「わたくしのハンカチーフに魔力が?」

「王太子殿下がそのように仰ったのだが……」

恒例になりつつある週末の茶会で、アウローラは首を傾げていた。アウローラとフェリクス、ふたりの目の前に広げられているのは、花や菓子の礼としてアウローラがフェリクスに贈った、刺繍入りのハンカチーフである。

一枚目はフェリクスのイニシアルが花文字で入れてあり、二枚目はクラヴィス家の紋章が精緻に縫いとられている。もちろん、アウローラ渾身の刺繍である。見合い話に時間を割く必要がなくなり、誘われる茶会も『クラヴィス様がいらっしゃるかもしれないから』という魔法の言葉で退けている今、アウローラは悠々自適な刺繍ライフを送っているのだ。

「母が絶賛して額装しようとしていたが、私はハンカチーフは使ってこそだと思っているので持ち歩いていた」

騎士団で打ち合いをした後、汗を拭いていたところに通りかかった王太子に、『ハンカチーフからいい魔力を感じる』と言われたのだという。

「布も刺繍糸も一般的なものですわ。贈るためのものですから、質はいいものですけれど。……いい魔力、とはどのようなものでしょう?」

「魔法具に込められているような、道具として使われるべき魔力とは質の違うものだ、と殿下は仰ってたが」

私にもよくわからないのだ、とフェリクスは眉根を寄せた。

「私はあくまで騎士として魔法を嗜んでいるに過ぎない。殿下のように、魔術を研究したことはないのだ」

王太子は魔術師としても名の知られた人物である。フェリクスと同じく魔法騎士としての訓練を積んでいたらしいのだが、生まれ持った魔力が強すぎて、剣よりは魔法を武器としているのだという。

そんな人と並べて語ることはできないが、アウローラよりはよっぽど魔法に近い魔法騎士であるという彼にわからないものが、魔女でもなんでもないアウローラに分かろうはずもない。

「布も糸も一般のものであるのなら、貴女が魔力を込めているということだと思うのだが」

「わたくしは魔女ではありませんが……」

「魔力は持っているだろう」

「まあ、見てお分かりになるのですか」

「ああ」

「わたくしには分からないので。でも、あるのだろうとは思います。ご存知かと思いますけれど、ポルタはフロースの分家ですし」

フロース家は『魔法伯』と呼ばれる伯爵家である。ウェルバム王国でもっとも魔力の濃い土地を領地に持つ、魔法使いの一族だ。そして、アウローラのポルタ家は五代ほど前に、フロース家から分家した家柄だった。

ただし、分家した理由が『魔法に飽きた』などというものだったこともあり、魔法使いの一族としての性質はほとんど受け継がれていない。魔力をもたない嫁や婿を迎え続けてきたこともあり、今ではほとんど魔法は使えず、直系のアウローラとその兄も、多少の魔力はあるものの、魔法的な特性はほとんどなしと見られてきた。

「でもわたくしは、魔力をものに込める方法を知りません。無意識の内に込めることはできるものでしょうか?」

「明言はできないが、少なくとも私は、意識せずには込められない」

道具に魔力を込めるときはいつも、魔法陣を描く、とフェリクスは言う。

「宮廷魔術顧問の方は、触れることで魔力を込める事もできるそうだが、彼の方だからこその高度な技だ。殿下ほどの魔力をお持ちであればあるいは、息をするように込められるかもしれないが」

うーん、とアウローラは自分が刺したハンカチーフに手を触れた。魔力のあるなしは、アウローラには全くわからない。

「こうして触れてみても、わたくしはなにも感じません」

「私も、込められているということしかわからない。言われるまで気付かなかったほどだ」

「今刺しているものをご覧になりますか? わたくしが込めているのなら、今、刺しているものにも込められているのではないかと思います」

膝に乗せていた丸い刺繍枠をもたげ、フェリクスに渡す。彼は目を見開き、まじまじと見つめてから、手を触れた。

「これは何の意匠だ?」

「近頃流行りの、大陸の東から渡ってきた唐草模様です。魔を払う文様として受け継がれてきたものだそうですよ」

「貴女は本当に器用だな」

しげしげと見つめ、手をかざし、フェリクスは考えこむように俯いた。さらさらと流れる銀の髪が、いつもの様に風になびく。

「この刺繍からは魔力を感じない。……書きかけの魔法陣のようなものかもしれないから、なんとも言えないが」

「書きかけの魔法陣は、魔力を帯びないのですか?」

「基本的にはそうだな。書き上がることで回路が発生し、そこに魔力を込めることで魔法が発動する」

「では、この刺繍が完成した時に、魔力を帯びる可能性があるのでしょうか」

「それはあり得る」

「でしたら、これができあがった時に、縫い取りに使った糸と布と、出来上がったモチーフをお渡ししましょうか。殿下に見ていただければ、お分かりになるのではないかと」

「いや」

フェリクスが顔を上げ、アウローラをじっと見つめた。急に目があって、アウローラは居心地の悪い思いを味わう。胃の奥のほうが、もぞもぞと騒がしくなる。

この婚約者、見てくれは本当に美しいのだ。ほんの少し紫味を帯びた、矢車菊の花のような青い瞳で真正面から覗き込まれると、体に悪いレベルなのである。あの潔いにも程が有る土下座を見ていなければ、人の美醜にあまり興味のないアウローラであっても、思わずうっとりしたかもしれない。

「あ、あの、クラヴィス様?」

「もっと早くに片がつく方法がある」

続いた言葉に、アウローラは我に返った。椅子に座り直し、背を伸ばす。

「それはどのような?」

「殿下のお出ましになる日に、騎士団を見学に来てもらえばいい」

近衛隊のお仕着せである騎士服に身を包んだフェリクスは、惚れ惚れするほど精悍に見えた。なるほど、乙女たちが悲鳴を上げるわけだとアウローラも納得する。

銀の縫い取りを施した黒と見まごう深い藍色の騎士服に、葡萄酒色のマント。飴色の革帯から下がる長剣は鈍い銀の鞘に覆われて、硬質な輝きを放っている。骨ばった手、筋肉のついた胸、ぐっと伸びた背筋、すらりとした脚、散らばらぬように三つ編みにされた銀の髪。そしてあの美貌なのだから、まさしく絵に描いたような『騎士様』だ。

(でも、なんだかものすごく、機嫌が悪そうなのよね)

自分の少しだけ前を行く背に揺れる銀色の三つ編みを眺めながら、アウローラはそっと息を吐いた。今日のフェリクスの表情は、触れれば怪我でもしそうな程に冷たい「氷の騎士」の印象そのもので、近寄りがたい美貌を際立たせている。

(今朝お迎えに来てくださった時はもうちょっと普通の表情だった気がするんだけど……)

騎士団に到着してから、何かあっただろうか。

(侍女を伴わなかったからとか……? でも連れてきたらどうしても騒ぐだろうし……)

アウローラは眉間に皺を刻み、玄関を出てからここまでの経緯を思い出そうと考えこんだが、原因はさっぱりつかめなかった。

茶会で見せた唐草模様の刺繍が先日ようやく完成したので、アウローラはフェリクスの案内で騎士団を訪れたのだ。第一騎士団の詰所は王宮の外れにあり、食堂や書庫、執務室などを含む本部と、複数の鍛錬場と武器庫、大きな厩舎と馬場、そして独身の騎士のための寮から成る、広大な施設だ。第二騎士団の詰所はもっと城下に近いところにあるという。

非公式ながら王太子に謁見するということで、今日のアウローラは貴人に会う際の装いである。婚約者らしくフェリクスが——おそらく、彼の母親か姉の監修が入っているだろう——用意したもので、やたらと気合の入った薔薇色の訪問着だ。アウローラにとってはめったに着ない色なので、似合わないのではないかという心配と、少女らしい流行のデザインに対する多少の気恥ずかしさがあって、うつむきがちになってしまう。

しかし、通りすがる騎士たちがすっと礼をとってくれるので、ちゃんと貴婦人に見えてはいるのだろう。見習いらしき、年若い騎士の少年たちにすれ違いざま微笑んで、軽く会釈をすれば、さっと頬を赤らめて、高貴な婦人にするように道を譲ってくれる。

しかし。

「あの、クラヴィス様」

「何か」

「殿下は、どちらに?」

「奥の鍛錬場にお出でになる」

「そこまでは、まだかかりますか?」

「ああ」

「騎士団の敷地は広いのですね……」

「ああ」

(やっぱり不機嫌だわクラヴィス様……)

同行のこの婚約者殿が、妙に不機嫌なのである。いつも以上に会話が続かない。顔も硬い。声も低い。見事なまでの『氷の騎士』の体現である。無論、悪い方にだ。

どうしたものかと頭を悩ませながら、アウローラはフェリクスの背を追う。歩幅を合わせる余裕もないのか、単に気がきかないのか、追いかけるので精一杯のアウローラに気づくこともない。

(うう、クラヴィス様! 不機嫌でも構いませんから、スピードだけ落として下さい!)

何の土地勘もない、男性ばかりの場所に置いて行かれては困る。小走りに近い速度に息が上がって、声をかけることもままならない。アウローラとて、腐ってもご令嬢なのだ。全力疾走はもちろんのこと、小走りで移動するような経験はほとんどない。扇と日傘、かかとの高い靴が実に邪魔だ。

「フェリクース!」

正面から届いた野太い呼び声に、フェリクスの足が止まる。その背に追突しかけながら、やっと追いついた! とアウローラは安堵の息をついた。

「小隊長」

「お前任務じゃなかったのか?」

猛々しさと親しみやすさが奇妙に同居する第一小隊長がひらひらと、フェリクスに向かって手を振っていた。分厚い身体は長身で、フェリクスよりも頭一つ分は大きい。頬に傷跡、丸太のような手足、筋骨隆々と言った風情の騎士に、アウローラは脳裏で熊を連想する。フェリクスとは真逆の方向性だが、これはこれで騎士らしい風貌だ。

「何かご用ですか」

「うわ、機嫌悪ィ。……そうだちょうどいい、お前、オレの替わりに模擬戦出てくれねぇか」

「本日は護衛のため不参加と申請したはずです」

「でも今ここにいるだろ? 頼むよ! ……あれ?」

フェリクスの背後で息を整えているアウローラに、小隊長が気づく。珍獣でも見るような目つきで上から下まで眺められ、アウローラはへらりと夜会用の笑みを表に貼り付けた。

「こんにちは」

「ええと……お前が女連れとかなにこれ奇跡?」

「彼女は私の婚約者です」

「ああー、あの! 護衛、ってこの子のか?」

やっぱり噂はすでに千里どころでなく駆けているのだろう。アウローラは遠い目をしそうになって、心の中で踏ん張る。小隊長ということは、おそらくはフェリクスの上司である。下手な真似をするわけにはいかない。

「ポルタ嬢、近衛隊第一小隊長のインゲルス殿です」

「よう、初めましてお嬢さん。マグナス・イル・レ=インゲルスだ」

「初めまして、インゲルス様。アウローラ・エル・ラ=ポルタでございます」

日傘をたたむと、せめてこのくらいはと家庭教師に叩きこまれた典雅な礼をして、アウローラは微笑む。貴族の家に生まれた令嬢たるもの、他者へのファーストインプレッションくらいは真っ当なものを与えておかねばなるまいと、社交界に縁遠いアウローラであっても、社交用の笑みくらいは用意してあるのである。

「ああ、いいっていいって。オレそういう柄じゃねえの。気楽にどうぞ」

インゲルス小隊長がへらりと笑うと、獰猛な顔立ちが少年のように変わった。小隊長の言葉に甘えて、アウローラも社交用の笑みを消す。不要ににこにこしているのは、それなりに疲れるものだ。

「ふうん、可愛いお嬢さんじゃねえか。お前の嫁候補とか言うからどんな派手な娘(こ)だろうと思ったら」

「姉のようなのは十分足りていますので」

「社交界きっての美姫とか言われてる人を『ようなの』とか言っちゃうお前の目の肥っぷりがオレァ憎いよ。……お嬢さん、御用は今すぐなのかい?」

「お時間はわたくし、把握しておりません。でも、予定より少し早く着いたと聞いています」

「じゃあ頼むよフェリクス、1戦目だけでいいから! な?」

「嫌です」

アウローラはぼんやり、上司と部下の会話を聞いていた。インゲルス小隊長とフェリクスは、頼む、嫌です、頼む、お断りします、お願いだからさあ、絶対に嫌です、と繰り返している。取り付く島もないとはこのことで、彼の漂わせる空気は氷点下だ。

しかし、命令ではないから拒否権があるのだろう。そして、フェリクスが拒否するということは、小隊長のワガママ程度の内容なのに違いない。上官命令とすれば、フェリクスの性格ならば断れないだろうに、命令はしない小隊長の態度に、アウローラは好感を持った。

「なー、頼むってー!」

「嫌です。先月も肩代わりいたしました」

「そこを何とか!! 首寝違えちまってよぉ」

「ここが戦場でもそうおっしゃいますか」

埒が明かない。

「インゲルス様、クラヴィス様」

男性同士の会話を遮るなど礼儀作法がなっていない、と家庭教師に怒られる幻覚を見ながら、アウローラは声を掛けた。立っているのも疲れるし、この婚約者殿はどうやら、大変に頑固な一面を持つようであるからして、ここは間を取り持つ者が必要だろう。

振り返った騎士ふたりを眼前に、アウローラは自分にできる中で最上級の、社交用の笑みを浮かべた。

「王太子殿下をお待たせするのでないのでしたら、わたくしぜひ、模擬戦というものを見てみたいですわ」