――どうしてこんなことになったのだろうと、ふと思った。

荒い呼吸を繰り返し、壊れたように激しく脈打ち続ける自身の心臓の音を聞きながら、シルヴィアはどうしてと思い……だが直後に、自嘲めいた笑みを浮かべる。

そんなことは、決まっていた。

ただの、自業自得だ。

迷宮では不用意にそこにある物に触れてはいけない。

それは基本中の基本だ。

一見何でもないようなものに見えて、実は罠であったり、或いは魔物だったりするからである。

それが分かっていながらあれに触れてしまったのは、結局のところ油断からだったのだろう。

油断したことにより、迷宮で命を落とす。

それもまた、有り触れたことであった。

第三階層だったから。

魔物を楽に倒せたから。

何の理由にもなりはしない。

むしろどちらかと言えば、責められるべきことだ。

第三階層だとはいえ、自分達にとってみればそこは未知の場所だったのである。

最大限に警戒すべきだし、そうしない理由こそがなかった。

魔物を楽に倒せたからどうだというのか。

そんなものは仲間のおかげだし、そもそもそれは罠を警戒しない理由にはならない。

結局のところ、上手く行き過ぎて、過信してしまったのだ。

自信を得られてきたと思ったら、実はただの過信だった。

まったく以って笑い話にもならない。

「……ワタシは本当に駄目だなぁ」

この国のために何かをしたいと、家族と呼んでくれた人達のために何かをしたいと思って、魔法を勉強して、王立学院に来て。

でも来てみたら来てみたで、自分よりも遥かに凄く、役に立てるだろう人達が居て。

本当に、自分は――

「何しに――っ!?」

瞬間、思わず漏れていた独り言を止め、息を殺し、身を縮める。

覚えのある地響きを、感じたからだ。

というか、そもそもこんな場所で息を潜めていたのは、アレから身を隠すためではないか。

自省するあまりそんな大事なことを忘れるなど、何という間抜け。

だがそんな風に自分を罵倒している余裕すらも、すぐになくなった。

今までにないほど大きな地響きを、すぐ傍から感じたからだ。

「……っ」

反射的に漏れそうになる声を、震えそうになる身体を必死で抑え、ただひたすらに祈る。

居なくなってくれますように。

気付かれませんように。

普段している祈りなど比べ物にならないぐらい、心の底から。

死にたくないと。

神様どうか助けてくださいと、祈った。

果たしてそれが届いたのか、少しずつ感じられる地響きが小さく、遠ざかっていき……十分にまで離れたと思えてから、深く、長い息を吐き出す。

強張っていた身体から力が抜け、同時に全身から冷や汗が溢れ出た。

それから、ほんの一瞬だけ隠れているそこから顔を出すと、何処かへと向かっていくそれの後姿を視界に捉え、慌てて顔を戻す。

あれの姿を見かけたのは、これで二回目。

しかも、両方とも遠くから、ほんの少し見ただけだったけれど……その正体が何であるのかを悟るには、それで十分であった。

間違いなくエリアボスか、それに相当するような魔物。

それも自分では会敵した瞬間に殺されてしまうような、そんな相手だ。

まあつまり、分かってはいたことではあったが、自分はどうやら相当下の方にまで跳ばされてしまったらしい。

シルヴィアがこの階層に来てしまったことに気付いたのは、おそらくはここに跳んだ直後のことだ。

視界が暗転から回復すると、周囲に広がっていたのは直前までのそれと大して変わらない光景であり……だがそこに居たのは、自分一人だけであった。

ならば本当に強制的に空間転移させられてしまったのだと容易に判断出来、しかしそこでそれ以上動転することがなかったのは、そのあとすぐにそれどころではなくなったからだ。

今あったのと同じような地響きを、感じたのである。

そこで慌てて近場にあった脇道のようなところに飛び込んだのは、我ながら上出来だったと思う。

そのままギリギリまで奥に進み、息を殺し……縮こまり伏せていた視界の端を、それが通り過ぎたのである。

全長はおそらく、十メートルほど。

人型ではあったが、生物系ではなかったのは確かだ。

その全身は、鈍く輝く金属質のもので作られていたからである。

ゴーレム。

それも、金属を元とするそれだ。

瞬時に戦ったら死ぬと分かったのは、本能的なものと知識的なものとが半々である。

ゴーレムは元とする素材によってその性質を様々なものに変化させるが、中でも最悪なのは金属系のものだ。

物理に強く、魔法にも強いという、ひたすらに厄介な性質を得てしまうのである。

しかも見た通り、それは巨大だ。

それだけの質量の金属を攻撃に用いられたらどうなるかなど、考えるまでもないだろう。

ただ逆に大きいが故に、動きが鈍そうにも見えたが、それに関しては本能的なものが否定した。

あれは多分、ゆっくり歩いているだけで、戦闘になれば自分よりも遥かに早く動くのだろう、と。

――万能の才中級(鑑定中級・偽):看破。

だからそのままそれが通り過ぎるのに任せ……しかしそこで隠れ続けることをしなかったのは、何となくそれをしたらまずいと感じたからである。

理由は不明ながら、それだけはまずい、と。

――万能の才中級(千里眼・未来視・偽):虫の知らせ。

それは極限状態だったために、無意識のうちに何かをしていたのかもしれないが、ともあれ重要なのは移動しなければならないと、強迫観念の如く感じていたということだ。

そのため、それが十分に離れたところで、そこからそっと抜け出し、まずやろうとしたことは当然のようにその階層からの脱出である。

どこかに隠れていた方がいいのかもしれないが、助けが来るという保証はなく、来るにしてもその前にあれに見つかってしまえば終わり。

ならばと、一先ず脱出を試みたのである。

だがそれが不可能なことにはすぐに気が付いた。

脱出のための出口が見つからなかったわけではない。

上層に繋がっているのだろう階段は、比較的すぐ見つける事が出来た。

しかし、何故かそこに進むことは出来なかったのである。

まるでその先の空間への侵入を禁止され、隔離されてしまっているかのように、何もない空間が壁となっていたのだ。

そしてそうなれば、さすがのシルヴィアでも理解する。

自分はここに閉じ込められてしまったのだ、と。

脱出する方法は、おそらく一つ。

あの魔物を倒すことだ。

だがそんなことが出来るわけもなく、やはり助けを待つことにしようと、作戦を変更したのは当然と言えよう。

とりあえずそのためには隠れる場所が必要だと、精一杯に周囲を警戒しながらそれを探し……その途中で、ふと気付いた。

そこには、魔物の姿がないことに、である。

勿論、先ほどのゴーレムは別にして、だが。

これはもしかして、希望が持てるのかもしれないと……多分、そんなことを思ってしまったからなのだろう。

何とか隠れられそうな場所を探し、そこに隠れ……状況も忘れ、自省などを始めてしまったのは。

或いは、何もやれることなく、暇だったから、というのもあるかもしれないが、そんなのは言い訳にすらなるまい。

……まあしかしともあれ、何とか気付かれることはなかったのだ。

この調子ならば何とか――

「――え?」

――万能の才中級(気配察知中級・偽):奇襲察知。

瞬間、何かを考えるよりも先に、シルヴィアの身体は動いていた。

余計なことを考えたらその場で死ぬと、本能的に理解していたのである。

とはいえ。

それでどうにか出来るかどうかは、また別の話ではあるが。

「――あ……え?」

何が起きたのか、分からなかった。

自分の身に何が起きているのか、分からなかった。

何故全身のいたるところから痛みが伝わってくるのか、何故自分の身体は迷宮の壁に叩きつけられているのか。

何一つその理由は分からなかった。

分かったことは、二つだけ。

自分が隠れていた場所がなくなっていたのと……反射的に持ち上げた視界の中に、鈍い色を放つそれの姿が映し出されていたということだけだ。

「嘘……なん、で?」

身体の痛みとかそういったことを全て忘れ、ただ呆然とした呟きだけが漏れる。

現状が示す事実は、一つのみ。

気付かれずに引き返したと思っていたのは間違いであり、アレはとうに気付いていたのだ。

どうして気付かれたのか。

どうして引き返すような振りをしたのか。

分からない。

分からないが――

「…………あっ」

すぐそこに迫っていたのが自分の死だということだけは、はっきりと分かった。

それを認識したからだろうか。

瞬間、自分の脳裏を様々なことが過ぎる。

母のこと。

父のこと。

義理の母達のこと。

血が半分しか繋がっていない兄妹のこと。

この国のこと。

それらに複雑な思いを抱いていたこと。

……いや、本当は今も抱いていること。

学院のこと。

魔法のこと。

先生達のこと。

友達のこと。

本当は他にもっとやりたいことがあったこと。

本当は……心の底では、この国のことなんて、大して考えていないこと。

それはただの手段だった。

皆に笑顔で居て欲しかった。

皆と笑顔で居たかった。

それだけが欲しかった。

それだけしかいらなかった。

でも、そこでふと気付いた。

皆の中には、いつの間にか学院の皆も含まれていたのだと。

マリアしかいなかった友達は、気付けば増えていた。

だから……ちょっと思った。

ああ、心配かけちゃったな、と。

もう、謝る事は出来そうもないな、と。

それと……皆、悲しんでくれるかな、と。

現状を理解していながら、それを打破することを欠片も考えなかったのは、無理だと悟っていたからか。

心に浮かんでいたのはただの諦めで、色々なことを思っても、それだけは変わらなかった。

そうして、色々な……本当に色々なことを、意識に上らないものまで含めれば、膨大なことを一瞬のうちに思い、考え。

そんな中でシルヴィアが最後に思ったのは、ひどく身勝手なことであった。

「そっか……ワタシ、ここで死ぬんだ。……嫌だなぁ」

ポツリと、それだけが口から零れ落ち――

「――ま、とりあえず死にはしないから、安心するといいのである」

直後に、迫っていたはずの死が、粉々に砕け散った。