Fly the Flag of Fire!

Episode Six: Better or worse than odd.

すぐに確認はとれた。やはり男爵家の紋章を刻んだ馬車が街路で目撃されており、それは既に屋敷へ戻っている。拉致現場からも証言がとれた。望んで貴族を敵にしたいものなどいないが、遠い不安よりも目先の命の危険を重視するのは当然である。ベルトランは口の端を歪めた。

「ふん……浅墓なことだ」

それは誰に向けられた言葉であったか。ベルトランは男爵の屋敷の門前に立っていた。単身である。中へ取次ぎを頼んでから然程の時間も経たず、慌てたような足音が近づいてきた。木板の覗き戸から初老の男が目を覗かせた。

「何の用だ。世間の目があるのだから、呼ばれてもいないのに訪問されては困る!」

男爵家の家令だ。ベルトランとは顔見知りである。その目は血走り鼻息も荒く、見慣れた澄まし顔からすると甚大な変容だ。込み上げる可笑しさを堪え切れず、ベルトランは軽く咽を鳴らした。

「何が可笑しい!」

お前の品性がさ、と内心で返答するのが精一杯だった。嗤う。

この男爵家とベルトランとの付き合いはそれなりに深く、それは男爵自身の性癖に関わっている。色を好み情事に耽る貴族は珍しくないが、男爵の場合は「野の花喰い」という偏執が付加されるからだ。社交界にも高級娼婦にも目もくれず、垢抜けない平民以下の素人女を専らに抱きたがる。

(個人の性癖をどうこう論じる気もないが、奇妙なことよ)

ある日、男爵より奴隷売却の話がベルトランに舞い込んだ。品物を確認してみれば普通の村娘で、しかも自らが奴隷として売られることをまるで理解していない。笑顔すら見せて旅の行程などを尋ねてくる始末だ。そこに無知と無恥との協和音を聞いたベルトランは、やはり唇の端を歪ませたものである。

町で、村で、昼に夜に、男爵はご丁寧にも自ら獲物を口説いてまわっていたのである。力ずくではない。まるで物語に登場する運命の王子のようにして……純朴な娘に夢を見せ、頬を染めたままに連れ去って、何夜とも知れぬ幻を楽しみ……やがては飽いて捨てるのだ。騙しきり、奴隷として。

愚かなことだと思うと同時に、ベルトランは興味深くもあった。地に足をつけて生きていけばいいものを、降って湧いたような幸運が自らに訪れると夢想し、最後に悲嘆へと墜ちる無智な女たち……その過程はいずれも濃密な“生”の気配に満ちていて、どこまでも死から遠い。彼女らは恥辱で死ぬほどに柔ではないのだ。

(野の花のしなやかさというものか。それとも別の何かか。いずれにせよそれは強さだ)

また、そんな女ばかりを選り抜く男爵の人物眼にも感心していた。何事も拘り精通すれば敬意を払うに足る。全ての女がそうではないとベルトランは知っているからだ。

彼の母が証拠である。エベリア帝国の貴族の家に産まれたその女性は、屋敷を訪れた吟遊詩人と駆け落ちしたつもりでいて、娼館へと売られたのである。発見された時には見るも無惨な有り様で1人の赤子を抱えていた。親族会議が行われていたその晩に遺書もなく首を吊ったという。その後、赤子は教会の孤児院に育まれて……一振りの剣を持つに至るのだ。

(奴隷制度は人の業。関わり方で人物が見える。俺にとっては金を得るための手段であり、死に至る病であるところの絶望を観察するものだ。男爵にとっても性欲の捌け口であるだけでなく、何かしら求めるものがあるように思える)

暗がりに結ばれた悪徳の関係は、心密かながら、互いに通じるものがあるのかもしれない。

そして今、ベルトランは嗤う。嗤わざるを得ない。くつくつと咽が鳴る。

「うるさい、黙れ! 早く用件を言うか、立ち去るか、しろ!」

覗き戸から離れることもできずに怒鳴る男は滑稽だった。唾が物理的に遮蔽されているのは幸いか。いや、全身が見えないことが幸いだとベルトランは納得する。元より腹芸は得意ではないのだ。腹筋を動員して衝動を抑え込み、努めて平静な声を出すようにする。

「用件も何も……いつも通りに払い下げを受け取りに来ただけだ」

「な、何を馬鹿な……男爵様は居られないのだぞ!」

「そうだな。にも関わらず、馬車は走り俺が来る……お得意様だからな。呼ばれずとも参上するくらいの心遣いはするのさ」

少し眼光を強めてやったベルトランである。多くの言葉を吐き出そうとしたらしい家令は、それを言えずにへどもどと百面相を披露し、やがて静かに戸を開いた。平静を装うこともできない鼻息の荒さを見て再び込み上げるも、ベルトランは鼻を鳴らすだけで済ませた。門番に剣を預ける。

「鼠はどこにでもいるのだな! 餌を嗅ぎつけるのが上手いことだ!」

「同感だ。必ずしも餌を喰えるとは限らんが」

モゴモゴと悪態をつく様はいちいちが滑稽で、無手の剣士は口元に笑みを浮かべ続けることとなった。先を歩く家令の身なりをしげしげと見る。いい服だがお仕着せだ。家格から見れば妥当な配給品といったところか。武芸を知らない貧相な体躯を包み隠し、相応の権威を表しているが……着装の乱れを隠しきれていない。汚れも払いきれていない。股間を見ないのは情けか。

「……こっちだ。突然来たのだから何も問うまいな?」

屋敷には入らず裏手へと先導されていく。いつもならば奥まった部屋で娘と対面するのだ。そして多くを語らずに連れ去ることとなる。全ては家令の監督する元で行われ、男爵がその場に顔を出すことはない。しかし明確に男爵の意図によって行われる取引なのだ。

であるから、これは家令の独り走りでしかない。

案内されたのは倉の1つで、埃と黴が臭うその内部の壁際に伏している女がいた。音で気付いたのだろう。首をひねってベルトランの方を睨みつけてくるが、髪の乱れたその顔には殴打された痕が目立ち、血と涙とで汚れている。震えてもいるようだ。

酷い有り様だった。猿轡を噛まされ手首と足首とを縛られているが、そのやり方は下手糞な割りに過剰で、特に手の方は血の巡りがかなり悪くなっている。服は方々が乱れ破けていて、女はそれでも肌を晒すまいと健気な身じろぎを繰り返している。ベルトランは内心で安堵した。間に合ったようだ、と。

「気性の荒い野良犬娘だったのだ。これではお目通りさせるわけにはいかん。払い下げる。早急に持ち去るがいい」

早口に捲くし立てる家令を一瞥し、女の方へ近寄った。暴れようとするその耳元に口を寄せて小さく伝える。

「キコ村のハンナだな? お前の身を案ずる御方の命により助けにきた。黒髪碧眼の御方だ、わかるな? わかったら大人しくしていろ。命に代えても助けてみせる」

女は目をまん丸に広げて固まったようになった。それを確認してから手首の縄を締め直し、足首の縄を解いた。丁重に立ち上がらせ、よろめくところを補助し、更には己の外套を纏わせる。その一部始終を見ていた家令もまた目を丸くしていた。

「み、見事なものだな……下郎には下郎の技があるものか……」

女が大人しく従う様子に心底驚いたようだ。ベルトランは嗤いを咽の奥に飲み込む。

(純朴に物欲しそうな顔をする。それはつまり、お前の程度がそこにあるということだ。お前が権威を笠に着て見下す下郎という人種……それを見上げて憧れる程の下種ということだ。品性が)

「……慣れぬことはせんことだ。これに懲りたら娼館へ行け」

言い捨てて、しどろもどろとなった家令を倉に残して外へ出た。ハンナが唸って猿轡を取るように要求しているが、ベルトランはそれに応えない。

(悪党ならここで終わる。しかし下種なら続きがある……そら)

「ま、待て! 貴様、金を払っていないではないかっ!」

枯れ木の枝のような指がハンナの肩にかかろうとしたところを横から掴み取り、ベルトランは何のためらいも無くその5本の内の1本を圧し折った。僅かな沈黙の後、甲高い悲鳴が夜空に放たれた。その発生源である家令の顎を手で捉えて、握力を加えつつ告げる。

「お前は主人の居ぬ間に猿真似で悪をなし、それに失敗したのだ。もはや女も金も手に入らん。悪の証拠を悪に握られたこの上は、以後の人生に惨めの他の色合いはない。絶望しろ。主人を欺けると考えたお前は、既に主人の力の庇護下にないのだ。お前は試されていたのだよ」

ベルトランは懐から1枚の羊皮紙を取り出した。涙と涎で湿った眼前に見せてやる。男爵の筆跡で書かれ男爵家の押印で結末するその内容が、家令であった男を打ちのめしていた。己の留守中に払い下げがあった場合は家令を解雇するという宣言書である。

「悪行と愚行とは別物なのだ。追ってきた以上は見逃しにもせん。新たな家令の元へ挨拶に行こうじゃないか。退職金が出るそうだ」

痙攣し嗚咽する男を引きずっていく。猿轡を外されたハンナもまた顔を青褪めて、屋敷を出るまでの間を一言も話さずに従っていた。

「ハンナに何を話したのですか、ベルトラン」

灯明に照らされて酒肴の卓を囲む3人の、その上座からマルコがぼやいた。下座のベルトランは畏まって音もなく杯を吸う。そんな2人を左右にして、オイヴァは困惑を眉に示したままに大酒を仰いでいる。

「塞ぎこむどころか頬を染めていて、心ここに在らずですよ。僕に対する態度も妙に丁寧になりましたし……他の連れたちも首を捻っています」

「主は世間に対して仮面をかぶっておいでです。その深慮遠謀には感服するより他にありませぬ」

直視は憚るとばかりに、座礼ながらも威儀を正して応答するベルトランである。横では大男が口を挿まぬ心遣いを見せつつも、困惑の八の字眉を更に急勾配とした。

「しかし御身の尊きを鑑みるに、日常において側仕えする女が侮りを見せるようではなりませぬ。真なるところは知らせず、間接的に姿勢を改めさせただけにございます」

童の手のようでいて、その実、凡人の届かぬ先の死を左右するだろう指が、閉じられた碧眼の脇に添えられた。再び開かれた双眸は半眼にして、頬が少し膨らんでいる。既にして万騎を統率する者の威風がある……ベルトランはそう思った。

「ハンナは良くも悪くも頑固です。早々、自分の考え方や態度を改めるとは思えません」

「は。然りにございます。学無き者にしては珍しく権威に服従しない気性でありますれば、主こそは拙が命をお救い下さった恩人であると教えましてございます」

「……要するに、ベルトランに惚れたところを逆手にとって、僕を敬うよう仕向けましたね?」

「嘘は申しておりませぬ」

そう、嘘ではないのだ。ベルトランの視界には碧色の2つ月が燦然と輝いている。

(俺の信仰は既に報われた。死を統べる者の足下に跪く喜びを得ている。もはや霧の中に手探りで凍えることはないのだ。無明の闇をも心安らかに進んでいける……おお、主よ!)

ゴトリと酒盃を置いて、オイヴァの問う。

「わけがわからねえ。まるでわからねえが、アレか? マルコとベルトランは主従の契りを結んだということでいいのか? さっきの投げ銭の後のやり取りがソレだってんなら、俺は証人ってことになるのか?」

幼い少年はため息をつき、緑巾の剣士は無言の内に微笑んだ。大男はそのどちらをも踏襲してみせた。まずため息をつき、次にニヤリと笑って、そして哄笑したのだ。

「いいさ! どうにも面白くねえ道理がはびこる世の中だったんだ。お前らみてえな無茶な主従が生まれるのも、いいさ! いいモンだ! 俺ぁ、祝福するぜ!!」

月下に冬の寒風が混じり冴え冴えとしていくその夜に、悪徳を生業とする者らが集った酒場の階上の一室で、その後の人生を共にする3人は笑ったのである。マルコ、オイヴァ・オタラ、ベルトラン。陽が昇る頃にはそれぞれの在るべき場所へと別れていく男たちが、再び結集するその時、大陸は恐るべき武装集団の鼓動を聞くこととなるだろう。

「1人、探して欲しい人物がいます」

マルコが最後に依頼したことがある。ベルトランにとって絶対の命令であるそれは、彼の信仰心を昂らせる内容だった。命に代えても達成すると誓い、事実、ベルトランは命懸けでその任務を遂行していくこととなる。

「銀髪紅眼で浅黒の肌をした女性です。お察しの通り、北の大氷原に住まうとされる少数民族に出自のある人物で、名はジキルローザ。かつてはアスリア王国軍の義勇軍に所属していましたが、今はもう軍を離れていると思います」

北へ帰ったということもないでしょうと続けたマルコは、更に付け加えた。

「彼女はサロモン・ハハトの副官を務めていた……そう説明した方が貴方にはわかりやすいでしょうか。一時的に教会に捕縛された可能性はありますが、無事に解放されているはずです。最初の足取りとしてはそこから辿るといいかもしれません」

魔眼のジキル。

サロモンの股肱の臣として戦場を駆けた女傑の異名である。