は事欠かないはずだからなっ……!」

男は苦しそうに表情を歪めると両眼をカッと見開いた。眼球へと無数の朱線が走る。意味を悟った蔵人は激しく吠えた。

「こいつ、舌噛みやがった! おい、口を開けさせろいっ。息が詰まっちまう」

蔵人は慌てて男の口をこじ開けようとするが、最後の意地か物凄い力で抗いはじめた。そうこうしているうちに、千切れた舌が収縮して気管を塞いだのか、男の顔はどんどん青ざめていった。

「ダメか。ちくしょう、まだなにも聞き出してやいないってのによ」

「災難は事欠かないといっていたな。この先も道々襲われると理解したほうがいい」

ルッジが冷たくなった男に目を落としたままいった。

「どちらにせよ、ダンジョンが危険なのはいつもどおり。コイツの愚かなことは、狙っている敵がいるとわざわざ私たちに知らせてしまったことだ。わかっていれば、対処法は幾らでもある」

シズカは男の目蓋を閉じさせると、立ち上がりながらいった。

蔵人は、ふと、アルテミシアが顔をこわばらせながら立ちすくんでいるのを見て首を捻った。

「なあ、アルテミシア。なにか、こいつに思い当たることでもあんのか?」

「……知ってる。この男はヘンリックといって、私がかつていた、黄金の狼のメンバーだ」

「黄金の狼って、なに?」

レイシーが目をクリッとさせて訊ねた。

黄金の狼とは、かつてアルテミシアが所属していた冒険者ギルドでも第二位の規模を誇る有力クランであった。隊長の名は、男爵ジャック・バインリヒ。アルテミシアはかなり煙たがられていたとしてもかつては黄金の狼の副隊長であった。後ろ足で砂を蹴るようにして出てしまったかつてのクランメンバーに思いは千々に乱れたのであろうか、アルテミシアの焦燥は濃い。

「そういえば、黄金の狼は順位を落としていたな……」

蔵人は、昨日、ギルドで見た功績結果表を思い返しながらいった。

「ボクも聞いたところによると、近頃戦績の思わしくないバインリヒ卿が、かなり強引な手口でメンバーを増やしていたと聞いていたけど。それが、こういう手口のためだとはねぇ」

「でもでも。ほかのクランの探索を邪魔しても、自分の順位が上がるわけじゃないのに」

レイシーがそういって悲しそうにうつむく。

「なりふり構っていられないんじゃないかな。バインリヒ卿は名誉心の塊のような男だと聞いている。けど、まさか、ここまであからさまに他クランを蹴落とそうとするなんて。どうかしているとしかいいようがないよ、まったく。……あ! すまない、そういった意味でいったわけでは」

「いや、いいんだ。私が黄金の狼の副隊長であったことはこの際忘れて欲しい。今となっては、我々の前に立ち塞がるのであれば、斬り伏せるまでの話だ」

アルテミシアが自分にいい聞かせるように力強くいった。だが、現実、彼女の瞳は言葉の猛々しさとは裏腹に力を失っていた。

「まさか噂が本当だったとは。ボクも半信半疑だったけど、本気で同業者潰しをしているなんて」

ルッジは冷たくなったヘンリックの遺骸から目を背けると、ふうと深く息を吐きだした。それから、自分が密かに集めていた黄金の狼の情報を話しだした。

ジャック・バインリヒ――。

長く冒険者であるならば、彼の名を聞いたことのない人間はモグリであろう。ルッジのいうところ、近頃、かの男爵は金に糸目をつけず、クランの人員の増加を躍起になって行っていたという。バインリヒ自体は、取り立てて優れた技術を持つ冒険者ではないが、とにかくロムレス譜代の名門ということもあって、資金には事欠かなかった。彼の目指すところは名声以外にほかならない。若かりし頃から金に飽かせて思いつく遊びはひととおりやってのけると、次に目を向けたのは深淵の迷宮(ラスト・エリュシオン)という、未だ手つかずの宝や名声が眠る、大人の遊び場であった。彼が黄金の狼を設立した当時は、肩を並べるほどの規模を持つクランは片手で数えられる程度であったが、近年のダンジョン攻略の過熱ぶりに加えて、五英傑の台頭やルーキーたちの追い上げもあり、男爵自身功を焦っていた。

そして、邪竜討伐戦の真実とアルテミシアの黄金の狼脱退――。

公的な記録には、邪竜王ヴリトラ自体は、男爵が主宰する黄金の狼における副官が討ち取ったこととなっており、冒険者ギルドでもその功績は認められているが、現実は違った。

生き残ったクランの人間は、実質、アルテミシアが単騎で竜を討ち取ったと思い込んでいるし、それほどの功績を上げた人物が、すぐにクランを抜けたこと自体、男爵の裁量の悪さやそれまでの副官に対しての扱いの酷さを物語っており、むしろ黄金の狼というブランドを低下させることにほかならなかった。そして、蔵人が目にしたように、最新の結果では、新規クラン「蒼の翼」にまで順位を抜かれている始末だ。

「バインリヒは質を選ばず人員を増やし続けたせいか、今や黄金の狼の数は、最盛期の頃よりも多い。もはや、四百を超えているらしいね。この数はステップエルフ戦で多数の戦死者を出した五英傑のブリジット率いる聖騎士連合を凌駕している」

ルッジは手元の天元分儀を細長い指先でタップしながら片眉をくいと上げた。

考えるだに物憂い話だ。

蔵人は、別段、好んで意味もなく斬り合いをしたいわけではない。第一、重要な宝物を前にしタマの取り合いならばともかく、順位を落とさないためにだけの殺し合いなど不毛過ぎる。

「考えたくないことであるが、アル。君はかつての同輩と斬り合うことになる。躊躇わないと断言できるかい?」

ルッジが感情を凍らせた一本調子ないいかたで問うた。

「……できる」

「そんなっ! そんなのできるわけないよ。酷いこといわないでよ、ルッジ」

「レイシー。これは重要なことなんだ。アルがこの先躊躇うことで、ボクたち誰かの命が危険に晒されることになるかもしれない。もし、迷いが残るようであるならば、次の階も近い。一旦、屋敷に帰って誰かと交代したほうがいいだろうね」

「できるっ。私はできるぞ! 第一、ルッジ。おまえになぜそこまで命令されなければいけないんだっ」

「なっ――! ボクは、君のことを思ってだな!」

メンバーのなかでは一番親しいふたりであるが、売り言葉に買い言葉だ。一旦、女同士の口喧嘩がはじまれば、下手に止めようとするだけ無駄だった。

メリアンデールが、ふたりの間になんとか割って入ろうとするが、ルッジに突き飛ばされて、くるくる回転し「むきゅう」と目を回している。

レイシーは、きゃんきゃん大声で吠えているが、彼女とて気が長いほうではない。たちまち三つ巴になって、論戦とはいい難い感情の不毛なぶつけ合いがはじまった。

「面白いじゃないか……。たかだか、四百程度、私ひとりで斬り伏せてみせる。ね、クランド。私、必ず、あなたの期待に応えてみせるわ」

「ご主人さま。いかに不逞の輩が幾万いようとも、この薙刀のサビにしてみせます」

シズカが勇んで刀の柄を叩くと、対抗するようにポルディナが大薙刀をぶおんと唸らせて振り回してみせる。

「とりあえず……」

「とりあえず、なんでしょうか?」

ポルディナが黒曜石のような瞳をクリッと輝かせ、顔を覗き込んできた。

「ションベンだ」

蔵人は、軽く現実逃避を行った。