「その遠藤夫妻って呼び方、やめて欲しいんだけど」

 遠藤碧人がそう言ったのを聞いた瞬間、小林詩帆乃は凍り付いた。

 日頃彼が彼女に向ける甘く優しいものとは違う、心底嫌そうな声音は、どこまでも冷たい。

 詩帆乃はその冷たさに、自分の血液すべてが凍らされたかのように硬直していた。

 2人が交際を開始してそろそろ1ヶ月経とうかという頃。

 碧人と詩帆乃は、【放送部の遠藤夫妻】もしくは単に【遠藤夫妻】と、周囲に呼ばれるようになっていた。

 当初は、それまで付き合ってないという事実を嘘だと断じられていた彼らだったが、いつしか信じてもらえるようになってきた。むしろ、“信じがたいことだが、確かに一段糖度が増している……!付き合い始めたというのは、事実なのか……!!”と、周囲の人間を戦慄させた。

 これまで以上に息のぴったり合ったやりとり、2人の間に漂うしあわせそうな空気……。そういった変化から、2人まとめてのあだ名が付けられるようになったのは、自然な流れ。

 その夫婦扱いを、詩帆乃は密かに嬉しく思っていたが、今の発言から判断すると、どうやら碧人はそうではなかった。

 そう気づいた彼女は、凍り付いたのだ。

 高校生から結婚を意識する人は、そうそういないだろう。

 ジークヴァルトとリーゼロッテは元々婚約者同士だし、あちらは結婚適齢期がこちらよりも早い。

 あの2人が結婚したからといって、いつか自分たちも……、というのは、夢を見すぎた。

 詩帆乃はそうどこか冷静に考えながらも、それでもいつかは、と思っていた彼女は、今にも泣きそうだ。

 浮かれた気分が一気にしぼみ、その分だけ恥ずかしさがじわじわとわきあがってくる。

 これ以上聞きたくないけれど、でも、やっぱり事実を知りたい。

 そう思った詩帆乃が、教室の中のやり取りを確認しようと、一歩、ドアに近づいた、その瞬間。

「……だから、俺は遠藤夫妻じゃなくて、小林夫妻を目指したいんだよ!!」

 突然大きな声で碧人がそう叫んだ。

「……へ?」

 瞬間、詩帆乃は今度は別の意味で、硬直する。

 首をかしげ呆ける彼女に気が付かないまま、教室の中の騒ぎはヒートアップしていく。

 ――――

 体育の時間の前後、このときばかりはいくら夫妻と呼ばれる2人であっても、離れて過ごす。

 男子は教室に残り、女子は更衣室に。それぞれ別れて着替えをするからだ。

 今日も、体育が終わった後の教室には、男子生徒だけがいる。

 着替え終えた彼らの中から、碧人に声をかける者が1人。

「なー、今日って水曜だから、遠藤夫妻、もしや部活?」

 そう問われた碧人は、曖昧にうなずきながら口を開く。

「あー、一応。つっても、なんかあるなら普通に休めるけど」

「や、そんな大したことじゃないからいいよ。もっと暇そうなやつらに声かけるわ」

「俺ら、部活さえなきゃ暇だって思われてんのかよ。ま、実際だいたい暇だけど」

 少し前までは、異世界の王子に神扱いされながらツンデレ悪役令嬢を愛でるのに忙しかった碧人たちだが、現在はゆるめの放送部に所属する暇の多い高校生。

 そのことを踏まえての碧人の言葉に、声をかけてきた男子生徒が笑うと、碧人も苦笑いを返した。

「……ところで、小林さんがいない今だからこそ言うけど、その遠藤夫妻って呼び方、やめて欲しいんだけど」

 ふいに碧人が真剣な表情に変わって、教室にいる全員に聞かせるようにそう言うと、聞こえた範囲の生徒たちが振り返り、ざわり、と空気が揺れた。

「え、え、……なんで。夫婦扱い、ダメなのか……?嫌なのか……?あんだけいちゃついといて……?2人だけはこのまま結婚までいくと夢見てる俺たちは、いったいどうしたら……?もうお前らの結婚式には、乱入して、いかにお前らが仲睦まじかったか俺たちがげんなりしていたかを暴露して、ついでに余興も披露する予定でいるんだけど……?」

 先ほど碧人と話していた男子生徒がそう言うと、彼の周囲のクラスメイトたちも、うんうんとうなずいている。

 それらに困惑しきった様子の碧人は、微妙な表情で口を開く。

「ええ、なんだそれ……?つか、なんで招待される前提じゃないんだよ……」

「いうて、普通全員は招待しないだろ。たぶん。現実的に考えて。だから、特に遠藤夫妻と仲いい精鋭たちに、2人の結婚式の日時と会場をリークしてもらうためのチャットグループを、もう、きちんと作っといた!高校からも、何人かは呼べよ!」

 サムズアップしてまでの男子生徒の言葉に、碧人はぎこちなくうなずく。

「お、おう。びっくするほど気が早いし、あきれるくらいに用意がいいな……。まあ、そのグループが無駄になんないように、俺もがんばるけどさ」

「……がんばるんだったら、今からでも遠藤夫妻呼びでいいじゃん?」

「いや、夫妻はいいんだよ。正直やぶさかではない。夫妻扱いが嫌なんじゃなくて……、その……」

 碧人はそこで口ごもると、少し赤くなった頬をかいた。

「……なに照れてんだよ。遠藤嫁がやるならともかく、お前が頬染めてもイラっとするだけだぞ」

 冷たい目線とともによこされた男子生徒の言葉に、碧人はやけ気味に叫ぶ。

「あーあー、悪かった!……だから、俺は遠藤夫妻じゃなくて、小林夫妻を目指したいんだよ!!」

 その言葉がやけに大きく響いた瞬間。

 すん……、と、碧人を注視していたクラスメイトたちが、一斉に表情を失った。

「いやー、死ぬほどどっちでもいいわ……」

「隙あらばのろけんのやめてくんねーかなぁ……」

「気が早いのはどっちだよ……」

 ばらばらにそんな言葉を口にしながら、各自の席に戻っていく生徒たちの背中に、碧人は声を張り上げる。

「いや、どっちでもよくねーよ!小林と遠藤だと、あまりに画数が違うだろ!?……だろ!?」

 碧人が逃げ遅れた男子生徒を捕まえてそう言うと、捕まえられた生徒はぎこちなくうなずいた。

「ああ、まあ、そうだな。言われてみれば。……え、画数?そんなくだらない理由?俺、一瞬、お前が実家となんかあんのかって焦ったんだけど?」

「いやくだらなくないから。実家とは別になんにもないけど、これ大事な話だから」

「はあ……」

 えらく真剣な表情の碧人の言葉に、男子生徒は気のない返事をした。

「いいか、【遠藤】って、【遠】だけで13画、更に【藤】で18画、合わせて31画もあるんだぞ……?それに対して【小林】は、なんと全部で11画。遠の一文字よりもすっきりしてるんだ……!で、小林さんの下の名前は【詩帆乃】で21画、【遠藤】と組み合わせたら52画。な、もうそれ、名前書くごとに写経かな?って思うレベルだろ?」

「うわきっも。わざわざ数えたのかよ。そんでそんなしっかり覚えてんのかよ。えー、お前、画数とか気にするタイプ?」

 碧人の長ったらしい熱弁を、男子生徒は簡潔に切り捨てた。

 碧人はそれに対し、首を振りながら答える。

「いや、気にしてなかった。気にしてなかったんだけど。あっちのお姉さんに言われて……」

「あっちって、小林さんの?」

「そ。小林家の姉妹って、2人とも漢字3文字の名前なんだよ。そんで、お姉さんに聞いたところによると、なんかそれって、お父さんのこだわりだったらしいんだ」

「へー、そうなんだ」

「でも2人が生まれる前、お母さんが、“あんまりややこしい名前をつけると、結婚相手によっては大変なことになる”って、止めようとしたらしい。それを、お父さんが“もうこの子らが大人になるときには、女が自動的に苗字を変える時代じゃないはずだ。というか、むしろ、うちの娘は、画数の多い苗字の男の嫁にはやらん!”って強行したんだってさ」

「なるほどー」

「まあその話を聴いて、考えたんだよ。俺は小林さんと結婚できるなら苗字なんてどっちでもいいけど、どっちでもいいんなら、小林さんが大変じゃない方がいいよなーって。実際名前って、けっこう毎日書くしな。俺と結婚してもらって、小林さんが苦労するの、嫌じゃん」

「ふーん」

 碧人は熱弁をふるったが、男子生徒の相槌は段々と適当なものになっていっていた。

 いつの間にか自席に座って次の授業の準備を始めている男子生徒にも気づかず、碧人はぐっと拳を握りしめて続ける。

「だから、俺は、小林になりたいんだ。なるんだ。いつか小林夫妻になる日を夢見てるんだよ……!だから、遠藤夫妻はやめろ。夫妻呼びするなら、小林夫妻にしてくれ!!」

 力強い碧人の言葉に、男子生徒はもはや言葉も返さず、ただうなずいた。

「あとは単純に、遠藤夫妻って呼ばれると、なんかうちの両親の顔が思い浮かぶからやめて欲しいしなー……」

 碧人が力の抜けた様子でそう付け加えたその時、がらり、と、教室のドアが開いた。

「ねー、もう入っても平気ー?つか、なんかあったのー?ドアの前で、遠藤嫁が真っ赤に湯で上がってるんだけどー?」

 そう言いながら一人の女子生徒が教室に戻ってきたのを皮切りに、クラスの女子生徒たちが教室に次々に入って来る。

「あー、平気平気ー。着替えは全員とっくに終わってるー。あとなんか、遠藤夫妻じゃなくて、小林夫妻らしいよ。そんで、遠藤嫁じゃなくて、むしろコレが小林婿?らしい」

「なにそれ」

 男子生徒と女子生徒がそんな会話を交わす横で、碧人はぴしり、と、固まっていた。

 そこに非常にぎくしゃくとした動きで、詩帆乃が合流する。

「……い、今の、聞いてた?」

 耳まで赤くした碧人がおそるおそる尋ねると、こちらも真っ赤な顔の詩帆乃が、両手を頬にあてながら、ぎこちなくうなずく。

「がっつり、聞きました……」

 瞬間、碧人が顔面を両手で覆い、天を仰いだ。

 そんな彼の背中を、恥ずかしさをごまかすようにぺしぺしとたたきながら、詩帆乃は叫ぶ。

「いや、もう、なに、愛じゃん!めっちゃ愛じゃん!遠藤くん、私のこと愛してくれすぎじゃない!?私のためなら婿入りもやぶさかでないの!?しかも、今からそんなに真剣に考えてくれてるの!?そんなの……、そんなの……、……愛じゃん!!」

「うわ、やめて、改めて言わないで!まあ、愛なんだけど!まぎれもない事実なんだけど!……本人に聞かれてたとか、すげー恥ずかしい!」

 やけくそ気味にそう叫ぶ詩帆乃と碧人に、一番近くにいた男子生徒がなんとも慈愛に満ちた笑顔を向ける。

 そのまま彼は碧人の方をぽんぽんとたたくと、口を開く。

「……結婚式には、必ずうちのクラスから、何人かは招待してくれな。今のエピソードも、今のでいかに俺らがあてられてげんなりしたかも、絶対に絶対にぜっっっったいに、お前らの親御さん含む関係者に、ぜひご清聴いただきたいから」

 彼の言葉と、いっせいにうなずくクラスメイトたちに囲まれながら、碧人と詩帆乃は小さくなりながらぺこぺことうなずいた。

 この日から碧人と詩帆乃のあだ名は【小林夫妻】に変わり、やがて――。