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LV282 "Vicious IV"

めらめらと。めらめらと希望が燃えてゆく。

蔵人は灰になった荷馬車の上で、なんとか確保した小さな木箱をひとつだけ抱え呆然としていた。カレンが黙りこくった蔵人を引き下ろすため上によじ登って来たが、あまりの結果に口も利けず泣きそうな目をしたままひたすら強く両の拳を握り締めるだけだ。この所為は誰が筆誅できるたぐいのものでもない。故に自責の念はいっそう膨れ上がってゆく。

冗談だろう、こんな結果。蔵人は手にした木箱を開けると、おがくずに包まれた陶製の瓶をそろりそろりと抜き出した。灯火に揺れるそれはいかにも軽く頼りない。素人目にもこれひとつ持って帰ったところで事態を打開できるとは思えなかった。

「クランドさま。その量では残念ながらひとり分です」

防疫隊の男が下から気の毒そうに声をかけた。事実を告げるというのはなかなかに勇気がいるものだ。気を使わせてはならないと思いながらも生返事しかできない自分が口惜しかった。

これが努力した結果なのか。彼の言葉が本当ならば、蔵人は助かる誰かを選び出さなければならない。屋敷を出るときに罹患していたのは、ヒルダ、アルテミシア、ルッジ、シズカ、レイシー、そしてハナだ。六人のうちのひとり。救う者を選別しなければならない。それは、能動的に命に位をつけるということだ。肺がキュッと縮まった気がした。

――いいや。もしかしたら病はもう全員を蝕んでいるかも知れないし、どちらにせよこの手で救える人間と救えない人間を選ばなけれなばならないのだ。

事実がひたすら重い。いいようのない澱のようなものが心のなかに溜まってゆく。強い吐き気のようなものが込み上げ目の前がクラクラした。

「ねえ、クランドぉ」

「カレン……」

泣きそうな顔をしたまま、心細げな女が袖を引いてくる。蔵人は今にも崩れ落ちそうな馬車の残骸から慎重に降りると、決定を先延ばしするような足取りで所在なげに立っている防疫隊のもとへと歩み寄る。

ドッと、腰のあたりに猛烈なタックルを受けた。放心しているとはいえ、さすがにちょいと突かれた程度で崩れるやわな足腰はしていない。が、物陰から現れた小さな影はいかなる秘術を使ったのか片手に持っていた小箱をたやすく奪っていたのだ。

――血が凍る。

「こんのっ!」

蔵人が待てと手を伸ばすよりも早くカレンが手にしていた矢を投げ放った。

ひゅん、と細い腕が鞭のようにしなり空を鋭く鳴らした。

打根術である。矢は鋭く影を抉ると地面に突き刺さって薬を奪った賊の動きを止めた。

遠巻きに見ていた防疫隊がハッと我に返り、手にした樫の棒で慌てた様子で賊をいっせいに押さえつけた。松明を使って賊の正体を暴き出す。

「ち、ちきしょう……!」

灯火が照らし出したのは、まだ年端のいかぬ十になるやならずやの少年だった。

「このコソ泥が、さっさと薬を手放せ」

「それはここにおられるお方の者だ」

「捻り潰されたいのか、小僧が」

「べ、べーだ」

鳥面をつけた男たちが少年を地面に押さえつけながら激しく怒鳴る。が、少年は怯えるどころか舌を出して「否」と断ってみせた。

「こいつ!」

「やめてくれ――」

防疫隊の男が少年を打ち据えようとしたとき、蔵人は知らず制止していた。

なにをやっているんだ、と思う。鳥面たちのいうとおりだ。黙ってこの小僧から薬を取り上げ、とにもかくにも屋敷に送ってしまえばいい。そうすれば少なくともひとりは助けることができる。

蔵人よ、おまえはこの少年から一体どんな言葉を引き出そうとしているのだ。少年は蔵人の目からなにごとかを感じ取ったのか、先ほどの小生意気な態度を一変させ懇願するような憐れっぽい目をしてみせた。ズクリと胸に錐を差し込まれたような痛みを感じる。聞くな。聞かなくていいと、もうひとりの自分がどこかで吠えた。

「なあ、兄ちゃん。これ……高価なお薬なんだろっ! 病気を治せる……」

「だったら、なんだよ」

「お願いします。これ、オイラにくださいっ。母ちゃんが、母ちゃんが病気なんだ……」

だから、聞かなければよかったんだ。

じくじくと胸が疼く。少年は矢がかすった細い二の腕から流れる血潮をものともせず、まっすぐこちらを見返してくる。蔵人唯一の弱点といっていい魔法の言葉は覿面に効果をあらわした。

足元の地面が崩れて、ズブズブと泥濘に嵌り沈んでいく錯覚が、刻一刻と強くなる。

「お金は、オイラが何年かかっても必ず払うからっ。だから、この薬を譲ってください!」

だから、そういうのはやめろよ。少年の瞳。すがるような祈るようななんとも形容し難い、深い冬の湖を思わせる青だった。短い人生ながら怪我といわれる怪我はひととおりやってきたが、未だ死んでみるという経験はさすがになかった。

だが、大切なものを失ってしまうことがどれほど心に深い重しを乗せるということになるかは誰よりも知っていた。

脳裏には愛する女たちのみずみずしい笑顔が次から次へと浮かんでは消え去ってゆく。気づけば蔵人は右手を突き出して少年を縛めている太い棒を握っていた。

やめろ、それはただの偽善だと誰かが心のなかで叫んでいる。おまえがやっていることは聖人ですら顔を背けるような、自分の魂にすら嘘をつく酷いものであるといっていた。

「やる。持っていけ」

それだけいうのがやっとだった。少年は顔をクシャクシャにすると幾度も礼をいい、小走りに駆けていった。ホッとしたと同時に深い空虚感が身体に満ちてゆく。

隣に立っていたカレンが動くのを感じ、蔵人ははじめて自分以外の誰かに恐怖を覚えた。彼女の目を見ることができない。視界の端で揺らぐ松明の炎が滲んで見えた。防疫隊の男たちがどうしていいかわからずとまどっているのがわかった。膝から力が抜けてゆく。

罵倒はあえて受けよう。己がしたことが本当に正解だったがどうかはわからない。備蓄庫から運び出された特効薬がかけ値なしにあれで最後であるならば、自分ももう生きてはいられないだろうから。

「なんて顔してんのよ、もう」

「え?」

カレンの声は予期していたものとはまるで違う力強く明るいものだった。

「――あれでいいと思うよ。だって、それがあたしが好きになったクランドだもん」

なんともえいない自然な笑顔だった。蔵人はなにかを許された気がして、思わず片手で顔を覆い隠した。

「カレン、俺はよう」

「ダメ! いいわけは見苦しいのっ。男は自分の言葉に責任を持たなくちゃ。それに、あたしはぜんっぜん不安じゃないよ。今までだってクランドはどんな困難だってちょちょいのちょいでやっつけてきた。今度だって、平気よ。あたしがそうだって信じている限り、クランドは無敵なの!」

本当は彼女だって泣き出したいくらい不安なのだろう。それでも蔵人の決断を信じ、前に進もうとしている。

ああ、そうだ。こいつが信じているのに、自分はどうだ――! 

まだ、薬があれきりだと決まったわけじゃない。諦めるのは早い。諦めちゃいけない。自分ができることを残らずやって、ありとあらゆる知恵を振り絞り、目の前の責務をひとつずつ果たしてゆこう。きっと彼女たちならば耐えられる。蔵人よ、おまえが今できることはなんだ。それを考えるんだ。天から与えられた時間はきっとまだある。気力が全身に満ちあふれてゆくのを感じた。ひとりなら、きっとどこかで挫けていただろう。カレンの細く冷たい腕を掴んで引き寄せ、強く口づけた。そっと顔を離すとキラキラした銀色の瞳が闇のなかで乏しい灯りに揺られて踊っていた。蔵人は防疫隊の男に向き直るとハッキリした言葉で訊ねた。

「なあ、そこのアンタ。レコプラ病が発病して命がもつのはだいたいどれくらいかわかるか?」

「え、ええ。成人ならば、二、三日は……」

「そっか。なら、うちのやつらにゃ相当に余裕がある。あいつらのタフさは並じゃねえ」

「クランド……!」

泣きそうだったカレンの瞳が真ん丸に大きく開かれた。そうだ。自分はこいつらを残らず守らなければならない。そのために混乱に終止符を打ち、一刻も早く薬を手に入れられる状況を作り上げるのだ。できることは、きっと、無数に存在する。

萎えきっていた蔵人の双眸に赤々と燃えたぎった闘志の炎がみなぎった。潮垂れてひとまわりも小さくなったように見えた蔵人の肉体がみちみちと音を立てて膨れてゆく。

「さあ、行くぜカレン。サクッと発生場所を特定し、薬もあっちゅう間に見つけてやる。それが男の甲斐性ってもんだろ?」

蔵人はまず第一に市中の備品庫に向かった。積み残された薬が残っているかもしれないという万が一の可能性に賭けたのだった。

できることはなんでもする。竈の灰をあさってでも希望を自ら捨てたりなんかしない。自分を取り繕う必要もないしカレンの前で不必要に強がる意味もなかった。

「なにも……残っていないね」

だが現実は実に非情だった。ラデクが命じた規律にすぐれている防疫隊がこの状況で手落ちなどあるはずもないのだ。

蔵人は略奪を受けた倉庫を防疫隊の隊員とともに手分けして探したが、積み上げられていた荷物は乱雑に散らばっており、たかだが数十人の人手では一晩やそこらで目星がつけられるような状態ではなくなっていた。

狼藉という言葉がふさわしい。ここを襲ったのはゴドラムたちだけではないのだろう。混乱に乗じて略奪を行うということは。この世界の住人においては、常に締めつけを受けている「公」に関して今回のような事態を引き起こした治世に関しての堂々とした抗議行動であり――余禄とでもいうべきものなのだ。

「火をかけられなかっただけ、マシと思えばいいのかね」

蔵人は無秩序に潰乱した木箱を蹴り上げると顔をしかめた。

「半ば予想できたことではありますが。クランド卿。ここの調査は我々に任せてください。仲間に手落ちがあるとは思えませんが……。もし、わずかでも薬剤が残っていれば、真っ先にお屋敷へと届けますので」

防疫隊の男が鳥面の下から申し訳なさげな声を出した。

「すまない」

もう取り繕う必要はない。広場で見た無数の患者たちを忘れたわけではないが、蔵人の正直な気持ちとして自分の家族を第一に思うのは仕方のないことだった。

レコプラ病の特効薬である〈オキトールシン〉は、今やひとかけらでも万金に値する。見れば、カレンは倉庫のあちこちへと転がっている木箱に向かって四つん這いになり、犬のようにヒクヒクと小鼻を蠢かせていた。エルフ特徴の長耳がぴくりぴくりと前後へ小刻みに動いている。

カレンはハーフエルフである。ポルディナのような獣人系亜人ほどではないにしろ、五感は普通の人間よりも圧倒的にまさっている。

「どうしたカレン。なにか気になるもんでも見つけたのか?」

「わかんない……わかんないけど、なんか気になるの。そこっ!」

「なんだっ?」

カレンは甲高い声を上げてツインテを振り乱すと、バラバラに崩れ落ちている資材の影を指差した。ごとり、となにかが動く音がする。蔵人が素早く駆け寄って箱をのけると、そこには落下した物資に挟まれて目を回している小柄な青年が真っ赤な顔で呻いていた。

「泥棒なの?」

蔵人の背中に隠れたカレンがそろっと顔を突き出しながらいった。

「いや、わからんが。待て、ランタンを貸してくれ。コイツ、真っ赤な顔してやがるぞ。罹患者かも知れねぇ。用心しろよ」

「……ううん。たぶん違うと思うわ。ね、クランド。この人、お酒臭いよ」

促されて鼻先を近づけると、仰向けになっていた青年の呼気は確かに強い酒精と吐瀉物の臭いが入り混じった酔っぱらい独特のものだった。

「あん? クソ、こいつこんな状況で酒なんてかっ喰らいやがって。お気楽な野郎だ。おい、起きやがれ。オメーはここでなにしてたんだっ! ちっきしょ、爆睡してやがる」

「どいて。あたしがやってみる。こらあっ。起きなさい、この飲んだくれニンゲンッ!」

カレンは酔っぱらいの胃袋あたりをつま先でピンポイントに蹴り上げる。しかし、静かに眠りこけている青年はなんの痛痒も感じていないのか、気持ちよさそうにこんこんと眠りこけたままだった。

「うそ。あたし、思いっきり蹴ったのに」

「てか、それは死ぬからやめような。にしても、ずいぶん頑丈な野郎だな。さて、これからどうしてくれようか」

しばらく思案したのち、倉庫の点検は防疫隊の男たちに任せて蔵人はまず病が最初に広まったであろうと推定される癈兵院に向かった。なにかある。なにかそこにヒントが。

(レコプラ病発症の源泉がゴドラムの仕業ではないと証明できれば、ここいらの一斉焼却は免れるはずだ……。ムチャクチャいってるナントカって議員も、なにかしら答えが見つかれば少しは落ち着くだろう。情報がないから、よくわからないことばかりだから人は不安になるんだ。少なくとも、この病が広まった原因が特定できれば、対策も打てるはず。そう、きっとそうだ。このへんには、まだうじゃうじゃって人間が住んでるんだ。炙りイカじゃあるめぇし、目についたからって気分で焚かれちゃたまったもんじゃねえ。生きたまま焼かれるなんて、ありえないだろう。なにか、なにかほかにいい方法があるはずだ。クソ、上手く考えがまとまらねえ。きっと、まだなにか方法はあるはず。見つけるんだ。けど、それを俺はどうやって捻り出す。どこを探すんだ……! どうやって見つけるんだよ、志門蔵人!)

病など専門外だ。おまけに自分は疲れている。人並み以上にタフではあるが、こうも頭の中身がドロドロに溶けたトマトスープのように煮詰まっていればいいアイディアが浮かぶはずもない。

そもそも、万全の状態であっても伝染病を止める方法など専門の医学者であっても不可能に近いだろう。

――だが、なんとかしなければ。

蔵人はカケラでもいい。この悪疫とも呼べる病を撃退するヒントが己の頭に降りこないか、暗い石畳の道を駆けながら天に願った。援護として防疫隊の数人があとを追っかけてくる。足音ともに、車輪が石畳をすべる擦過音が夜道に響いた。

「なんで、そんな酔っぱらいを連れてきてるの!」

カレンが併走しながら叫んだ。蔵人は防疫隊の男に命じて荷車を用意させると、先ほど倉庫で見つけた青年を乗せて同行させていた。向かうは癈兵院である。これは勘ではあったが、なにかがこれから向かう先で動こうとしている。そう思えてならなかった。

「あとで尋問だよ! こいつはなんかしら知ってるにちげーねぇからだ!」

癈兵院にたどり着くと、この場所もまた異様な雰囲気に包まれていた。

深夜であるにもかかわらず祭りのような人出に加え、喧騒の真っ只なかにはどう見ても絞首台にしか見えないものが据え置かれている。唸り声の中央にそびえ立つその凶々しい存在に魂魄を抜かれたようになり、蔵人は一瞬その場に立ち尽くした。

「な、なによこれ……」

「愉快にフェスティバルって感じじゃなさそうだな」

人々は手に手に松明を持って殺気立った声を意味もなく上げていた。蔵人が彼らから聞いた途切れ途切れの話を縫い合わせると、住民たちは癈兵のせいでこの伝染病が市内に蔓延していると決めつけていたのだ。

原因は恐れが大きい。このような狂奔において筋道だった理屈は意味がない。閉じられた街のなかで迫り来る病の恐怖に怯えながら、住民たちは怒りのはけ口をどうにかして拵えなければならず、今回はたまたまそれが社会的弱者であった傷病兵に向けられただけだった。

入口の前では什器を積み上げて簡易的なバリケードが張られている。おそらくなかには、罹患した傷病兵が籠っているのであろう。

住民たちは長い棒を使ってコツコツとバリケードを叩いているが、最後の一線を超えて突入することは誰もが躊躇しているようだった。

――この集団にはひとかけらであるが理性というものが存在する。

けれども、どのタイミングで我慢の限界が来るかは誰にもわからない極限状態に近づいていることは確かだった。レコプラ病の感染経路に対する情報を得るタイミングは、もしかして今が最後のチャンスなのかもしれない。

バリケードの向こう側に、兵士と思しきものと共同で防戦に勤めている防疫隊の面々がチラリと見えた。彼らは残らず凄腕の強者であるが衆寡敵せずといったところか。

狭い道にはみっしりと数百を超える住民が折り敷かれていた。暴動が起きればチャチな建物など一瞬で呑まれてしまうだろう。

「このままじゃ建物にすら近づけねえな。仕方ない、強行突破だ」

「でもどうやって? って、ちょっと!」

蔵人はカレンの細い腰に両手をかけると、軽々と持ち上げた。

「ねえ、なにしてるのよ。クランド」

「……」

「なんで黙るのっ?」

蔵人は引いてきた荷車の上へカレンをちょこんと乗せた。台のなかには備品庫で捕らえた男が未だ仰向けのまま眠っている。随行した防疫隊の面々も動きを止めて蔵人の行動を見守った。

「こうするんだよ。オラぁ、愚民どもよく聞きやがれ! この上に乗っかってるのは、極めつけの病気持ち女だこのヤローッ!」

「やめてぇええっ!」

蔵人は荷車をガラガラ鳴らしながら密集していた住人たちの塊のなかへと突入した。

効果は抜群だった。

激昂して我を失っていた住民たちも、蔵人の言葉を聞くと悲鳴を上げながらモーゼが海を割るようにして、サッと道を開いた。

しばしポカンとしていた防疫隊の男たちも蔵人の意図に気づくと、素早くあとに従って駆けてゆく。

建物の入口にいた住民を残らず弾き飛ばしながら急拵えのバリケードへ荷車をブッ刺した。

「ほいさー!」

蔵人は荷車にいる男をバリケードの内側へ無造作に放り込むと、続けてカレンを小脇に抱えひらりとジャンプした。

「んにゃあああっ!」

「叫ぶな舌噛むぞっと」

軽やかにバリケードを飛び越える。蔵人は棒を持ったまま硬直している傷病兵たちのド真んなかへと華麗に着地した。

飛び降りざま投げ出された格好のカレンはどすんと尻餅を突いた。激しく尾てい骨を打ったのか涙目で「うにゃあ」と呻く。蔵人が外套の埃を払っていると、なかにいた男が鋭く叫んだ。

「お、おまえはっ!」

「ああん?」

金色の髪を短く刈り上げた童顔の青年が蔵人の顔を見て叫んだ。どこかで会ったような気がするが、蔵人の脳はどうでもいい野郎の顔をなかなか覚えられない性質でしばし戸惑った。

「どこかでお会いしましたっけ」

「クリスだ! 州軍のクリス・ハーティアだ! 忘れるな、オレはおまえのことを忘れんぞ!」

「そんな、おホモだちみたいなこといわれたって。正直困るよ。だいたい俺には野郎のために使う脳のリソースなどハナからないわ。残念だったね」

「な、な、な……!」

烈火のごとく頭に血を登らせたクリスは赤い瞳をギラギラさせながら殴りかかってくるが、蔵人の背後に控えていた防疫隊の隊長に拳をあっさり受け止められ呻いた。

「じゃ、邪魔をするなっ!」

「このお方に無礼な真似は許さない。私は市内防疫隊の長を務めるトッド・ルーカスだ。これより、リジー地区癈兵院は防疫隊の管理下に入った。貴殿も我らの指示に従ってもらおうか」

トッドは己の地位を示す紋章を胸元から取り出すとクリスの鼻先に突きつけた。クリスはただの一兵士であり平民だ。権威には逆らえないのか、途端に拳を引っ込めると顔を歪める。

「ぬ、ぬぐぐ……」

クリスは下唇を噛むと悔しそうに眉を八の字に下げた。

「つーわけで、ヒルダにお熱な兵隊さん。俺らにちっとばっかし協力してもらおうか」

「やっぱり覚えてるんじゃないかっ!」

「と、冗談はここまでだ。マジで時間がねぇ。とっととなんかしらネタを見つけねえと、俺らまとめてお外の善良な市民たちの手でこねこねっとハンバーグにされちまうかんな」

「ネタって、なんの話だ。おまえ、もしかして外のやつらと同じく根拠のない流言に踊らされてるのか?」

クリスは顔を真っ赤にすると襟元を掴んでガクガク揺さぶってきた。首が取れるからやめて欲しい。

「それが、案外デマでもなんでもないんだよなぁ、たぶん。悪い、クリス。頼むから力を貸してくれ。ヒルダも――この病に苦しんでいるんだ」

クリスはびくんと身体を硬直化させると表情を一変させ強くうなずいた。

「わかった。オレはなにをすればいい?」

「それを一緒に考えて欲しいんだよ」

「人任せかよ! てか、ちょっと感動したオレってなんなんだよ!」

「そのあたりはおまえの感情だろ。自分で処理してくれよ。差し当たってはだな。表で騒いでる連中を納得させる理由が欲しいな」

「納得させる理由? 彼らをどうやって落ち着かせるっていうんだ? 適当に生贄でも捧げろっていうのかよ。ここにはもう、動けないほどの重篤患者と俺の手伝いをしてくれる仲間しかいないんだぞ」

蔵人は松明をかざして部屋のなかを覗き込んだ。癈兵院のベッドには仰向けになったまま咳をしている病人が死にかけのイモムシのようにうぞうぞ蠢いている。

「兵士たちを住民たちに与えて吊るさせても暴動は止まらないだろうな。俺たちや防疫隊のみんなが望んでいるのは、この病がどこから来ているかってことだ。レコプラ病を意図的にバラ撒いている首謀者をとらえることができれば、彼らを上手く説得できるはず、だ。それ以外にアレらを止める方法はないだろう」

「アレ、か。確かにこのままじゃヤバイな。やつらがブチ切れて癈兵院に火をかけるのも時間の問題だろう……」

「おまえはどこも悪いとこねーだろ。見舞いに来て逃げ遅れたってところか?」

「当たりだよ。昨日、久しぶりに部下の見舞いに来たら、あっちこっちでゴホゴホはじめやがって。ロクに状況も飲み込めないうちに封鎖線が敷かれちまった。

クランド、おまえもなにを考えているかわからないがまったくツキがないな。このなかはレコプラ病の巣だ。病から免れるとは思わないほうがいい。

っと話が逸れたみたいだな。耳にしているかどうかはわからないが、ここにいる傷病兵たちが病をバラ撒いたってのはとんでもないガセだぜ。

そもそも、癈兵院の兵たちはリジー地区から出ることはないし、飲みに行くのも近くですませてる。国から貰う保証金じゃ女も買えないしバクチを打つといっても仲間内のションベン銭程度だ。

ここからレコプラ病が発生したっていうのは間違いなさそうだけれど、意図的っていうのはありえない……! 彼らは、こんな身体になっても国を守るために戦った勇士たちだ。そこのところはキチンと理解して欲しい」

「わかってるよ。俺もわざわざ彼らが意味も理由もなく街ごと滅ぼすような伝染病を、自分もろとも葬るような形で広めたとは思っていない。この病は、絶対に外から来たんだ……。その侵入経路を特定したい。なあ、クリス。あんたはちょくちょくここに見舞いに来てんだろ。最近、変わったようなことはなかったか? ああ、そこに立っている兵隊さんもなにか気づいたことがあるならなんでもいい、教えて欲しい」

「いや……」

「特にないよな」

話を横合いで聞いていたふたりの兵士が顔を見合わせながら首を捻る。蔵人は盛んに外から飛び込んでくる住民の罵声にイラつきながらうしろ頭をガリガリと掻き回し渋い顔をした。

「水か、食い物か……。兵隊たちがロクに外へ出れないっていうんなら、病が城壁の外から運び込まれる方法は、その二つ以外になにかあるのか? ほかに考えつかないな。病は確かにここから流行り出したのは間違いないはずなんだよ」

「クランドさま。このあたり一帯の河川や井戸はすでに調査ずみですがレコプラ病に汚染された兆候はありませんでした。なれば、考えつくのはひとつ。病は、物資に混入されて傷病兵たちの口から摂取されたとしか思えないのですが、聞き取り調査ではそういったことはなかったと」

防疫隊長のトッドが鳥面の奥に潜む瞳を光らせながらいった。

「感染経路は水でも食い物でもない。それは、間違いないと思う。オレもここで教会のシスターたちから茶や菓子、それに飯を振舞われたがこのとおりどこも悪くない。ピンピンしている。となると、一体これはどういうことなんだろうな」

クリスは困りきった様子でしきりに自分の顎先を拳固でゴツゴツ叩いている。困惑と焦燥が入り混じり、ほのかな灯りに照らされた横顔は一気に十も歳を取ったかのように見えた。

「癈兵院に食料を納品している業者は? 不審な点はなかったのか。……もう、率直にいおう。今回の件はゴドラムの邪教徒たちが絡んでいる。あいつらが一枚噛んでいるっていうのが一番自然なんだ」

「クランドさま。それも調べはついております。この施設は国の管轄で納入業者も身元のはっきりした地元の人間しか許されておりません。すでにラデクさまも命で、封鎖線内外の人間はすべて身柄を押さえて、その上で調査し不審な点は見当たりませんでした」

「それじゃあ、もうどうにもならねぇじゃんかよ!」

「おい、なにをそれほど焦っているんだ。確かに病は一刻を争う事態だが。冷静さを欠いては見つかるものも見つからないぞ」

「時間がねぇんだよ!」

「え」

「住民たちの暴動だけじゃねえ。市会議員のヒスババァが病原体を街ごと焼き払うってほざいてんだよ!」

「……火で浄化する。単純だが理解できなくもない方法だ。ちょ、待ってくれ。その話は、無論封鎖線内の住民を残らず避難させてからの話だろうな」

「そんなわけねーだろっ! ここにいるやつら誰ひとり逃さねーつもりだ。じゃなきゃ意味ない。とっとと、なんか見つけない限り俺たちゃこんがり丸焼きだよっ!」

「ででで、でええええっ!」

「ねえ、クランド! どうでもいいけど、なんかやるなら早くしてよっ。バリケード、もうもちそうにないわよっ」

カレンが甲高い声で叫んだ。

「うわっと! あぶねぇ!」

入口で話していた蔵人たちであるが、住民たちは握りこぶしくらいの石を次から次へと投げつけてきていた。怒りと不安の吐き出し口が見つからないのであろう。火の出るような殺意の圧力があたりに充満している。癈兵院をかこむ灯火はジリジリと包囲を狭め瞳のなかに真っ赤な輝きが乱舞した。

ついに恐れていたことが起こったのだ。住民たちの怒りは投石だけでは収まらず、とうとう火のついた松明がバリケードを乗り越えて投擲され出したのだ。

「クッソ! この癈兵院は付近住民たちの奉仕で成り立っていた部分もあるのにっ! 一旦、ことが起きればこんなもんなのかっ。善意ってのは一体なんだったんだよ!」

クリスは悔しげに叫ぶと部屋のなかに駆け込み、比較的真新しい毛布を両脇に抱えて持ってくるとバケツに汲んだ水をぶっかけてあちこちに燃え移った火を窒息消化させにかかった。

「旦那、あぶねえ!」

「うわっと、すまねえっ」

――その行為のどこかが蔵人の頭の隅に引っかかった。そのせいで投げ込まれた石つぶてに気づくのが遅れたのだが、すぐ隣にいた傷病兵が横合いから引き倒してくれたおかげで難を逃れた。

「悪い、助かった」

「へへ、いいってこって。こちとら負け戦には慣れっこで。それに、オイラたちを見捨てず籠ってくれるお役人さまたちは歴とした戦友なんで……」

じゃがいものような顔をした素朴な男が潰れた片目をこすりながらいった。

「ちょっと、ここを頼めるか?」

「へ、へえ。それはいいでがんすが」

「どこ行くのよ、クランド!」

カレンの言葉を無視して蔵人は癈兵院のなかに入った。

――やっぱり思ったとおりだ。ランタンの灯りで室内に目を凝らすと、並べられたベッドには使い古した雑巾のような毛布と、ほとんど新品といって構わない毛布が混在されて使われていた。

「クリス! 食いもんじゃなくて、最近届けられた物資が置いてある場所はどこだ!」

「まっすぐ行って一番突き当りの部屋だ! ちょっと待った、なにをする気だ」

駆けた。風のように走った。搬入品が積まれてある部屋にたどり着くと、長剣を鞘から引き抜いて素早くそれを縛っている縄目がけて斬りつける。ドッと音を立ててそれらが雪崩を打って崩れ落ちる。蔵人は縄に括りつけられているタグの輸入先を懸命に読み取ると「ユーロティア」とつぶやき、顎を伝ってしたたった汗を拳固で拭った。

もうすぐやってくる冬に備えて大量に仕入れたのだろうか。他国から輸入した古着に混ざって「悪意」はこの街に届けられたのだ。蔵人はすぐ後ろに呆然と立ちすくむクリスに気づき、振り返らずに確認の言葉を口にした。

「こいつを納品した店の名前、わかるか?」